備忘録として

タイトルのまま

細川ガラシャ

2015-02-28 14:45:14 | 中世

黒田官兵衛は秀吉のキリスト禁教令で一度は棄教したが、秀吉の死後、キリシタンに復帰し彼の葬儀はキリスト教式だったことは以前書いた。それと、当たり前の風習だった側室をもたなかったのは、官兵衛が敬虔なカソリック信者だったためかもしれない。そのNHK大河ドラマ『黒田官兵衛』に、高山右近とオルガンティーノは登場したのに、細川ガラシャが出なかったのは残念だった。ドラマでは、会津の上杉攻めで家康に従った大名たちの大阪に残った妻子を石田三成が人質にとろうとしたとき、官兵衛と長政の妻女は家来の機転で逃げ出した。しかし、有名な細川ガラシャの最期は描かれなかった。

細川ガラシャは、自分を人質にしようと家に押しかけてきた三成の捕り手を前に自害した。しかし、カソリックで自殺は認められていないので家臣に胸を突かせたともいわれる。ただ、たとえ家臣の手を借りたとしても本質的には自殺であることに相違ないので、当時のイエズス会あるいはカソリック教会が、細川ガラシャの自害をどのように解釈あるいは評価していたのかは気になるところだった。それを解説したのが安延苑『細川ガラシャ・キリシタン史料から見た生涯』中公新書である。

背景 

細川ガラシャは明智光秀の娘で、本名を明智玉といい、ガラシャは洗礼名である。明智光秀と縁の深い細川藤孝の嫡男である忠興に嫁したあと本能寺の変(1582)が発生する。本能寺の変で細川藤孝は明智に与せず、突如出家し幽斎と号し家督を忠興に譲る。本能寺の変のあと秀吉に敗れた明智一族は絶滅し、ガラシャだけが生き残った。秀吉を憚った忠興はガラシャを離縁し、一時、味土野(京丹後市)に幽閉する。そこでガラシャは次男の興秋を生んでいる。2年の幽閉ののち秀吉の許しを得てガラシャは復縁するが、謀反人の娘という烙印はついてまわる。

キリスト教への帰依

イエズス会の史料によると、1587年2月21日復活祭の日に、ガラシャが突如、大阪の教会を訪れたという。夫の忠興が九州に遠征中のことである。フロイスは翌年ローマに送った『日本年報』や自著『日本史』の中で、そのときのことを詳細に記している。夫の忠興はキリスト教のことを懇意にしていた高山右近から聞いていてそれをガラシャに話し、それまでの宗教に満たされないものを感じていたガラシャはキリスト教に強い関心を持つようになったという。大阪の教会でガラシャに対応したのは、スペイン人でイエズス会士のセスペデスと日本人修道士イルマン・コスメであった。『1587年日本年報』には、イルマンが”私は日本でこれほど理解力があり、これほど日本の諸宗派について知っている女性には会ったことがない”といって感嘆したことが記されている。彼女は、イルマンから聞いたキリスト教の教えに満足し、その場で洗礼を受けることを望んだが、セスペデスは彼女が秀吉の側室であった場合のことを危惧し許可しなかった。その後、彼女が細川の妻女であることを知り皆喜んだという。

受洗

ガラシャは最初に教会を訪問した後、忠興の命で幽閉状態にあったため再訪できずにいた。その一方、彼女の計らいで周囲の者たちは次々と受洗していった。そうこうするうち、同じ年の6月に秀吉がバテレン追放令を発布し、彼女の受洗の機会がさらに遠のいてしまった。しかし、ガラシャは追放令によってバテレンが京大阪からいなくならないうちに洗礼を授けてくれることを強く願った。ガラシャのゆるぎない信仰を知る教区長のオルガンティーノは、すでに受洗をしていた侍女マリアを介してガラシャに洗礼を授けること代洗を決める。ここでガラシャと言う洗礼名が与えられる。

戦国期の婚姻

当時の日本では、武将とその妻妾の間で離婚と再婚は茶飯事であった。生き残るため近隣の有力者との縁組が頻繁にあり、黒田長政も蜂須賀家から嫁いできた糸を離縁し、家康の養女を後添えとして迎えている。妻から離婚を申し出ることもよくあったらしい。カソリック教会は原則として離婚を認めていないため、日本に来たイエズス会士はこの日本の婚姻の習慣がキリスト教布教の障害になると考え、何度も本部にこの問題を諮問し、対応法について議論している。イエズス会の巡察師ヴァリニャーノは布教のためその地方の習慣に自分たちを適応させる適応主義をとり、戦国時代という日本の特殊事情を考慮し、異宗間婚姻での離婚を認めたが、修道士が離婚に積極的に関与することは禁じた。ガラシャの場合、夫忠興の残忍な性格や彼女自身の殉教願望などが理由で離婚を願っていた。しかし、彼女の場合、夫とは異宗であるが、離婚ができないことを理解したうえでカソリックに入信しているので、離婚は認められないという。離婚が可能な条件に、パオロの特権がある。配偶者が神を冒涜したり信者が背教し大罪を犯す状況が想定される場合などである。しかし、忠興にそのようなことはなかったため、オルガンティーノはガラシャに離婚しないように説得している。

ガラシャの最期とその解釈

忠興は大阪を離れ上杉征伐に出るとき、留守の家臣にガラシャを守って共に自害するよう命じている。ガラシャは三成の軍勢に家を囲まれたとき、自身の体を刺した、家臣に長刀で自分の胸を突かせた、長刀で介錯させたという3つの説がある。いずれをとっても、カソリックが禁じた自傷行為であることには相違ない。ガラシャは夫から命じられた自殺についてオルガンティーノに質問している。すでに自害することを決意しているガラシャの質問の内容は自殺の是非ではなく、この死がキリシタンとして許されるかどうか、神の意志にそむく行為かどうかということであった。

オルガンティーノは、ガラシャの死は自殺ではないと回答したと作者の安延苑は推測している。イエズス会の巡察師ヴァリニャーノは、名誉のための切腹が重んじられる日本では”死が回避できない状況で名誉を守るための自殺は許される”という定見を持っていた。ヴァリニャーノと同じイタリア人であるオルガンティーノも、ガラシャが読んでいた『ジェルソンの書』の「私について来たい者は、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失うものは、それを得る」というキリストのことばを根拠に、ガラシャは忠興の妻であるという十字架を背負ったまま命を失うことでキリストに倣い、キリストについていくものになったと解釈したのだと、安延苑は書く。だから、オルガンティーノはガラシャの死を殉教としたのかもしれない。自殺をうんぬんする以前に、キリストに従う、運命に従う、神の意志に従うことは殉教であるとすることで、ガラシャの最期を正当化したのである。ガラシャは死に臨み「我々の主の御旨に従って、その手にあるものとして亡くなった」と史料は伝えている。

細川ガラシャ辞世の句

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

”散るべき時を知っている人こそ、人としての価値がある”と言うのだが、ガラシャはその時を待ち望んでいたように思う。三成の軍勢に囲まれたのは細川家だけでなく他の多くの大名家も同じだったが、黒田官兵衛父子や加藤清正や加藤嘉明の妻女は逃げているので忠興の自害せよという言葉がなければ逃げることもできた。しかし、本能寺の変以降、ガラシャは謀反人の娘という烙印を押され厭世的に生き、離婚願望があっただけでなく自殺願望もあったと思う。散るべき時をずっと捜していたように思う。そして、そのときがきて司祭の確約を得て、背教にならず確信を持って心安らかにキリストのみ旨(ではなく神のみ旨か? 2017.4.16追記)に抱かれて死ぬことができた。もともと自殺願望のあったガラシャがオルガンティーノら教会をうまく利用したかもなんてことを言うと、何も知らない無宗教の人間が、敬虔なキリスト教徒である細川ガラシャを冒涜したと非難されるかもしれない。 

ところで、今年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』の視聴率がかんばしくないらしいが、野山獄でも吉田松陰の浩然の気は素晴らしかった。いよいよ松下村塾に英才たちが集まってくる。


ホワイトホース

2015-02-22 22:27:26 | 

カナダのホワイトホースは、バンクーバーから飛行機で北に2時間半ほど直線距離で1500㎞弱、アラスカ国境まで200㎞、、ユーコン川のほとりの小さな街である。シンガポールの中国正月休暇を利用してオーロラ観光に行ったのだが残念ながら予定の2晩でオーロラは観られなかった。空港は雪に覆われ、空港に到着した現地時間2月12日午後3時ころの気温は0℃を少し下回っていた。空港からホテルに向かう出迎えのシャトルの運転手は、このところ温かいので「Swimming trunksを持ってきたかい」とジョークを飛ばした。例年2月の日中の平均気温は零下ー10℃ほどらしいから、0℃は相当温かいということだ。こっちは30℃強の赤道直下シンガポールから来ているので気温差は30℃以上である。ホワイトホースは北緯60度43分でこれが自分の最北到達地点記録になる。白夜の北極圏は66度33分からなので、真北に向かってまだ650㎞ほど行かなければならない。 バンクーバーは北緯49度である。自分の最南到達地点は南緯37度50分のオーストラリアのメルボルンで、1985年4月に妻が3歳直前の長女の手を引き、1歳直前の二女は私が背負って行った。スーツケースの中は紙おむつと粉ミルクで占拠された。

オーロラツアーでは送迎バスが夜10時前にホテルに迎えに来て、そこから約30分の森に囲まれた原野に連れていかれた。そこには小さなキャビン(上の写真)があり、温かい飲み物やスナックが用意されていた。零下ー10℃の戸外でカメラを三脚にセットし北空を眺めながら、夜中の1時半ごろまでオーロラが出るのをじっと待った。その日、ネット情報のオーロラ強度指数は最小の0から最大9の10段階で中位の3だったのでそこそこ期待していたが、一晩目は雲に閉ざされ、二晩目は晴れたがオーロラは現れなかった。それでも、都会暮らしが長いため忘れかけていた満天の星空を観ることができた。緯度が高く、ほぼ真上にくる北極星、北斗七星とカシオペア座を、小学校で習った北極星の見つけ方を思い出しながら眺めた。

日中はホワイトホースのダウンタウンを散策した。上の写真は、ホテル、レストラン、カフェ、様々なショップや銀行や役所が並んでいる小さな小さなメインストリートである。酒場や銀行やホテルや雑貨屋が一列に並んでいる西部劇に出てくる小さな西部のメインストリートを思い出した。馬が車に変わっただけだ。メインストリートに犬を連れシャベルを持った金鉱堀りの像が建つように、ホワイトホースは19世紀のゴールドラッシュのころに交易の中継地として発展した。現在の町の人口は2万人余りである。実際に金鉱があったのはホワイトホースよりさらに北に行ったアラスカとの国境に近いドーソンという街である。

街角で地図を広げていると通りかかったOld Ladyに、「May I Help you?」と声を掛けられた。昼ご飯を食べるレストランを捜していると答えたところ、それなら目の前の通りを渡ったところにある”Gold Rush"が「The Best Restaurant in this town」だと薦めるので行ってみた。妻はベーコンサンドウィッチにピクルスのスープを私はBeef Dipとサラダを注文した。ピクルスのスープ以外は美味しくボリュームたっぷりでお腹がいっぱいになった。 

昼食後、粉雪が舞う中、町はずれまで10分ほど歩きユーコン河畔を散策した。川は凍っているかと思ったがゆっくりと流れていた。時折、流れの中を氷が浮き沈みするのが見えた。ユーコン川は北西に流れアラスカを横断し、ベーリング海峡にそそぐ大河で、星野道夫のエッセイによく出てくる。

旅の拠点としたバンクーバーは桜が満開だった。不思議なことに日本とは逆にもくれんがまだつぼみだった。オーロラは残念だったが、バンクーバーには来年も娘家族がいるので、孫に会うついでの再挑戦ということにする。


イスラム国

2015-02-08 18:42:30 | 話の種

イスラム国の日本人人質事件以降、大使館から直接、あるいは商工会議所や日本人会を通して、私たち在留邦人に対し注意喚起のメールが送られてくる。「日本人,日本企業,及び,日本人学校等の我が国の関係機関や組織がテロを含む様々な事件に巻き込まれる危険があります。」と喚起し、「誘拐、脅迫、テロ等の不測の事に巻き込まれることのないよう、各地域の特徴を踏まえた上で、外務省が発出する渡航情報等及び報道等により最新の治安・テロ情勢等の関連情報の入手に努め、日頃から危機管理意識を持つとともに、状況に応じて適切な安全対策が講じられるよ心掛けてください。」と注意するものである。

シンガポール人の15%程度がイスラム教徒である。Religion in Singapore (Wiki)による。  街にはモスクが建ち、事務所にも敬虔なイスラム教徒の社員が何人もいる。隣のマレーシアとインドネシアは基本的にイスラム教を国教とする国である。インドネシアは世界で一番イスラム教徒の多い国で、どの町でも必ず夜明け前に詠唱されるコーランで起こされる。ここにはイスラム教が身近にある。

2002年インドネシアの観光地バリ島で起きたジェマ・イスラミヤ(JI)という東南アジアを拠点とするイスラム過激派によるテロ爆破事件では、外国人観光客200人余りが犠牲になりその中には日本人2名が含まれていた。オーストラリア人観光客が多く集まるレストランでの自爆テロで、2001年9.11後のテロとの戦いに協力的なオーストラリア人をターゲットにしたとされる。インドネシアでのテロはその後も続き、2003年はアメリカ系ホテルチェーンのマリオットホテルに爆弾を積んだ自動車が突っ込み、2004年はオーストラリア大使館、2005年は再びバリ島、2009年はアメリカ系リッツカールトンホテルがターゲットになった。2005年のバリの爆弾テロではまた日本人1名が巻き込まれた。シンガポールでは9.11の数か月後ジェマ・イスラミヤの活動員十数人が逮捕され、地下鉄駅の爆破を計画していたとして当時、大騒ぎになった。ジェマ・イスラミヤは東南アジアに西側の価値観ではない真のイスラム国家を樹立することを目的としているため、これまで発生したテロは、主にアメリカ系資本やアメリカ人やオーストラリア人など西洋人が多く集まる場所をターゲットにしてきた。

今、マレーシアとインドネシアからイスラム国に戦闘員として参加する若者が1000人を超えたことが問題になっている。イスラムの聖職者が、イスラム教に忠実であること、イスラムを敵とみなす相手との戦いは聖戦(ジハード)であること、それを実行するイスラム国に参加することを奨励することから、イスラム教に敬虔な若者ほどその思想にひきつけられているという。イスラム教を国教とする国がその国家権力を行使し、若者がイスラム国に行くことを思い留まらせるのは難しいとも言われている。第二次世界大戦で日本人の若者がお国のためにと言って死んでいったことと重なる。まさに過激なイスラムを信奉する若者にとって敵は「鬼畜米英」なのである。そして最も大きな問題は、今後、そのような若者がイスラム国の過激な思想を自国内で広め実行することであると言われる。

イスラム国は今回の事件で、日本と日本人もターゲットだと宣言した。これまでは日本人はテロ事件に”巻き込まれた”のが、これからは”ターゲット”となり、どこで何が起こってもおかしくない状況になったのかもしれない。「状況に応じて適切な安全対策が講じられるよう心掛けてください」と言われても、イスラムに毎日接しているので、普通に慎ましく仲良く生活するしかないのだけれど。