備忘録として

タイトルのまま

隋唐の仏教と国家

2016-07-10 23:20:26 | 仏教

三教指帰』は空海24歳のときの著作で、仏教徒と儒家と道教の道士がそれぞれ他者を批判し、三教の中で仏教が最も優れていることが示される。序文に、空海が阿国大瀧嶽や土佐の室戸で修業中に虚空蔵菩薩の化身である明星が口の中に入ったという、あの『三教指帰』である。空海は30歳で入唐するので、唐へ留学する804年以前の著作である。下は、国会図書館のWebSiteにあった明治15年の森江蔵版である。

空海や最澄の仏教に釣られて『隋唐の仏教と国家』礪波護(となみまもる)という難しい本を古本屋で衝動買いしてしまった。内容を理解する前段で、おそらく中国文献をそのまま引用した部分だろうか、ふり仮名がなく読めない漢字が多く、ほぼ読むのをギブアップしていた。暇にまかせて本をパラパラめくっていると、不拝君親運動という文字が目に飛び込んできた。唐の時代、中国では、空海の『三教指帰』のように仏教、儒教、道教が共存していた。そのような政治情勢のもと、仏教徒は仏法を王法の下におかない運動、すなわち不拝君親運動を行った。目上の者を敬うのは儒教的であり仏教は仏法僧に帰依し、君主や親を敬わないと主張する運動である。唐の皇帝は時代によって、不拝を認めたり、認めなかったりしたのである。この不拝運動から、”君が代歌えない選手は日本代表でない”という政治家のことばや日の丸掲揚の議論を思い出していた。国家は個人の信条や信仰に優先するのかという命題が、7~9世紀の唐の時代から問題になり議論されていたのである。

 

本の表紙絵は室町時代の『真如堂縁起』で遣明船に阿弥陀如来が出現する場面

隋の文帝(煬帝の父親)は自身が仏教を受戒し、中国各地に寺院を建て多くの僧侶を授戒させ仏教を篤く保護した。この本では、聖徳太子が日没するところの天子として文書を送ったのはこの文帝であり、日本には文帝が没し煬帝が即位したことが伝わっていなかったとしている。上原和や梅原猛が言う聖徳太子は煬帝に親近感を持っていたという論の根拠にいささか疑問の生じる話である。

唐初期の高祖と太宗の時代、道士の博奕(ふえき)は排仏論を繰り広げ、これに対し仏教徒の法琳(ほうりん)は『破邪論』で反駁した。唐の高祖(李淵)は人心収攬のために道教と仏教をバランスよく保護し、長安には道教寺院と仏教寺院を建てた。ところが、二代皇帝の太宗(李世民)は李姓であることから一族が老子李耼(りたん)より出ているとし道教を優遇するようになる。法琳は激しく抗議し皇帝の李氏は老子の隴西出身ではなくまったく関係がないと主張したため太宗を激怒させた。他の仏教徒たちは朝廷批判が激しすぎるため廃仏を引き起こしかねないことを憂慮し法琳を攻撃するようになった。法琳は身内からの批判攻撃に立腹し、屈原の心情をうたった詩編を書き綴り、遠地に隔離され悲憤のうちに死ぬ。原則に忠実でありすぎて現実を見ないことによる悲劇である。為政者は原則論だけでは政治をできないのである。

唐中期、高宗と武則天の時代、仏教は大いに保護され、武后は官職を濫造し売官が横行しただけでなく、金で僧侶や道士を濫造することも行われ課役や徴税が免除された。官吏の濫造と仏教道教教団の肥大は国家財政を疲弊させた。武后一族を倒した玄宗の時代には、あまりに肥大した仏教と道教の権利を制限した。その中で、玄宗は儒教道教を仏教よりも優位であるとし、733年僧尼拝君親を断行する。孝を中心とした儒教倫理は中国社会に根強いものだったのである。その80年後に唐に渡った円仁はその著書『入唐求法巡礼行記』(838~842滞在)で僧尼が不拝の儀を守っていたことを書き残している。玄宗の時代の拝君親が円仁の時代には廃止されていたのか、あるいは円仁は廃仏に会い国外追放となり842年に帰国しているので、仏教徒が拝君親に従わなかったために廃仏となったのかもしれない。

儒教道教が根付いていなかった日本での仏教は、その受容過程で不拝君親論は問題にならなかった。日本の中世、王法と仏法は相互に補完しあった。筆者の礪波は日本と中国の違いとして外国文化受容史に言及する。ところが、秀吉や家康は、王を神の下とみなすキリスト教を受容せず禁教令を出しているように、日本の外国文化受容は必ずしも寛容だったわけではないのである。

今、参院選の開票速報が進んでいる。自公が圧勝しそうな勢いである。 唐の時代と同じで、現実主義の前に理想主義は敗北するしかないのだろうか。法琳や屈原のように原則を貫く理想主義の政治家がいてこそバランスがとれ、国家の暴走を抑止することができると思うのである。


白山大権現

2016-05-08 17:40:45 | 仏教

NHK『真田丸』が面白い。上田合戦の戦闘場面はがっかりしたが、「豊臣の秀吉である」がいい。前回『花燃ゆ』は吉田松陰が死んでからいつのまにか見なくなったけど、今回の最後は大阪夏の陣のはずだから、年末まで見続けられるかも。

NHK『真田丸』Web-siteより

徳川家康の陣屋の旗印は、「厭離穢土欣求浄土」で、まさに源信の『往生要集』からとっている。死の向こうには極楽が待ってるから死ぬ気で戦えということか。ISが子供に自爆テロをさせる手口と同じだ。一方、真田昌幸の旗印は、「白山大権現」だった。

白山権現は、白山信仰の神である十一面観音を指す。白山信仰は白山を御神体とする山岳信仰で、奈良時代に泰澄が白山で修業しているとき、伊弉諾尊の化身として観音が現れたことに始まるとされる。神仏習合である。江戸時代に円空が信仰し、行基や泰澄と同じように木端仏などの仏像を多く造った。十一面観音の功徳は以下に示すようにすごい(Wiki)。

十種勝利

  • 離諸疾病(病気にかからない)
  • 一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
  • 任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
  • 一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
  • 國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
  • 不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。)
  • 一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
  • 水不能溺(溺死しない)
  • 火不能燒(焼死しない)
  • 不非命中夭(不慮の事故で死なない)

四種功

  • 臨命終時得見如來(臨終の際に如来とまみえる)
  • 不生於惡趣(地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない)
  • 不非命終(早死にしない)
  • 從此世界得生極樂國土(今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる)

ほとんど不死身なので、これなら家康の「厭離穢土欣求浄土」に勝てる。


地獄変

2016-04-29 22:38:56 | 仏教

提婆達多は3つの罪を犯し無間地獄に落ちた。源信は『往生要集』において小乗仏教の説に従い八つの地獄を立て、そのうち苦痛が絶え間なくつづく地獄が無間地獄だという。芥川龍之介の『地獄変』に出てくる”横川の僧都”とは源信のことだとされている。物語の平安中期、源信が比叡山の横川に住していたからである。

『地獄変』

絵師・良秀は大殿から屏風に地獄絵を描くように命ぜられる。自分の目で見た物でしかいい絵が描けない良秀は、弟子を鎖で縛ったりミミズクに襲わせたりして、その様子を見て地獄絵を描いていくが、もっとも重要な部分で行き詰る。燃え盛る檳榔毛の車(高官の牛車)にあでやかな上臈(高級女官)が乗り空から落ちてくるというイメージはできているのに、それを目にしていないために絵にできないと大殿に訴える。大殿は、「良秀。今宵はその方の望み通り、車に火をかけて見せて遣はさう。」と、庭の車に火を放つ。その車には良秀の娘が乗せられ、良秀は目前で娘が焼かれるという地獄の責め苦を受ける。まさに炎熱地獄である。だが次の瞬間、良秀の顔つきは恍惚とした表情に変わる。この話を聞いた横川の僧都(源信)は、「如何に一芸一能に秀でようとも、人として五常をわきまえなければ、地獄に落ちるしかない。」と良秀を非難する。しかし、出来上がった屏風の絵を一目見て膝を打ち「出かし居った」と感嘆の声をあげる。その良秀は屏風の絵を仕上げた翌晩に縊死した。

良秀は屏風の絵を仕上げた代わりに自分も奈落(地獄)に落ちたのである。「いわばこの絵の地獄は、本朝第一の絵師良秀が、自分で何時か墜ちて行く地獄だつたのでございます。……」

中村元『往生要集を読む』で解説する源信の『往生要集』にある焦熱地獄が炎熱地獄(『倶舎論』玄奘訳)である。炎に身が焼かれ、その熱に耐えがたい地獄であると描写されている。源信の地獄は等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄(無間地獄)の八大地獄で、それぞれどこにありどのような責苦が行われているか細かく説明されている。『地獄変』で娘が炎に包まれ焼かれる場面の強烈な描写と同じで、ここで文字にしたくない内容である。中村元によると、飛鳥時代の聖徳太子の『三教義疏』や平安初期の最澄・空海は地獄について特に論じていないのに、平安中期以降には地獄の思想は民衆で一般化していたという。平安時代初めの景戒による『日本霊異記』や中期の『往生要集』の地獄や、地獄変、地獄図、地獄絵などと呼ばれる一連の図絵が民衆に広まっていたのである。中国には地獄の描写はあまりなかったようで、日本で地獄が一般化した理由を「人間のはかなさ、無常を感ずるとともに、人間のあさましさ、罪業に対する反省と呵責の念が人々の心をとらえたからではなかろうか。現代人は人間の罪業を現世のことがらとして表現する。ところが常に彼岸を思っていた上代・中世の人々はかなたに地獄の責苦が待っていると考えて、罪業の恐ろしさにおののいていたのであろう。地獄の恐ろしさの観念は無常観と一体となって発達した。」と中村元は説明する。

地獄の描写が続くので源信の『往生要集』は地獄の解説が中心だと思っていたが、以下の10章で、地獄の描写だけでなく、極楽浄土の描写、西方極楽信仰と弥勒信仰の優位性、念仏修行の心構えや作法、念仏の御利益、なぜ念仏が大切かの解説、念仏以外の他の修行の勧め、教義上の問題についての哲学的な議論を行っている。

  1. 厭離穢土
  2. 欣求浄土
  3. 極楽の鉦鼓
  4. 正修念仏
  5. 助念の方法
  6. 別時念仏
  7. 念仏の利益
  8. 念仏の証拠
  9. 往生の諸業
  10. 問答料簡

念仏の利益には、浄土教の教えを的確に表明した以下の最も有名な文章が示されている。

「光明遍く十方世界を照し、念仏の衆生をば摂取して捨てたまわず。」

源信の『往生要集』は浄土教の教義の基礎となり、法然も親鸞もこの基礎の上に自分たちの思想を展開した。

中村元は、漢文で書かれた源信の『往生要集』のほとんどは中国の経文や仏典の引用であり、それら経文や仏典にはサンスクリット語やパーリ語で書かれた原文がある。その原文と源信の解釈を比べてみようというのである。これによって源信の漢文の読み方の修正、中国の翻訳者による原文のねじ曲げ、源信自身の原文にない解釈と独自思想などを読み取ることが可能になる。すなわち、インド人、中国人、日本人による解釈の相違を解明する手掛かりが得られるかもしれないというのである。 本書を読んで細部の相違はわかったが、残念ながら浅学の自分には、中村元の言う手掛かりを読み取ることはできなかった。


提婆達多(でーばだった)

2016-03-27 13:24:14 | 仏教

中勘助の小説『提婆達多』の中の提婆達多は、堂々とした風采で武術に優れ、若き日に負けるはずのない試合で従兄のシッダールタに負け屈辱を味わう。その上、手に入れられると思っていたヤショダラをシッダールタが妃にしたことで深い怨みを抱く。一方、人生について悩んでいたシッダールタは妃ヤショダラが息子ラーフラを生むとまもなく出奔する。提婆達多はあとに残され悲しみにくれる夫人のヤショダラに言葉巧みに近づき籠絡する。年月が過ぎ、シッダールタが悟りを開きブッダとなって戻ることを聞いたヤショダラは自分を恥じて自殺し、提婆達多はそのことでさらにブッダを恨むようになる。

後編、ブッダに復讐する機会を待つため提婆達多は仏弟子となり、ブッダの弟子たちを大勢取り込んでいく。その勢いで教団を禅譲するようにブッダに迫るが、ブッダは提婆達多の未熟さを理由に即座に拒絶する。拒否されさらなる屈辱を味わった提婆達多はブッダを傷つけることを画策し、ブッダ教団の守護者となっていたマガダ国のビンビサーラ王の王子であるアジャータシャトル(アジャセ王)に巧みに取り入り父王殺しをそそのかす。父王を殺し王位についたアジャセ王は提婆達多を守護し、提婆達多は再び教団の分裂を画策する。しかしブッダの弟子たちの説得で提婆達多に従っていたものたちの多くはブッダの元に戻る。さらにアジャセ王までもが仏弟子になったことを知り提婆達多は絶望の中で死んでいく。

提婆達多は増上慢心であったがゆえに自分を滅ぼした哀れな人間であった。しかし、そんな彼こそ救われるべきだというのが小説の最後に記される。「提婆達多が救われずば、我々の誰が救われるであろうか。」

法華経・提婆達多品』によると提婆達多は、仏法の重い罪である五逆罪のうち3つの大罪を犯したという。五逆罪とは、(1)父殺し、(2)母殺し、(3)阿羅漢殺し、(4)和合僧破り、(5)仏身より血を出すことであり、これを犯したものは無間地獄に落ちるという。提婆達多はそのうち(3)阿羅漢(仏僧)殺し、(4)僧団を分離しようとして和合破り、(5)ブッダに石を投げて足を傷つけ血を出した3つの大罪を犯した。そのために提婆達多は無間地獄に落ちたという。しかしブッダはそんな彼を憎まず、彼のおかげで自分は悟りを開き、衆生を救うことができるようになったというのである。そして彼こそ成仏できるとするのである。法華経のこの教えを知ってはじめて小説『提婆達多』のテーマが判明する。

鎌田茂雄『法華経を読む』の『提婆達多品』の章では、道元の『正法眼蔵随聞記』を引用し、悪人の提婆達多が救われる意味がわかりやすく解説されている。道元のことばは、”人間の心に本来善悪はなく、善心を起こすのも悪心を起こすのもすべては縁による。善縁に会えば善心になるし、悪縁に会えば悪心になる。人間には決定的な悪人はいない”というものである。

親鸞の悪人正機説によると、悪人が成仏できるとしても父親殺しは除外されるが、彼を導く師がいれば救われるとする。父王を殺したアジャセ王はブッダを師として仏弟子になったために救われるのである。

玄奘三蔵の『大唐西域記』に、祇園精舎の近くに、提婆達多が毒薬で仏を害しようとして失敗し生身で地獄に陥ちこんだとされる深い坑があることが記されている。大唐西域記の提婆達多は、釈迦のいとこで、「精勤すること12年、すでに八万の法蔵を暗誦していた。後に利のために神通を学ぼうとし、悪友と親しく交わり、---(中略)---仏の僧団を破壊分裂することを企てた。シャーリプトラとマーウドガリヤーナは仏のお指図を奉じ、仏の御威勢を受け、仏の教えを説き教え諭したところ、僧たちは再び仏の僧団と和合することとなった。提婆達多は悪心去りやらず、猛毒の薬を指の爪の中に入れ、仏足を礼する際に仏を傷害しようと思った。まさにこの計画を実行しようとして遠くからやって来て、ここまで来るや、地は裂けてしまった。生きながら地獄に陥ちたのである。」と解説されている。玄奘三蔵はさらに提婆達多の遺訓である「乳酪を食わず」を遵奉する人々にカルナスバルナ国(カルカッタ付近か?)で会っているので、提婆達多派の人々が7世紀まで残っていたことになる。

中勘助の『提婆達多』は彼を主人公にブッダの物語を借りて小説にしたものだが、ブッダやその周辺人物に対する提婆達多の愛憎が卑屈すぎて彼の行動に納得できなかったし必然性も感じられなかった。残念ながら、『銀の匙』のレベルには程遠い小説だと思った。ただ、悪人正機説の元ネタを知ることができたのは収穫だった。

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PS カーリング女子World Cupの試合をYoutubeでずっと応援している。予選2位でプレイオフに進みスイスに敗れたが、セミファイナルでロシアに勝ち銀メダル以上を確定させた。入場のときロシアチームは固かったけど、日本チームは笑顔でダンスするほどリラックスしてた(下の写真)。明日の決勝で再びスイスと戦う。明日も笑顔でがんばれ!!!

上の写真はYoutubeをCaptureした。

日本チームはLS北見(Lead吉田ゆりか、Second鈴木ゆみ、Third吉田ちなみ、Skip藤沢さつき)、本橋まりがキャプテンでサポート役、コーチはカナダ人のJ D Lind。会場はカナダ・サセカチュアンのSwift Currentという町ですごい田舎(上の写真)だけど、さすがに立派なCurling場がある。

 


カニシカ王

2015-09-06 00:08:22 | 仏教

8月中旬にタイのバンコクで発生した爆破事件は、中国から逃れてきたウィグル人が関係しているのではないかと言われている。下はWikiのウィグル人居住地域で、中国の新疆地区、ウズベキスタン、カザフスタン、アフガニスタン北部などの中央アジアを中心に、トルコやイランにも居住している。昔のホータンやガンダーラ地方はウィグル居住地内に位置する。ウィグルはトルコ系遊牧民で、中国では昔、突厥や鉄勒などと呼ばれていた。言語はテュルク語(突厥語)で、現在のウィグル語、トルコ語や中央アジアのウズベク語、タタール語などを含む。語順が主語+目的語+述語で日本語も同系統に分類される。映画『ナイトミュージアム』に出てきたアッティラはアジア系の顔をしていたが、彼の種族であるフン族はテュルク語・モンゴル系と言われる。アッティラは5世紀に騎馬でヨーロッパを蹂躙し大帝国を樹立し、後のチンギス・ハンと並べて語られる。

ホータン出身でガンダーラ(ペシャワール)を居城としインド西北部を支配した2世紀のカニシカ王は、仏教を保護しアショカ王と並び称される。カニシカ王はホータン出身だと言われるがウィグル人の祖先だというわけではない。カニシカ王の時代、ガンダーラ美術が花開き多くの仏像が造られた。カニシカ王の時代になるまで仏像は成立せず、ブッダは、法輪、菩提樹、仏足石などで表現され信仰の中心は仏塔だったということは以前ガンダーラの巻などで書いた。長澤和俊『シルクロード』に記載された高田修『仏像の起源』によると、ガンダーラに仏像が出現したのはクシャーン(あるいはクシャーナ)朝前期の紀元1世紀末頃で、マトゥーラではやや遅れて紀元2世紀初頭に出現し、両者はそれぞれ別個に成立したという。ガンダーラの仏像が、アレキサンダー大王以来のギリシャ文化の影響を受け、ギリシャ人の風貌を持っていることはすでに見てきた。

以下は、カニシカ王の時代までの古代インドの主要な出来事をまとめたものである。

  • 紀元前3000年頃 インダス文明
  • 紀元前1300年頃 アーリア人の侵入
  • 紀元前1200年~800年 『リグ・ヴェーダ』の成立とバラモン教
  • 紀元前550年 マガダ国成立
  • 紀元前5世紀 ブッダと仏教誕生
  • 紀元前327年 アレキサンダー大王の西北インド征服
  • 紀元前317年~紀元前180年頃 チャンドラ・グプタによるインド統一とマウリア王朝。3代目アショカ王
  • 紀元1世紀 クシャーナ王朝によるインド統一と3代目カニシカ王 

カニシカ王の略歴と事績を中村元『古代インド』より拾った。

クシャーナ王朝

北西からインドに侵入し紀元1世紀にクシャーナ朝を樹立したクシャーナ族は二系統からなり、最初はカドフィーセス1世と2世で、次はその後のカニシカ王から始まる系統であるというのが定説だった。しかし、最近発見された碑文に、カニシカ王自身のことばでカドフィーセス1世と2世が祖先だと書かれていたという。クシャーナ族は、トルコ系あるいはイラン系と言われていたが、最近の学会はイラン系遊牧民であるサカ族かトカラ族としている。

クシャーナ朝は2世紀のカニシカ王の時に、中央アジアからガンジス川流域までを支配する帝国となり、3世紀ごろに滅んだ。中国では月氏または大夏と呼ばれた国で、史記によると、もともと西域にいたが匈奴に圧迫され西に移動したという。漢の武帝がこの月氏と結び匈奴を挟撃するため、張騫を使者として送ったのは紀元前2世紀のことである。後漢書によると、大月氏が大夏(バクトリア)に移住し5つの部族にわかれて統治したのち、そのうちの1族であるクシャーナ族が他族を攻め滅ぼしインドにまで攻め入った。クシャーナ朝は、西はローマ、東は中国と交渉があり、国際色が豊かで種々の宗教を認めていた。クシャーナ朝の生活様式は中央アジア的すなわち遊牧民的で、ヘレニズム的な要素をあわせもち、その後、インドに土着するにつれて、インド的な習慣や風俗に変化していった。

Wiki英語版より

経済的には、ローマに絹、香料、宝石、染料などを売って、ローマの黄金を獲得した。ローマの金貨がそのまま用いられるとともに、芸術面では、ガンダーラ地方にギリシャ彫刻の影響を受けた仏教芸術が隆盛し、宗教上では大乗仏教が出現し、大乗仏教最初の経典である般若経が南方インドでつくられた。大乗仏教は西北インドに伝わりクシャーナ朝によって広められた。法華経が成立したのは、カニシカ王から3代あと3世紀中葉のヴァースデーヴァ王のときだと推定されている。バーミアンの小さい方38mの大仏はこの時代に造られたとされる。4世紀に入ると、クシャーナ朝は西からササン朝ペルシャ、南東インドからグプタ王朝の圧迫を受け衰える。

カニシカ王

カニシカ王(在位132~152、在位144~173など諸説あり)は西域のホータン出身とも言われる。ホータン(闐)出身だとすると大月氏ではなく小月氏に属していたと考えなければならない。紀元前3世紀より前にタリム盆地から黄河上流にいた月氏のうち西に移動し大夏を建てたのが大夏氏で、そのまま残留したのが小月氏と呼ばれるからだ。

下のコインの写真Wikiは、表面がカニシカ王で裏面がブッダ像の金貨である。ブッダ象のわきには、”BoDDo”と刻印されている。日本や中国の仏教徒はカニシカ王が大乗仏教を支持していたとするが、カニシカ王が信奉した仏教は、伝統的な説一切有部(すべての法は実在したとする学派)であり、2世紀にインドで龍樹が始めた大乗仏教(すべては空の一切空)ではなかったという説が有力らしい。カニシカ王時代の金貨は、他にギリシャの神々、ゾロアスター教の神、ヒンズー教の神々が刻印され、カニシカ王が仏教以外の宗教にも寛容だったことがわかる。

 

 中村元の『古代インド』は古代インドの歴史を紹介したもので、全11章から成るが、ブッダ誕生と大乗仏教にそれぞれ1章を割いて詳しく説明しているところが中村元の著した歴史書らしくて面白い。 


法華義疏

2014-11-30 19:36:29 | 仏教

聖徳太子は三経義疏を著わした。三経とは勝曼経、維摩経、法華経であり、義疏とはその注釈書である。法華経を解説した鎌田茂雄の『法華経を読む』も義疏ということになる。日本書紀には、606年に皇太子が推古天皇に勝曼経と法華経を講義したとある。天皇は大いに喜び、(褒美として)播磨国の水田100町を皇太子に施し、因って以て斑鳩寺に納めた。

(推古天皇十四年)秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經於岡本宮、天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。

聖徳太子』の中で梅原猛は、三教義疏を読んでそれらが聖徳太子の作品であることを確信したと記す。津田左右吉らの偽書説に対して、三教義疏も読まずにそれらが聖徳太子の作ではないとしていることに痛烈な批判を加えている。梅原猛が依拠するものが花山信勝の訳した『法華義疏』である。先月、神田古書店街で掘り出し物がないかと渉猟していたときに、偶然、彼の本をみつけ衝動買いした。文庫本上下2冊組で、ビニールでカバーされていたため中身も確かめずに買った。家に戻りそそくさとビニールを破り捨て表紙をめくったところ、内容があまりに難解で自分の実力では手に負えず、結局は花山信勝のあとがきだけを読んだ。

本の最初のページに以下の法華義疏冒頭の写真が載っている。”法華義疏第一 此是 大委上宮王私 集非海彼本”とあり、”大和の国の上宮王の私に集まるところ、海の彼(かなた)の本には非ず”と訳される。花山は、”本来、奈良時代の本はほとんどが朝鮮半島か中国大陸からもたらされた。海外の仏教経典の注釈は上宮王である自分のところに集り、その中から自分の意に適した文章を採用し、簡潔にまとめた。”と解し、義疏は聖徳太子自筆とする。

法華義疏については偽書説が盛んであるが、花山は訳本のあとがきで、”法華義疏を読めば読むほど、義疏を書いたのは聖徳太子以外の何人でもありえないと思うようになった”と述べている。花山の示す理由は以下のとおりであるが、法華義疏の著者に習い、一部私意を付け加える。

1.全四巻にわたって行間や余白に細字で加筆、貼り紙、文字の上下入れ替え、返り点、消字など、本書の著者でなければ不可能と考えられる前後連絡のある統一的加筆修正がなされている。字体は欧陽詢(おうようじゅん=557-641年唐の書家)の筆法が加わっているので奈良中期の文字とみられる。貼り紙があるような草稿本が偽書である可能性は低い。

2.法華義疏など三教義疏は、聖徳太子の死後すぐから太子御製として久しく伝承されていた。

8世紀中旬の鑑真は南岳の恵思禅師が上宮聖徳王として生まれ変わり法華経を弘通されたという信念のもと渡海を決意する。鑑真に同伴した弟子の思託(したく)は、『上宮皇太子菩薩伝』を著して、太子が三教義疏を作ったと記し、772年に入唐した日本僧は揚州竜興寺にいた鑑真の遺弟の霊祐大師に上宮王の撰号のある『法華義疏』四巻と『勝曼経義疏』一巻をもたらした。そして唐僧の明空が『勝曼経義疏』に私抄一巻を書き”上宮王 非海彼本”の注釈をした。9世紀に入唐した円仁がそれを写して我が国にもたらした。 (恵思禅師=6世紀に活動した天台宗の二祖。龍樹が開祖)

708年生まれの智光は自著で三教義疏から多くの引用をしているが、その引用文は現存の三教義疏と相違がない。

天平19年(747年)の法隆寺伽藍縁起並流記資材帳に、法華義疏四巻、維摩経疏三巻、勝曼経疏壱巻が記録されている。

3.法華義疏では光宅寺法雲(467-529年)の書いた注釈書である『法華義記』を直接引挙し、また是非するものが多い。その大胆な批判精神と、経文や先人の解釈にとらわれない独自の解釈の発表、簡潔明晰な特徴など、太子のような大人物であって初めて私集できるものである。

「ただし、私に懐(おも)うには」、「ただし疑うらくは---」、「然れども、これはこれ私の意なり」、「しかれども、私意及ばず。ゆえに、記さざるなり」、「しかれども、私意は少しく安らかならず」、「今、私に釈すれば」、「論ぜざるも明らかなり」、「これに例して推すべし」など、自身のことばで解釈を行っている。特筆すべきは、「実に就いて論ずることを成さば(実例に沿って論ずるとすれば)」ということばの多さで、論議が常に実際的立場からなされているのである。

4.法華義疏の中には、少乗の誤字(正は小乗)、身子と真子の混用、舎利弗と舎利仏の混用など他にも誤字や異字があり、漢字が使用され始めた時期の専門僧でない上宮太子こそその著者としてふさわしい。

5.606年の法華経講義の翌年、太子は小野妹子を隋に遣わし、沙門数十人を同伴させ仏法を学ばせ仏典を請来させている。

6.一大乗という法華義疏独自の用語がある。小乗に対する大乗、三乗に対する一乗を合体させた一大乗は、著者の造語であり、他の義疏にない独自の解釈をしている。一大乗は誰もが仏性を持てるという平等思想であり、これはまさに十七条の憲法の10条に通ずる。

7.法華義疏は他の2義疏に言及しているので同一人物が書いた可能性が高く、解釈は勝曼、維摩、法華の順に要を得てくることから、成立年もこの順番だと考えられる。これは日本書紀の年代順に一致する。

8.著者は安楽行品で”山の中で常に坐することを好む小乗の禅師には親近せざれ”と解釈し、そんなことをしていては仏の教えを世間に弘められないではないかと疑問を呈する。これは先人の天台智や法雲の解釈とは真逆であり、著者の解釈が間違っているのだが、僧侶でない仏教で日本の政治を変えようと考える為政者、すなわち聖徳太子のことばであることを証明している。

またまた、聖徳太子の人間性に惚れ込んでしまった。


ガンダーラ

2014-11-29 23:44:26 | 仏教

古館伊知郎が報道ステーションで、対馬のお寺の仏像盗難事件をコメントし、”(仏教は)こだわらない心、とらわれない心を教えてくれるんですよね。”と述べ窃盗行為を許せと言っているようにとらえられたため、ネットやツイッター上で激しくバッシングされている。物への執着を捨てることや自己にとらわれない心(無我=我執を捨てる)は、ブッダの大切な教えの一つであることは確かである。古舘の言う仏教の教えは間違ってはいないが、事実を報道するニュースキャスターがテレビの画面で真顔で宗教の教義を説くことに違和感を感じないでもない。

ブッダの死後しばらくは、ブッダ自身が”自灯明・法灯明という、自分を拠り所とし法(ダルマ)を拠り所にしなさい”と言ったことや、ブッダを像とすることが畏れ多かったことなどで仏像を作って祀ることはなかった。仏教徒は仏像ではなく代わりにストゥーパや仏足石法輪や菩提樹を信仰対象としていた。仏像が作られ始めるのは、仏教がインド西北のガンダーラ地方や北インドのマトゥーラ地方に伝わってからとされる。ガンダーラはパキスタンのペシャワール付近である。紀元前330年頃、アレキサンダー大王がこの地方に遠征しギリシャ文化を持ち込んだ。紀元前3世紀のアショカ王の時代はまだ仏像は作られておらず、王はガンダーラにもストゥーパを建てた。紀元前2世紀にこの地方を支配したのは、インド・グリーク朝のメナンドロス王で、彼と比丘ナーガセーナの問答が「ミリンダ王の問い」という仏典に残されているように引き続き仏教はこの地方に浸透している。

仏像が作られ始めるのは、紀元2世紀中頃、ガンダーラ地方を支配したクシャーン朝のカニシカ王の時代からである。この地方で作られた多くの仏像や絵画はギリシャ彫刻の影響を受けガンダーラ美術と呼ばれる。日本や中国と異なり仏像の顔がギリシャ風である。日本では最古の飛鳥寺に飛鳥大仏があるように、仏教伝来の6世紀にはすでに仏像崇拝が始まっている。マルコ・ポーロは東方見聞録の中で仏教徒のことを偶像崇拝教徒と呼び、13世紀のキリスト教徒からみた仏教徒は様々な仏像を拝む連中と認識されている。

 

如来立像、東京国立博物館蔵、パキスタン・ペシャワール付近、紀元2~3世紀

上原和は、ペシャワール博物館で上の仏像のような”托鉢するブッダ像”や”説法するブッダ像”を見ている。ブッダ像は、たくましい腰と太い脚を持ち、跣(はだし)で立ち、頭髪は、後年の肉髻(にっけい=頭のてっぺんにお椀を伏せたような盛り上がり)ではなく髪を細紐一本で束ねただけだった。上原和は粗衣を着て托鉢する素朴な行脚姿こそが世俗を捨てたブッダにふさわしいとつぶやく。

法顕はガンダーラ地方を訪れ、『法顕伝』あるいは『仏国記』で以下のように記録している。

この国の仏法もまた盛んである。むかし天帝釈が菩薩を試し、鷹と鴿(はと)に化し、(菩薩が)肉を割いて鴿をあがなった処である。(のちに)仏が成道してから、諸弟子と遊行し(た際)、ここはもと私が肉を割いて鴿をあがなった処だと語った。国人はそれでそのことを知り、ここに塔をたて金銀で校飾(かざ)った。ここから東へ五日下って行くと、ガンダーラ(犍陀衛)国に到った。アショカ王の子ダルマヴァルダナ(法益)が統治した処である。仏が菩薩だった時にも、また国において(自らの)眼を人に施したという。そこにも大塔をたて、金銀で校飾(かざ)ってある。この国の人は多くは小乗学である。 (長澤和俊訳『法顕伝』より)

玄奘三蔵も『大唐西域記』(水谷真成訳)でガンダーラ(健駄邏)国について以下のように記録している。

ガンダーラ国は東西千余里、南北八百余里あり、東はインダス川に臨んでいる。国の大都城はプルシャプラ(今のペシャワール)といい、周囲四十余里ある。---村里は荒れはて、住人は稀で、宮城の一隅に千余戸あるだけである。農業は盛んで、花・果はよくなり、甘蔗(さとうきび)が多く、石蜜(氷砂糖)を産出する。---

ガンダーラには仏鉢、ブッダが木陰に座ったピッパラ樹、カニシカ王が建てた大ストゥーパや伽藍、仏像画や白石の仏像、世親菩薩や如意論師や鬼子母の遺跡、大自在天(シバ神)象、アショカ王のストゥーパなど多くの仏跡や遺跡が存在し、玄奘三蔵はそれらの由来を示す不思議な話を書き連ねている。

ペシャワール博物館やインドの博物館は写真撮影が自由で、ネット上の多くのブログで仏像を見ることができた。上原和も「世界史の中の聖徳太子」に自分で撮影した説法のブッダ像を載せている。シンガポールでパリのオルセー美術館展が開催されたときも写真撮影は自由だった。仏像や絵画を収蔵する日本の博物館、美術館、寺や神社では何でもかんでも写真撮影禁止である。商業目的でなければ許可としてほしいものだ。


阿育王事蹟

2014-08-31 01:35:32 | 仏教

『阿育王事蹟』は、森林太郎(鴎外)と大村西崖がアショカ王の事跡をまとめたものである。国会図書館のホームページからダウンロードした。書体は古い(明治時代?)ので読みにくいが何とか理解できる。本はアショカ王の残した摩崖、石柱、石窟に刻まれた銘文(法誥)をすべて訳出している。

【壱 前紀】 紀元前2000年ごろインドに進行したアーリア人種から出た釈迦族、アレキサンダー大王による征服、カースト制の最下層民スードラ階級から出たチャンドラグプタがマウリア朝を開き、その子ビンビサーラを継いだ3代目アショカ王(阿育王)までのインドの歴史を概説する。

【弐 摩崖】 インド各地7か所で発見されているアショカ王が遺した摩崖(大石の表面を磨いて文章を彫ったもの)の翻訳を示す。各地の摩崖にはほぼ同じ内容の14章からなる法誥文が刻まれている。右から読む古い梵字で書かれている。

  • 第1章 ”この法誥(ダルマ)は天愛善見王(アショカ王が自称した名)の命に依りて刻せらる。”から始まり、生き物を殺すなと記す。
  • 第2章 領土内いたるところに薬草を植え、道路に植樹し泉を設けた。
  • 第3章 我が諸侯や役人は通常の政務に加え、ダルマの実践を命じる。父母に従い、友人、親族、バラモン、仏教徒に仁であることは善である。生命を重んじることは善、ぜいたくや暴言を避けることは善である。
  • 第4章 天愛善見王は即位12年に不殺生、法(ダルマ)の実行を宣する。アショカ王の宣したダルマとは有情残害(感情があるもの、すなわち生きとし生けるものを殺害すること)の禁止、親族に礼儀正しくつつしみ深く、バラモンや仏教徒を敬う、父母に従う、目上のものに従順であること。
  • 第5章 善を行うのは難しいのでダルマを守る役人ダルマ大官を置く。ダルマ大官は庶民の幸福を守る。
  • 第6章 役人は庶民にかかわる政務を速やかに自分に報告すること。報告を受けた天愛善見王はいかなる時でも速やかに指揮命令する。これを刻む理由は自分の子孫も同様にダルマを実行してほしいからである。
  • 第7章 天愛善見王は様々な宗派の人々がいっしょに住まうことを願う。十分の仁を為しえずとも、欲を伏する徳、心の清浄、知恩と真実は常に賞すべきである。(この章の意味をあまりよく理解できなかった。察するに、信仰度合いは人それぞれ異なるが、その志は賞されるべきということか)
  • 第8章 天愛善見王は即位10年に菩提に入り、ダルマを実行することになった。
  • 第9章 ダルマの作法は不朽であり、現世で成就できなくても他生(あの世)で功徳を得ることができる。
  • 第10章 天愛善見王はダルマの実践のために名誉と声望を求める。解脱は貴賤を問わず無上の精進と完全な捨離(我執を去ること)で達成できる。
  • 第11章 ダルマを実践するものは現世と後世に無窮の功徳を得ることができる。
  • 第12章 他の宗派を尊重すること。
  • 第13章 天愛善見王は即位8年インド東部カリンガ国を征服したとき、15万人を奴隷とし、10万人を殺害し、その数倍の民衆が死んだ。自分はこれについて深い悲痛と悔恨を感じている。
  • 第14章 この法勅文は天愛善見王の命により各地に刻まれた。国土は広大なので各地の文は必ずしも同じではない。

【参 石柱】 インド各地で9基の石柱が確認されている。それぞれの場所、大きさ、形状、柱頭、保存摩耗状態、刻文(法誥)の内容が写真や図とともに詳しく述べられる。釈迦生誕の地ルンビニーに阿育王が建てたルミンデイの石柱は雷のため上部は地に倒れ(下の絵)柱頭は鈴形部のみ残るが、石柱表面に彫られた刻文は完全に残っている。玄奘三蔵はこれを見て、「四天王太子を捧げたるストゥーパの側、遠からずして大石柱あり、上に馬象を作る、無憂王の建つるところなり、後、悪龍の霹靂のためにその柱中折により地に仆(たお)る。」と『西域記』に記録している。『西域記』には他に7つほどの石柱について記述がある。法顕も『仏国記』に石柱を見た場所と高さや柱頭や文様のあらましを伝えている。ところが、二人とも刻文についての記述がない。筆者(森鴎外ら)は梵字が古体であったため二人が読めなかったからではないかと推測する。また、二人の記録から、現存する石柱以外にも寺院、伽藍やストゥーパの由来を刻した石柱が数多くあったことを知ることができる。高さは20~70尺(6~20m)で柱頭には現存の獅子、象、馬のほか牛や法輪があったこともわかる。下図は鼻の欠けた象の柱頭と獅子の柱頭。

【肆 灌頂】 阿育王の即位時のことが書かれている。阿育王は世嗣でなかったため長兄のスーマナを始め兄弟99人を殺害して即位したという伝説があるが、摩崖文に即位13年の時点で兄弟がいることが記されているので、伝説は必ずしも正しくないとしている。また、即位年は、他国との交渉記録から紀元前269年と推定する。年代が判明しているエジプト王プトレマイオス、シリア王、マケドニア王らとの交渉が摩崖文に残り、それをもとに年代を類推したものである。即位年齢は在位年数などから、20歳という伝説を採用せず、25.6歳から30歳のころであったろうと推定している。また、仏教に帰依するまでは、無理難題に随えなかった諸臣500人を自ら殺したとか、自分の好んだ無憂樹の枝を折ったとして女官500人を虐殺したとか、城外に地獄をつくって人々を幽閉したことや、愛欲に溺れKamashoka (Kama Sutora+Ashokaの造語)と呼ばれたなどが伝えられている。しかし、これは後世仏教の功徳を誇張するための作為だろうとする。阿育王が仏教に帰依したのは、カリンガ征服の惨状を見たからであることは摩崖文第13章に書かれたように明らかである。

【伍 帰仏】 阿育王が仏教に帰依した理由は、仏の教えを愛したか、仏教徒の性行を喜んだか、法に名を借りて人心を収攬しようとしたか、審らかにはできない。しかし、カントも言うように、「人の行為の動因は不可知なり」とすれば、王がまさに法を愛したということを否定する理由はないと筆者は書いている。(ここで筆者の言を自分なりに解釈すると、”人の行為の動因”=カントの言う”物自体”=本質であるから不可知である、さらに不可知を経験で正当化できるとすれば、経験から類推した王の心の中を否定する理由はないということになる。阿育王が仏教に帰依した理由にカントを引き合いに出す必然性はないと思うのだが、おそらく森鴎外の時代、カント哲学が相当流行っていたのだろう。) 阿育王は仏教に帰依したが他の宗教に寛容であることは前述の摩崖文に見える。

【陸 建塔】 阿育王は仏教に帰依してのち、ブッダの骨を納めた8塔のうちラーマ国のストゥーパを除く7塔を開き、8万4千に分骨し各地に新しくストゥーパを建立した。筆者は8万4千塔は誇張だろうとする。

【質 区域】 阿育王が統治する地域は石柱などの分布から全インドに及ぶことは明白だが、記録に残る阿育王の征服戦は前述のカリンガとの戦いのみである。王の威光により全インドが服属したものであり、1回の兵勝と多年の法勝によるものと言える。服属していないのはセイロンのみであった。

【捌 治績】 阿育王は仏法をもって国を治めた。民をしてダルマを行わしめ善行により現世と後世に功徳を得る。民を子と思いその幸福を願い、自分を父と思わしめ、一切の有情の生を重んじてその安固を願う。このような真実の至情による高尚な治道の理想は他に類をみないと筆者は絶賛する。

【玖 所信】 仏教が民の教育そのものであった。

【拾 結集】 阿育王が結集を行ったことは南伝にあり刻文にも北伝にもない。仏教の興隆に反しその他の宗教の信徒は困窮したため仏教徒を装うものが出て仏法が乱れる。その後、阿育王の処置で仏法の乱れが正され結集が行われる。(結集=経、論、律の三蔵をまとめた編集会議、ブッダ入滅後五百羅漢が集まり結集したのが第1回、仏滅後100年ごろ第2回結集、アショカ王の時が第3回)

【拾壱 布教】 ブッダの頃の仏教は中インド地方に広まるに過ぎなかったが、アショカ王によってアジア全域に広がった。筆者は「阿育王の広宣久住の功は教祖仏陀のこれを開ける徳と並べ称するも復た殆ど過褒に非ずと言いつべし」と絶賛している。

【拾弐 巡礼】 阿育王は在位中、インド各地にある仏跡を巡り塔や石柱を建立する。

【拾参 眷属】 妃や世子の伝説が主体で特筆すべきものはなかった。

【拾肆 晩年】 阿育王の刻文は即位27年で終わるので晩年のことは阿育王経と阿育王伝に依るしかない。晩年は最後の布施の話が中心となる。

【拾伍 芸術】 阿育王の石柱やその時代の建造物を豊富な写真を使い解説しているので森鴎外と大村西崖のどちらかはインドを歩いたに違いない。アショカ王の遺物・遺跡の芸術について202ページから233ページまで約30ページを割いている。

【拾陸 後紀】 マウリア王朝は紀元前183年または178年に滅ぶ。その後、大乗仏教のナーガールジュナ、玄奘や義浄のインド訪問などの仏教関連事跡を中心に解説し、19世紀まで下りビクトリア女王がインド帝の称号を兼ねるところで終わる。

巻末には阿育王年表、和英両方の参考文献、索引、正誤表、法誥文の原文(梵語?)を載せる。

森鴎外は『渋江抽斎』で抽斎の周辺を細大漏らさず調べ書き留めているように、本書でも阿育王の事蹟を細大漏らさず収集し記録している。森鴎外は小説家だが森林太郎は学者だということがわかる。学術論文ともいえる本書を読むのに時間はかかったが、アショカ王の遺跡はインド各所にあるのでインド旅行に持参する価値はある。


セイロン

2014-08-25 03:49:04 | 仏教

Hatred ceases not by hatred but by love (憎しみは憎しみによって止むのではなく慈愛によって止む)

これはセイロン(現スリランカ)のジャヤワルダナ首相が、1951年サンフランシスコで開かれた対日講和会議で各国に呼びかけた演説中のことばで、セイロンはこの講和会議で日本に対し賠償請求権を放棄し、他の会議参加国の多くが同調する。サンフランシスコ条約によって連合国と日本の戦争状態(第2次世界大戦)が終結し、日本は国際社会に復帰する。当時の吉田茂首相はジャヤワルダナ首相には感謝の言葉もないと言い遺しているらしい。鎌倉大仏内に元首相の顕彰碑が立っているらしい。このジャヤワルダナ元首相(のちに大統領)の話は、スリランカ人で日本国籍を取得した社会学者でタレントの”にしゃんた”さんのYahoo Newsで知った。

上のことばは下のブッダのことばに由来する。ジャヤワルダナ首相は敬虔な仏教徒であった。

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。  『ダンマパダ』(中村元訳『原始仏典』より)

中村元『古代インド』第11章にセイロンの歴史がまとめられている。

セイロンに仏教が本格的に渡ったのはやはりアショカ王の時だったようである。紀元前3世紀にアショカ王の子マヒンダがセイロンに派遣されたとき、修行僧を伴い仏教を確立した。この仏教はもっとも保守的な上座部仏教であった。セイロン王はミヒンタレーに石窟寺院を建て、ブッダガヤーの菩提樹の枝をもってきてアヌラーダプラ霊場に植えた。この菩提樹は現在世界最古とされている。同じころ、アショカ王からブッダの骨をもらいうけたセイロン王はトゥーパーラーマ塔を建て中に骨を納めた。伝説によるとブッダはセイロンを3度訪れ、その3回目にケーラニア河畔にあるケーラニア(Kelaniya)寺院に留まったとされる。ジャワルダナ元首相は2006年94歳で死去し、コロンボ郊外の聖地ケーラニア河畔で火葬にふされ本人の希望により遺灰は川に流された。ブッダは、死に臨み弟子のアーナンダに”私の遺骨にかかずらうな”と遺言する。ジャワルダナ元首相はブッダの遺言を知っていて散骨を選んだのではないかと思う。アーナンダらブッダの弟子たちはブッダの意に反し、遺骨を分配しストゥーパを建てて安置し長く供養する。

その後、セイロンの仏教はマハーヴィハーラ(大寺)において保守的な上座部仏教が、それから分派した進歩的な諸派はアバヤギリ・ビハーラ(無畏山寺)において発展した。紀元前1世紀のセイロン王はアヌラーダプラに大塔と九層の布薩堂を建て、その式典に諸外国の使節を招いた。5月の満月の日の祭りであるVesak祭りはこのときに始まる。4世紀のマハーセーナ王はこれら仏教を保護するとともにその頃セイロンに伝わった大乗仏教を大寺内に建てた祇園寺において保護する。410年から412年までセイロンに滞在した法顕は僧徒5000人が無畏山寺で行う仏歯祭りのことを仏国記に記している。7世紀、玄奘三蔵はシンハリ国で仏教が盛んだと聞き、海を渡って行こうとするが、ちょうど国が乱れ仏教徒がインドに逃れてくるのに出会い、シンハリ国へ行くことを断念する。南インドの金剛智(671~741)と不空(705~774)の両人は同じく7世紀に無畏山寺を訪れ国王の歓待を受ける。その後両人は中国に真言密教を伝える。中国に伝えられた真言密教は空海によって日本に伝えられる。

スリランカの住人の多くは今も仏教徒であるが、インドでは仏教が滅んでしまった。中村元が書いているインドで仏教が滅んだ理由は以下のとおりである。

  1. 仏教はもともと合理主義的で哲学的な宗教であり、一般に受け入れられにくい傾向があった。
  2. 仏教は呪術・魔法のようなものだけでなく、古くからインドに根付く民族宗教であるバラモン教の祭祀も排斥した。
  3. 伝統的なカースト制度に反対し、人間は平等であると唱えた
  4. バラモン教に帰依している一般大衆から離れ、独善的・高踏的(お高くとまる)ようになった。
  5. 僧侶は民衆から離れ、寺院の奥で瞑想するか学問するだけになり、民衆の苦しみに寄り添い救済する精神に乏しかった。伝道精神に欠けていた。
  6. 仏教教団は王侯貴族の寄進で運営され、大衆に働きかけることをしなかった。
  7. 320年成立のグプタ朝では、仏教を弾圧し、仏教教団への支援がなくなり仏教は急速に衰えた。
  8. 王侯からの支援がなくなり、仏教は大衆に迎合するようになり、呪術などの当時の民間信仰を取り入れ経典読誦の霊験・功徳を称揚する密教が興った。
  9. 飲酒や姦淫を認めるタントラのような変容が仏教を堕落させた。
  10. 在俗信者と密接な関係を構築しなかった。すなわち、日本のように家庭生活の内部に宗教的儀礼を持ち込まず、民衆を積極的・組織的に指導しなかった。
  11. イスラムによる徹底的な破壊を受けた。

左より、スリランカの国旗、インドの国旗、インドの国章

不思議なことに、スリランカにはライオンは生息していないが国旗に獅子が描かれる。さらに不思議なことに、仏教が衰退したインドの国旗に、アショカ王石柱に刻まれた転法輪(説法)が描かれる。初めて説法したサールナートが初転法輪であり、仏足石にも法輪が描かれている。インドの国章はアショカ王がサールナートに建てた石柱の獅子柱頭であり、この台座にも転法輪がある。


アショカ王

2014-08-16 15:52:52 | 仏教

終戦の日前後は、毎年、戦争特番や関連記事が多くなる。NHKの『狂気の戦場ペリリュー』はあまりに悲惨だった。ペリリュー島をフィリピン進行の重要拠点と考え島を確保しようとするアメリカは最強と言われる第1海兵隊を、そこを絶対防衛線と位置づける日本軍はこれも最強の関東軍を送り込み、両者は激しい肉弾戦を繰り広げた。日本軍は飛行場奥の石灰岩の岩山内に地下陣地を築き持久戦、ゲリラ戦を仕掛けた。戦闘は1か月以上続き、アメリカの別働隊がフィリピン上陸を果たしたため、島には戦略的な価値はなくなった。しかし、大きな犠牲者を出し島から退去することもできたアメリカ軍は、戦略的価値がなくなった時点でも病的な執拗さで無益な戦闘を継続した。日本軍もまた持久戦を命令され投降も玉砕も禁じられていたため戦闘をやめようとはしなかった。日米双方の戦死者は増え、闘いを続ける兵士たちは周囲に累々と放置され悪臭を発する死者の山にも無関心になり、恐怖と憎悪で徐々に人間性を失い精神錯乱する者が多数出てくる。日本兵は1万人以上が戦死し残り数十人となり食料も尽きた中で大将が自決、米軍も日本軍並の死傷者を出し戦闘は終了する。ペリリュー島で生き残った日米双方の兵士たちは、70年経った今も島での悪夢にうなされると証言した。番組の中の映像はあまりにもショッキングで地獄そのものだった。これが戦場であり戦争なのだ。

以下はブッダのことば『スッタニパータ』中村元訳の一節である。上原和が『世界史の中の聖徳太子』で引用している。

水の少ないところにいる魚のように、慄(ふる)えている人々を見て、また相互に反目している人々を見て、私に恐怖が起こった。

まさに、ペリリュー島にいる日本とアメリカの兵士たちのことである。そしてブッダはこんなことも宣言している。

言い争う人々を見よ。杖を執ったことから恐怖が生じたのである。わたくしがどのようにしてそれを厭(いと)い離れたか、厭い離れることを宣(の)べよう。

杖(武器)を持った瞬間から人々に恐怖が生じる。恐怖は暴力に向かう。ペリリュー島の日本軍に持久戦を指示したかもしれない大本営の瀬島隆三は、後日『大東亜戦争の実相』の中で、”軍備増強は戦争抑止には向かわず戦争促進に直結する”と、はっきりと述べている。最近の政府与党の一連の動きに不安がいっぱいになる。

紀元前3世紀のインドに現れたアショカ王(紀元前268-232)は仏教を篤く保護したことで知られる。アショカ王は長兄を殺してマウリア朝3代目の王として即位し、即位した当初は悪逆非道の君主で征服と殺戮を繰り返す。ところが、インド東部の国カリンガとの戦い以降、深く仏教に帰依するようになる。カリンガの戦いでは10万人を殺害し、15万人が捕虜として他の地方に移送された。戦闘員ばかりでなくその数倍の人々が死に、そこには多くの仏教の僧侶やバラモン(バラモン教のちのヒンズー教の司祭階級)が含まれていた。アショカ王は自身の詔勅文でそのときのことを書き残している。植村清二『アジアの帝王たち』に訳文が載っているが文語調で格調高すぎて意味がよくとらえられないので以下それを要約した。

アショカ王は即位8年にカリンガを征服した。15万人が捕虜となり、10万人が殺戮され、その数倍の衆が死んだ。カリンガ征服以来、自分は熱心に法(ダルマ)を護持、帰依し広めた。自分はカリンガ征服に痛恨を感じる。征服戦争で避けられない人民の殺戮、死傷、捕虜に自分は深い悲痛と悔恨を感じる。今このような国に住む善良な人々は惨虐、殺戮、離別に会い苦しみ、その悲しみは消えない。自分はこのような災禍をもたらしたことを後悔する。カリンガで殺戮され死んだ人民の百分の一あるいは千分の一の損失も今の自分には耐えがたい。

”以降王は正法の使徒をもって任じ、道路に樹を植え、井泉を掘って旅客に利便を与え、灌漑施設を完備し、医療設備を普及して人民の安寧幸福を計った。治民行政にはとくに意を用い、特別の管理を任命して領内の政治を巡察監督させ、その施政方針を示した勅命を領内いたるところの岩石石柱に刻銘して、王の趣旨を徹底させた”宮崎市定『アジア史概観』より。石柱や岩石に刻まれた詔勅文には以下が記載されている(佐藤圭四郎『古代インド』より)。

  • 生類の生命を重んじること(不殺生)
  • 法(ダルマ)の実践に励むこと
  • 官吏の義務と辺境人への教え
  • アショカ王が布施や供養を行ったこと
  • 自己反省が重要であること
  • 刑罰が公正でなければならないこと
  • サンガ(僧団)のおきてを破ったものを追放すること
  • 外道(他の宗教)に寄進したこと

臣下に宛てた以下のような指示が残っている。

すべての人民は自分の子であり、現世も後世も幸福と栄誉を享けることをねがう。

仏法僧の三宝に帰依することや、官吏の心構え、刑罰の公正など、十七条の憲法”便(すなわ)ち財在るものの訴は、石をもて水に投ぐるが如し。乏(とも)しき者の訴は、水をもて石に投ぐるに似たり。”すなわち、金持ちの訴えは100%受け入れられるが、貧乏人の訴えは100%退けられると言う裁判の公平と法の平等の重要性を説く聖徳太子のことばに似ていることは驚くばかりである。当然のことながら、上原和は『世界史上の聖徳太子』でアショカ王と聖徳太子を重ねる。アショカ王の悔恨と若き日の権力闘争での”血塗られた手”を後悔する聖徳太子と、その後の二人の生き方である。

仏教に帰依したアショカ王は、八つの仏舎利に治められたブッダの骨を八万四千に分骨しインド各地に仏舎利塔を建てた。玄奘三蔵法顕は、アショカ王が建てた石柱やストゥーパ(仏舎利)、摩崖刻文を祇園精舎(シュラーヴァスティー)、クシナガラ、サルナート、パータリプトラ(マウリア朝の首都)、カピラヴァストゥ、ルンビニーなどブッダゆかりの地で見て記録している。


玄奘三蔵

2014-08-10 01:07:52 | 仏教

西遊記の三蔵法師のモデルである玄奘三蔵は602年河南省陳留に生まれ、幼くして出家し多くの経典を学んだ。その内容に多くの疑義があり、法顕のようにインド(天竺)へ行って仏教経典を学び疑問を正したいと思うようになった。そして628年、26歳の時、インドに向けて一人長安を出発した。隋の煬帝の即位が604年、隋が滅んだのが618年なので、法師は隋末から唐初の動乱期に仏教勉学に励んだのである。帰国後書いた地理書が『大唐西域記』で、それが小説『西遊記』のもとになった。また、弟子の慧立(えりゅう)と彦悰(げんそう)が法師の旅行記『大慈恩寺三蔵法師伝』を書いた。その前半部を長澤和俊が訳した『玄奘三蔵 西域・インド紀行』を読んだ。

三蔵法師は約200年前の法顕と同じように長安を出立し河西回廊を通り西域に入る。法顕が玉門関を通りタクラマカン砂漠の南、天山南路を辿ったのに対し、法師は天山北路を通りサマルカンドとプルシャプラ(ペシャワール)を経由してインドに入る。630年にバーミアンに立ち寄り、高さ150尺の立石像と長さ1000尺の釈尊の涅槃臥像を見ている。当時の1尺が今と同じ30㎝だとすると、立石像は高さが45m、涅槃臥像は長さ300mということになる。タリバンが2001年に破壊した磨崖仏2体の高さは58mと35mなので、法師が見たのはおそらくこのどちらかである。300mの涅槃臥像を見つけたという未確認情報があるが真偽は定かではない。法師は途中の国々で足止めされるなどし、3年の歳月を費やしてインドにたどり着く。

 

『玄奘三蔵』の中にあった上下の地図はスキャンが手元になく、アイフォンで撮ったので、歪んでしまった。 

マガタ国周辺地図

 この本を読んだ最大の理由は、玄奘三蔵がブッダゆかりの地・仏跡をどう見たか、200年前の法顕の時代からどう変貌したかを知ることである。

祇園精舎

シュラーヴァスティーの周囲は6000余里、伽藍数百、僧徒は数千人おり、ともに正量部(しょうりょうぶ=小乗の部派仏教のひとつ)を学んでいる。城内にはスダッタの屋敷跡があり、城の南5~6里にジェータ林(スダッタが金貨を敷き詰めた逸話のある林)がある。すなわち祇園精舎で、むかしは伽藍があったが、今はすっかり崩れている。東門の左右に石柱があり、高さは70余尺でアショカ王が建てたものである。

カピラヴァストゥー

国の周囲は4000余里あり、都城の周囲は10余里、ともにみな荒れ果てている。宮城はまわりが15里あり、煉瓦造りできわめて堅固である。内部にスッドーダナ王(ブッダの父)の御殿の遺跡があり、その上に寺を建て、中に王の像が置かれている。その北の遺跡はマーヤー夫人の寝殿で、ここにも寺を建てて、内部に夫人の像を祀ってある。そのそばにも寺があるが、ここは釈尊菩薩が母胎に降臨された所であり、内部に菩薩降生の像が置かれている。

クシナガラ

この国もきわめて荒れ果てていた。城内の東北隅にストゥーパがあり、アショカ王の建てたものである。ここはチュンダ(彼が給した茸料理でブッダは激しく下痢をする)の邸の跡である。邸内に井戸があり釈尊に食事を作るために掘ったものといい、いまも水は澄み映えている。町の西北3,4里でアジタヴァティー河を渡り、河岸近くに沙羅の林がある。そこには4対のほぼ同じ高さの木があり、ここが如来の涅槃し給うたところである。そこに大きな煉瓦の精舎があり、内部に北枕に横たわる如来の涅槃像があった。かたわらに大ストゥーパがあり、高さ200余尺でアショカ王の造ったものである。また仏涅槃の事跡を記した石柱が立っていたが、年月は記してなかった。

サルナート(鹿野苑)

台観は雲に連なり、四方に長い廊下が連なっている。ここには僧侶1500人が住み、小乗正量部を学んでいる。伽藍内に寺院があり、高さは百余丈(30m強)、石の階段や煉瓦の仏龕(ぶつがん=仏像を安置するための小室)の層数は百数階あり、仏龕にはみな黄金の仏像を浮彫してある。内部には真鍮製の仏像があり、この仏像は大きさは如来の等身大で、初転法輪(ブッダが初めて仏教の教義を説いた)の有様をうつしている。寺院の東南には石のストゥーパがあり、高さ百余丈でアショカ王の作である。その前に高さ七十余尺の石柱があるが、こここそ釈尊が初転法輪された場所である。

ブッダガヤ

(ブッダが下に座り悟りを開いた)菩提樹の囲いは煉瓦を積み重ねたもので、きわめて高く堅固で、東西に長く南北にやや狭い。正門は東方に開いてナイランジャナー河に対し、南門は大花池に接し、西は険しい丘に閉ざされ、北門は大伽藍(大覚寺)に通じており、その中に聖跡が連接し、あるいは寺院、あるいはストゥーパがあり、これらはともに諸王、大臣、富豪、長者が釈尊を慕い、きそって営造したもので、それぞれの名を残している。これらのまん真中に金剛座がある。天地開闢のとき、大地とともにできたものである。これは三千大世界の中央にあり、下は金輪を極め、上は地の果てに等しく、金剛で形造られ周囲は百余歩である。菩提樹は、如来ご在世のときは高さ数百尺であったが、このころはたびたび悪王のために伐採され、いまは高さ五丈あまりにすぎない。

パータリプトラ

アショカ王はすなわちビンビサーラ王のひ孫で、王舎城から遷都してここへ来たのであるが、遠いむかしのことなのでいまはただ遺跡が残っているのみである。かつては伽藍数百といわれたが、いま残っているのは2,3しかない。このもとの宮殿の北方、ガンガー河の岸辺に、千余戸の家々をもつ小城がある。同じ方向に高さ数十尺の石柱があり、ここはアショカ王が地獄を作った所である。法師はこの小城に7日間滞在して仏跡を巡礼した。地獄の南にいわゆるアショカ王の八万四千塔の一大ストゥーパがある。つぎに寺院があり、内部に釈尊が踏んだ石(いわゆる仏足跡)がある。石の上には釈尊の両足の足跡があり、長さ一尺八寸、広さ六寸で、両足の下に千幅輪相(仏の32相のひとつ)があり、10指の端には万字、花文(けもん)、瓶、魚などがいずれもはっきりとみえている。こここそ釈尊がヴァイシャーリーを出発して河の南岸の大きな方形の岩の上に立ち、アーナンダを顧みて、”こここそは私が最後に金剛座と王舎城を望んで留まった跡である”といわれたときのものである。

ナーランダー寺

三蔵法師が5年滞在し学んだナーランダー寺は荘厳で、当時客僧を入れてつねに1万人の僧侶がいて、大乗を学び小乗を兼学している。ヴェーダ、医学、数学なども研究していた。建立以来700年になるという。法師は正法蔵すなわち戒賢法師(シーラバドラ)に師事し、『瑜伽師地論』などの大乗経典を始め、小乗、バラモンを学んだ。

6人の皇帝がつぎつぎに隣り合わせに伽藍を建てたものをすべてに門を建て、庭を別々にして内部を八院に分けた。宝台は星のように並び、玉楼はあちこちにそびえ、高大な建物は煙や霞の上に立ち、風雲は戸や窓に生じ、日月は軒端に輝く。その間を緑水がゆるやかに流れ、青蓮が浮かんでいる。ところどころにカニカーラ樹が花咲き、外にはマンゴーの樹林が点綴(てんてつ)している。諸院・僧房はみな四階建で、これらの建物は棟木や梁は七彩の動物文で飾られ、斗栱は五彩、柱は朱塗りでさまざまの彫刻があり、礎石は玉製で文様が美しく刻まれ、甍は日光に輝き、垂木は彩糸に連なっている。インドの伽藍数は無数であるが、このナーランダー寺ほど壮麗崇高なものはない。(7世紀のナーランダー寺の荘厳で色彩豊かな天国のような様子が眼前に広がる)

丸山勇『ブッダの旅』よりナーランダー寺院跡

ラージギル(王舎城)

 四方はみな山で、険しいことはあたかも削ったようである。西に小道を通じ、北方に大門があり、東西に長く南北に狭く、周囲は百五十里あまりである。その中にさらに周囲三十余里の小城がある。カニカーラ樹がところどころに林をなし、いつも花開いて一年中花のないときはなく、葉は金色のように映えている。宮城から東北へ十四、五里ゆくと霊鷲山(グリドウラクータ山)がある。

法師はインド滞在中、南部を含めインド各地を旅し仏跡を訪ねる。小乗仏教、バラモン教、ジャイナ教の僧侶と論争するもその学識に敵うものはなく法師の学識はインド全土に知れ渡り、法師を失うのを惜しむ戒日王は引き止めようとする。中国に仏教経典をもたらすという法師の強い意志は固く、戒日王も承諾せざるを得なくなる。そして往路と逆方向にインド北西のヒンドゥークシュ山脈を越え、その後は北路ではなく天山南路をたどり、玉門関を抜け、645年長安の地を踏む。628年に長安を出て以来18年目のことであった。帰国後の法師は、『大唐西域記』を記すとともに、『瑜伽師地論』、『摂大乗経』、『金剛般若経』、『大般若経』などの経典翻訳に一生をささげ、664年に63歳の生涯を閉じた。 


大乗非仏説

2013-09-08 22:05:53 | 仏教

 1964年の東京オリンピックは徳島で白黒テレビの放映をかじりついて見た。2020年の東京オリンピックは生で見られるかもしれない。今回の招致レースでは、福島の汚染水が問題になったが、汚染水は安倍首相じゃないけど適切な対策でなんとかなる。それより切実で対策が見えない東海東南海地震のことはまったく話題にならなかった。2020年までの準備期間中に東京を巨大地震が襲ったときにどうなるのか、どうするのかという質問はなかった。仮定の話には答えないというわけにはいかないはずだったが、結局、海外のメディアは現前のリスクだけを見て、本当のリスクは見ていないのではないか。

 東京招致のプレゼンは良かった。子供、身障者、被災地、世界中の人々を勇気づけ励ますことがスポーツ本来の姿であり、それがオリンピックの理念であることを示し、東京がそれを確実に実現できるということをそれぞれのプリゼンターが伝えていて素晴らしかった。金はかかるが、昭和の東京オリンピック時の老朽化したインフラを更新するチャンスでもある。滝川クリステルが日本には”おもてなし”の心があると言っていたが、それは大乗仏教の他者への奉仕、援助、救済の伝統が日本に根付いているということなのかもしれない。と、今日の大乗仏教論に強引にもってきた。

日本に深く根付いた大乗仏教だが、江戸時代に富永仲基という人が、「大乗非仏説」なるものを唱えた。大乗仏教である般若心経の空の理論法華経に書かれた教説はブッダ(釈迦=ゴータマ・シッダールタ)の説く阿含経に記された原始仏教と異なるということは、現在では疑いようのない説であるという(「バウッダ佛教」中村元・三枝充悳)。大乗仏教の法華経では本来のブッダを仮の姿の迹仏と呼び神格化したように、仏教はブッダの死後、大きく変容する。思想は、歴史の展開する一過程にあり、それ以前のものの上に加え、しかも正統を装って形成される。これを富永仲基は”加上”と呼ぶ。加上では非主流であった考えは昔に追いやられるため、”古いものほど新しい”(陳舜臣)というようなことが起こる。

しかし、大乗仏教は仏教ではない、非仏なのかというと一概にはそう言い切れないところも少しはあるようだ。それは大乗仏教の教説の中に、ブッダの原始仏教で萌芽している思想の発展形が認められるからである。空の思想につながる思想がブッダの言葉の中に見出されるのである。大乗仏教は北伝し、中国、朝鮮を経て日本へ入ってきて聖徳太子などによって国教になる。

法華経には数知れない仏や菩薩が出てくる。ブッダはその中の一人の釈迦仏にすぎない。本仏は他にいて我々は久遠の大生命の中に抱かれ生かされている。さらに、日本の各宗派を見ると、釈迦仏よりも宗派の宗祖のほうが大切に扱われている。それぞれの宗派では、親鸞、日蓮、道元などの宗祖がお釈迦様より厚く祀られている。寺で詠まれるお経は般若心経や法華経の一節であり、浄土真宗は宗祖親鸞の教行信証である。ブッダの言葉はどこにも出てこない。ブッダが、呪術、呪文、迷信、密法を批判し禁止したように、初期仏教は、透明で、理性的で、倫理的である。ところが後世、大乗仏教の主流を占めた密教はヒンズー教の影響を受け、護摩をたくなど神秘性を帯びた作法を行じ真言(マントラ)を唱え、一種のエクスタシーに浸り功徳を占有するように秘儀的色彩が濃い。

三枝は、大乗仏教は「仏教の名のもとに一大文化を形成している。殊に我が国においては文献学的に明白な誤りでありながら、大乗経典を釈尊に帰してみたり、あるいは仏教以外のものをかなり自由に放埓に、仏教内部に取り込んで、----文学、芸術、芸能に、生活の規範に、祈祷や占いに、日本語の言語そのものに、とりわけ葬祭に、そのいわば美名のもとに濫用される。」と辛辣に批判する。しかし、三枝の批判は宗教をご都合主義で勝手に改ざんする点にあって、滝川クリステルが言った”おもてなし”の心など日本人の精神性に深く浸透し民族の美徳にまで昇華されている大乗文化は、けっして批判されるようなものではないと思うのである。

日本と同じように大乗仏教が伝わった中国では、大乗仏教は単なる外来宗教の一つで、道教などの中国固有の宗教にわずかな影響を与えたに過ぎず、日本ほどは受容されなかった。

宗教とは「神的な力を信じること」、哲学が「人生の叡智を求めること」 とすれば、ブッダは人々を人生の苦から開放する知恵を教えたという点では哲学であり、大乗仏教は諸仏の力や経典の力に頼るという意味で宗教と言える。ここにおいても、大乗非仏説は成立するのである。 

*富永仲基(1715-1746)は、町人思想家で懐徳堂の流れを引いた合理主義・無神論者であった。懐徳堂は大阪商人が開いた学問所で門人に山片蟠桃や大塩平八郎がいる。 


法華経

2013-08-11 13:58:15 | 仏教

 法華経では、ブッダ(シャカ)は仏の仮の姿(応化身)であり、ブッダの教えは方便で真実の仏の教えはほかにあるという。これまでブログに書いてきた聖徳太子最澄宮沢賢治は法華経を根本思想とする。聖徳太子は、「法華義疏」を著し、天台宗は法華経を根本経典とし、賢治は18歳で法華経に心酔しその所為で父親とも諍いした。法華経を読むことで彼らをもっと理解できるようになるのではないかと期待して鎌田茂雄著「法華経を読む」講談社学術文庫を読んでいる。

 法華経原典は「Saddharma Pundarika Sutra」”正しい教えの白蓮のお経”の意で、紀元前1世紀ごろに成立したとされる。有名な鳩摩羅什は400年ごろに漢訳し「妙法蓮華経」と題した。「法華経を読む」を読み進めてはいるのだが難解で一向にはかどらない。解説本の解説をしてもらわないと理解できないような状況にいる。いつになっても読破できそうもないのでとりあえずここまでの理解をまとめておく。法華経は28品から成るが、もっとも重要と言われる「方便品」、「安楽行品」、「寿量品」、「普門品」の4品に賢治が独自の解釈をした「常不軽菩薩品」と冒頭の「序品」を加えた。

序品

「如是我聞、かくのごとく我聞けり」、王舎城の耆闍崛山ギジャクッセン(霊鷲山リョウジュセン)に1200人の僧が仏の説法を聞くために集まった。舎利弗(シャーリプトラ)、目連、阿難(アーナンダ)らブッダの弟子たちや阿羅漢たちである。さらに2000人の声聞や修行中の者の中にはブッダの出家前の夫人であるヤショダラがいる。その周りには8万の文殊菩薩、月光菩薩、観世音菩薩、弥勒菩薩などの菩薩もいる。帝釈天や四天王、八大竜王もいる。阿修羅迦楼羅などの八部衆もいる。俗人で父王ビンビサーラを殺害したアジャセ王も家来を連れて来ている。

方便品

”仏は舎利弗に告げたもう。---”で方便品は始まる。舎利弗(舎利仏)は、ブッダの弟子で長老、智慧第一のシャーリプトラのことで、般若心経の”舎利子”と同じである。ブッダは舎利弗に、仏の智慧は広大深遠で難解であり、悟りを開いた仏だけが諸法実相(ものごとの真実の姿)を理解することができると話しかける。ブッダの弟子で智慧第一の舎利弗でさえ理解することはできないというのである。そこで仏は方便を用いて、弟子たちのレベルに落として説法する。目的は衆生一切を仏の道に導くためである。開示悟入、すなわち仏の真実の道を明らかにし(開)、それを衆生に見せ(示)、衆生に理解させ(悟)、仏の道に入らせる(入)ことが仏がこの世に出現した唯一の目的だというのである。仏道に入ることのできる人は、布施、持戒(戒を守る)、忍辱(にんにく=苦難や迫害に耐える)、精進(修行する)、禅定(心を統一し動じない)、智慧の六波羅蜜を行じることのできる人である。仏に帰依することが大切で、それを合掌と南無仏と唱えることで表現する。次に縁があって仏に出会い説法を聞くだけでは仏道を極めることはできない。最高の教えを記した法華経を読むだけでもだめである。仏の教えを実践することが大切である。

安楽行品

文殊菩薩が仏に修行者の心構えを尋ねる。仏の説く修行法は、身の処し方(忍辱と心を平安にして身を処すこと)、口の利き方(人を批判しない)、心の持ち方(嫉妬しない)と、仏の教え弘めることの4つである。四安楽行を実行すれば夢に如来や観音があらわれ、霊感となり如来や観音と観応することができる。

如来寿量品

仏が80歳で入滅されたのは仮の姿(迹仏)であり、生前は仮の教えを説かれた、すなわち方便だったというのである。本来の仏の寿命は無限で、仏は常住し、真実の教えは別にある。なぜ仏は仮に入滅し真の教えを説かなかったのか。それは衆生側に真の教えを聞く準備ができてなかったからである。だから仏は方便でもって衆生を教化したのである。この品で重要なのは、我々は本来の仏(本仏)の久遠の大生命の中に生かされていると自覚することである。これを自覚するとき人は宗教的安心を得ることができるらしい。

宗教者と無宗教者の違いは、仏や神の神格化された永遠の絶対者の懐に抱かれていると自覚するか否かにあると気づく。

観世音菩薩普門品(観音経)

観音経として独立して信仰される。観音様は世の中の人々の悩みを観て救ってくださる。一心に”南無観世音菩薩”と称名すれば観世音菩薩が現れ一体化することができる。称名し念ずれば7難である火難、水難、風難などの災害や人からの迫害や危害から逃れられる。また心の中の欲望(三毒=性欲、怒り、愚痴)をどう転換するかを教えてくれる。

円仁は唐への渡海中に海が荒れたとき住吉大神にお祈りしているが仏教にもちゃんと災難除けの念仏があるじゃないか。

常不軽菩薩品

常不軽菩薩という人はどんな人間にも仏性があると確信し、深い人間愛を持ってあらゆる人を礼拝した。そうすることで人々に自分も仏になれるという自覚を促したのである。どんなに遠くにいる人のところへも出かけていって礼拝したという。人に笑われても、罵られても、石をぶつけられても、杖で叩かれても、黙って耐え弁解しない。日蓮上人は幾多の迫害に耐え法華経の教えを弘めたのはその迫害者がいずれ仏の信奉者となることを確信していたからだという。

ここまで書くと常不軽菩薩が賢治の「雨ニモ負ケズ」の私に重なることに気づく。

法華経のブッダは、原始仏教の生身の人間であるブッダとはまったく異なり神格化されている。法華経では生身のブッダは迹仏(仮の姿)だったという。人生訓や人生哲学だったブッダの教えは法華経で宗教になったのである。


法顕

2013-04-07 18:33:39 | 仏教

法顕は399年数人の仲間とともに長安を発ち、西域を経由してインドへの求法の旅に出る。西域ではブッダも実践していた雨安居(雨期の一定期間一カ所に留まって修行すること)のため旅の中断を入れながら、タクラマカン砂漠を横断しパミールの山岳地帯を超え、403年にやっとの思いでインドへ到達する。その間、仲間は死亡したり中国へ引き返したりと次々と脱落していく。上の行路図は「中国文明の歴史4 分裂の時代-魏晋南北朝」から転載した。

法顕が訪れたときのインドは、マガダ国から興ったグプタ王朝(紀元320~550年)がインド全土を統一し、チャンドラグプタ2世の時代だった。ブッダの後、紀元前300年頃にマガダ国の首都をラージギルからガンジス川沿いのパータリプトラに都を移しマウリア王朝(紀元前317頃~紀元前180年頃)を開いたのもチャンドラグプタという名の王で、その3代目が有名なアショカ王(紀元前268頃~232年頃)である。アショカ王以降マウリア王朝は衰退する。紀元1世紀から3世紀にかけてクシャナ朝が起こり有名なカニシカ王がでる。カニシカ王は仏教を厚く保護しガンダーラ美術などの仏教美術が栄える。

法顕が見た紀元400年頃のインドは以下のようだった。

祇園精舎

祇園精舎のあったかつてのコーサラ国の都シュラーヴァスティに昔の面影はなく、戸数200余のわびしいところだった。法顕は祇園精舎でありし日のブッダを偲んだ。

カピラヴァストゥ

ブッダであるゴータマ・シッダールタの属するシャカ族の首都カピラヴァストゥは廃墟と化しブッダ誕生の地ルンビニーも荒れ果てて訪れる人もいない。ブッダの遺骨を当時の八大国にわけて仏舎利に納めたが、アショカ王はそれをさらに八万四千に分骨する。ただし、ここの仏舎利塔はそのまま残したので法顕が訪れた時も残っていた。

クシナガラ

クシナガラには仏滅を記念する塔が建っていた。そこからブッダが自身の死期を悟ったヴァイシャーリを訪ねる。法顕はクシナガラからブッダ最後の旅を逆回りする。

パータリプトラ

ガンジス川を渡ってマガダ国最大の都市パータリプトラにつく。ゴータマの渡しを逆に渡ったことになる。かつてのアショカ王の首都である。法顕が見たものは以下のような風景だった。立派な宮殿が残り、市民は富栄えている。毎年2月8日に行像(ブッダ像を乗せて練り歩くこと)があり、当日はみなが集まって供養する。富裕者は貧困者や病人に施しをする。都城にはアショカ王が建てた八万四千塔のうちの最初の大塔や周囲一丈五尺、高さ三丈余りの石柱がある。行像とは灌仏会(Vesak Day)のことである。

ラージギル

法顕はラージギルからブッダが座禅した霊鷲山(耆闍崛山ぎじゃくつせん)に登り香華をたむけ、”仏、昔ここに住して首楞厳(しゅりょうごん)を説きたもう。法顕はこの世に生まれて仏にあうことができず、ただ遺跡の諸所を見るのみ。”と慨嘆する。そして石窟前で首楞厳をとなえ一夜を明かす。首楞厳とは弟子が菩提(悟りや智慧)をすみやかに得る法や魔境を遠離する法を尋ねたことにブッダが答えたものである。ブッダも悟りを開く直前の瞑想中に魔境を見た。

その他竹林精舎や鹿野苑などのブッダゆかりの地を巡ったあと法顕はパータリプトラに戻り、そこに405~407年までの3年間留まり梵語を学び経典を集め経や律を筆写する。

法顕はその後ベンガルのタマリッティ国(多摩梨帝国)で2年、セイロン島(師子国)で2年を過ごしさらに多くの経典を集める。411年法顕はスリランカを出港し、バラモン教が盛んな耶婆提国(ジャワ、パレンバン、ジャンビ、ボルネオ?など異説有)を経由し412年に中国の山東省に辿りつく。上の地図ではスリランカからニコバル諸島を経由し、マラッカ海峡を通り山東省の牢山に着いているが、法顕の航路についてはいろいろな研究があり、嵐でアメリカ大陸まで流されたという説さえ存在する。法顕が訪れた5世紀初めにシュリービジャヤ室利仏逝しつりぶっせい)はまだ建国していなかったと思われる。玄奘は法顕の約200年後の629年に中国を出て645年に数々の経典を長安に持ち帰ったが行きも帰りも陸路であった。法顕や玄奘にあこがれインドに行き「大唐西域求法高僧伝」を書いた義浄は671年に海路でインドへ渡り帰路も海路で695年に中国へ戻った。高丘親王(または高岳親王)が天竺(インド)をめざし道半ばで羅越国(マレーシアのジョホール)で薨去したのは9世紀のことである。


神秘体験

2013-03-25 02:16:05 | 仏教

Life of Pi"の巻で、「宗教上の神秘体験が真実なのか虚構なのかということは、その宗教の信者の中では成立しないと思う。復活したキリストを見たと言えばそれは真実なのである。空海は生きていると言えば真言宗徒にとってはそれが真実なのである。ブッダは悟りを得る前に多くの神秘体験をする。個人が遭遇した神秘体験も同じで、それが真実か虚構かを他人が判定することなどできないと思う。例えば、”漂流中に全宇宙を見る神秘体験をした”という話と、”漂流中は飢餓と渇きで意識がもうろうとして何も覚えていない”という話はどちらも真実であって不思議はないし、個人的な体験をもとにしている以上それを証明する方法はない。科学的な裏付けや実証がなければそれは真実ではないとするなら、個人的体験の多くは真実でなくなってしまうだろう。」と書いた。このブログで過去に紹介した神秘体験を拾ってみた。

  1. 空海は24歳のとき室戸岬で口の中に明星が入る神秘体験をしたのをきっかけに空海と名乗り悟りを開いたとされる。
  2. 親鸞は京都の六角堂での修行中に救世観音に化身した聖徳太子に会いお告げを受け、専心念仏の道に入る。
  3. 黒沢明の「」、Christmas CarolMidnight in Parisなども神秘体験である。
  4. 西行は讃岐の白峰陵で崇徳院の怨霊に会う。白洲正子は西行と同じ場所で「白峯には「思いなしか、このあたりには陰鬱な空気が立ち込めており、木にも草にも、崇徳院の”御霊”が息づいているような気配がある。」と述べている。
  5. 香山リカの「スピリチュアルにはまる人、はまらない人」にいろいろな神秘体験が紹介されている。
  6. 心と物の融合を目指した南方熊楠の南方マンダラも夢想と現実の境界を超えた考え方である。
  7. 今読んでいる「イエズス会」のイグナチウス・ロヨラはモンマルトルの洞窟の中で黙想中にイエス・キリストの姿を見るという神秘体験をし、それがきっかけでキリストの苦しみをともにし宣教活動をする意思を固めた。イエズス会員は世界中で宣教を開始する。

人の神秘体験はいろいろと聞かされたが、残念ながら自分自身に神秘体験がない。神秘体験をするときは、何かの宗教に足を踏み入れているか、棺桶に片足を突っこんだときだと思う。