備忘録として

タイトルのまま

城南

2011-03-27 11:39:12 | 徳島

 城南高校硬式野球部が甲子園に出場し、しかも甲子園出場常連校で地元の報徳学園に勝ち、懐かしい校歌を2度も聞くことができた。ユニフォームの肩にあしらわれた松柏の校章も懐かしい。試合を見ながら久しぶりに熱くなった。

テレビ中継でアナウンサーが、硬式野球部はサッカー部と同じグラウンドで練習していると紹介していた。私の在学した昭和46年~48年は、サッカーフィールドが2面取れる広さのある運動場を、ラグビー部、サッカー部、硬式野球部が下のGoogle Map(北が上)のようにすみ分けていた。校舎とグラウンドの配置は当時のままで、体育館とプールがなくなっている。体育館は西側(?)の位置に移ったのだろうか。図書館を兼ねた武道館も記憶では正方形の建物だったので当時のままなのかわからない。初めて黒沢映画「七人の侍」を見たのがこの武道館である。写真では野球の内野部分が黒っぽくなっているが、当時は野球部の影が薄くサッカー部のほうが幅を利かせていたので内野はないし、ましてピッチャーマウンドもなかった。

 当時の硬式野球部には素質のある選手が多く、プロゴルファー尾崎3兄弟の次兄で剛速球投手と評判だった健夫の海南高校から10点近く点を取るほど打線はよかった。しかし、ピッチャーがノーコンでその倍ぐらいの点を取られて早々と負けていたことを記憶している。徳島は野球王国で、徳島商業、鳴門高校、鳴門商業、海南高校など甲子園で有名な学校が目白押しであり、練習量の少ない城南高校は素質だけではどうにもならない状況だった。池田高校が有名になるのは卒業後のことである。徳島県の甲子園出場校は、すべて公立高校で野球留学とは無縁である。そもそも徳島には私立高校があまりないのである。

 野球部が肩身狭くグラウンドを使っていたのに比べ、ラグビー部は西のフィールド全面を我が物顔に使っていた。私の頃のラグビー部は、県の第2代表として四国大会に出場し、ひとつ下は花園の全国大会に出場した。ラグビーは徳島ではマイナースポーツで、鬼のK監督のもとで結構ハードな練習をしていたので、県でも上位にいることが可能だったのである。徳島商業や徳島工業のラグビー部には硬式クズレという硬式野球でレギュラーになれなかった身体能力の高い選手が必ずいたように、徳島のラグビーは野球のお下がり的なスポーツだった。二学年下の弟はサッカー部だったが戦績に語るほどのものはないはずだ。また、陸上部は人数も少なく運動場の隅で細々と練習をしていた。

 城南は30日(水)に鹿児島実業と2回戦を戦うが、仕事に身が入るか心配だ。


3月11日14時46分

2011-03-26 09:47:34 | 仙台

そのとき地下鉄半蔵門線に乗っていた。電車が急停車し、その後、車体が左右に大きくゆっくりと揺れた。長い揺れが収まって時間をみると14時49分だった。三陸沖からの地震波到達時間を考えても2分余り揺れていただろうか。電車は最寄の清澄白河駅まで徐行したあと運行停止となり駅の外に追い出された。清澄白河駅から錦糸町まで歩いたが、その間も余震は断続し周囲のビルや電柱が大きく揺れた。余震での地表の揺れは大きく、地下鉄内での揺れの方が小さかったように感じた。ビル上階の揺れは相当なものだったらしい。錦糸町までの道中、水道管が破裂したのか水が噴き出すビルや外壁のタイルがはがれたビルや棚のものが落ちて店内がめちゃくちゃになった店舗があった。三陸沖でM8級の大きな地震があったということと津波で相当な被害が出ていることがわかってきたので、仙台の妻の実家と友人の携帯に電話したが通じずメールを入れておいた。妻の実家は仙台市泉区の高台にあり津波の心配はなかったが友人は津波被害の大きい相馬で勤務している。友人から返事が返ってきたのは翌日だった。相馬の勤務先は高台に立つ8階建てのビルで津波には遇わなかったが仙台まで海岸沿いを避け5時間かけて車で帰ったということだった。仙台の実家から無事という連絡が入ったのは二日後で、家の中のものはひっくり返り電気水道ガスは全滅ということだった。

 当日は電車が止まったため、錦糸町から自宅まで約3時間をかけて歩いた。20時過ぎに荒川にかかる西新井大橋を渡っていた、ちょうどそのとき津波に遭遇した。”ざぁ~”という大きな音で欄干から川を覗き込むと、暗闇の中を白波が一列になって遡上するのが見えた。

妻は1978年の宮城県沖地震(M7.9)を経験している。勤務先にいた妻は震度5の揺れに立っていられなかったという。結婚前のことで、私は妻に会うため前日まで仙台にいたが、その日は東京に戻っていた。まだ携帯がない時代で、公衆電話から何度も妻の実家に電話をしたがつながらなかったことを思い出す。この地震では無筋のブロック塀が倒れて犠牲者が出たことと八木山の造成団地の切り盛り境界が崩壊したことが問題になった。津波被害はなかったと思う。

 地震発生から2週間経ったが、被害規模は拡大を続け、原発と放射能汚染は深刻さを増している。この間にシンガポール出張が入り、3月16日の成田空港までの電車は余震で2度緊急停車をし、通常1時間半の道のりが3時間近くを要した。成田空港は国外に避難する外国人でごった返し、手荷物検査には長蛇の列ができ、通関までに1時間以上かかった。シンガポールの新聞ストレートタイムズは日本の災害記事で埋め尽くされていた。最大の関心事は放射能で、福島原発で事故処理にあたる50人を称賛する記事やシンガポールは十分遠いので放射能が拡散してくることはないという記事やシンガポールの食料や水は安全だという記事が目を引いた。中国発の放射能に塩が有効だというデマが流布した所為でスーパーマーケットの塩が無くなっていた。帰国は21日だったが行きとは違い機内はがらがらだった。

 機中映画は、津波の場面があるため被害者感情に配慮し上映が延期(中止?)されたクリント・イーストウッド監督の「Hereafter」2010を観た。津波に巻き込まれ臨死体験をしたフランスのニュースキャスターの女、霊と交信できることが負担となり厭世的に生きるアメリカの男、双子の兄を亡くし立ち直れないイギリスの男の子の話が別々に進行するが、最後は偶然に出会った3人がそれぞれ癒される。ニュースキャスターが自分の体験を出版するため、スイスのホスピスの女医(セラピスト?)から資料を借りる場面が出てくるが、明らかに「死の瞬間」の著者キューブラー・ロスをモデルにしている。マット・デイモンが死んだ双子の兄の言葉を借りて弟をさとす場面はぐっとくる。最愛の人を亡くした喪失感はあまりに大きいが残されたものは前を向いて生きるしかない。この映画は上映すべきだと思う。出演:マット・デイモン、セシル・ド・フランス ★★★★★

「奇蹟の輝き」1998 監督:ビンセント・ウォード、出演:ロビン・ウィリアムズ、アナベラ・シオラ 次々と襲ってくる家族の置かれた状況は痛ましく天国で再会しても救われた気持ちにはならなかった。ダンテの「神曲」のように天国と地獄を見せることが目的の映画なのか?★★☆☆☆

「ハリーポッター死の秘宝Part1」も観たが、Part2を観る頃には忘れてると思う。Part2を観てから併せて寸評することにする。

地震の前にアカデミー賞を取った「King’s Speech」を映画館で観た。その映画館は地震で被害を受けたらしく2週間たった今も閉鎖中である。被災地の宮古市の映画館が開演したというのにどうしたんだろう。第5グループはなぜか輪番回数が多いという計画停電の所為かも。

「King's Speech」2010、監督:トム・フーバー、出演:コリン・ファース、ヘレナ・ボナム・カーター、ジェフリー・ラッシュ 吃音のジョージ6世とそれを矯正しようとする先生の話。最後は素晴らしいスピーチで締めくくること、しかもイギリス人には馴染の既知のスピーチをすることなど、映画を観る前から結末がわかっているにもかかわらず、スピーチで観客を感動させたコリン・ファースがオスカーを取ったのは妥当と思う。ジョージ6世を懇親的に支える王女役のヘレナ・ボナム・カーターは、ハリーポッターでシリウスを殺す憎たらしい魔女ベラトリックスを演じており、プロの女優の演技はすごい。★★★★☆


眉の如

2011-03-05 12:25:04 | 徳島

城南高校硬式野球部が21世紀枠で甲子園に出場することになった。母が徳新(徳島新聞)のOB投稿記事を送ってくれた。

 

正直、OBの微妙な気持ちを代弁している。硬式野球部の同級生には悪いが私のころの硬式野球部も同じで甲子園など夢の夢だった。徳島では、昭和48年頃から総合選抜という徳島市内の普通科高校の平準化制度が導入され、旧徳島中学から城南高校へ引き継がれた1校エリート主義が廃止される。

眉の如 雲居に見ゆる阿波の山かけて漕ぐ船 泊知らずも     (巻6-998)

は、阿波の沖を船で通ったときに船王が詠んだ万葉歌である。眉山は周辺の学校の校歌には必ず盛り込まれていて、城南高校の校歌にも謡われている。でも、城南からの眉山は近すぎて”眉の如”くは見えない。城南からは尾根の一つが孤峰に見え、そこから右手に向かって長く裾野を伸ばすので城南生は”城南富士”と呼んでいる。

紀伊水道から見た眉山がほんとうに”眉の如”見えるかどうかGoogle Earthで側面から立体視してみた。
紀伊水道よりGoogle眉山 
吉野川北岸よりGoogle眉山

紀伊水道から見る眉山は、眉に見えないこともないが、自分としては見慣れた吉野川からの眉山のほうが眉に見える。Googleは、これ以上、地面すれすれに立体視はできなかったが、吉野川からの眉山の形状は下の実写とほとんど同じなのがわかる。撮影場所は四国三郎橋のすこし東の吉野川北岸である。高松から高徳線で帰省すると吉野川にさしかかるあたりで、車窓から”眉の如 雲居”に眉山が見え始めると、”ああ、故郷だ!”という実感がわいてくる。眉の左端にロープウェイがかかり、城南はその陰にある。

吉野川北岸より実写眉山、すぐ右手が四国三郎橋

徳島ラーメンなるものが名物になっているが、そもそも10年あるいはそれ以前に徳島ラーメンなどというものはなかった。子供のころ食べた南新町の”上海”のラーメンや高校時代よく行った大道の”夜明け”の支那そばや東新町の”一福”のラーメンはおいしかった。高校のとき同級の猛者は”夜明け”からこっそり教室までラーメンの出前をとっていた。”上海”ははるか昔に閉店し、代替わりした”夜明け”は味がかわった。”一福”は最近行ってないのでどうなったかわからない。”山京”のラーメン(下の写真)は濃厚でうまいが、かつて食べた徳島のラーメンはトンコツかトリガラダシで今ほど濃くてしょっぱくはなく生卵もなかったがもっとうまかった。