備忘録として

タイトルのまま

ワタリガラス

2013-05-24 13:17:00 | 

 先日カナダのブリティッシュ・コロンビア州バンクーバーへ行った。空港に着くといきなり先住民のトーテムポールが目に飛び込んできた。

カナダでは先住民を意味するAboriginal Peopleは、First Nationsと呼ぶのが一般的で、馴染のインディアンという言葉はインド系移民が多くなったこともあり今では使われなくなっているという。観光地や博物館で様々なトーテムポール(Totem Pole)を見た。北米先住民は、動物を守護霊とした部族(clan=氏族)に分かれている。守護霊がトーテム(totem)で、ソクラテスや映画「ライラの冒険」に出てきたダイモンの部族版のようなものである。トーテムポールに宗教的な意味はなく、所有者の属する氏族の守護動物と先祖に関わる伝説などを表現しているという。

左:UBCのMuseum of Anthropology(MOA=人類学博物館)に再現されたFirst Nationsの村 右:Victoriaの博物館

どちらの博物館も日本と違い館内での写真撮影は自由だった。

トーテムポールの守護動物の中に日本ではあまり馴染のないワタリガラス(Raven)がいる。ワタリガラスはカラスの中の大型種で日本の小型種Crowとは区別される。

左:MOAにあったワタリガラスを頂くトーテムポール    右:First nationsの神話でワタリガラスが貝殻から人間を生み出す場面を表現した彫刻

ワタリガラスを霊的、神秘的な存在としてとらえるのは、カナダ先住民だけでなく、西洋人も同じようで、映画「ホビット思いがけない冒険」では、ドワーフたちが故郷を取り戻す旅に出ることを決めた理由に、”Ravenが戻った(?)”という予兆を述べる場面があった。また、イギリスのロンドン塔はワタリガラスを守り神として飼っているという。”ワタリガラスがロンドン塔からいなくなると英国は滅びる”と言い伝えられているからだという。以下に、夏目漱石の「倫敦塔」(青空文庫)から漱石が塔に巣食うワタリガラスを見た個所を抜き出した。

烏が一疋いっぴき下りている。翼つばさをすくめて黒い嘴くちばしをとがらせて人を見る。百年碧血へきけつの恨うらみが凝こって化鳥けちょうの姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。吹く風に楡にれの木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来たか分らぬ。傍そばに七つばかりの男の子を連れた若い女が立って烏を眺ながめている。希臘風ギリシャふうの鼻と、珠たま溶といたようにうるわしい目と、真白な頸筋くびすじを形づくる曲線のうねりとが少からず余の心を動かした。小供は女を見上げて「鴉からすが、鴉が」と珍らしそうに云う。それから「鴉が寒さむそうだから、麺麭パンをやりたい」とねだる。女は静かに「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」と云う。小供は「なぜ」と聞く。女は長い睫まつげの奥に漾ただようているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何か独ひとりで考えているかと思わるるくらい澄すましている。余はこの女とこの鴉の間に何か不思議の因縁いんねんでもありはせぬかと疑った。彼は鴉の気分をわが事のごとくに云い、三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する。あやしき女を見捨てて余は独りボーシャン塔に入いる。(中略)

主人に今日は塔を見物して来たと話したら、主人が鴉からすが五羽いたでしょうと云う。おやこの主人もあの女の親類かなと内心大おおいに驚ろくと主人は笑いながら「あれは奉納の鴉です。昔しからあすこに飼っているので、一羽でも数が不足すると、すぐあとをこしらえます、それだからあの鴉はいつでも五羽に限っています」と手もなく説明する

漱石が”百年碧血の恨みが凝って化鳥の姿となって長くこの不吉な地を守る”と記すように、日本ではカラスを不吉で狡猾とするイメージがある。ところが、ずっと古には神武天皇が大和へ攻め入るときに先導となった八咫烏(ヤタガラス)に代表されるようにカラスは幸運の鳥だったのである。 徳島の眉山の神武天皇像に止まっているのは黄金の鳶(トビ)で八咫烏と同一視または混同されるらしい。八咫烏は拡げた手のひら幅(咫)の八つ分だから相当大きいのでワタリガラスだったかもしれない。アメリカNFLにはRavensというチームがあるように、西洋のカラスは強く賢いというイメージがあるのだが、日本のカラスはいつ頃から嫌われる鳥になったのだろうか。

 星野道夫はエッセー「長い旅の途上」で夕暮れのUBC人類学博物館にたたずみ、”アサバスカンインディアン(アラスカに分布)からエスキモーにまでワタリガラスの神話があるのはなぜだろうか。人々はワタリガラスの神話を抱きながら、アジアから新大陸へ渡って来たのではないか。”と、モンゴロイドのGreat Journeyに思いを馳せた。星野はその後、ワタリガラスをクランとするボブという先住民とワタリガラスを捜す旅をするのである。しかし、その顛末を星野が書き残したかどうかは定かでない。ビクトリア博物館には地元のマンモスの剥製が展示されていてマンモスもシベリアからベーリング海峡を渡りGreat Journeyをしたのかもしれない。

 今日5月24日、シンガポールはVesak Dayの休日である。現在シンガポールは雨模様のため気温は26度と幾分控えめである。バンクーバーは寒く日中の気温は15度前後で夜は5度近くまで冷え込んだためシャツを幾重にも着重ねていた。バンクーバーの町は緑が多く、八重桜、つつじ(さつき?)、椿、あじさいなど不思議なことに初春から初夏の花が一斉に花開いていた。北海道の6月がこんな感じだと聞いた。シンガポールがGarden Cityと呼ばれるなら、バンクーバーもGarden Cityと呼ぶ値打ちがある。シンガポールにはない四季があるため、春は花、秋は紅葉、冬は雪景色が街を彩ることを想像すると、世界で最も住みやすい街という評価にも納得できる。

上2枚はUBCキャンパス内、下はビクトリア州議事堂前と街中の花飾り


Kiasu

2013-05-05 10:20:25 | 東南アジア

 シンガポールリクレーションクラブから夜景を撮った。手前の真っ暗な部分はシンガポールクリケットクラブのグラウンドで、高層ビル群を背景にひときわ明るい低層の建物がそのクラブハウスである。クリケットクラブのWeb-siteによるとクラブ設立は1852年、クラブハウスは1882年に建てられている。下の写真はある日曜日に別の方角から撮ったクリケットクラブのPadangと呼ばれる芝の広場で会員がクリケットをしている。2機のクレーンが立つ建物は修理中のCity Hall、右の尖塔はSt.Andrews Cathedralである。クリケットクラブ周辺には、他に国会議事堂、ビクトリアホール、Esplanade(オペラハウス)の建つシンガポールの中心である。ラッフルズが初めて上陸した地で彼の銅像も近くに建つ。

 下の写真は、都市開発局(URA)にある模型を撮ったものである。クリケットクラブの広場は写真中央少し上に見える。夜景の写真とは正反対の上空から撮ったことになる。Marina Bay Sandsの前のハスもきれいに再現されている。赤線はF1のコースを示す。青い部分は川と湾で、左からハスの面する湾に流れ込むのがシンガポールリバー、右上の橋をくぐって右に向かって流れるのがカランリバーである。ハスの右手Sandsの立つ地面は30年ほど前に埋立られた土地で、埋立以前には中央の湾は、大きくシンガポール海峡に向って開かれていた。ラッフルが初めてシンガポールに上陸したのもこの地である。今この湾は堰で締め切られ、淡水化され貯水池になっている。シンガポールは毎年地下鉄路線が延長されていて、数年で東京の地下鉄総延長を追い抜く。シンガポールの発展は著しく国民も国も豊かで平均国民所得は日本を超えたと言われる。

 さて本題に入ろう。CNN記事によると、昨年末アメリカのギャラップ社が世界148カ国を対象に国民の日常生活の幸福度を調べたところ、最下位はシンガポールという結果になったという。調査方法は簡単で、国民1000人に、前日の生活で「十分休めたか」、「何か面白いことがあったり興味を持てたことがあったか」、「たくさん笑ったか」、「敬意を持って接しられたか」など5項目をYes, Noで答えてもらうものである。

年間所得が7万5千ドル(630万円--今のレートなら700万円)を超えると幸福度に差が出ないという米国のエコノミストの見解も紹介されていた。日本国民は幸福度が高いほうに入ったらしいが、シンガポールは国民所得が日本を超えているにもかかわらず最下位である。そうだとすれば所得と日常の幸福度には関係がないことになる。あるいは平均所得が7万5千ドル以下での所得差は幸福度には関係ないということかもしれない。

 シンガポールには「Kiasu、キアス」という言葉がある。中国の方言・福建語がシングリッシュ(シンガポール訛りの英語)になったもので、”人を出し抜いてでも人に先んじる”の意で、シンガポール人の気質を表していると言われている。日常の些細なことでも負けたくないのである。譲歩することは美徳ではない。シンガポールでは個人だけでなく社会全体が競争している。学校では小学校4年生で全国一斉試験があり学力の選別が行われる。中等教育では上位10%が選別されエリートコースを歩む事が約束される。その他90%は公営住宅であるHDBに住む普通の人生が待っているのである。国民だけでなくシンガポール政府も先進国レースに勝ち抜かなければならないと国民を鼓舞する。政府もKiasuなのである。人間も社会も国家もいつも1番でなければ気がすまないとすれば、幸福感など決して得られない。それに1番は1番で、いつか追い抜かれはしないかと不安になる。このようにシンガポールは国民気質、学校教育制度、政府など社会の仕組みすべてが国民の幸福度を低くするようにできているのである。幸福度調査の話を会社のシンガポール人にしたところ、まったくそのとおりだと納得していた。

 最後に、幸福度の質問を自分に問うてみた。5つ目の質問はCNN記事にはなかったので4つの質問に答えてみた。「十分休めたか」+「Yes、24時に寝て土曜日9時に起きた」、「何か面白いことがあったり興味を持てたことがあったか」+「Yes、俊寛の小説を3つ読んでネットでたっぷり調べた」、「たくさん笑ったか」+「Yes、NHKの”あまちゃん”でたっぷり笑った」、「敬意を持って接しられたか」+「No、家に籠っていたので人に会わなかった」。Yes率は75%になったので悪くない。


俊寛

2013-05-04 18:18:21 | 中世

シュリーマンが日本を訪れたときに通過した”Iwogasima” (その1その2その3)のことを調べていたときに、俊寛が喜界島(薩摩硫黄島)に流されたことを知った。俊寛は後白河法皇の側近で清盛ら平家を覆そうとする鹿ケ谷の陰謀に加担し、陰謀が露見して流罪になる。平家物語には”鹿の谷”と”足摺”の巻があり、鹿ケ谷の陰謀と喜界島に流された俊寛のことが語られる。

平家物語「鹿の谷」と「足摺」の概要

鹿の谷にある俊寛の山荘に、成経らは何度も集まり平家滅亡の陰謀を練っていた。山荘には後白河法皇も足を運んだこともあった。しかし、事は露見し、陰謀に加わった俊寛、藤原成経、平康頼の3人は喜界島に流される。

流罪になって何年か後、都より赦免状を持った使者・基康が喜界島に来る。しかし赦免状に成経、康頼の二人の名はあったが俊寛の名はなかった。成経、康頼を乗せた船に俊寛は取りすがり、自分もせめて九州まででも連れて行ってくれと懇願するが、船は無情にも島を離れて行く。

平家物語をもとにした俊寛の話は、その後脚色されて能、歌舞伎、人形浄瑠璃、小説、戯曲で取り上げられた。特に島に残される俊寛の心情についてそれぞれの作品が異なる描写をしている。鹿ケ谷の陰謀が1177年、喜界島に赦免の使者が来るのが配流の翌年の1178年、俊寛の下人の有王が島を訪れ俊寛が自害したのが1179年とされる。

能「俊寛」

平家物語同様、ひとり赦免状が出されなかった俊寛は、他の二人を乗せて島を離れる船にとりすがるが、無情にも打ち捨てられ、渚でうずくまり泣き叫ぶ。二人は「都へ帰れる日は来る。心をしっかりと」と俊寛に声をかけるが、その声も遠ざかり船影も消えてしまう。

歌舞伎「俊寛」・人形浄瑠璃「平家女護島」

使者の持ってきた赦免状に自分の名前がなく俊寛は絶望するが、追いかけてきた別の使者が俊寛の赦免状をもたらし俊寛は一転安堵する。成経の島での妻・千鳥は自分もつれていってくれと使者に頼むが、赦免状には3人しか連れ出せないと書いてあるとして使者は千鳥の懇願を取り合わない。俊寛は、都に残した妻が清盛に殺されたことを知り都で妻と暮らす夢を失くしてしまったため、自分の代わりに千鳥を船に乗せる。しかし、いざ船が動き出すと俊寛は孤独感にさいなまれ船に取りすがる。打ち捨てられた俊寛は岩山に登り島を離れる船に向って声をかけ続ける。船影がみえなくなると絶叫とともに幕がおりる。

先日亡くなった中村勘三郎が2011年10月島で野外歌舞伎「俊寛」を上演した。

芥川龍之介「俊寛」

島に残された俊寛は悠々と島で生活をしていて、赦免状の使者が来た時のことを後日尋ねてきた下人の有王に語る。都では琵琶法師が自分の悲哀を大げさに語っているようだが、赦免状に自分の名前がなかったとき自分は冷静で、なぜ自分だけが赦免されないかその理由を考えていたという。そのとき島で一子をもうけていた成経は、女房と子が自分たちも連れていってくれと船にすがるのに、無情にも無視する。憤慨した俊寛は船に向って罵詈雑言を浴びせ、船に向かって返せ返せと呼びかけたというのである。琵琶法師が語る俊寛と真相は違うという話。

菊池寛「俊寛」

島に残された俊寛の後日談。島に残された俊寛は、最初は自分の不遇を嘆き悲しみ自殺まで考える。ところが、都の衣服を脱ぎ捨て、生きるために漁をし畑作を始めるようになると、煩悩が去り身体も精神もタフに変化してきて、島が浄土のように思えてくる。いつしか都のことを忘れ島の娘と結婚し子をもうける。後日、平家も滅び都へ帰ることも可能になったと下人だった有王が告げに島を訪れたとき、別人になっていた俊寛は有王に向かって自分は死んだことにしてくれと言う。

倉田百三「俊寛」

登場人物4人の戯曲。使者の船が来る前の場面で、俊寛、成経、康頼の3人が登場し、俊寛は他の二人をなじるなど都を偲ぶ心が強く精神が病み始めている。彼を落ち着かせるため成経と康頼は船が来ても俊寛一人を置いて都に帰ることはしないと誓う。やがて船が来て使者の赦免状に俊寛の名がないことがわかる。二人は以前の誓いを反故にし俊寛を置いて島を出る。残された俊寛は恨みと絶望の中、島で餓鬼のような生活を送る。そこに下人だった有王が訪れ、俊寛の妻や子がすでに死んだことを告げる。それを聞いた俊寛は、自分を島流しにした清盛とその一族を呪うため、自分に怨霊がとりつくことを願いながら岩に頭を打ちつけ自死する。有王は俊寛の亡骸を抱いて崖から身を投げる。

芥川龍之介・菊池寛、倉田百三の作品は青空文庫で読める。