備忘録として

タイトルのまま

KLIA

2010-06-26 13:34:06 | 東南アジア
 今朝、夜行でシンガポール、マレーシアの出張から帰ってきた。シンガポールではケーブルテレビのない郊外の安宿(といっても1泊1万円は超えている)だったのでWorld Cupは見られなかったが、行程上うまく24日はクアラルンプール泊だったので日本-デンマーク戦を観戦できた。本田と遠藤のフリーキックが決まった時は、のど元まできた歓声を飲み込んで”一人ガッツポーズ”をしてしまった。大会前のチーム状態の悪さから、世間様と同じく日本チームにはまったく期待していなかった。大会直前のコートジボアール戦のあと岡田監督が”使える選手の見極めができた”と言ったときも何を今さらと思った。本大会ぶっつけ本番で、阿部、長谷部、遠藤がDFとFWのバランスを取る戦法にがらっと変えて2勝したのだから、監督采配の勝利なのだと思う。
 
 写真は昨晩、チャンギ空港でブラジル-ポルトガル戦を見るフライト待ちの群衆

 クアラルンプール国際空港(KLIA)に、下の写真のジャングルトラッキングゾーンができていた。以前ここは、明かりとりのためのガラス張りの円形中庭で樹木をガラス越しに見るだけだったのだが、人工の滝と小路を作りフライト待ちの客を入れ、猿や鳥の鳴き声を流しジャングルの雰囲気を作っていた。箱庭ほどの小さなジャングルなのだけれどミニジャングルトラッキングを味わうことができる素晴らしいアイデアなのである。


 KLIAは、陽光をふんだんに取り入れた明るい空港で、ただ豪華で広いだけのチャンギ空港よりも個性があり、個人的にはチャンギ空港よりも好きである。ただ、空港運営のソフト面であるスタッフとサービスの質でチャンギ空港に大きく水をあけられている。戦後、同時にイギリスから独立して国造りをスタートしながら国の発展においてシンガポールに差をつけられたマレーシアの根本的な問題が、せっかくの黒川紀章の素晴らしい設計を活かせないところにも現われているのである。マレーシアドルは以前シンガポールドルに対し、1:1だったが、30年で今の1:3の価値になってしまった。この数字の差が両国の発展の差を表しているといっても過言ではないと思う。それはマレーシアが未だにマレー人優遇政策を放棄できないことに深く関係しているのである。
 過保護は人をスポイルする、岡田監督のように俊輔を外すような非情な采配が必要、と言ってみたところで、すでに成人しているMy Childrenは「甘いアンタには無理」と言うのだろうな。

張良、字は子房

2010-06-20 00:13:09 | 中国
 漢の高祖・劉邦の軍師だった張良を語らずして史記は語れない。史記本紀の帝王や史記世家の王に仕えて功績のあった軍師や宰相は数多いるけれど、秦末の漢楚の戦いにおける軍略と漢王朝初期の政略に発揮した張良の才能は群を抜く。劉邦に従った重臣の多くが失脚する中、権謀渦巻く宮廷において張良は身の処し方を過たず人生を全うした。後年三国志の諸葛孔明は戦場よりも政治の場の才能が優っていたと言われるが、張良は軍略政略双方において抜群なのである。
 
 司馬遷は太史公自序において張良を以下のように称賛する。
“計りごとを本営の中でめぐらし、勝利を無形のうちに決定する。子房(張良)は敵に勝つ策略を立てたが、智者としての名声もなく、武勇による勲功もなく、困難な事を容易な事から考えていき、大きな事を小さな事から行なっていった。留侯世家第二十五を作る―――太史公自序”
青色部の原文は「図難於易、為大於細」で老子のことば

 張良は韓の相の家系に生まれ、韓が秦に滅ばされたあとは復讐のため刺客を雇い始皇帝を付け狙った。劉邦と出会ったあとは軍師として様々な策略を練り項羽との漢楚の戦いを勝ち抜き劉邦に天下をもたらした。劉邦は自分が天下を取り項羽が天下を失った理由として、「策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することではわしは張良に及ばない。民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させることではわしは蕭何に及ばない。軍を率いて戦いに勝つことではわしは韓信に及ばない。わしはこの三人の英傑を見事に使いこなした。しかし項羽は范増一人すら使いこなせなかった。これがわしが天下を取った理由だ」と答えた。
 蕭何は張良が推薦し漢の最初の相国(臣下として最高位の丞相あるいは宰相)となった。史記世家の蕭相国世家第二十三に事績が語られる。戦時下に兵站、兵糧の責任を負い留守を守った。韓信は股くぐりで有名な漢の名将であるが、漢が天下を平定したあと反乱をおこしたため司馬遷は世家に加えず列伝に落とした。

 中国統一後、劉邦は張良の功績に報いるため三万戸の領地を与えようとしたが、張良はそれを断り小さな留の領地をもらった。張良は、「平民として最高の位に上り、自分はこれでもう充分である。願いは人の世の事を捨てて、仙人に従って遊びたい。」として、表舞台から身を引こうとするが、周りが彼を放ってはおかず皇太子の廃嫡問題などで智謀を発揮する。

 張良は智謀だけでなく始皇帝に復讐しようとする執念と情熱、漢の功臣たちが粛清される中にあって身の処し方を間違えない冷静さを併せ持ち、功績に執着せずに人生を全うした。司馬遷ではないが称賛に価する。
 前にも書いたが、息子が生まれたとき、張良の”良”、諸葛亮孔明の”亮”、文天祥の”祥”のいずれかを名前につけようと思ったが、結局熟慮の末、始皇帝、漢の武帝や光武帝、隋の陽堅、唐の高宗と玄宗らが封禅の儀を行った泰山、泰山北斗の”泰”を拝借した。

富士塚

2010-06-18 22:51:31 | 江戸
 千駄ヶ谷駅を南に歩いていると偶然富士塚に出くわしたので、うれしくなって山頂まで登った。鳩森神社の境内にあり、高さはおそらく6,7mほどで山腹は溶岩で覆われ、山頂にはお宮があった。寛政元年(1789年)の築造とされ、江戸名所図会には千駄ヶ谷富士と記されている。
    

 以前読んだ神崎宣武著「江戸の旅文化」を本棚の奥から引っ張り出してきて、富士詣のところを紐解いてみた。江戸時代、庶民の多くが講をなして富士参詣に出かけたのを富士講という。当時、富士講は江戸市中に数十あり、ひとつの講は大きなもので百余人からなり小さなものでも50戸はあった。毎年6月前より富士登山に出掛け、富士登山に行けない庶民は白衣に金剛杖をつく正式のいでたちで富士塚に模擬登山をすることで富士登拝の代わりとしたという。富士塚は富士山から運んできた溶岩などを用いて箱庭式に江戸市中に築かれたもので、そこからは富士山を遠望することができた。
 ネットサーフィンすると富士塚を扱ったサイトがいくつもあり、東京周辺の富士塚を数えると60か所以上あった。千駄ヶ谷富士の場合、周辺にビルが林立しているので今、千駄ヶ谷富士の山頂から富士山をみることはできないと思う。もっとも古い富士塚は、1779年築造の早稲田にある高田富士と言われている。
 ところで我が家では二女だけが富士登山経験者である。自分は高校の修学旅行のときバスで五合目まで行った。

孔子

2010-06-13 10:40:10 | 中国
 シンガポール行きはSQで総2階のエアバスA380だった。自分の席は1階だったが見学のため2階のトイレを使った。エコノミーの2階座席は1列が、2,4,2で広々としていた。1階は、3,4,3である。座席のプライベイトビデオの画面は通常の飛行機の倍ほどと大きく見やすかったが、座席は他の飛行機と同じで相変わらず狭く窮屈で首を寝違えてしまった。帰国当日も治らず、チャンギ空港で飛行機待ちの時間を利用してマッサージ(20分S$38)をしてもらった。

 機中では中国映画「孔子」2010年を観た。英語の字幕を一生懸命追いかけて観たが、字幕の転換が早くて知っているエピソードしか理解できなかった。それに人物の名前が英語表示で、孔子の弟子たちのうち子路(Zi Lu)と顔回(Yan Fui)しかわからなかった。史記の孔子世家や中島敦の「弟子」にもある以下のエピソードは映画では相当脚色されていた。
1.孔子が大司寇(法務大臣=Minister of Law)として仕える魯の定公と隣国の斉の景公が夾谷に築いた3段の会見場の上で会談する場面
2.魯の有力な三桓(3 Families)の城壁を取壊すことを孔子が指揮する場面
3.中島敦「弟子」の子路が衛で冠を結びなおして死ぬ場面
 孔子が特に愛した顔回は若死にしたが、映画の顔回は氷結した川に車とともに落ちた竹簡(春秋)を潜って拾ううちに凍死する。孔子は放浪の後、魯に戻り、”春秋(Spring and Autumn)”を完成して死ぬ。

 日本語字幕できちんと観ないと映画の評価はできないが、日本ではまだ公開されてないようだ。

 孔子世家の末文で、
太史公曰く、”詩経に「高き山をば仰ぎ、景(おお)いなる道をば行く」とある。(そのような高い徳とりっぱな行いに)到達することはできなくとも、心はつねにそのほうに向かうのである。~中略~天下に君や王、それから賢人といわれるひとの数はあまたあるけれども、生きていたあいだは栄えても、(その栄誉は)死ねば、おしまいになった。孔子は布衣(ほい=無位無官)に終わったが、その子孫十数代ののちまで(学問を)伝え、すべての学者の宗師であった。天子や王侯でさえ、中国において六芸の古典について論ずるひとは、夫子のことばを尺度にして(是非を)定めるのであった。この上なき聖人というべきである。”
 このように司馬遷は孔子を絶賛する。史記は本紀、世家、列伝に3区分され、歴史上の人物は司馬遷の価値観で分類されている。そのうち世家は諸侯のことを記したものであるが、本来、無位無官の孔子は列伝に属すべきと思われるが司馬遷は特に孔子世家を設けているのである。

 史記は孔子の春秋と同じく編年体で書かれ、さらに孔子の歴史家としての面を継承している(宮崎市定)。孔子の史家の面とは、事実を事実として尊重し、事実を曲げて書くことは許されない。しかし、この事実を文章で現す段階では、筆者の主観、価値判断を盛り込んで特殊な表現を用いることができる、というものである。司馬遷の価値観は、漢の高祖の皇后で悪女として有名な呂后を本紀にいれたり、同じく高祖の家臣団のうち蕭何(蕭相国世家)や私の大好きな張良(留公世家)は世家に、股くぐりの韓信は最後反乱を起こしたために世家に入れず列伝に入れていることに現われている。孔子を世家に入れるのも同じ価値観だという。世家の序文の太史公自序で”~を嘉する”や”~を讃える”などと評価し、世家の末文では”太史公いわく”に続けて本文の出来事を自分のことばで評価している。

 司馬遷は孔子(紀元前479年没)から約300年が経過したころの人だが、孔子十数代目の子孫に会っている。孔子没後約2500年が経過する現代の子孫は83代目で、王族以外で最も長い家系としてギネスブックに載っているらしい。

 ところで、広島から東京への引っ越しのどさくさで白川静の「孔子伝」が紛失した。だから、この稿で「孔子伝」を引用できないし、シンガポールへの機中で観た映画「孔子」の評価が中途半端なのももどかしい。「孔子伝」を再購入・再読し、映画「孔子」が早急に公開されることを望む。

屈原

2010-06-12 00:19:42 | 中国
 札幌から帰って二日後、気温差20℃のシンガポールに3泊で行ってきた。ダウンタウンのブギスを歩いていると大きな屈原(写真)がくるくる回っていた。シンガポールは旧暦5月5日の端午の節句を祝う祭の真っ最中で、屈原像の周辺にはチマキを売る露店がたくさん出ていた。
 

 露店で買って食べたチマキはDark Soya Sauceで味付けをしたもち米の中に豚肉と卵の黄身を入れて竹の葉で包んだ豪華版でS$3.00(約200円)だった。店の前で立ち食いしたが大変美味だった。シンガポール時代に料理法を学んだ妻の作るチマキは、もち米の中にシイタケや干しエビやニンジンや挽肉などをまぶしたもので、豚肉も竹の葉も使わないが店のチマキに負けないほど美味である。大量に作って冷凍庫に保存し好きな時に解凍して食べるのが習慣である。
 
 端午節的由来(The Story of Rice Dumpling and Dragon Boat)を中国語と英語で書いた看板が像の下に掲げられていた。写真で”節 → 节”と簡略漢字になっているようにシンガポールの漢字は中国本土と同じように簡略化が進んでいる。シンガポールで働く台湾人の知人は、自分の子供が簡略漢字で教育されるのを嫌い妻子を台湾に送り帰した。台湾は古い字体を日本以上に残している。例えば、發(台湾) 発(日本) 发(中国・シンガポール)、 樂 楽 乐 、廣 広 广 、といった具合である。

 屈原とチマキの由来には思い出がある。1991年バンコクでの国際会議に参加したとき、九州大学の有名な教授夫妻と令嬢、長崎大学准教授、会社の上司数名とバンコク・シャングリラホテルのShan Palaceという中華飯店で会食をした。バンコクの中華街でチマキが売られていたのを見てきた教授令嬢が間違ったチマキの由来を話したのに反論し、「楚の屈原が汨羅(べきら)に身を投げたとき漁民がチマキを投げて屈原が魚に食べられないようにしたことに由来する」と知ったかぶりをした。その時私は30歳半ばで、その席では最も若輩者だったが陳舜臣の「中国の歴史」や「小説十八史略」を読んでいたころだったので立場をわきまえずに令嬢(当時確か出戻りで40歳前後)をやり込めてしまった。幸い中国の大学の客員教授でもあり中国通の父親の教授が、「そのとおり」とすぐに話を引き取ってくれたので場が気まずくならずに済んだ。この辺が世渡り下手なのだが、議論に熱くなると相手の立場を考えない性分は50歳半ばになった今も治らない。

 ちょうど今読んでいる史記の楚世家には屈原が”どうして張儀を処刑しなかったのか”と王を諌めたという一事しか出ていなかったが、おそらく列伝のほうに詳しく書かれているのだろう。
(注:秦の宰相である張儀は連衡策により秦と楚を結ぼうとし、楚の重臣であった屈原は斉と結び秦に対抗すべきと主張した。)

 屈原は政争に敗れ左遷され、「楚辞」に「離騒」や「招魂」などの熱い愛国詩を残し、最後は楚の首都が秦に占領されたことから楚の将来に絶望して自殺する。以前、赤壁の回でも書いたが、屈原、陶淵明、蘇軾、西行、人麻呂らは皆、失意の中で歴史に残る詩歌を残している。宮刑を受けた司馬遷が史記を残したのも同じである。彼ら加え、有馬皇子、大津皇子、弓削皇子、軽皇子ら古代の悲劇の皇子たちにも同情し魅かれのは、判官贔屓の日本人の性癖を色濃く持っているだけのことかもしれない。

史記世家

2010-06-07 00:52:21 | 中国
 湯川秀樹兄弟の末弟である小川環樹らが訳した「史記世家」全3冊を読んでいるが、単調な話が継続することに加え、他の本や映画に寄り道ばかりしているので、やっと2冊目の楚世家・第十を読み終えたばかりである。さらに並行して宮崎市定著「史記を語る」のあと、藤田勝久著「司馬遷の旅」にも手を出している。史記は世家三十巻のあと本紀十二巻と列伝七十巻、表十巻、書八巻と続くので、読了がいつのことになるのか、それよりも読了するまで根気が続くのか、先は模糊としている。だから、読む片端から記録していくことにする。それがこのブログの目的なのだから、別に誰に断ることもないのだけれど。

 以前読んだ宮崎市定の「大唐帝国」は大層面白かったので、この「史記を語る」を神田の古書店で見つけたときには何のためらいもなく値札も確認せずに購入した。期待を込めて読み始めたのだが、宮崎市定は基本的に司馬遷と史記の記述を信用せず、史記の大半は史実ではないとしているのである。史実ではなく説話(作り話)が”少なからぬ部分を占めていることを知らねばならぬ”とし、史記の中でも最もエキサイティングな伍子胥の話を例にあげて、”伍子胥に触れなくても(呉越楚の)三国交渉史はいくらも描写できるのである”とする。しかし一読者としては、史記に伍子胥の話がなかったとしたら、史記は無味乾燥の年表となり読む魅力がまったくなくなってしまうのである。

 東洋学者である宮崎は学者として当たり前の話をしているだけなのだけれど、同じ宮崎著「大唐帝国」では三国志演義にある関羽の武勇伝に紙数を割き、”三国志演義のここらの小説の作法には、深く味わうべきものがあると思う。”、さらに続けて諸葛孔明の漢室再興にかける至誠を高く評価し、”今日の重大関心事となっている民族とか、階級とか、イデオロギーとかの問題もはたしてそのうちどれだけが真に永久性のあるものか。”と現代批判を繰り広げている。関羽も孔明も説話だらけで後世伝えられている話のどこまでが史実であるのか疑問は多く伍子胥の話と大差はないはずなのだが、ここまで扱いが違うのかと思う。
 ”司馬遷を信じて総てを認める人もあるであろう。しかし私は総てを疑う理由があると信ずる。”、と書くように、宮崎市定は司馬遷も史記も全く信用していない。さらに、司馬遷について”事後予言(結末がわかっているから書ける過去の予兆)にすぎない不思議な話を有難がる男”、”何でも書いてあることならば直ぐに信じ込む”などと辛辣である。
 
 一大決心をして史記を読み始めたことに水を注されたと感じ、「史記を語る」の読後感はよくなかった。

 ただし、そんな宮崎も以下の点では司馬遷をほめている。
1.司馬遷が対立の中から新しい政権が生じるとする史観を抱き、その史観が活き活きと現われるように工夫をこらして本紀を書き上げたとし、宮崎はこれを一種の弁証法と名付ける。この弁証法は無味無臭であり、純客観的に権力、財力の動きを分析したもので、宮崎はこの司馬遷の態度に深く共感する。
2.司馬遷は自ら設けた体裁(形式や名称)に拘泥せず、もっぱら読者の便宜を図る。
3.よくぞこれだけの史料を纏めて保存してくれた、という純然たる史学の基本作業上の功績を評価する。
4.武帝という絶対権力に盾突いてまで李陵を弁護したのは、他の何物にも動かされない自由人としての誇りであったのだ。
5.宮刑を受けたあとの司馬遷は、あたかも目前に起こった事象に対するかの如く情熱をもって過去を語ることができたのは、現在を忘れて、後世の人に向かって語りかけようとしたからに他ならないのだ。

 最後に、歴史的人間の不滅性という考え方について書いておく。
 孔子は肉体に重きを置く人間は生物的人間で、持ち物に重きを置けば世間的人間であり死ねば総てが消滅する。しかし最も本質的な人間の捉え方は歴史的人間であり、人は名が総てであり、その名によって不滅たりうるとする。司馬遷は、このような意味において、堅く人間の不滅を信じた。始皇帝や武帝が神仙思想を信じ不老長寿の薬に固執したことを司馬遷は皮肉を持って書いたかもしれない。

 梅原猛のDNAレベルの不死は司馬遷とは違う。
”人間は永劫の流転を続ける。人間に子孫がある限り遺伝子は次々に結合を繰り返し永遠に生き続ける。すなわちDNAレベルでは不死となり、これによって梅原猛は無神論を克服した。” 

札幌

2010-06-06 11:49:29 | 
 埃っぽい気温33℃の蒸し暑いマニラに2泊したあと、すぐに気温17℃の札幌へ行った。札幌は清々しく、広々とした北海道大学のキャンパスは春と初夏が混在していた。
マニラのSOFITEL Hotelのプールサイドとヤシの木でマニラ湾に面している。



北海道大学のキャンパス。白い花の群生はマーガレットだろうか。
 
 北大と札幌には1973年と1975年の学生時代に2度、10年ほど前、北大で教鞭をとる同級生に会いに2度来たことがあり今回は5度目である。前4度はすべて私用で北大のイチョウ並木の黄葉のすばらしい晩秋から吹雪の初冬にかけてが3度と、記録的な猛暑といわれた夏が1度である。今回この季節に社用で来た。

 北大は学園祭でにぎわっていた。世界中からの留学生が自国の料理を売る模擬店が人気を集めていたが、私が学生だった1970年代の私の大学には留学生はほとんどいなかった。当時の学園祭の記憶は、ニューミュージック全盛時だった所為か歌声喫茶の模擬店が乱立していたことと同級生が所属していた応援団が破れガクランを着て”だいこん踊り”を踊りながら仙台の一番町を練り歩いたことぐらいである。バンカラ学生グループがいたので懐かしさのあまりシャメを撮ってしまった。


 留学生の模擬店の中では、なぜかスペインのパエリアが人気で行列ができていた。パキスタン、バングラデッシュ、インド、ネパール、タイがそれぞれカレーを出していたのは面白かった。昼に札幌ラーメンを食べる予定にしていたのでカレーの食べ比べができなかったのは残念だ。模擬店では売り子の中国人学生が勧めたタピオカの入った杏仁ジュースを飲んだがあまりおいしくなかった。

 先月、広島に住む同窓の先輩から、昨年9月に会社を定年退職したあと広島大学の文学部にAO入試合格し4月から学生を始めたというメールをもらった。7人の受験生で合格者2人に何とか滑り込んだということだったが、もともと工学部出身であり専門外の文学部を60歳半ばの年齢で挑戦し合格したのだから素晴らしい。広島大学は自宅からバスで15分と近いこともあり、以前から中世の中国史に興味があったのでということだった。その時代の日本と中国の交流史などを勉強したいという。”趣味の学生生活を送れるなんてうらやましい。先を越された。”というメールを返した。北大のキャンパスを歩きながら先輩のチャレンジに思いを馳せ、自分もこんなキャンパスで好きな勉強をしたいと強く思った。