備忘録として

タイトルのまま

草木塔

2008-03-30 16:50:38 | 仏教

種田山頭火の”草木塔”の話ではない。
山形県内にはイラストのような石碑が多数あることを、空海の”吽字義”でサーフィンしているうちに知った。米沢市のWeb-siteによると
”「草木塔」あるいは「草木供養塔」と刻まれた石碑は置賜地方に約60基ほど確認されていますが、置賜以外では山形県内に8基、福島県に1基、最近のものが東京に4基みられるだけの、全国でも珍しい石碑です。
 最も古いものが、米沢市大字入田沢字塩地平(しおじだいら)の安永9年(1780)7月19日、上杉鷹山の時代に建てられたものです。
 寛政9年(1797)の大字入田沢字白夫平(しらぶだいら)の草木塔には、釈迦如来を表す梵字の下に「草木供養塔」と刻まれ、その左右に「一仏成道観見法界」「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」とお経の一節が刻まれています。仏教の「草木はもちろん土にいたるまで、すべてが仏になれる」といった教えの影響がみられ、湯殿山碑や飯豊山碑と同時に建てられた草木塔もあり、山岳信仰や修験道の影響も感じられます。”
<米沢市Web-site>
http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/kanko/rekishi/pg/r16.html
<山形大学の草木塔ネットワークWeb-site>
http://www.id.yamagata-u.ac.jp/EPC/60soumoku/3wadai/kenngai/070415.html
このサイトには全国の草木塔分布地図があり、奈良、京都、富山、長野、山梨、神奈川、栃木、宮城、岩手に広がっているが、以西にはないようだ。特に山頭火の生きた昭和初期以前にはほとんどが山形県内にしかなく、西日本を中心に放浪していた山頭火はどこで草木塔を見たのだろうか?あるいは、草木塔という言葉だけを耳にして自身の句集のタイトルとしたのだろうか。
最近の草木塔は公共施設・個人宅や寺社内のものが多い。また、比叡山にあるという記事を見たのだがその地図にはない。

山川草木悉皆成仏とは、涅槃経にある悉有仏性(しつうぶっしょう)というすべての存在するものに仏性があるという思想が発展したもので、人間はおろか動物、植物、山川までもが仏になるという考え方は平安時代の天台仏教の天台本覚論において論ぜられた。聖徳太子は平等思想を中心とした法華仏教が優れていると考え、自身の一乗仏教を提唱し、これが最澄に受け継がれたのである。後に発展する浄土教、密教、禅、あるいは空海、法然、親鸞、日蓮、道元の先駆者が聖徳太子なのである。この辺りの知識は、梅原猛の”聖徳太子”4巻目からいただいた。
草木塔は最近の自然環境保全の意識の高まりを受けて、比叡山延暦寺にも建てられたらしい。

草木塔の起源は、”名君としての譽が高い上杉鷹山が、御林の植林を進めると同時に草木塔の建立を示唆したのではないか、とも言い伝えられている”(草木塔ネットワークによる)ということだが、鷹山のような江戸時代の知識人は儒学を学んでいたはずで、草木塔は仏教が生活の一部であった民衆によって建てられたと考えたほうがいいような気がする。あるいは、地域の寺の住職や雲水によるものなのだろう。

上杉鷹山は藤沢周平の”漆の実の実る国”によると、藩財政を立て直すために様々な倹約政策を実行したが、藩主としてはめずらしく自身も大変な倹約家で非常に地味な人物なので小説の主人公としては、漆・桑・楮(こうぞ)各百万本の植樹計画を進めた執政の竹俣当綱のほうが面白いと思った。小説では鷹山の藩政改革は道半ばで終わり、名君の活躍を期待していたので少し物足りなかった。


框景

2008-03-25 00:06:30 | 
写真は、前面の人口庭園と遠方の山を組み合わせた借景という技法で作った日本庭園である。ここ島根県の足立美術館へは昨年5月に行った。美術館は横山大観らの絵画だけでなく毎年世界一に選ばれる見事な日本庭園で有名である。美術館内ではさらに、茶室から窓枠を通して見る庭園は額縁に入った絵画を見るようである。この窓枠を通して庭園を見る技法を框景(きょうけい)と言い、中国では昔から取り入れられていて、蘇州の古典庭園でみることができる(NHKの世界遺産で知った)。

中国蘇州の排政園の框景(中国語のWeb-siteより拝借)

足立美術館の庭園は四季の移り変わりで姿を変え、展示絵も頻繁に入れ替えるので再訪して楽しめる。5月の庭は新緑で、上村松園の作品はほとんど展示されていなかった。

阿吽

2008-03-24 01:49:31 | 仏教

運慶の仏像が12.5億円で落札されたことがニュースで流れていた。仏像体内に仏舎利と水晶玉があることがエックス線で確認され、これが運慶作品の特徴であることから本物であることが確実になったそうだ。
運慶といえば、東大寺南大門の金剛力士像の阿形と吽形を作った鎌倉時代の仏師というのが教科書の知識で、阿吽(あうん)の呼吸が二人が物事を行う時に微妙な気持ちが一致することを意味するというのが辞書の知識。そして、阿は梵字の最初の語で"a"と口を開けて発音し宇宙の始まりを表わし、吽は最後の語で"hum"と口を閉じて発音し宇宙の終わりを表す。金剛力士像の阿形は口を開け、吽形は口を閉じている。


左:梵字の阿"a"字、右:吽"hum"字

梅原猛著”空海の思想について”からの知識では、空海は”吽字義”の中で阿吽をはじめ梵字一字一字に込められた意味と世界観を説いている。ただし、ここでいう字は目で見る文字ではなく発声された音に意味があるという。梅原の解釈は難解であり、ネットで見つけた評者たちの解釈も難解であった。

仏師と言えば聖徳太子の時代では止利仏師で、法隆寺の釈迦三尊像の作者であり、法興寺(飛鳥寺)の中金堂に自作の丈六の釈迦如来像(飛鳥大仏)を扉を壊さずに入れた功績で水田20町を賜った。


80日間世界一周

2008-03-20 12:00:33 | 西洋史
Queen Elizabeth IIが最後の航海に出るそうな。90日間の旅で最高クラス1800万円、最低で160万円らしい。シンガポールにはStar Virgoという客船があり、マレーシアのランカウィ、ペナン、マラッカへの2泊3日クルーズで3万~8万円程度であった。

クルーズといえば小学6年の時に見た”地中海の休日”という映画を思い出す。地中海を航海し寄港地を紹介するだけの映画だったのだが、モナコの狭い坂道を疾走する自動車レース(モナコグランプリだと後で知った)や船上のプールサイドでくつろぐ観光客のシーンは鮮明に憶えている。次にジュール・ベルヌの80日間世界一周。この映画音楽を聴くといつも思い出すのが兼高かおる世界の旅である。番組は毎週日曜日の朝、この音楽とともに始まり、田舎者を世界旅行へ誘ってくれた。兼高かおるの”~~ですのよ。”風な上品な話し振りが異国情緒をさらに盛り上げてくれた。海外に行きたいと思うようになったのには、この番組からも多少の影響があったに違いない。中学の頃には、スイス、オランダ、アメリカなどの風景写真を雑誌から切り抜き部屋に張りまくっていた。その雑誌の名前は忘れてしまったが、ハロウィーンなど外国の風習の紹介などもあり憧れはつのった。高校の頃には南極に行きたいと広言していたし、親と相談はせずとも、いずれ徳島を出ていくことは自明のことだった。

フィリアス・フォッグ(1872・10月2日ロンドン発)

ジュール・ベルヌのこの小説を読んだのは中学のときだった。その頃、ジュールベルヌ作品を読み漁っていた。どこかの出版社がジュールベルヌ全集を出したのに飛びついたのだ。神秘の島、地底旅行、海底二万マイル、皇帝の密使、アドリア海の復習、シナ人の苦悶(当時”くもん”と読めず長く”くのう”だと思っていた。)、グラント船長の子供たち、二年間のバカンス(十五少年漂流記)。ジュールベルヌの作品はいくつも映画化されており、80日間世界一周に加え地底旅行、海底二万マイル、グラント船長の子供たち(映画の題名は不明)を観ている。記憶にあるのは、地底旅行では最後、石綿の船に乗ってマグマの噴火とともにベスビオ火山から地上に生還する場面、グラント船長では、大津波がパタゴニアの大草原を襲い、大樹に逃げる家族と道案内のインディアンが馬で逃げる場面、海底二万マイルには若き日のカーク・ダグラスが出ていたことである。
ネタばれになるけど、80日間で世界一周をすることを賭けていた主人公はロンドンに81日目に帰ってきたため賭けに敗れ全財産を失うはずだったのだが------。地球を東回りしたことが鍵。

以下はマルコポーロ、イブン・バトゥータ、鄭和の旅程である。

マルコポーロ(1271・ベネチア発~1295帰国)

イブン・バトゥータ(1325・モロッコのタンジール発~1349帰国、その後アフリカ旅行)

鄭和(1405・1回目出航~1433・7回目の航海帰国)

泰山

2008-03-16 12:38:51 | 中国
Adam's Peak以外にも世界中にSacred Mountainsがあり、日本では富士山や江戸時代泉光院が回った修験者の九峯(白山、大山、大峯、湯殿山など)などの山岳信仰、モーゼの十戒のMt. Sinai、アボリジニが信仰したというオーストラリアのエアーズロックなど宗教は異なるがいずれも巡礼者(Pilgrim)でにぎわっている。富士山信仰は富士講といい江戸時代に大流行した。富士山に登る代わりに江戸市中に富士山の溶岩を運んできて小山を築き、参道、鳥居、溶岩穴まで備え信仰の対象とした。小山は富士塚として東京周辺に多数残っている。

中国の泰山は、秦の始皇帝ら歴代の皇帝が封禅の儀を行った聖なる山であることを陳舜臣の”十八史略”や”中国の歴史”で知った。封禅の儀は、泰山の麓で地を頂上で天を祀り帝王の即位を宣言することである。司馬遷の史記によると秦の始皇帝までに72人の帝王が封禅を行ったと記され、始皇帝以降では漢の武帝や唐の則天武后とその夫高宗、玄宗などが封禅を行っている。
封禅に加えて泰山は”泰山北斗”略して”泰斗”(それぞれの道で尊敬される大家の意)ということばで有名であるが、息子の名前を泰斗にしようと一度は考えたのだが名前負けしてはと思い少し値引きした。

ところで写真の上の門から天に入るのだが、同じような門はAdam's Peakやシナイ山にもあり、神社の鳥居もその先は神域となり、Sacred Placesには必ず天界と人域を区別する結界がある。

Adam's Peak

2008-03-09 12:19:39 | 
スリランカにアダムズピーク(Adam's Peak)という標高2234mの山がある。シンハリ人はSamanalakandaと呼び、タミール語ではSivanolipatha Malaiという。頂上に1.8m大の聖なる足跡(sacred footprint)があるのだが、これを仏教徒は釈迦の足跡、ヒンズー教ではシバ神、イスラム教ではアダムのものとし、特に仏教徒とヒンズー教徒の巡礼者が絶えない。ポルトガルのキリスト教徒たちは、この足跡はスリランカに初めてキリスト教を伝えたとの言い伝えがある聖トマス(キリストの十二使徒のひとりでインドで布教活動をしたといわれる)のものだと言っている。
注:アダムは、旧約聖書のアダムとイブのアダムだが、イスラム教でも神によって創られた最初の人間であるとされる。

マルコ・ポーロは、中国の泉州(ザイトン)を出発し1295年にベニスに帰り着く途中セイロン島に立ち寄ったとき巡礼者に聞いたAdam's Peakの話を書きのこしている。イブン・バトゥータは1344年に登山し聖なる足跡を訪れ、足跡という”岩石の窪み”を実見している。マルコ・ポーロとイブン・バトゥータ両人がともに訪れた場所は西から以下のとおりである。
イスタンブール、ダマスカス、ホルムズ、マラバール海岸(インド西南海岸)、セイロン島、スマトラ、ベトナム、ザイトン(泉州)、大都
そのうち鄭和が15世紀初頭にザイトンを出港し訪れたのは、ホルムズ、マラバール海岸(インド西南海岸)、セイロン島、スマトラ、ベトナム(チャンパ)である。


私が仕事でスリランカへ行ったのは、1995年頃だったと思う。爆弾テロがあったすぐ後だったので、空港からタクシーでコロンボ市内のホテルへ着くまでの1時間に2度ほど検問があった。私はホリデイ・インに泊まったが、ヒルトンホテルの一方の窓がすべて割れていてベニヤ板が張られていたのが印象的だった。仕事はすぐ終わりコロンボで有名なコロニー風の”Galle Face Hotel”の広い広いホールへ行って空港までの時間をつぶした。”Galle Face Hotel”は1864年開業で、1886年開業のシンガポール”Raffles Hotel”より古い。


玉虫厨子

2008-03-06 23:31:29 | 古代
数日前、法隆寺の玉虫厨子(たまむしのずし)が復元されたというニュースが流れていた。玉虫厨子といえば側面に描かれた「捨身飼虎」(しゃしんしこ)図であり、「捨身飼虎」図といえば上原和である。上原和は、釈迦前世の薩埵太子(さっとうばたいし)が飢えた虎に我が身を投げ与えるという究極の犠牲に、聖徳太子を見たのである。この「捨身飼虎」図も色鮮やかに蘇っていた。


左:本物 右:復元(いずれも朝日新聞より転載)

名前の由来となった玉虫の羽も東南アジアから集められ1枚1枚貼り付けられたということだ。
厨子の屋根の軒下には、雲形斗栱(くもがたときょう)という法隆寺特有の構造がみられるのだが、上原和は、法隆寺金堂の雲形斗栱は玉虫厨子の雲形斗栱を模したものだという説を提唱している。普通は実物大の建物を模して厨子(小型模型)が作られたと考えるのだが、上原和は玉虫厨子を模して金堂が作られたというのだ。上原和著「聖徳太子 再建法隆寺の謎」
(「斗栱」は「斗(ます)」と「肘木」との組み合わせたもので軒の荷重を支える。)

聖徳太子の死後わずか22年で山背大兄王一族の非業の死によって太子一族は断絶し、「一屋も残すことなく焼失す」”日本書紀・天智9年(670)の条”にあるように法隆寺が罹災し、日本軍が唐・新羅連合軍に白村江で大敗北するなど人々の不安は極限にまで高まり、太子一族鎮魂のために急遽法隆寺再建が進められ太子由縁の品々が集められた。玉虫厨子は聖徳太子由縁の遺品以上のもの、玉虫厨子の間には太子の信仰と思想が込められているからこそ玉虫厨子を模して法隆寺が再建されたというのだ。

蘇我入鹿に追われた山背大兄王は、
「われ、兵を起こして入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん」
と言って、一族ことごとく自害した。これは「捨身」の思想であり、太子の遺訓、信仰と思想を実践したものである。

今、梅原猛の”聖徳太子”の二巻目が終わろうとしている。十七条の憲法と冠位十二階は相互に関連し太子の思想を具現しているという。上原和によると、十七条の憲法、太子が書いたとされる三経義疏、捨身飼虎、さらには太子が隋に送った国書「日出づる処の天子ーーーーー」のいずれにおいても太子の思想は一貫しているそうだ。聖徳太子虚構説は二人には無縁である。

阿波十郎兵衛屋敷

2008-03-05 22:34:02 | 徳島
35年ぶりに十郎兵衛屋敷へ行った。上の写真の古い建物と下の写真の”お鶴とお弓”の銅像は昔のままのような気がするのだが定かではない。鶴亀の庭も昔のままなのだろうが記憶にない。

今の十郎兵衛屋敷は人形浄瑠璃の展示館のようになっているが、昔は江戸時代の藍商人の屋敷の調度品の展示が主体だったような気がする。35年前、なぜ十郎兵衛屋敷だったのか、何を見ようと思ったのか、何を見たのかは何一つ憶えてなくて、ただ自転車に乗って吉野川大橋を渡ったことと屋敷内には他に入場者がおらずやけに静かだったことだけを鮮明に憶えている。

屋敷では人形浄瑠璃の実演があった。演題はもちろん”傾城阿波の鳴門”の巡礼歌の段である。
「あ~~い~~、ととさまの名は、じゅうろうべぇともうしますぅ~」
「あ~~い~~、かかさまの名は、おゆみともうしますぅ~」
おつるのこの有名なセリフは物心ついたときから耳にしていた。


”傾城阿波の鳴門”
作者: 近松半二ら 18世紀後半
あらすじ: 阿波の十郎兵衛・お弓の夫婦は主君の盗まれた刀を取り戻すため娘お鶴を阿波に残し大阪で盗賊に身をやつし住んでいる。父母会いたさにお鶴は巡礼しながら大阪に出てきて、たまたまお弓の家に立ち寄る。お弓は我が子と分かるが、娘が盗賊の子となることを憂い母親と名乗らずに涙を飲んでお鶴と別れる。しかし、あきらめ切れずに、思い直して娘を連れ戻そうと家を飛び出す。
十郎兵衛は追い剥ぎに狙われていた巡礼の娘を助けて、家に連れて帰ってくる。十郎兵衛は小判をたくさん持っていると言う巡礼の子に金を貸してくれと頼むが、娘は恐がって大声を出す。慌てた十郎兵衛は思わず娘の口を押さえ誤って窒息死させてしまう。家にもどってきたお弓がお鶴が巡礼姿で尋ねてきた、と告げる。その時、十郎兵衛は自分で我が子を殺してしまったことに気付くのだった。