5月13日黒田清子さん(今上天皇の第一皇女)が伊勢神宮の臨時祭主に就任したという報道があったとき、未婚でなくてもいいのかと思ったのは、天武天皇皇女で大津皇子の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が14歳で就任した伊勢斎宮のことが頭の隅にあったからだ。wikiには斎宮と祭主は違うと書いてあった。斎宮(いつきのみや)は天皇のかわりに伊勢神宮に仕えるため、未婚の皇女が天皇の代替わりごとに選ばれ都から伊勢に派遣される。大伯皇女が最初の斎宮で、天皇1代にひとりを原則とし、南北朝時代まで続いたという。斎宮は伊勢神宮でさまざまな祭りに奉祀したというので、未婚既婚は別にして奉祀内容で黒田さんの祭主とどこが違うのかと思うのだが、いずれにしても違うらしい。
大津皇子は、天武天皇の皇子で、母は持統天皇の同母姉の大田皇女であり、母が天武天皇即位時に生きていれば間違いなく皇后になっていた。母の死後、大津皇子には後ろ盾がなく持統を母とする草壁皇子が皇太子に立てられた。天武天皇崩御から1か月も経たないうちに、優秀な大津皇子の政治参加により皇太子・草壁皇子の立場が危うくなることを懸念した持統天皇によって謀叛の罪を着せられ自邸で死を賜る。前天皇の嫡男だということで死を賜った有間皇子と同じ結末である。
大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首
わが背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし (巻二-105)
二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ (巻二-106)
身の危険を察した大津皇子が唯一の身内である伊勢神宮にいる姉・大伯皇女に会いに来る。弟が去った後、再会を期し難い状況を憂える心情を詠んだ歌二首である。弟が処刑されたあとすぐ姉は斎宮の任を解かれ都に戻る。
左:正宮 右:内宮の御稲御倉
日曜日ということもあり混雑していたので、神域の荘厳さはまったく感じられず、大津皇子と大伯皇女の悲劇に思いを馳せる余裕もなかった。出雲大社は古さと大きさに圧倒されるが、伊勢神宮の社殿は20年ごとに立て替えられ小さい造作なので神域の神々しさが失われれば何も残らない。天照大神を祀る伊勢神宮は天と太陽のシンボル、大国主命の鎮魂のための出雲大社は黄泉の国のシンボルであり鎮魂であるがゆえに伊勢神宮より大きいのだと梅原猛は自説を披露している。鎮魂がなぜ太陽シンボルより大きいのかよくわからないけれど。どちらにしても出雲大社を初めて訪れたときの神秘的で厳かな感動はなかった。人のいない早朝にでも訪問すべきだった。蛇足だが伊勢うどんも出雲そばに遙かに及ばない。
神崎宣武著「江戸の旅文化」という本によると、江戸時代お伊勢参りは一生に一度は行かなければというのが庶民の願いで、お伊勢参りは大流行し年間50万人もの人が参詣していたという試算もあるという。江戸中期の日本の人口が1800万人であるからその人気のほどがわかる。一生に一度として30年に一度伊勢参りすると30x50万=1500万人という計算ができる。日本人のほとんどが伊勢参りしたことになる。伊勢参りの一行は伊勢では豪華な食事つきの御師(おんし)の宿に泊まった。神宮では神楽を見て直会(なおらい)でお神酒をいただく。もちろん有料である。下は当時の御師の宿の名残りをとどめてるのかいないのかわからないが、今の門前おはらい町である。もちろん赤福も伊勢うどんもその他もろもろ有料である。
左:内宮門前のおはらい町 右:内宮を流れる五十鈴川
伊勢から志摩への途中寄った夫婦岩 (ここには高天原にあるはずの怪しい天の岩戸があった)