備忘録として

タイトルのまま

伊勢参り

2012-05-28 01:04:10 | 古代

 5月13日黒田清子さん(今上天皇の第一皇女)が伊勢神宮の臨時祭主に就任したという報道があったとき、未婚でなくてもいいのかと思ったのは、天武天皇皇女で大津皇子の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が14歳で就任した伊勢斎宮のことが頭の隅にあったからだ。wikiには斎宮と祭主は違うと書いてあった。斎宮(いつきのみや)は天皇のかわりに伊勢神宮に仕えるため、未婚の皇女が天皇の代替わりごとに選ばれ都から伊勢に派遣される。大伯皇女が最初の斎宮で、天皇1代にひとりを原則とし、南北朝時代まで続いたという。斎宮は伊勢神宮でさまざまな祭りに奉祀したというので、未婚既婚は別にして奉祀内容で黒田さんの祭主とどこが違うのかと思うのだが、いずれにしても違うらしい。

 大津皇子は、天武天皇の皇子で、母は持統天皇の同母姉の大田皇女であり、母が天武天皇即位時に生きていれば間違いなく皇后になっていた。母の死後、大津皇子には後ろ盾がなく持統を母とする草壁皇子が皇太子に立てられた。天武天皇崩御から1か月も経たないうちに、優秀な大津皇子の政治参加により皇太子・草壁皇子の立場が危うくなることを懸念した持統天皇によって謀叛の罪を着せられ自邸で死を賜る。前天皇の嫡男だということで死を賜った有間皇子と同じ結末である。

大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首

わが背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし  (巻二-105)

二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ (巻二-106)

 身の危険を察した大津皇子が唯一の身内である伊勢神宮にいる姉・大伯皇女に会いに来る。弟が去った後、再会を期し難い状況を憂える心情を詠んだ歌二首である。弟が処刑されたあとすぐ姉は斎宮の任を解かれ都に戻る。

左:正宮                                  右:内宮の御稲御倉

 日曜日ということもあり混雑していたので、神域の荘厳さはまったく感じられず、大津皇子と大伯皇女の悲劇に思いを馳せる余裕もなかった。出雲大社は古さと大きさに圧倒されるが、伊勢神宮の社殿は20年ごとに立て替えられ小さい造作なので神域の神々しさが失われれば何も残らない。天照大神を祀る伊勢神宮は天と太陽のシンボル、大国主命の鎮魂のための出雲大社は黄泉の国のシンボルであり鎮魂であるがゆえに伊勢神宮より大きいのだと梅原猛は自説を披露している。鎮魂がなぜ太陽シンボルより大きいのかよくわからないけれど。どちらにしても出雲大社を初めて訪れたときの神秘的で厳かな感動はなかった。人のいない早朝にでも訪問すべきだった。蛇足だが伊勢うどんも出雲そばに遙かに及ばない。

 神崎宣武著「江戸の旅文化」という本によると、江戸時代お伊勢参りは一生に一度は行かなければというのが庶民の願いで、お伊勢参りは大流行し年間50万人もの人が参詣していたという試算もあるという。江戸中期の日本の人口が1800万人であるからその人気のほどがわかる。一生に一度として30年に一度伊勢参りすると30x50万=1500万人という計算ができる。日本人のほとんどが伊勢参りしたことになる。伊勢参りの一行は伊勢では豪華な食事つきの御師(おんし)の宿に泊まった。神宮では神楽を見て直会(なおらい)でお神酒をいただく。もちろん有料である。下は当時の御師の宿の名残りをとどめてるのかいないのかわからないが、今の門前おはらい町である。もちろん赤福も伊勢うどんもその他もろもろ有料である。

左:内宮門前のおはらい町                                    右:内宮を流れる五十鈴川

伊勢から志摩への途中寄った夫婦岩 (ここには高天原にあるはずの怪しい天の岩戸があった)


有間皇子

2012-05-27 14:02:58 | 万葉

19歳の有間皇子は紀国海南の藤白坂で絞殺された。

有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首

岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸(さき)くあらば またかへり見む      (巻二-141)

家にあれば 筍(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る  (巻二-142)

 653年中大兄皇子は孝徳天皇の意志に反して強引に都を難波から飛鳥へ戻した。一人難波宮に残された失意の天皇は翌年病没し、中大兄皇子の母・皇極が重祚(ちょうそ)し斉明朝が始まる。民に負担を強いる大規模土木工事を行う斉明に対する世間の批判は、斉明を支える中大兄皇子に向けられ、孝徳天皇の遺児である有間皇子は反対派として疑いの目を向けられる。中大兄皇子からの疑惑をかわすため有間皇子は狂人を装う。658年斉明天皇や中大兄皇子らが南紀白浜温泉(牟婁ムロの湯または紀の湯)に行幸した留守中、有間皇子は蘇我赤兄の口車にのってしまい謀叛の罪を着せられ白浜に護送される。そのときの往路か帰路に岩代(今の田辺市の北の日高郡南部(みなべ)町)で死を目前にした絶望的な状況で詠んだ歌が上の二首である。白浜で中大兄皇子に尋問された有間皇子は、”天と赤兄のみが知る。吾はまったく知らず。”と答えるが、帰路の藤白坂(海南市藤白)で絞殺される。第1首・岩代で結んだ松の枝をもしも無事だったら戻ってきてまた見たい、第2首・家にいたら食器に盛る飯を、旅にいるので椎の葉に盛らなければならない、と自己の境遇を嘆く歌は哀切で、1300年も前の皇子の心情が手に取るように心にひびく。これが万葉歌の力であり、後世の古今和歌集などの歌は技巧に走り素朴で切実な感動がなくなる。

中大兄と有間皇子の関係がわかるように系図をつくった。蛇足だが、本来、聖徳太子もその子山背大兄皇子も皇位継承の資格があるのだが、なぜか敏達系に皇位は移っている。

左:海南市藤白にある有間皇子神社   右:有間皇子の墓と歌碑

 有間皇子神社は藤白神社の境内の片隅にひっそりと建ち、藤白神社(藤白王子権現)と比べ悲しいほどみすぼらしい。有間皇子の墓は神社の西に200mほど行った高速道路の高架下を抜け人家を数件やりすごしたところに建っていた。近所の人か有間皇子を哀悼する人が生けたのか墓には花が添えられていた。犬養孝「万葉の旅・中、藤白のみ坂」には、”墓は皇子が絞殺された藤白坂の登り口に明治42年に建てられたものだが、実際の皇子の墓はどこともわからない。追手の丹比小沢連国襲によって絞殺されたのがこの藤白坂である。”とある。

 藤白神社社殿は斉明天皇の白浜行幸のときに建てられたというから有間皇子が絞殺されたころである。神社の境内には樹齢1000年以上という大きな楠があった。南方熊楠の熊と楠は藤白神社で命名されたらしい。

藤白の み坂を越ゆと 白たへの わが衣手は 濡れにけるかも  作者未詳(巻九-1675)

翼なす あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ  山上臣憶良 (巻二-145)

岩代の 崖の松が枝 結びけむ 人は反りて また見けむかも  長意吉麻呂ナガノオキマロ (巻二-143)

岩代の 野中に立てる 結び松 心も融けず 古思ほゆ    同上 (巻二-144)

 天智天皇時代にはばかられていた有間皇子への同情は、壬申の乱(672)以降、表立って上のような歌が詠まれるようになる。当時は皇子の結び松と伝える松があったのだろう。岩代には昭和10年建碑の結び松記念碑があり小松が植えられていたが、昭和38年8月道路拡張のためとりはらわれたのは惜しい。と犬養孝は嘆く。犬養「万葉の旅」には移建前の結び松の碑の写真が掲載されている。ただし、改訂版「万葉の旅」に、碑は昭和39年6月28日、近くの西岩代バス停付近に再建された。とある。今回の旅では確認しなかった。白浜の湯(紀の湯)には658年斉明、中大兄、有間皇子が訪れた後、701年には持統、文武も訪れている。犬養は露天の岩風呂につかり遠くの岬を眺めながら、”万葉第1期2期の歴史の一角はこの湯をめぐって集約されるようである。屏風のようにつづく岬々に歴史の悲喜はたたまれている感がする。”と感慨深く述べている。この感慨は、有間皇子と同様に天武・持統時代に非業の死をとげた大友皇子や大津皇子を念頭においたものであることは言うまでもない。

 犬養孝は、万葉の旅・中の「おわりに」において、”---前略―――地名も新行政区画にしたがったが、それさえもどんどん変わってゆく。地形の人為的な変動も急テンポの感がある。高師の浜も埋められているし、岩代の結松碑も昭和38年8月には道路拡張のために路傍に倒されていた。万葉の故地もいまこそいそがないと、わからなくなってしまいそうだ。―――後略---” (39年7月) 著者 と結んでいる。昭和39年は高度成長期の真っ盛りであり、その後20年以上、日本列島はさんざんに改変された。39年時点で埋立計画のあった万葉の歌枕である和歌の浦について、藤白坂からの写真を添えて犬養は、”何年かのちには湾内も埋め立てられてしまってスモッグの巷と化すかもしれない”と嘆いている。現在は平成の大合弁でわけのわからない地名が増え、和歌の浦は発電所や製油所が立ち並ぶ工業地帯と化してしまった。東京の在原業平にちなむ業平橋という駅もスカイツリー駅に変わった。熊野古道は南方熊楠が神社合祀令から守ったから世界遺産になった。しかし、平成の大合弁で古名が消えたときも、横文字へ地名が変更されたときも、埋立による歌枕の破壊にも、熊楠は現れなかった。どうしようもなく人間は愚かで、いずれ津波や原発事故の教訓も風化してしまうのではと悲観してしまう。


南方熊楠記念館

2012-05-26 14:14:37 | 近代史

 5月21日の金環日食は志摩のホテルで見た。京都でレンタカーを借りて伊勢神宮~志摩~那智大社~串本~白浜~海南~大阪と紀伊半島をぐるっと一周し、また京都へ戻る2泊3日の旅である。同行者は妻、娘二人、徳島の母の総勢5人で息子は学校に行くと称して参加しなかった。旅の最大の目的は、白浜の南方熊楠記念館と海南の藤白坂で絞殺された有間皇子の碑を訪ねることである。

観測グラスを持ってなかったので鏡に反射させた壁に写る太陽を撮ろうとしていたところ、うまく雲を通して金環を撮ることができた。

 

上は、南方熊楠記念館の屋上から見た神島(かしま)と、記念館前の天皇御製の歌碑

雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

 1929年熊楠と神島で会った昭和天皇が、33年後の1962年に亡き熊楠を回想し詠んだ歌である。わずか30分程度だったが熊楠によるご進講は忘れがたいものだったと想像できる。記念館は白浜の岬突端の京大白浜水族館の奥の丘の上に建ち、周囲の森は植物園のようになっていてよく手入れがされていた。(http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/index.html) 記念館の展示は、熊楠の生涯が通観できるように簡潔に並べられ、わかりやすく非常に有意義だった。白浜には15年以上も前に家族と徳島の母の6人で訪ねているが、そのころは南方熊楠の存在さえ知らなかった。そのとき幼子中心で行ったアドベンチャーワールドや京大白浜水族館や三段壁は今回すべてパスした。

記念館web-siteより

 鶴見和子の「南方熊楠」は彼の生涯を最大もらさず紹介しているので記念館でも新しい知見はなかった。しかし、本では想像するしかなかった熊楠の書いた粘菌のスケッチ、英語の文章、当時の写真などの実物に触れることができたことは、400円という入館料も含めて有意義で大満足だった。ちなみに、誰が行くのかわからないがクジラで有名な太地町でたまたま通り過ぎた有名プロ野球選手の記念館の入館料は2000円だった。

 記念館展示品の孫文が熊楠に宛てた英語の手紙を途中まで読んだが、熊楠へ返信が遅れたことのお詫びからはじまる手紙は孫文の人柄と二人の関係が偲ばれるものだった。記念館で買った松居竜五著「クマグスの森」のIII章「内的宇宙へ」は興味深かった。熊楠が”「物」と「心」の接触によって生ずる「事」の世界を学問の対象にしたい”と語っている個所であり、「事」の事例として夢を分析していることであり、真言密教の発想を借りて自然科学から人文学までのさまざまな学問分野を統合する学問モデルを表そうとした「南方マンダラ」である。

左:松井竜五「クマグスの森」より  右:記念館で買った絵葉書の南方マンダラ

 心と物は別の事象ではではなく相互に干渉し事が生じる。夢は自分の精神の中に外からの事象が入り込み形作られていく。ということを熊楠は自分の夢を分析することで確かめようとし、晩年の熊楠の日記は夢を書き留める夢日記のようになっているらしい。荘子は”胡蝶の夢”で、夢も現実も一つの変化のあらわれであり相対差別すべきものではないという万物斉同の思想を展開する。老荘思想を基本に据えた淮南子は、道(哲学)と事(現実)という分け方をしていて、この場合の”事”は熊楠のいう”物”に相当し彼の”事”とは異なる。しかし、淮南子が道(哲学=形而上=心)と事(現実=形而下=物)の統合を目指すのと、熊楠が心と物を統合しようとする点はまったく同じである。アインシュタインも最後は神の声を聴いた(これは嘘らしい)というように、自然科学を極めると形而上の境地に入っていくと言われるが、真言宗徒であり、てんかんを持っていた熊楠はより以上に形而上的な世界に近かっただろうし、研究対象が動物か植物か区別ががつかない変形菌だったことも輪廻や空を説く仏教世界につながっていたのではと想像される。

 熊楠と同郷の明恵上人は同じように夢を書き残した。白洲正子の描く「明恵上人」の生涯にはまったく共感できなかったが、明恵の夢を分析し本の解説を書いた河合隼雄の明恵論が白洲正子の本文より面白く分かりやすかったことを思い出す。

 今回、田辺の南方熊楠顕彰館には行かなかった。事前にネットで顕彰館の存在を確認していたが、近代的な建物と顕彰館という名前に、どこか”うさんくさい”感じがしたので旅程に入れなかった。しかし、よく調べてみると当時のままの熊楠旧宅を併設しており、熊楠の田辺での生活に触れることができたのにと、立ち寄らなかったことをちょっぴり後悔している。


老荘と仏教

2012-05-19 17:11:48 | 中国

 統計的根拠はないが、シンガポールの人口比率の中国系75%、インド系10%弱に比べて、インド人弁護士の比率が高いように感じる。インド人が論理的な思考に優れているため弁護士業に向いているからだと理解している。以前にも書いたが、シンガポールには、”中国人が3人寄ればギャンブル、インド人が3人寄れば議論を始める”ということわざがある。個人的にも、これまで出会ったインド人は議論に長けていて、理屈に合わないことに妥協することはなく自分の主張を曲げない人が多かった。中国系華僑もタフな交渉相手だが、それでも議論が平行線をたどった場合には大抵現実的な決着が期待できるが、インド人だとそうはいかない。インド人とビジネスをするときは契約書の細部にまで目を通し不利益がないかを徹底的に調べておけとよく言われる。契約で問題が生じても、契約外での妥協に期待できないからだ。

 インド人と中国人の民族性について感想を述べたのは、森三樹三郎が「老子・荘子」の中で、インド発祥の仏教が中国で当初受け入れられなかった理由やインドで始まった仏教の教えに対し中国独自の解釈が発展した理由を、民族性の違いで説明しているからだ。森曰く、”もともとインドの仏教の救いとは、知恵によって真理を悟ることだったといわれる。その意味では極めて理性的な教えであり、哲学的な宗教であったといえよう。--ところが中国人は理屈が苦手であり、きらいである。” 中国では当初仏教を老荘思想で理解しようと試みた。たとえば般若経の”色即是空”の空を、それに近い老子の無で解釈しようとした。しかし、老子の無は有の根源としての無、有を生むための無であり、無という名の有だと解釈され、一方、仏教の空は一切の実在の否定であり無限の否定の連続なので、両者は根本的に異なるのだが仏教を理解するために中国人に馴染みの道家の思想が利用されたのである。実際は、般若の空は老子の無よりもどちらかと言えば荘子の無に近い。荘子は、老子のように万有の始めに無を置くのは間違っていて、”無がなかった始めに先行する始め(別の無)があるはずだ”と、老子の無を否定する。荘子が見直した無は、無限や無極のことである。

 中国に入った仏教は、老荘思想で解釈されたあと独自に発展し、禅宗と浄土教が生まれる。これらは中国人の現実的な体質に合うように改造された仏教だと森はいう。禅宗と浄土教はまったく逆の方向を持っている。禅は座禅などの修行によって心のうちに仏を見つけようとする自力業であるのに対し、浄土教は念仏だけで成仏できるとする他力業である。禅宗の仏は各人の心の中にあり、浄土教の仏は西方十万億土の彼方にいる。両者に共通するのは、知識や理論に重きを置かないことである。禅宗は”行”、浄土教は”信”であり、インド仏教の”慧(知恵)”を排除する。禅宗は中国で完成するが、浄土教はその後日本にわたり親鸞を持って完成する。

禅宗と荘子

禅宗は、荘子の思想に極めて似ているという。禅宗には不立文字や以心伝心という言葉があり、真理は言葉で伝えることができないとする。荘子の哲学はありのままの真理、自然のままの姿を知ることから出発する。荘子は、言葉は真理を表すのに十分でないばかりでなく、真理のありのままの姿を損なうから、真理にたどりつくには言葉よりも直観が大切だとする。言葉を重視しない点において荘子は禅宗と同じである。禅宗と荘子の違いは、戒律や修行による精進努力を要求する禅に対し、荘子は無為である点にある。

浄土教と荘子

親鸞が最晩年にたどり着いた境地は自然法爾(しぜんほうに)である。阿弥陀仏は最高神ではなく真の仏とは無形の真理で、真理とは自然だというのである。彼の著書「教行信証」では、善導(中国の浄土教僧侶)の”仏に随い、逍遥して自然に帰す。自然は即ち是れ弥陀国なり”を引用している。自然とはなにかというと、救いが自己の努力によらず無為によって達せられるということである。人為を放棄して得られた自然は必然に通じる。自然必然の法則は生と死を包摂する無限の広がりを持つ。すなわち、自然必然の法則(運命)に抵抗する私意を否定し、自然のままに生死を迎えようというのである。歎異抄で唯円が、”念仏を唱えても急いで浄土に行きたいと思わないのはどうしたことか”とたずねたとき、親鸞は”私も同じだ”と告白するのである。理性において浄土が極楽であるとしても人間の本能がそこへ行くことを許さないのである。

これは”死生を斉しくす”という荘子的な思想そのものである。荘子の無為自然は、”人為を捨てて必然のままに従え。運命のままに生きよ。”ということである。荘子には運命の主催者(神や仏)はいない。荘子は自然主義者、運命論者、無神論者である。親鸞の晩年は荘子と同じ境地に至るのである。阿弥陀仏を否定し真理をみる親鸞の無神論は危険すぎるため親鸞本人がこの問題を取り上げるなと注意喚起している。

 ところで、荘子の内編は「逍遥遊編」より始まる。親鸞の教行信証には、この逍遥という荘子に直結する言葉や、論語、陶淵明の帰去来などの言葉が散りばめられている。森三樹三郎は、”親鸞が荘子を知っていたとは思えない”と言っているが、それは信じがたい。荘子の思想を知悉した上で、浄土教そして自分の浄土真宗の教義には荘子の思想が奥深く秘められていることを十分理解していたのではないかと思う。


人生を二度生きる

2012-05-05 13:46:53 | 映画

井上陽水は”人生が二度あれば”と唄ったが、仮に二度あっても人間は必然的に同じ人生を繰り返す。かも。

「The Vow(邦題:君への誓い)」2012、監督:マイケル・スーシー、出演:レイチェル・マクアダムス(Rachel McAdams)、チャニング・テイタム、妻は交通事故のため、夫と出会う以前の記憶は残るが、夫との出会いから以降の記憶を失くしてしまう。妻は夫を受け入れられず、断絶していたはずの実家に戻り、かつての婚約者と出会い動揺し、辞めたはずのLaw Schoolに入り、という夫と出会う前の生活を再び始める。夫は自分を受け入れられない妻の愛を取り戻せるか、というお話。妻が途中で記憶を取り戻しHappy Endという映画だったら観るのを放棄していたかもしれないが、そうではなくて妻は記憶を失くした期間の人生を必然的にくり返していくのである。そういえばレイチェル・マクアダムスは「The Time Traveler's Wife」でも幼い時に出会ったTime travelerと必然的に結ばれる役を演じていた。愛は必然なのだ。レイチェル・マクアダムスは今売出し中で「シャーロック・ホームズ」や「Morning Glory」にも出ている。どことなく若いころのジェーン・フォンダに似ている。ような気がする。★★★★☆

左:The Vow (IMDb)                                   右:The Time Traveler’s Wife (IMDb)

左:アイリーン・アドラー役Sherlock Holmes A Game of Shadows (IMDb) 右:Morning Glory (IMDb)

「Morning Glory(邦題:恋とニュースのつくり方)」2010、監督:ロジャー・ミッシェル、出演:レイチェル・アダムス、ハリソン・フォード、ダイアン・キートン、視聴率の振るわない弱小テレビ局の若いプロデューサーが、盛りが過ぎて犬猿の仲の二人のベテランキャスター・ハリソン・フォードとダイアン・キートンを使って視聴率をあげることに奮闘する。出演者の掛け合いが面白く、また昔見たアンカー・ウーマンを思い出した。ハリソン・フォードも「God Father」のダイアン・キートンも確実に老いてるがいい味を出していた。ダイアン・キートン(当時57才)はジャック・ニコルソンと共演の「Something Gotta Give(邦題:恋愛適齢期)」2003でヌードを披露したのには驚いた。★★★☆☆

次は、妻を亡くし残された家族を描いた映画2編

「We bought a Zoo(邦題:幸せへのキセキ)」2011、監督:キャメロン・クロウ、出演:マット・デイモン、スカーレット・ヨハンセン、妻を病気で亡くし、息子と娘と夫の残された家族全員が立ち直れない中、つぶれかけの動物園のオーナーになり、次の人生に踏み出すという話。妻との思い出、母親の記憶は残されたものたちにとっては宝物なのだ。飼育係のスカーレット・ヨハンセンと安易にくっつかないマット・デイモンもよかった。動物には喪失感を癒す力があるのだ。★★★★☆

「The Descendants(邦題:ファミリーツリー)」2011、監督:アレクサンダー・ペイン、出演:ジョージ・クルーニー、シェイリーン・ウッドリー、死んだ妻が浮気をしていたことがわかり、浮気相手を突き止めようとする夫は、母親の浮気を知って家を出ていた娘と再生活を始める。「We Bought a Zoo」のような感動が何もない映画だった。妻が事故死し残された家族の悲劇を深刻にせず喜劇にするところまでは「We Bought a Zoo」と同じなのだが、浮気した妻をとことん悪者にしたため映画が薄っぺらになってしまった。ハワイの自然が守られたのでおまけして、★★☆☆☆

上のふたつは残された家族を描く同じ設定の映画だが、「We Bought---」でなく、「The Descendants」がアカデミー作品賞にノミネートされたというから審査員の感性がわからない。下の「Hugo」もアカデミー賞をいっぱい取った話題作だが面白くなかった。

「Hugo(邦題:ヒューゴの不思議な発明」2011、監督:マーティン・スコセッシ、出演:ベン・キングズレー、エイサ・バターフィールド、クロエ・グレース・モレッツ、サシャ・バロン・コーエン、、謎の機械仕掛けの人形が動きだし不思議な冒険が始まるという予想は見事に裏切られた。ジュール・ヴェルヌの「月世界旅行」の映画創世記へのオマージュと美しい映像だけでは星はあげられない。★★☆☆☆

「Tower Heist(邦題:ペントハウス)」2011、監督:ブレット・ラトナー、出演:ベン・スティラー、エディ・マーフィー、久しぶりにエディ・マーフィーをみたが昔の輝きはなかった。ベン・スティラー得意のドタバタ映画。★★☆☆☆

「A Big Hand for the Little Lady(邦題:テキサスの五人の仲間)」1966、出演:ジョアンナ・ウッドワード、ヘンリー・フォンダ、ポーカーの手に銀行家が大金を投資するのを印象的に覚えていて、シンガポール航空のClassicの中にこの映画を見つけて真っ先に観た。ジョアンナ・ウッドワードは好きだったポール・ニューマンの奥さん。いつ観たか覚えていないが、後の「スティング」や「マーヴェリック」に繋がるあっと驚く詐欺の手口が懐かしい。★★★☆☆


2012-05-04 23:36:44 | 東南アジア

ハスの花は朝日が昇るとともに、”パチン!”と音をたてて開くという話をどこかで聞いたか何かで読んだことをずっと覚えている。学生時代、徳島から電車で高松に向かう高徳本線の車窓から、朝日に照らされた早朝の蓮根畑の中に白や淡いピンクの大きなハスの花を見るたびにそのことを思った。当時耽読していた井上靖、三島由紀夫、司馬遼太郎、新田次郎の小説の一節だったかもしれないし、そうでないかもしれない。黒沢明の「姿三四郎」がハスの池で開眼する場面の記憶だったかもしれない。それが仏教的な悟りを象徴しているのか、植物学的な現象なのかも定かではない。

ミンダナオのブトゥワン市のホテルで夕方見たつぼみが、翌日朝日の中で大きく花開いた(下の写真)ので、学生時代の記憶は正しかったということが確認できた。ただこの時期ブトゥワン市では5時半ころ空が白んでくるため、まだ夢の中のこと、残念ながら”パチン!”という音は聞き逃した。

ブトゥアン(Butuan)へは、マニラから空路1時間半である。 1521年マゼランがブトゥアンを流れるアグサン川河口で、フィリピンで最初のミサを行ったのは確からしい。ブトゥアンには立派な教会が建っていた。土地の人の話では、マルコス夫人のイメルダが、フィリピン最初のミサの地を自分の出身地であるセブ島としたため、ブトゥアンは名誉ある最初のミサ地から除外されたということだった。マゼランはセブ島で原住民に殺されている。また、ブトゥワン付近で発掘された遺物は、マジャパヒト王国やシュリービジャヤ王国の影響を受けていると言われる。

ベトナムの国花はハスの花で、みやげものに、炒ったハスの種やハス茶がある。ハス茶はハスの花そのものを乾燥させたもの(下の写真)とお茶の中にハスの花をまぶしたものがある。

シンガポールのHotel Sands前に咲く大きなハスの花(下の写真)。このハスの意味はよくわからないし、セントーサの巨大マーライオンと同じで大きければいいという発想が逆に貧相である。

ハスを蓮と書くと仏教用語のようになる。ハスの花は蓮華という。蓮華は根を泥の中に下しながら清浄な花を咲かせるので、「煩悩即菩提」という大乗仏教の思想を象徴する花として尊重される(「梅原猛、日本仏教をゆく」より)。そして法華経は蓮華を題名にした経典であり、法華経の信仰を説いたのが日蓮である。一蓮托生は悪友が死後、極楽浄土で同じ蓮華の上に生まれ変わろうという意味である。「ナムアミダブツ」と唱えれば極楽浄土に行けるのは浄土真宗で、その中興の祖は蓮如である。仏像は蓮台、別名、蓮華座の上にのっている。寺の瓦の模様に蓮華文というのがある(上原和「聖徳太子」)。