備忘録として

タイトルのまま

荘子

2011-11-13 16:53:48 | 中国

 学生時代、友人のSが、”生まれてくる子供が五体満足であってほしいと親が願うような状況は、身障者に対する福祉の未整備や社会の偏見があるからだ。”と言うのに対し、”それは考え過ぎだろう。子供の幸せな人生を願うのは親の自然な心情で、仮に福祉が充実し偏見がなくなっても親は同じことを願うに違いない。”と、反論にならない反論をした記憶がある。その後、二人の間でこの議論がどう展開したか覚えていないのだが、荘子を読んで、なぜかSの言葉を思い出した。

明の万暦刊の三才図絵の荘子(金谷治「荘子」)

荘子の哲学なら、道において万物は斉一であり、道(真実在の世界)においては、人間の心知(分別知)に生じるあらゆる差別と対立はその根源において本来一つであり、一切存在はあるがままの姿において本来斉(ひと)しい。だから、貴賤も賢愚も禍福も有用無用の区別もないのである。<道は通じて一つ>   人間社会の価値体系そのものが絶対不変ではないのである。変化は無限に展開していく。<一切は変化する>   偏見を去り執着を捨て、さらには人間という立場をも捨て去り、世界の外からふりかえるとき、もはや生死の区別さえもが消え去るのである。

 世界は、一切の万物が無限の中で自生自化してゆく変化の流れそのものである。その世界の中に、おのれの卑小な存在を自覚するとき、人間が執着する価値や差別などは一切存立理由がなくなる。理由もなくこの世に投げ出された人間は、その存在だけを自覚し、生きることだけに責任を持てばいいのである。そこには、何物にもとらわれない自由な人生がある。何物にもとらわれない自由な自己の生き方を持つには、無心、虚心でなければならない。死が避けられないなら、”安らかに満ち足りた心の豊かさを、限られた人生の生きた証とすることこそ人生の最上のものであろう。満ち足りた心の豊かさは虚心で一切をあるがままに受け入れていくことによってのみ得られる。確固とした自己を持つもののみが生と死にとらわれない、人生に対する真の勇気を持つのである。”(福永光司著「荘子」)

荀子は、”荘子は天におおわれて人を知らず”と批判したらしいが、人間の道徳論を展開する儒家から見れば、荘子の思想は消極的で空論に感じられたのだろう。しかし、荘子は、人生の底辺のぎりぎりで踏みとどまり、たくましく生きる思想なのである。


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