備忘録として

タイトルのまま

李陵

2008-12-10 22:39:46 | 中国
中島敦は若くして死んだので極めて寡作で、私の知るかぎり本屋に並ぶのは李陵、山月記、弟子、名人などの中国の故事を題材とした短編を収めた薄い一冊がすべてである。娘の本棚にあったのを数十年ぶりに再読したが、これほど中身は濃かったのか。
”李陵”は、匈奴の捕虜になったが故に武帝に家族を殺され、匈奴に協力せざるを得なかった李陵の苦しみ、同じ境遇でありながら匈奴に屈しない蘇武に会いさらに苦しむ李陵、李陵をかばったために武帝に嫌われ宮刑に処せられた司馬遷の苦しみが、漢文調で硬質に語られる。湯川秀樹の弟の小川環樹訳の史記世家を持っているがツンドク状態である。
”弟子”では、孔子と子路や他の弟子たちとの日々の交わりと問答が語られ、自ずと孔子の思想と人となりが明らかになる。弟子たちが、孔子の才能が先天的なものか後天的なものかを議論する場面がある。若い頃、友人と人間の才能について同じ議論をしたことを思いだす。今流行りのディベートをしていたわけだが、喧々諤々、いつも決まって結論が出ず、最後はしたり顔の誰かが、先天的な部分と後天的な部分が複合するというような折衷案で落ち着いた。弟子の一人が、孔子は先天的な才能で非凡になったのではなく、日々の努力の積み重ねであのような非凡な方になられたのだ。ただ、日々努力を続けるという、人にまねのできない資質は先天的なものである。これは別の見方での折衷論であり、私たちの中では誰も出されなかった卓見である。
”名人伝”は、不射の射、すなわち名人は弓を射る前に的をすでに射落しているのである。弓矢を手にしなくてもいいわけだから、最後は弓矢の名前すら忘れてしまう。時代劇や映画で観た柔の“空気投げ”や気功の一種も同様なのかもしれない。最近では、体に触れただけで子宮筋腫を治せるという名人が逮捕された。
”山月記”は、自分の才能を頼み、それが受け入れられないのは世間が悪いとし、遂には世間から隔絶してしまう男の話であるが、思い通りにならないことや不遇であることを、いつも他者の所為にする人間はその辺にもいるし、時に自分もそのような思考に陥ってしまうことがある。自己責任を自覚することは大事なことであるが、数年前バグダッドで人質になった活動家やカメラマンの3人に対し、自己責任という言葉をマスコミや政治家が使った時には、違和感があった。「お前らが言うな」と思った。某新聞の記者がコラムで、危険なバグダッドに入った無謀な取材に辛辣な言葉を投げていたが、真実を人々に伝えようとするメディアの本来の役目を果たそうとする姿勢をも否定するような、すなわち自分の拠り所を放棄したような批判に腹が立ったことを思い出す。政治家も国民の生命と財産を守るのが使命なのである。あの時、政治家、マスコミ、世間の人たちによる人質バッシングが続いた時は、暗然とした。最近も、アフガニスタンでNGOの青年が拉致され殺害され、ソマリアでは女性医師が誘拐され数か月が経った今も解放されていない。危険な場所での仕事であることは百も承知、そこに見捨てておけない人々がいるのである。彼らの崇高な使命感は賞賛されるべきなのである。テレビの向こうのはるか遠い国でがんばっている人を、こたつの中でみかんを食べながら批判することだけは、しないようにしたい。
”悟浄出世”と”悟浄歎異”は、西遊記の沙悟浄が自分とは何かを探す旅と孫悟空、猪八戒や三蔵法師の本質を語る話で、面白い話がたくさんあったので後日別途語りたい。

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