備忘録として

タイトルのまま

帰国

2006-02-16 14:48:09 | 徳島
4月に帰国する。
帰国命令は唐突だった。通年なら、年末には打診があるのだが、中国正月の休暇中に社長から自宅に電話があり言い渡された。いつ帰国の辞令が出てもおかしくない程長くシンガポールにいるので毎年その覚悟はできていたが、12月を過ぎた時点で、あと1年はシンガポールだなと思い込んでいた。
1991年から15年間、それ以前の6年半を加えると21年半シンガポールで暮らし、私の人生では、徳島での18年を抜いて最長になる。鉄は熱いうちに打てというが、記憶はある程度風化してから書き残すほうが味が出てくると思うので、シンガポールの思い出を記すのはもっと先の楽しみにとっておこう。
ということで、久しぶりに徳島の思い出に戻ろうと思う。
津田と沖の洲の海水浴場へは何度も行った。泳ぎは得意だった。松原、海の家、タイヤのゴムチューブの浮き袋、とうもろこし、くらげ。埋め立てや護岸工事で当時の面影はなにも残っていないと思うので、行ってみようという気にもならない。徳島での海水浴は1990年ごろ小松に子供たちを連れて行ったのが最後だ。徳島の海水浴場で行ったことがあるのは他に北脇、大神子などである。一番印象に残っているのは親戚が集まって小学校5年のとき行った日和佐海岸の海の美しさである。今も当時のままであることを願うばかりだ。

十八史略その2

2006-02-11 18:12:40 | 中国
十八史略には様々な人間が出てくる。欲望、驕慢、保身、絶望、恐怖、怒り、人間の持つすべてを歴史上の人物と出来事の中に見出すことができる。則天武后や呂后のおぞましさ、死体を鞭打った伍子胥の激情、項羽の気概と慨嘆、司馬遷の屈辱などどれも魅力的だ。
今話題の司馬遼太郎の”功名ヶ辻”では、山内一豊と千代は、信長、秀吉、家康の三代を生き抜き土佐一国の城主となったが、彼らよりも関が原で討ち死にした石田光成の友人だった大谷刑部のほうが好きだ。”峠”の河井継之助のほうが好きだ。吉田松陰が傾倒していたという文天祥は元の誘いを受けず南宋に殉じた。滅びの美学に憧れているのではない。時勢は彼らの側にはなかったが逃避せず自分の置かれた立場を受け入れ、持ち場を守り抜こうと必死に努力する姿に共感する。張良と孔明も与えられた持ち場で信念を持って行動しており、決して自分の功名、立身出世や保身にその才能を使ったものではない。ナンバー2の処し方は、本来このようであるべきだと思う。蜀を簒奪することも可能だった孔明の”出師の表”は感動的だ。
昨今一部の日本人に見られる中国敵視、中国人蔑視は中国と中国人を知らない無知に起因すると思う。歴史認識の違いが相互不信の一因ということだが、十八史略を読むと、中国人と日本人の価値観や行動規範は全く同じだと気付かされる。中国首脳の誰かが歴史に学べと言ったが、全くそのとおりだ。



十八史略

2006-02-10 19:54:26 | 中国
中国の歴史はやはり最高に面白い。十八史略は則天武后の時、白村江で唐・新羅連合軍が日本・百済の軍船を壊滅させた件を読んだところだ。
この時点まででは、孔明もいいが、始皇帝を暗殺しようとする程に熱い心を持っていたのに、天下が治まると機微を見てあっさり隠棲した張良の生き方が好きだ。この後出てくる、正気の歌の文天祥もいい。
ところで、私の息子の名前は天子が封禅の儀式を行った泰山から一字をもらっている。張良の良、諸葛亮の亮、文天祥の祥も候補だった。