4月に帰国する。
帰国命令は唐突だった。通年なら、年末には打診があるのだが、中国正月の休暇中に社長から自宅に電話があり言い渡された。いつ帰国の辞令が出てもおかしくない程長くシンガポールにいるので毎年その覚悟はできていたが、12月を過ぎた時点で、あと1年はシンガポールだなと思い込んでいた。
1991年から15年間、それ以前の6年半を加えると21年半シンガポールで暮らし、私の人生では、徳島での18年を抜いて最長になる。鉄は熱いうちに打てというが、記憶はある程度風化してから書き残すほうが味が出てくると思うので、シンガポールの思い出を記すのはもっと先の楽しみにとっておこう。
ということで、久しぶりに徳島の思い出に戻ろうと思う。
津田と沖の洲の海水浴場へは何度も行った。泳ぎは得意だった。松原、海の家、タイヤのゴムチューブの浮き袋、とうもろこし、くらげ。埋め立てや護岸工事で当時の面影はなにも残っていないと思うので、行ってみようという気にもならない。徳島での海水浴は1990年ごろ小松に子供たちを連れて行ったのが最後だ。徳島の海水浴場で行ったことがあるのは他に北脇、大神子などである。一番印象に残っているのは親戚が集まって小学校5年のとき行った日和佐海岸の海の美しさである。今も当時のままであることを願うばかりだ。
帰国命令は唐突だった。通年なら、年末には打診があるのだが、中国正月の休暇中に社長から自宅に電話があり言い渡された。いつ帰国の辞令が出てもおかしくない程長くシンガポールにいるので毎年その覚悟はできていたが、12月を過ぎた時点で、あと1年はシンガポールだなと思い込んでいた。
1991年から15年間、それ以前の6年半を加えると21年半シンガポールで暮らし、私の人生では、徳島での18年を抜いて最長になる。鉄は熱いうちに打てというが、記憶はある程度風化してから書き残すほうが味が出てくると思うので、シンガポールの思い出を記すのはもっと先の楽しみにとっておこう。
ということで、久しぶりに徳島の思い出に戻ろうと思う。
津田と沖の洲の海水浴場へは何度も行った。泳ぎは得意だった。松原、海の家、タイヤのゴムチューブの浮き袋、とうもろこし、くらげ。埋め立てや護岸工事で当時の面影はなにも残っていないと思うので、行ってみようという気にもならない。徳島での海水浴は1990年ごろ小松に子供たちを連れて行ったのが最後だ。徳島の海水浴場で行ったことがあるのは他に北脇、大神子などである。一番印象に残っているのは親戚が集まって小学校5年のとき行った日和佐海岸の海の美しさである。今も当時のままであることを願うばかりだ。