備忘録として

タイトルのまま

フィットネス

2009-07-27 22:52:32 | 話の種
3月からフィットネスクラブへ通い始めた。ジョギングを中心に汗をかきながら体力向上を目指している。70kg前後だった体重が2ヶ月で68kgまで落ちた時には、目標の65kgは簡単に到達できると思ったが、その後3か月変化がない。さぼっているわけではなくて、当初1km走るのが精一杯だったジョギングも今は5kmをコンスタントに走れるようになった。消費カロリーは毎回500kcalを超える。140以上だった最高血圧も今は120前後にまで下がった。食事制限はしていないが、筋トレも怠らないのになぜ体重が下げ止まったのかわからない。当初の目標は体重と血圧を落とすことだったが、今は10kmを1時間で完走することを目標にしている。高校時代の倍弱のスピードだが、これまでの不摂生を考えるとりっぱな目標だと自賛している。

ところで、家の近くに消防署があり、ジョギング、懸垂、腹筋や綱渡りなどのレインジャー訓練をひたむきに行っている消防士を横目にフィットネスクラブに通っている。片や、フィットネスクラブのムキムキマンたちは、テカテカの筋肉を鏡に映し陶酔しながらバーベルを上げ下げしている。訓練中の消防士を見ると、健康のためとはいえ自分のやっているフィットネスが薄っぺらに思えて何だか力が入らないが、目標達成のために地道に続けるしかないのだろう。


悩む力

2009-07-26 21:14:22 | 他本
姜尚中はその著「悩む力」で、夏目漱石やマックス・ウェーバーの生きた1900年前後の時代とほぼ100年後の我々が生きる今の時代がよく似ているという。今、引きこもりや鬱が社会現象になっているが、100年前社会問題になった神経衰弱という心の病が漱石の小説によく登場するし、世紀末的病的な文化や猟奇的な事件が起こったことも現代と似ているという。そして、100年前にその時代を見通していた二人の書いたものから、現代の悩みを解決するヒントを見つけ出そうとする。

1.自我(とは自分とは何かを自分自身に問う意識)は他者との関係の中でしか成立しないのだが、自我が肥大すると、すなわち自尊心、エゴ、自己主張、自己防衛が過大だと社会から孤立し、鬱になったり宗教やスピリチュアルに助けを求めたりするようになる。「心」の先生は昔自分と今の奥さんをめぐって争った友達が失恋のために自殺したのではなく自分との友情を失くした孤独感で死んだと知ったときに自ら命を絶つ。漱石も自我のために何度も神経衰弱になり胃潰瘍を患った。自我の悩みを解決する方法は、まじめに悩み、まじめに他者と向き合うほかないという。

2.かつてお金は労働の報酬であったが、今やお金のためにお金が回り、回れば回るほど増えていくという”金融寄生型(パラサイト)資本主義”になり、これこそが先端的とされている。「それから」や「明暗」には親の金で暮らす人間が出てくるし、「明暗」や「道草」には”たかり”が出てくる。彼らはいわば資本主義のパラサイトである。”金はあるところにはあり、だから取ってもいいのだ”という論理である。我々の世界は100年前よりも金融寄生型の仕組みにがっちりと組み込まれていて、株、保険、預貯金、年金などすべてマネーゲームの所産である。我々はもはや清貧には生きられないので、”できる範囲でお金を稼ぎ、できる範囲でお金を使い、心を失わないためのモラルを探りつつ、資本主義の上を滑っていくしかない”という。

3.科学や合理化は人間本来の生き方について何も教えてくれない。わけもわからないまま時代に流されるのはいやだが、だからといってそれにこだわって旧時代に生きるのはもっと愚かであると「夢十夜」は教えてくれる。情報過多の時代では、身の丈に合った知識を身につけていくことが大切だ。

4.「三四郎」は美禰子からストレイシープという言葉を突然ささやかれる。青春とは未熟で不器用だけど純粋に何かを探し求めることである。青春は、挫折があり、失敗があるからいいのであり、年齢とは関係ない。

5.宗教は、私はなぜ生まれてきたのか、私はなぜ不幸なのか、なぜ病気になったのか、なぜ人を敬わなければならないのか、なぜ働かなければならないのか、死とは何なのか-----といったことに予め答えを用意してくれている。だから、信仰に入ると人は悩む必要がなくなる。「門」や「行人」の主人公のように宗教に頼らず、漱石もウェーバーも、自分の知性を信じて自分自身と戦いながら気が狂いそうになりながらも独力で立ち向かった。一人一宗教的に自分を信じ、自分でこれだと確信できるものを見つけるまでまじめに悩み続ける。

6.「それから」の代助は”金があるから働かない”という。働くことの意味は、”社会の中で自分の存在を認められる”ことにある。働くことで自分が社会の中で生きていていいという実感を得ることができる。

7.漱石は小説の中で不毛のを描いているが現在はもっと不毛になっている。現代人は誰を愛するのも自由、何を愛とみなすかも自由になったが故に、判断基準を失っている。誰もが口にする”自分が幸せになりたいから”という考え方で選ばれた愛は代替可能な愛であり、愛が消耗品になっていく可能性がある。代替可能な愛を選んだあと、”ちょっと違う”と気づいた人は、”本物の愛はどこにある”ということになり、ティーンエージャーの時に卒業したはずの純愛や即物的な性愛という極端な行動に走ってしまう。漱石は妻にときに厳しい、時に思いやりあふれる手紙を書いていて、小説の主人公たちの愛も一生懸命で決してお手軽ではない。愛とは、そのときどきの相互の問いかけに応えていこうという意欲のことで、そのときどきで愛の形は変わり、幸せになることが愛の目的ではない。

8.「硝子戸の中」で漱石は、悲痛な身の上にある女性の生きるべきか死ぬべきかという問いに対し、の尊厳を尊びはするが自分の命は自分のものではなく父祖から与えられたものという考えから”死なずに生きていらっしゃい”という。現在、この考えに説得力はない。人とのつながりを求めることで生と死を考えてほしい。自分が相手を承認し、自分も相手に承認され、そこでもらった力で生きることができる。生きている意味に確信が持てたら鬱にはならない。

9.老人力とは、撹乱する力である。死を引き受ける力である。小悪党とかプチナショナリストとかプチ潔癖症とかちょい悪おやじとかが流行っているが、”小”や”プチ”や”ちょい”などはやめて、横着にスケール大きな二生目を生きたい。若い人にも大いに悩んで突き抜けたら横着になって破壊力を持ってほしい。

読み飛ばした後は姜尚中の言いたいことが、ピンとこなかったけど、こうして書いてみると何となくわかってくる。何となくわかったと思ったことは、実は姜尚中の言いたいことではなく、自分の思い込みに合致する言葉を意識せずに巧妙に拾いだしただけなのかもしれない。別に読書感想文に点数が付けられるわけじゃないので、それでもいいや。


漱石財団

2009-07-25 11:32:49 | 話の種
漱石の二男の孫(すなわち漱石のひ孫)が設立した「財団法人・夏目漱石」なるものが、他の親族である夏目房之介(漱石の孫、長男の長男)や半藤末利子(漱石の孫、長女の四女)らから反対されているという記事が今日(2009.7.25)の朝日新聞に載っていた。

反対の立場にある夏目房之介のブログ(夏目房之介の「で?」)から拾った設立趣旨と反対意見は以下のとおり。

財団の設立趣旨
”夏目漱石の偉業を称えるとともに文芸の興隆を図り、豊かな社会の実現に寄与することを目的とするとともに、その目的に資するため、次の事業を行う。
1. 夏目漱石に関する人格権、肖像権、商標権、意匠権その他無体財産権の管理事業
2. 夏目漱石賞の選考及び授与に関する事業
3. 文化、文明及び文芸に関するフォーラムの開催事業
4. 夏目漱石記念館の設立、維持、運営、管理に関する事業
5. 夏目漱石の愛用品をはじめ、夏目漱石ゆかりの品の管理に関する事業
6. その他この法人の目的を達成するために必要な事業”
簡潔に言うと(朝日新聞)”「漱石に関する人格権、肖像権、商標権、意匠権その他無体財産権の管理事業」や漱石賞、漱石検定を手がけるというもの”

房之介の反対理由
”漱石という存在はすでに我が国の共有文化財産であり、その利用に遺族や特定の者が権利を主張し、介入すべきではない”

<参考>朝日新聞記事「漱石をめぐる権利」のキーワードは、
”著作権は死後30年の1946年に切れ、現在は誰でも自由に使える。無体財産権は商標権、特許権や著作権の総称で知的財産権とも言われる。47年に夏目家(誰?)が漱石の作品名などを商標登録しようとしたが認められなかった。肖像権には法律の明確な規定がない。”
とある。


漱石の一読者としては、漱石に関する諸々を事業化して何にでも金銭を要求されたのではたまらない。半藤一利や半藤末利子らが描く夏目漱石に関するエッセイも、テレビCMに登場するチャップリンスキップで海外旅行をする夏目先生も、肖像権の侵害になって、制限されるとしたら、財団の存在そのものが文芸振興の障害になる。それに、漱石検定なんかは、莫大な利益を私的流用していた漢字検定とかぶるし、夏目財団って何だかなぁと思う。

話は変わるが、房之介のブログコメントに対する認識に感心した。
以下、房之介のブログからの抜粋。

<ブログのコメントについて>
以前にも玉石混交ともいうべきコメントで溢れたことが何度かありました。僕は基本的にそれらを削除したりするような手段はできるかぎりとらないできました。それは「何をいっても自由」だからではなく、ブログのコメント欄というものが、いい意味でも悪い意味でも無責任なものであり、本来管理するのが困難な性格だからです。よほど状況的に書き込みが本人だとわかる場合を除き、これらの書き込みは匿名的で、それを根拠に責任のもてる発言のできるものではありません。それらに意味や価値を認めるか、批判するかは、どこの誰ともわからないブログ読者の人々の個々の責任においてなされるべきことで、そこに良識があるか悪意があるかも、また読む者の判断に任されます。
したがって、コメント欄に書き込まれたものに対して、それを参考にすることはありえても、僕自身が財団の問題にかかわる判断をそれによって直接行い、発言することはありえません。コメント欄の記入が財団関係者のものであれ何であれ、このことは常識の範囲内と思われます。ブログ読者のみなさんもまた、過剰な反応よりは冷静な判断をされるようお願いします。     夏目房之介 2009.7.18

ブログが炎上しても房之介は超然としていられるだろうが、凡人の私は冷静でいられるはずもないので、コメント欄を設けずリスクを回避している。これをChickenというなら、その通りですと答えるしかない。

日食

2009-07-22 21:47:39 | 話の種
広島で見られたのは三日月並みの部分日食だった。午前10時55分頃、ゴミ袋の黒いビニールの切れ端をかざして見た。黒ビニール越しに携帯で写真を撮ろうとしたが、露光が足りないのかまったく映らなかった。カメラを太陽に直接向けてシャッターをきったら、こちらはシャッタースピードが遅すぎたのか三日月にはならずぼやけた円形になった。だから、下手な絵を描いた。

夜、NHKで日食特番を放送していた。南方洋上での皆既日食の5分間ほどは、辺りが暗くなり水平線が夕焼けのようにきれいだった。日食を見て興奮した人々の感動がテレビを通して伝わってきた。こんなに素晴らしいならチャンスがあれば見てみたいものだ。

昭和38年の日食は、小学校のクラスの友達たちと校庭に出て、色付き下敷き、或いは煤(すす)を付けたガラス片を通して見た。10年ほど前(?)にはシンガポールでも日食があったが、これも部分日食だった。

日食といえば、「ソロモン王の秘宝」という映画で、原住民に捕まった主人公が、日食があることを予言して原住民を畏怖させて難を逃れた場面を思い出す。ソロモン王の洞窟(King Solomon's Mine)は、HRハガードの作品だが、ジュール・ベルヌやジェームズ・ヒルトンなどの冒険小説やSF小説に嵌っていた中学生の頃に原作を読んだ。
天照大神が天岩戸に隠れた話は日食を反映していると、はるか昔に聞いたことがある。最も古い日食の記録は日本書紀にある推古天皇36年(西暦628年)の記事であるらしい。聖徳太子は622年に死んでいるので、残念ながらこの日食は見ていない。
オデュッセウスがトロイ戦争後二十年の放浪からやっと故郷のイタケ島に帰った日が日食だった、ということは全然知らなくて、それよりもイタケに帰ってきたオデュッセウスと老いた愛犬のアルゴスが出会い、アルゴスが喜びの中で死ぬ話と、老いた父と貞淑な妻ペネローペーの話が感動的なのである。

漱石の妻

2009-07-21 19:18:57 | 松山

漱石の妻・鏡子夫人は、”ソクラテスの妻と並び称されるほどの悪妻”と言われている。悪妻の根拠は、朝寝坊で漱石が出勤するときも寝ていたとか、料理がまったくできなかったとか、お嬢様育ちで散財家だったというようなことらしい。また、山折哲雄はその著「デクノボウになりたい」で、鏡子が胃潰瘍で苦しむ漱石に劇薬を飲ませていた可能性があると述べている。
しかし、半藤一利夫人で漱石の孫の半藤末利子の随筆「夏目家の福猫」には、末利子の母であり漱石の娘である筆子の言として、”鏡子だからあの(気難しい)漱石とやっていけた”と述べられている。
随筆で語られる鏡子夫人は、
1.漱石は持病である神経衰弱が時に爆発し狂気に陥ったが、鏡子は愚痴も言わず仕えた。
2.漱石が鏡子に宛てた愛情あふれる手紙がたくさん残されている。
3.漱石死後も親戚を金銭的に援助した。
4.7人の子供を育て上げた。
5.仄暗い行燈のもとで夜遅くまで針仕事をしていた。
と、良妻賢母である。

さらに、
1.計画性とは無縁な人であり、貯蓄や運用などは大の苦手で、漱石死後は遺産を切り売りし、一千坪は優にあった家が鏡子が亡くなったときには二百五十坪まで減っていた。
2.占い好きで
①病気(胃潰瘍)の漱石に占い師の指示で毒掃丸を飲ませた。②漱石の神経症を直そうと神社から赤ちゃん用の虫封じのお札をもらってきて家の壁に五寸釘で毎日トントンと打ち付けた。③漱石の死後、庭に稲荷神社を建てた。④易者や祈祷師が入れ替わり出入りしていた。⑤毎晩布団の中でトランプ占いをしてその日の運勢を占っていた。
などの鏡子の行動は、随筆では愛すべき人として語られる。

しかし、鏡子の無計画性や占い好きは、愛すべきとは程遠く、度が過ぎているように感じるのは私だけだろうか。特に、医者の言よりも占い師の言を信じて密かに毒掃丸を飲ませたのは、山折哲雄の言う劇薬を飲ませていたという話に通じていて、極めて異常である。だからといって、漱石が鏡子を愛し夫婦仲が良かったということを否定するものではない。


道後温泉

2009-07-18 19:54:47 | 松山
聖徳太子も、額田王も、中大兄皇子も、子規も、夏目漱石も、坊っちゃんも入った道後温泉の神の湯に、松山に住んでいた昭和41年頃、昭和46年高校時代ラグビーの遠征で松山へ行った時、昭和49年従兄と四国一周旅行をした時、平成11年に松山での学会にシンガポールより参加した時と少なくとも4度入っている。前3回は風呂に入ったこと以外忘れてしまったが、平成11年のときはシンガポール人の同僚と2階の広間でお茶と菓子を喫っした。写真は、2007年のお盆に一泊旅行をした時に写したものだが、このときは同行した妻と二女の賛成が得られず温泉には入らなかった。坂の上の雲ミュージアムへ行ったのはこのときである。

半藤一利の「歴史をあるく、文学をゆく」の”夏目漱石『坊っちゃん』と道後温泉”によると、夏目漱石は無類の温泉好きだったらしい。「坊っちゃん」では松山と松山人のことをぼろくそにこき下ろしているけれど、道後温泉のことだけは絶賛しているらしい。曰く、
”余は湯槽(ゆぶね)のふちに仰向けの頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わしてみた。ふわり、ふわりと魂がくらげの様に浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前をあけて、執着の栓張(しんばり)をはづす。どうともせよと、温泉(ゆ)のなかで、温泉(ゆ)と同化してしまう。”
家の狭い湯船では、何もかも忘れてふわりふわりとはいかないが、のぼせるまで好きな本を読み、本の世界に同化できる至福の時間を持つことができる。半藤夫人、半藤末利子は半藤漱石の孫である。今日、半藤末利子著「夏目家の福猫」を買った。

半藤は同じ本で”司馬遼太郎『坂の上の雲』と松山の人”の巻でも松山へ行き、秋山兄弟ゆかりの地を訪れている。昭和49年私が学生のとき梅津寺まで見に行った銅像の前で、瀬戸内海に沈む夕陽を眺めながら、半藤は秋山兄弟と対話する。
「今の日本は、もういっぺん、まじめさをとり戻すことだ。」と真之がせっかちに言うのに対し、「人間が人間らしく生きるためには、他人を思いやるという広い心が基礎になっていなければな。とくに自然を大切にしなきゃ。」と好古はのんびりと噛んで含め、続けて「馬を引け」と野太い声で言った。

夕陽に陰る来島海峡大橋(2007年8月)

半藤一利原作の映画「日本のいちばん長い日」はRealTimeで観た。小学6年生か中学1年の時で、軍人の三船敏郎が切腹する場面だけを鮮明に覚えている。家には半藤の「昭和史」がほこりをかぶっている。

阿弥陀堂だより

2009-07-15 23:16:52 | 映画

録画していた「阿弥陀堂だより」を観終わると、偶然テレビで昨年7月にガンで亡くなったニュートリノ物理学者の戸塚洋二の最後の日々が紹介されていた。戸塚洋二の恩師は2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊博士である。阿弥陀堂だよりの淡々とした田村高広の最後にくらべ戸塚洋二の最後の日々は強烈だった。この印象の差は、最後を迎える人の個人差によるものと思う反面、現実はフィクションより重いという感覚によるものとも言える。

末期ガンの田村高広は死を諦観している。妻の香川京子が満州を引き揚げる時に一人娘(息子?)を亡くしたことを、後にシベリアから帰還した田村が聞いたとき”天命”ということばを返した。田村は同じ心持で最期を迎えたように描かれていた。

戸塚洋二は自身のブログの読者でステージ4大腸がん患者であるAさんの”最後の時間をどのように過ごせばいいのか”という質問に次のように答えている。
”見る、読む、聞く、書くに今までよりももう少し注意を注ぐ、見るときはちょっと凝視する、読むときは少し遅く読む、聞くときはもう少し注意を向ける、書くときはよい文章になるように、と言う意味です。これで案外時間がつぶれ、「恐れ」を排除することができます。この習慣ができると、時間を過ごすことにかなり充実感を覚えることができます。”

別の日には、どこかのブログから探してきた正岡子規の『病牀六尺』の次の言葉を紹介している。
”悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた。”
続けて、”更なるコメントは必要ないと思います。”と戸塚は書いている。

更なるコメントを推し量ってみると、
”如何なる場合”とは、子規の場合は”激痛”のことであり、悟りとは激痛の中でも平気で生きる事である。悟りが達成し難いものだとすれば、子規は激痛を平気ではいられないと吐露していることになる。戸塚の痛みも激しいものであったと思われる。
映画は、田村の死が淡々と語られたので、このような生身の叫びが聞き取れなかった。

”阿弥陀堂だより”2002、監督:小泉堯史 出演:寺尾聡、樋口可南子、田村高広、香川京子、北林谷栄、吉岡秀隆、小西真奈美 都会で疲れた樋口は、信州の自然や人々に癒されていく。田村の死に様と同様、映画は淡々としていて、クライマックスのない平坦なつくりだった。それはそれで癒される映画になっていて嫌いではない。小泉堯史の前作「雨あがる」も同様に若干盛り上がりに欠けた。阿弥陀堂では寺尾が妻を労り、「雨あがる」では逆に寺尾の妻の宮崎美子が優しく夫を見守っていた。監督は映像美や観念美にこだわった黒澤明の晩年の作品の後継者ということか。最盛期の黒澤明ファンとしては物足りなかったので ★★★☆☆



人麻呂終焉の海

2009-07-12 10:30:33 | 万葉
「鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」

梅原猛が鴨山の地であるという石見の益田川河口近くに、人麻呂終焉の地、”鴨島址展望地”の石碑が、福祉施設の入り口にひっそりと立っている。石碑の背後には背丈ほどの柵が立っていて、鴨島のあった海の方向が展望できないのはどうしたことだろうか。
益田市役所のホームページ(http://www.city.masuda.lg.jp/kanko/hitomaro_01.html)は、ここを紹介しているが、石碑の写真は海岸傍に立っているので、柵は最近できたものだろう。ホームページには地図が添えられていないし、手元の観光地図にも載ってないので、こんな辺鄙な場所を訪れるのは人麻呂マニアか梅原マニアしかいないだろう。


石碑の脇に上の地図と説明文があった。写真の赤いところが、かつて鴨島があった地点で、梅原はここで人麻呂は水刑死に処せられたという。鴨島は平安時代の地震と津波で水没したとされている。梅原猛の「水底の歌」には、ここに岩礁があり周辺より浅いとある。”水底の歌”発表後、梅原猛の指揮で潜水調査をしている。
以下は、読売新聞で連載されている平成万葉の旅の人麻呂・島根県益田の項である。
http://www.yomiuri.co.jp/man-yo/20090213-OYT8T00796.htm
梅原の後も現地調査が行われたが、海底に人麻呂神社跡は見つからなかったという。


津和野にて

2009-07-06 21:12:25 | 
”余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森林太郎トシテ
死セント欲ス
 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス
森林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス  大正十一年七月六日
森林太郎言
賀古鶴所書”

という森鴎外の石碑が先週行った津和野にあった。
鴎外は、この遺書を口述した三日後の7月9日に死去している。享年61歳
遺言通り三鷹市と津和野永明寺にある鴎外の墓は「森林太郎墓」とのみ記されているらしい。
森鴎外の作品は、「山椒大夫」と「ヰタ・セクスアリス」しか読んでいない。、「山椒大夫」は安寿と厨子王の胸に迫る話なのだが、幼いころ見た東映アニメの”安寿恋しやほ~やらほい、厨子王恋しやほ~やらほい”と盲目の母が歌う記憶かもしれない。この話を描いた絵が安野光雅美術館にあった。

津和野永明寺には坂崎出羽守の墓もあるらしい。墓には坂井と刻されているらしい。坂崎出羽守は、あの有名な千姫(豊臣秀頼の正妻、家康の孫、秀忠の娘)事件の坂崎である。
当時、江戸に滞在していたイギリス人のリチャード・コックスの日記によると、
”大阪城から千姫を助けだしたら姫を与えるという家康の約束を秀忠に反故にされたため、千姫と本田忠刻の結婚の前日に千姫を無理に奪うと広言した。これを秀忠に咎められ切腹を命ぜられるが従わず、屋敷にこもって抵抗する。秀忠は屋敷を囲み坂崎の家臣に主君を黙って差し出せば家督を19歳の息子に継がせると伝えるが、これを聞いた坂崎は息子を殺した。家臣たちは坂崎を殺し、自分たちの助命と他の子に家督を継がせることを伝えたが秀忠は許さず、藩は潰された。”
”関ヶ原の合戦の戦功により、慶長6年(1601年)津和野藩の領主となり、16年間にわたって藩のためにつくし多くの偉業を残した名君であった坂崎出羽守が、千姫事件を起こしたとは考え難い。”というようなことを、津和野のどこか(安野光雅?)に書いてあった。

イチョウ

2009-07-05 12:03:03 | 賢治

宮沢賢治「真空溶媒」

おれは新しくてバリバリの
銀杏なみきをくぐってゆく
その一本の水平なえだに
りっぱな硝子のわかものが
もうたいてい三角にかはって
そらをすきとほしてぶらさがっている

「宮沢賢治の宝石箱」で板谷栄城は、”硝子のわかものが三角にかわってそらをすきとおしてぶらさがっている”が何を指しているかわからないと言う。結局、賢治の心象風景だと結論付けている。下から銀杏を見上げると、はっぱの隙間から空が見える。木漏れ日がきらきらして、それを硝子のわかものと表現している可能性があるけど、木漏れ日は円くて三角じゃない。三角はやはり日に透かしてきらめく銀杏の葉だと思う。この季節、銀杏の葉は若若しい緑色をしている。木漏れ日は、やさしいけど、時にきらきらしてまばゆい。

「いてふの実」

今年は千人の黄金色(きんいろ)の子供が生まれたのです。
そして今日こそ子供らがみんな一緒に旅に発つのです。お母さんはそれをあんまり悲しんで扇形の黄金(きん)の髪の毛を昨日までにみんな落してしまいました。

 板谷はまた、この詩の、銀杏の実が落ちる前に葉が落ちてしまうところがひっかかると述べている。10年ほど前、北海道大学に行ったちょうどその時、大学門に続く銀杏並木の葉がいっせいに風に飛ばされ、空が一瞬、黄金色の扇形の紙屑で覆われた。広島の冬木神社でぎんなんの実を拾ったときは地面に落ちた葉っぱに隠れた実を探したので、だいたい葉と実は同じころに落ちると思うけど、北大で風が葉を吹き飛ばす様子を思い出すと、そういうことがあってもいいと思う。

20年前、広島の自宅近くの冬木神社で、たまたま見つけたぎんなんを家族みんなで拾った。ぎんなんの実は柔らかくて臭いので、靴の裏でごしごし果肉をそぎ落とし、種だけにしたビニール袋はすぐにいっぱいになった。翌日神社の境内に、”ぎんなん取るな”という張り紙が出た。一心不乱にぎんなん拾いをする、若い夫婦とよちよち歩きの幼子を含む子供の5人をその場で咎めるに忍びなかったのだろう。ぎんなんは茶碗蒸しになり、残りはおやつとして炒って食べた。

PS:イーハトーブ・ガーデン(http://nenemu8921.exblog.jp/11416441/)というブログに、”硝子のわかものが三角にかわって、そらをすきとほしてぶらさがっている”の答えらしきものがあった。


瑞巌寺

2009-07-04 11:39:49 | 徳島
5月の連休に徳島へ帰省したとき、瑞巌寺へ行った。
昭和30年代、新町幼稚園と新町小学校に通っていたとき、境内の大きな松の木と銀杏の木の下は格好の遊び場だった。缶けり、かくれんぼ、たすけ(鬼ごっこのようなもの)、猫の足音、忍者ごっこなどをしたかすかな記憶がある。天狗松の太い枝が大蛇のように地面すれすれまで垂れ下がり、松ぼっくり(松毬)や松葉は時に飛び道具で、ある時は工作の材料になった。地面が見えなくなるほど積もった銀杏の落ち葉は鮮やかな黄色だった。ぎんなんの記憶がないので雄の木なのだろう。
銀杏の木は、残っていたが、天狗松は切株だけが遺されていた。

天狗松は、昭和56年に松枯病のため枯死したらしい。
天狗松のかつての雄姿が額に飾られていたが、寺で撮った写真は不鮮明なので、ネットで見つけた写真を拝借した。

木を枝の下から見ていたので、横に大きく広がった木と思っていたが、写真の木の高さは意外だった。

寺の背後は眉山の山裾になり、そこには、タケノコを取った竹林や忍者ごっこをした椎の木林や岩場がある。

タケノコ取りの思い出
”おそらく小学校低学年のことだった。瑞巌寺の裏山に竹林があった。冒険心やいたずら心からだと思うが柵の破れ目から竹林に入り込むと、タケノコが地面から顔を出していた。すぐに友達と、タケノコを掘り出し始めたのだが、タケノコは地面に出ている部分よりも何倍も深く地面に埋もれていて、汗だく泥だらけになって、まわりの土を木切れや手で掻きだした。やっとの思いで掘り出したタケノコは、太ももぐらいの大きさだったと思う。人の竹林で手に入れたタケノコだったので、着ていたシャツ下に入れお腹に抱え込むようにして持ち出した。夏のことだったのだろう、下着を着ていなかったので、タケノコの皮のうぶ毛がちくちく肌にささった。タケノコの重さと疲れ、うぶ毛がちくちくする痒さと、盗んだという罪悪感で、家までの道のりは地獄のようだったろう。お腹を膨らませて疲れた顔でよろよろ歩く小学生を道行く人はどう見ていただろうと思う。ようよう持ち帰ったタケノコを親に差し出し、人の竹林から盗ってきたと言うはずはないので、おそらく口から出まかせを言ったのであろう。そのでまかせを親はどう受け止めたのだろうと思う。そのタケノコは、その夜の食卓にのぼったはずだが、その頃の私は大の偏食だったのでそのタケノコを食べなかった。”

確認したわけじゃないけど、松島の伊達政宗ゆかりの瑞巌寺とは何の関係もないと思う。徳島の瑞巌寺は当時の武士階級の間で流行っていた臨済宗の寺で、1614年の開山である。蜂須賀家正のお国入りが1586年であり、開山は長男の至鎮(よししげ)の時代(1601~1620)のことである。秀吉の長曽我部征伐に武功をあげた蜂須賀に阿波一国を与えた年が1586年で、阿波踊りはこの時に始まるとされる。

井上靖の西域

2009-07-02 22:23:12 | 中国
井上靖の「遺跡の旅・シルクロード」は、井上靖が58歳になった昭和40年を皮切りに、昭和43、46、48、52、53、54、55年までの15年間で8度シルクロードを訪れた旅の記録である。その旅は、砂漠や道なき道をジープで何時間も揺られていくような過酷なものである。井上靖が敦煌を始めて訪れたのは、名作「敦煌」を世に出してから20年目だった。70歳を過ぎてからは毎年のように敦煌を訪れており執念を感じる。すべてが、井上靖の若い頃からの”西域に対する憧れ”に突き動かされてのものなのだ。
訪問地:中国領東トルキスタン(新疆ウィグル)、ソ連領西トルキスタン(今のトルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギス・カザフスタン・タジキスタン)、アフガニスタン、パキスタン、イラン、イラク、トルコ、エジプトの辺境、砂漠地帯

以下を本から拾った。
  • パミール高原は広い高原地帯を想像するが実は折り重なった山脈と山脈の間のひだひだに人がわずかに住んでいるようなところである。
  • 漢の武帝が派遣した張騫が訪れた大宛国はフェルガナ盆地にある。将軍李広利は張騫の報告による汗血馬を獲るために大宛国の貮師城を攻めた。井上靖が京都大学の学生であったころ、この城市の位置について日本の東洋史学者の間で大論争があった。李陵は李広利を助けるために兵を率いた。
  • 井上靖は、ヴァンベリー「中央アジアの冒険」19世紀、ランスデル「中央アジア紀行」19世紀、西徳二郎「中亜細亜紀事」19世紀らの紀行文を読んでいる。当然、ヘディン、スタイン、大谷探検隊の記録も読んでいるに違いないし、昔の「史記」紀元前2世紀、「漢書」、法顕「仏国記」5世紀、玄奘三蔵「大唐西域記」7世紀、長春真人「西遊記」13世紀、マルコポーロ「東方見聞録」13世紀、耶律楚材「西遊録」13世紀にも言及している。
  • ”規模壮大に尽きる”と感想したバーミアンの仏跡を含む昭和49年のアフガニスタンの旅には、平山郁夫も同行している。写真は平山郁夫の絵葉書だが、昭和49年の旅での作品かどうかはわからない。
  • イスハハン(イラン)のモスク・マスジッド・イ・シャー(シャーのモスク)は、タージマハール、アルハンブラ宮殿、トルコ・イスタンブールのスルタン・アフメッド・モスクと並ぶ壮大な建築物である。
  • ピラミッドにも、スフィンクスにも、ナイルにも心が動かされなかったが、ルクソールのカルナック神殿には大きな感動を受けた。