備忘録として

タイトルのまま

聖書の旅

2007-07-30 23:03:27 | 
当時ベストセラーになった”日本人とユダヤ人”イダヤ・ベンダサン著という本を、ぱらぱらとめくったことがある。本の冒頭での”日本人は安全と水は無料だと思っている”という説明に、日本を内側からしか見ていなかった高校生の私は無条件で感心したものだった。その後、イダヤ・ベンダサンは日本人のゴーストライターであるという噂を最後に、この本や作者のことはすっかり忘れてしまっていた。
先月末、西荻窪の古本屋で何気なく手に取った”聖書の旅”という文庫本を買ったのだが、やけにイスラエルに詳しいこの本の著者山本七平がどうも”日本人とユダヤ人”のゴーストライターらしいのである。ネット上でいろいろと評論されている山本七平は相当変わった人だった。中にはかなり胡散臭い人物であるように述べているものもあった。このような評価は、彼が名の通った作家でも学者でもなく一書店の店主であったことや著書の中に間違いが多々あることや”日本人とユダヤ人”の著者であることを隠していたことなどに起因しているようだ。しかし、少なくとも”聖書の旅”は博識で情熱的で行動的でなければ到底書けない本だと思った。
”聖書の旅”は旧約聖書ゆかりの地を訪れた紀行文であり、聖書の基礎知識がないと著者の言っていることの半分も理解できない。聖書は、はるか昔、たぶん中学生の頃、縮小版で読んだだけなのでまったくの知識不足なのだが、モーゼが十戒を授かったシナイ山に比定されている山がいくつもあること、また信憑性があるのかどうかはわからないが6世紀に聖カタリナ僧院の建設に駆り出されたルーマニア人の末裔がベドウィン族であるという話とダビデはユダヤ族ではないかもしれないという話などは面白かった。ベドウィン族で思い出すのはアラビアのロレンスが彼らの力を借りて砂漠を横切りトルコが占拠する港町を背後から急襲する映画の場面だ。また、映画インディアナ・ジョーンズに出てくる聖櫃や聖杯もこの本に登場する。
山本七平は1981年時点で9回にわたりイスラエルを訪れ、エルサレム周辺をタクシーで走り回っているのだが、今では到底無理な旅に違いない。

参院選2007

2007-07-29 12:51:10 | 話の種
猛暑の中、近くの中学校に参院選の投票に行ってきた。
帰国後2度目の投票なのだが、今年3月の地方選挙のときの投票所は閑散としていたのに比べ、今回は全国区でもあり与党が大敗するのではという話題性の高い選挙のせいか投票所には大勢の人がいた。
比例区の記入所で、幼児3人をつれた30代前半とおぼしき若夫婦が投票をしていて、旦那が「ゴルフのあいちゃんのお父さんが出てたけどどの党だったっけ?」と隣で記名している奥さんに聞いているのが耳に入った。奥さんは「知らん」という答えであった。
「あいちゃんじゃなく、さくらだろうが~~~!!!!!」
とは突っ込まなかった。
彼らの子供たちは自由奔放に投票所の中を走り回っていた。投票にくるだけ感心だが、前回の郵政解散衆院選で与党が大勝したのも、今回社会保険庁や政治と金の問題で民意がどっと野党に動きそうなのも、この旦那同様、多数の選挙民がイメージで投票していることの現れのような気がする。民意とはこの程度のものなのだろう。

ところで在外邦人に選挙権が与えられたのは、たかだか数年前(2000年)で、本籍地の選挙区の選挙管理委員会から個人的に投票用紙を取り寄せ記名し送り返す方法だったので、期日ぎりぎりになると国際宅急便を使うことになり一回の選挙で5000円ぐらい負担したことがあった。しかも国政選挙である衆参両院選挙の比例区だけの投票に限られていた。前回の衆議院選(2005年郵政解散選挙)と参議院選挙(2004年)から大使館に出向いて投票できるようになった。それでも選挙人登録などの手続きが必要で在外邦人の関心は低く、シンガポールでも投票所はいつも閑散としていて投票者よりも選挙監視員のほうが多かった。今年から、本籍の地方区の投票もできるようになったということだ。

在外邦人の選挙権が議論になっていたころ、シンガポールで客先のゼネコンに建設省から天下った人とゴルフをしたことがあり在外邦人に選挙権が与えられることを話したところ、「国内政治のことはわからないでしょう。」と言われた。お上意識が感じられて不愉快だったが、これが上級官僚の普通の感覚なのだと逆に納得した。この御仁のゴルフは上手で現職時代週に3回はコースに出ていたそうだ。誰の金でプレーしていたのかは推して知るべしと思っている。

Lost Horizon

2007-07-16 11:17:05 | 映画

ジェームズ・ヒルトン原作”Lost Horizon(失われた地平線)”のフランク・キャプラ監督版(1937年)は西荻窪駅近くのレンタル屋にあった。完全なフィルムが残っていないということで途中静止画も含まれていた。桃源郷シャングリラの基本的な哲学は中庸で、争わない、欲しがらない、平穏などがキーワードになっている。大作だが、同じ監督による”或る夜の出来事”の出来にははるかに及ばない作品だった。ただし、高校時代に見たオリビア・ハッセーのLost Horizonは、あのオリビアがシャングリラの外で老婆に変貌する衝撃的な場面しか覚えていないので、それよりはメッセージ性が高いのかもしれない。フランク・キャプラは複数のエンディングを作っていたらしいが、今回観たのは主人公が苦難の末にシャングリラの入り口を見つけるところで終っていた。
シンガポールの有名なシャングリラホテルには、”Lost Horizon"というディスコが少なくとも1980年にあったが今はない。シンガポールのシャングリラには泊まったことがないが公私で何度も利用した。中華料理レストランの”Shang Palace"は高かったがよく利用した。1983年ごろ日本からの友人と昼飯を食べに行ったのだが、友人が半ズボンだったため隅の席に座らされ注文した食皿が次々と出てきて”早く食って帰ってくれ”という態度があからさまだった。我々はいかにも怪しい集団だったので店の格式を考えると入場を拒絶されても文句が言えず笑い話ですませ、その後もよく利用した。日本料理店の”灘万”はさらに高級で知り合いの家族がうまいものを食べようと入ったがあまりの値段に驚き”うどん”を食べてそそくさと出てきたというが、灘万のうどんはさすがに感激で飲み下し難かっただろうなと想像できる。クアラルンプール・シャングリラも含め灘万では何度か食事をしたがいずれも人の金だったので余裕で美味だった。
昨年2月に家族旅行でバンコクに行ったときに、シャングリラホテルに泊まった。リバークルーズ用のホテル所有の船に”Horizon II”という名が使われていて、アユタヤからバンコクまでチャオプラヤ川クルーズに乗った。1991年のバンコクでの学会で某有名教授と食事をしたとき、教授のお嬢さんが5月の節句に”ちまき”を食べる由来を間違って述べたのを、楚の屈原が憤怒で汨羅(べきら)に身を投げた無念を人々が鎮魂してちまきを川に投げ入れたことに由来すると正したのがここの”Shang Palace"である。
一昨年、中国の雲南省へのシャングリラツアーに参加したシンガポール人の同僚が、埃っぽい街で観光地化していたとがっかりして帰ってきた。桃源郷は小説や映画の中にしかないのが現実のようである。

***********ポスター(IMDb)と以下を追記 2 Dec 2014*************

「Lost Horizon」1937、監督:フランク・キャプラ(「It Happened One Night、或る夜の出来事」、「You Can't Take It with You」)、出演:ロナルド・コールマン(「Randam Harvest、邦題:心の旅路」)、ジェイン・ワイアット、トーマス・ミッチェル、白黒で保存状態が悪く画面が見ずらく、途中途切れて静止画像を使うほどの状態だった。映画の最後、雪山深くシャングリラへの入口の道しるべを見つけた場面は感激した。★★★☆☆

「Lost Horizon」1973、監督:チャールズ・ジャロット、音楽:バート・バカラック、出演:ピーター・フィンチ、リブ・ウルマン、ジョージ・ケネディー、マイケル・ヨーク、オリビア・ハッセイ、ジョン・ギールガッド、豪華配役のミュージカル、特に音楽を担当したバート・バカラックは、大人気の映画「明日に向かって撃て」の”Raindrops keep fallin' on my head"の作曲家でもあり、当時”男と女”や”ある愛の詩”の作曲家フランシス・レイと並んでもっとも有名な映画音楽家の一人だった。この映画のサントラ盤レコードを持っていた。youtubeで再見したがシャングリラでのエピソードがありきたりで感動は少なかった。高校時代の初見のときも期待が大きすぎた所為か少しがっかりした記憶がある。★★☆☆☆ 


耶律楚材

2007-07-08 22:51:49 | 中国
陳瞬臣の中国ものでモンゴル帝国の幹部であった契丹人の話である。チンギス・ハンの戦いを耶律楚材の目を通して客観的に見る設定が面白いのだが、小説に枝葉末節がつくのは当たり前とは思いながら、道教集団との密約とか妻とのエピソードなどのフィクション部分は、早く結論を知りたい私のような物臭な読者にとっては蛇足でしかない。小説は過程を楽しむもので単なる知識を求めるだけの人間には向かないし、そんな人間は百科事典を見ていたほうがましかもしれない。
さて、小説の内容は、ジンギスカンによるモンゴルの世界帝国建設がその初期において殺戮、破壊、略奪に明け暮れた征服戦争であったものを、耶律楚材は次のハンであるオゴディに進言し、様々な民族、文明、宗教を受容する大帝国になったということである。そのため、帝国にはキリスト教、イスラム教、仏教、道教、モンゴル人、色目人、契丹人、女真族、漢民族が混在していた。ただ、耶律楚材の実像は元史にその名が見えないことなどから、宰相ではなく通訳または秘書官レベルだったという説もあるそうだ(Wikipediaによる)。
歴史の大河の中では、ちっぽけな人間はその流れに逆らえないように思うものだが、その流れを起こすのも流れを変えることができるのも人間なのである。この小説の教訓はこんなところかな。もうすぐ参院選だけど流れを変える選挙になるだろうか。