備忘録として

タイトルのまま

陽剣・陰剣

2010-11-06 17:07:09 | 古代
東大寺の大仏の須弥壇の地中で見つかった剣2ふりのエックス線写真を撮ったところ、”陽劔”、”陰劔”の文字が浮かび上がった。というニュースが流れていた。この剣は、正倉院の古文書に記録された陽宝剣と陰宝剣に”除物”と付された2剣であると断定され、光明子(光明皇后)が759年12月26日に正倉院から持ち出したことがわかっている。大仏開眼は752年、聖武天皇の崩御は756年のことである。
光明皇后は、東大寺や国分寺建立を聖武天皇に進言したり、貧しい人を救う悲田院や医療施設の施薬院を建て、藤原氏の氏寺の興福寺の五重塔や聖武天皇の病気平癒を願って新薬師寺を建てた。このように、光明皇后は仏教に深く帰依し、夫を愛し、慈悲にあふれた人という印象があったが、梅原猛によると、怪僧の道鏡を寵愛したとして有名な娘の孝謙天皇と似たようなところがあったらしい。


左:正倉院の古文書(朝日新聞)         右:興福寺の東金堂と五重塔(Wiki)

光明皇后は、当時の最高権力者である藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘で皇族以外で初めて皇后になった。犬養三千代は軽皇子(のちの文武天皇)の乳母であったが、夫の美努王が筑紫に単身赴任している間に不比等の後妻になる。夫のいない間に、乳母として後宮で力を持つ三千代に目をつけた不比等が言い寄ったのか、不比等の力に目をつけた三千代が言い寄ったのか、美努王を左遷したのは不比等という説もある。このような二人を父母に持っているのだから、彼女だけが純真無垢であるはずはないともいえる。

梅原猛の「塔」の中で語られる光明皇后は、当時の政権の中心にいた同じく不比等の子供である藤原4兄弟が次々に亡くなった後、僧侶の玄とただならぬ仲になる。藤原4兄弟のいない政界において、光明皇后の寵愛を背景に玄は同じ遣唐使だった吉備真備とともにコンビで権力をふるった。このとき聖武天皇は健在だったが、妻の不義にうろたえた天皇は家庭的な不安から都を転々と移し、心のよりどころとして大仏建立を思い立つ。光明皇后の甥である藤原広嗣(ひろつぐ)は、この状況を憂え、”玄と吉備真備を除く”として反乱を起こすが逆に討伐されてしまう。天平17年(745)から19年(747)の間に、聖武天皇の病気、玄の左遷と死、新薬師寺の建立があった。新薬師寺は、聖武天皇の眼病治癒を願って建てられたとされるが、自分の不倫を懺悔する意味もあった。だからこそ、新薬師寺の薬師如来とそれを守護する十二神将は、あのようにいかついものでなければならないのだ。と梅原は言う。
玄の相棒だった吉備真備は唐から陰陽道を持ち帰り、日本の陰陽道の始祖とされている。ここにおいて、光明皇后の陽剣・陰剣が陰陽道に結びつくのである。

吉備真備が持ち帰った陰陽道は当時の日本で相当流行っていた。陰陽道は古代中国で始まった思想で、儒教の経典の易経の基本思想である。史記列伝第5巻の儒林列伝に、商瞿(しょうく)が易経を師の孔子から教授されたと書かれている。漢の時代になり董仲舒(とうちゅうじょ)は「春秋」にあらわれている天上と地上の異変によって陰と陽の二つの気がいかにいりまじって作用をおこすかを研究した。司馬遷は董仲舒から春秋を学んだ。
太史公自序で、”陰陽家の術は、ものの前兆を最も重んじ、タブーがたくさんある。人々を拘束し、恐怖を多くする。しかし、四季の大いなる順列を秩序だてていることは、見のがされてはならない。”、”陰陽家によれば、四季、八卦、黄道十二宮、二十四節、それぞれの教令がある。それにしたがうものは栄え、さからう者は死ななければならず国を滅ぼすというが、必ずそうとも限るまい。だから、人々を拘束し恐怖心を多くするというのだ。いったい春は万物を生じ、夏はそれをのばし、秋は収穫し、冬は貯蔵する。これに従わなければ天下の綱紀のたてようがない。”
司馬遷は、陰陽説の四季に従う点は認めつつ(四季に従うのはあたりまえのこと)、従わないものは滅びるというような人を拘束し恐怖を与えるような教えは否定する。司馬遷の合理主義とバランス感覚はここでも素晴らしい。

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