備忘録として

タイトルのまま

おくりびと

2008-09-28 15:05:51 | 映画
秋分の日に”おくりびと”を観た。
本木はうまい。映画を観終わった後なぜか、山田洋次監督の”武士の一分”はキムタクでなく本木が演じるべきだったと思った。

”おくりびと”2008年 監督:滝田洋二郎、出演:本木雅弘、広末涼子、山崎努
この映画で、死生観、宗教、神など最近ずっと気になっていることを自分自身の人生や死ではなく、別の視点(納棺師や遺族の側)から考えることができた。これまで肉親を送り出し遺された者の心の有り様については考えたことがなかった。臨終までは死にゆく者との人生を振り返る余裕などないだろうし、肉体の消滅した火葬後ではすでに過去のできごとになってしまう。納棺師の仕事を見守る遺族の反応から死者と遺族の人生が垣間見えたように、その時間は死者との人生を振り返る最も大切な時間であり、だからこそ通夜があるのだが、葬式などの形式に忙殺され静かな時間が持てないのが常だ。古代、持統天皇は2年も殯(もがり)の期間(死から火葬まで)があったそうだ。映画で杉本哲太が泣き崩れたように、棺桶に点火される瞬間が遺族にとって一番つらい時というが、老父母を持ち唯物論者で、無宗教、無神論者である私は、その瞬間をどう迎えるだろうか。広末の演技に目をつぶり★★★★★

山片蟠桃、毛沢東、アシモフ、マルクスらは無神論者として有名で、アインシュタインを無神論者とする説もある。逆に、アインシュタインさえ晩年は神を信じたという説もあるが、今年5月ロンドンで競売にかけられた哲学者に宛てた手紙の中で「宗教は子どもじみた迷信にすぎない」、「わたしにとって『神』という言葉は人間の弱さの産物という以上の何物も意味しない」など、神の存在を否定する内容となっているので、これは嘘だといえる。科学で宇宙の摂理を証明しようとしたとき、宇宙や生命の深淵に直面する科学者が絶対者のような存在を感じ取ることはありうるが、それが世俗の宗教における神と同等のものとは到底思えない。
無神論をネットでサーフィンしているとき、Wikiのパロディーサイトである”アンサイクロペディア”を発見した。”アンサイクロペディア”では、昭和天皇も「マッカーサーからあなたはもう神ではないと言われたとき、”あっそう”と即答した」ことを理由に無神論者とされる。

Goodbye Mr. Chips

2008-09-26 23:31:17 | 映画
先日、ジェームズ・ヒルトンの有名な小説のミュージカル映画”Goodbye Mr. Chips"をBSで観た。この映画は、中学卒業の春、すなわち高校進学が決まり、受験勉強から解放された人生で最も幸せな時に、進路が異なり離れ離れになる友人数人と徳島ホールで観た。その翌日、別の友人仲間と同じ映画を見る約束をしていたところ母親にいつまでぶらぶらしているのと叱られ断念した思い出の映画である。

”Goodbye Mr. Chips (邦題:チップス先生さようなら)”1969 監督ハーバート・ロス、主演:ピーター・オトゥール、ぺトラ・クラーク
今回、40年ぶりに観たのだが、白髪のチップス先生が校庭に立ち尽くす場面と奥さんの踊りしか覚えていなかった。二人のなれそめとなるポンペイ遺跡での出会いなどはまったく覚えていなかった。逆に、新婚旅行に自転車で出かけると思っていたのは、まったくの記憶違いで、何か別の映画の記憶が誤って刷り込まれていたようだ。伝統的なイギリスの男子校の規則に厳しい堅物先生が、どういうわけか、はなやかな舞台女優と結婚し、彼も生徒も学校も彼女から影響を受け少しだけ伝統を崩しながら心を通わせていくという淡々としたストーリーで、どちらかといえば地味な映画である。あのとき映画を観たあとすぐに原作の小説を買って読んだ上に、その後も「失われた地平線」や「鎧なき騎士」などのJames Hiltonの小説を読み繋いでいるので、よほどこの映画が気に入ったのだろう。はるかな思い出が愛おしいので★★★★☆

ピーター・オトゥール出演映画は、この映画と前後して”アラビアのロレンス”、”見果てぬ夢”、”マーフィーの戦い”、”ロード・ジム”などを映画館やテレビで立て続けに観た。

What happens in Vegas

2008-09-03 21:52:15 | 映画
ベガスの恋に勝つルール(What Happens in Vegas) 2008 監督:トム・ヴォーン 脚本:デイナ・フォックス 主演:キャメロン・ディアズ アシュトン・カッチャー
宣伝ポスターを見た瞬間、面白そうじゃない映画だと鑑賞を放棄したのに、ネットの映画評や娘の推薦で日曜日に観にいった。下ネタ満載のラブコメ(romatic comedy)だがお買い得だった。300万ドルを自分のものにしようとする二人の駆け引き、特にアパートでのバトルやカウンセラーへの報告、ボスのホームパーティーは抱腹ものだった。キャメロン・ディアズの顔のアップからは彼女の年齢が垣間見えたが、サンドバッグにけりを入れる運動神経には感心した。予想に反し、★★★★☆



阿Q正伝

2008-09-02 00:15:23 | 中国

若い頃、読んだはずだが、再読中も記憶が蘇ってこなかった。おそらく『阿Q正伝』や他の話の内容が理解できなかったか、感銘をうけなかったからに違いない。今読むと「うーん」とうなってしまう不思議な話ばかりがこの短編集には収められている。短編集の書名は”吶喊(とっかん)”というのだが、これは戦いにおいてあげる雄たけびの意味である

魯迅が仙台の医学校(現東北大学)に留学中、授業が早く終わったとき、「日露戦争でロシア軍のスパイを働いた中国人を日本の兵隊が処刑する場面を中国人の群衆が無表情に取り囲んでいる」スライドを見て、同胞の病気を直すより精神を直すために文学運動を起こす気になったと、吶喊の自序で述べている。「若いころに感じていた寂寞を麻痺させるために、自分を国民の中に埋めたり、自分を古代に返らせたり、もっと大きな悲しみを自分に体験させたり、外から眺めたりした。思い出すに堪えない、それらを私の脳とともに泥の中に埋めてしまいたいものばかりである。とはいえ、私の麻酔法は効き目があったらしく、青年時代の慷慨悲憤はもうおこらなくなった。」と言いながら、章末では「あのころの寂寞が忘れられず吶喊の声が口から出てしまう。」と白状している。

阿Qは、社会の底辺で普通なら敗者としてみじめな人生を送るべきところを、精神的勝利法という不思議な思考法で前向きに生きているのだが、知らず知らずのうちに社会の流れに巻き込まれてしまう。私も何か我慢しなければならないことに出くわしたら、程度の差はあれ精神的勝利法を使っているような気がする。自分の意見が通らなかったときは「今回だけは譲っておいてやるが、次はそうはいかないぜ。」と陰でうそぶいてみたり、他人の怒りにふれたときは「10分も怒りに付き合ってやれば、ストレス発散になっただろう。」と俯いて舌を出したりするのは精神的勝利法そのものだ。
狂人日記の自分は、まわりの人間がすべて食人鬼に見えてしまう狂人の話である。

続けて、堀川哲男『林則徐』を読んだ。アヘンの流入を阻止することに力を注いだ愛国者・林則徐は、私の「one of the most respectful Chinese」である。科挙に若くして合格した秀才だが、学問の人ではなく行動の人だった。堀川によると、アヘン対策の任に就かなければ、無名のまま静かな人生を送っていたに違いないという。
学生時代、私が大学教養部で受講した中国史で、唐の科挙を教える先生が変わっていた。教室に入るや否や、あいさつもそこそこに先生は黒板に向かいひたすら科挙のことを板書するのである。先生は黒板が字で埋まると最初に戻って既に書いた部分を消しながら次の文を書く。それを私たち学生は黙々とノートに書き写していった。この間、いっさい発言はなく110分の授業は終わる。授業の異常さだけは鮮明に覚えているが、授業の中身はまったく覚えていない。ましてや、科挙とは何であったかを覚えているはずもない。しかし試験は持ち込み可のノートから出たので単位をゲットするのは容易だった。
林則徐は、その業績や行動記録から、沈着冷静で計画的な男というイメージを持っていたが、「情熱家であり、少しばかりそそっかしく、短気な一面ももっていた。」という。「制一怒字」という扁額を掲げ、反省したという。科挙の試験の採点が煩雑で不合理であったため改善案を提案するなど、合理的な考えの持ち主でもあった。彼の合理主義はアヘン取締りに十分に発揮され、取締りを開始して期限を設け期間内にアヘンをやめたものやアヘンを廃棄したものには罪を免じ、アメリカなどのアヘン禁止に柔軟な国を強硬なイギリスから引き離す策をとり、イギリスに対しては硬軟取り混ぜた対応を行ったように、アヘン撲滅を達成する姿勢は明確だった。

シンガポールに英国系の"Jardine Mazeson & Co"という貿易会社があり、これはこの本にも登場するアヘン商人JardineやMazesonの末裔である。たしか、酒類などを取引していたはずだ。

アヘンの取り締まり道半ばにして、林則徐は辺境の伊犂(イリ)(現中国の西辺)に左遷される。しかし、その地での生活は暗いものではなく、むしろ楽しんでいた風がある。彼が解任されなければアヘンの取り締まりは成功し、中国はアヘン戦争の敗北による屈辱的な条約を結ぶこともなかっただろうと言われているが、この本を読んで彼の性格、実行力や施策の緻密さを見ると決して過大評価とは言えないと感じる。