備忘録として

タイトルのまま

殺生石2

2017-08-19 15:45:01 | 中世

 今年のお盆は車で仙台に行った。途中、かねてから訪れたいと思っていた殺生石に立ち寄った。殺生石は那須高原保養地の末端にある。場内に入るとすぐに硫黄臭が鼻を突き、殺生の正体が判明した。殺生石は火山の那須岳山麓に位置しているのだ。芭蕉が殺生石のあと立ち寄り「田一枚植て立去る柳かな」と詠んだ遊行柳は、場所がよくわからず行けなかった。車で仙台を目指したもうひとつの目的は、黒磯の九尾の釜めしを40年ぶりに食べることだった。昼時を見計らって釜めしを売っているという東北自動車道の上河内サービスエリアに立ち寄ったがタッチの差で売り切れだった。残念!!!!

 殺生石のあと道すがら案内板で見つけた藤城清治ミュージアムに立ち寄った。予定外で入ったこのミュージアムは、藤城の大作が数多く展示され素晴らしかった。館内は写真撮影禁止だったのが2度目の残念!!!

 仙台からの帰路は常磐道を使った。下の写真は、道路沿いで見かけた放射線量表示板と除染物質の仮置き場である。その日の最高線量は、写真のように時間当たり2.8マイクロシーベルトだった。相馬~いわき間を約1時間半で走行したので被ばく量は約4マイクロシーベルトになる。国際放射線量防護委員会(ICRP)が設定する1年間の制限量が1ミリシーベルトとされているらしいから、その日浴びた放射線量は、制限量の0.4%(=4/1000)ということになる。片道13時間の東京ニューヨーク往復飛行で浴びる放射線量は0.2ミリシーベルトということである。自分はその半分の6時間半で東京シンガポール間を年12回往復しているので、年間1.2ミリシーベルトを浴びている計算になる。

福島原発の廃炉にはまだ何十年もかかる。これこそ原子力という妖怪が生んだ殺生石だ。


沈黙

2017-06-04 13:55:01 | 中世

 遠藤周作原作をマーティン・スコセッシが映画化した。江戸初期、幕府によるキリスト教弾圧下で布教するイエズス会宣教師の実話をもとにしている。原作は読んでない。写真はIMDbより。

 イエズス会の若い宣教師ロドリゲスとガルぺは、自分たちを指導した宣教師フェレイラが日本での布教中に棄教したという噂を聞く。その真偽を確かめるため、ふたりはキリスト教弾圧下の長崎に上陸する。そこには、幕府の弾圧から逃れ信仰を貫く隠れキリシタンがいた。拷問を受けながらも信仰のために死んでいく人々を目にし、ロドリゲスはキリストの絵を踏めと教え、ガルぺは信仰を貫くべきだと主張する。別々の場所で布教を続けるがやがて二人とも捕らわれの身となる。ロドリゲスの目の前で、簀巻きにされたまま海に投げ込まれる信者たちを必死で助けようとしガルぺはおぼれ死ぬ。幕府の責任者である井上は、ロドリゲスが棄教すれば拷問を受けている村人たちを助けてやると持ち掛ける。拷問を受け死んでいく村人を前にロドリゲスは神に祈るが神は何も教えてはくれなかった。どうすればいいかわからず苦悶するロドリゲスの前に、棄教し仏教徒の沢野忠庵として幕府の為に働くフェレイラが現れ棄教を勧める。葛藤の後、ロドリゲスは棄教し、幕府の監視下で日本人妻を娶り仏教徒岡本三右衛門として江戸で生涯を全うする。火葬されるロドリゲスの手には十字架が握られていた。

 信仰に殉じ命を落とすガルぺと、棄教するロドリゲスが対照的に描かれる。殉教と棄教と結果はまったく異なるが、信仰を貫こうとする崇高な意志に違いはなかった。カソリックは自殺を禁じているため、ロドリゲスは自死によって自責の苦しみから逃れることはできなかった。二人の関係は、小説『李陵』で中島敦が描く、李陵と蘓武の関係に似ている。匈奴に捕えられた李陵は心の中ではいずれ匈奴から逃れ漢のために働くことを決意し、一次的に匈奴に恭順したように見せかけ匈奴の妻をめとり匈奴のために働く。一方、同じく捕えられた蘓武は匈奴の説得に応じず、荒野に人知れず打ち捨てられながらも漢への忠誠を貫きとおしている。李陵がいかに「やむを得なかった」としても、蘓武の生き様はそれを許さない。蘓武の存在はずっと李陵を苦しめる。

 今まで、悩んだとき道に迷ったとき宗教は答えを用意してくれると思っていた。ところが生死を賭けるほどの信仰心が試されるとき、神は何も語り掛けてはくれない。結局、無宗教の人間と同じように自分で決めるしかない。黒田官兵衛は秀吉の禁教令下で棄教するが、秀吉の死後行った自身の葬式はキリスト教式だった。棄教はうわべだけだったのである。映画のロドリゲスも同じだった。やむ負えず棄教した人間は死後救済されるのだろうか。映画のキチジローはキリスト教を信じてはいるが自分の身が危うくなれば躊躇なく背教する。仲間さえ密告し裏切る弱い人間だとロドリゲスに告白し、ロドリゲスは躊躇しながらも彼に神の祝福を与える。浄土真宗なら悪人が救済されることははっきりしている。キリスト教も死後の救済があるのだろうか。高山右近は信仰を貫き追放されマニラで没し、死後400年にして福者になった。後世の評価として背教者と福者には天地ほどの差があるが、その烙印は神の意志なのだろうか。神の前で信仰心の厚い薄いが試されるのだろうか。

 ザビエル来日から禁教までのキリスト教関係史を理解するため略年表を記す。

  • 1549 ザビエル来日
  • 1580 フロイスが織田信長に拝謁
  • 1587 細川ガラシャ入信、秀吉禁教令のため高山右近は領地を没収される
  • 1596 サン・フェリペ号事件
  • 1597 二十六聖人の殉教(カソリック信者が長崎で磔の刑に処せられる)
  • 1604 黒田官兵衛死去しキリスト教式葬式を行う
  • 1613 支倉常長が仙台を発つ
  • 1614 徳川禁教令
  • 1615 高山右近マニラで死去、支倉常長がローマで法王に謁見
  • 1616 鎖国令
  • 1620 支倉常長が仙台に戻る
  • 1633 拷問の末フェレイラ棄教
  • 1637 島原の乱
  • 1643 拷問の末ジュゼッペ・キアラ(映画のロドリゲスのモデル)棄教
  • 1685 ジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)火葬

 『Silence 邦題:沈黙』2016、原作:遠藤周作、監督:マーティン・スコセッシ、出演:アンドリュー・ガーフィールド(ロドリゲス)、アダム・ドライバー(ガルぺ)、リーアム・ニースン(フェレイラ)、イッセー尾形(井上様)、浅野忠信(通訳)、窪塚洋介(キチジロー)、塚本信也(モキチ) ★★★★★


鉢木

2015-11-23 11:20:10 | 中世

一昨日21日、円覚寺の人出が想像以上だったので、混むのを嫌い早めの昼食をとろうとネットで調べていた東慶寺近くの”鉢の木”という精進料理店に急いだ。11時過ぎだというのに店の前にはもう行列ができていて、席に着けたのは12時ちょうどだった。私は入れ子膳(下写真)、妻は半月点心を注文した。普段口にしない上品なものだった。

店名の”鉢の木”は、元寇のときの執権だった北条時宗の父である北条時頼を主人公にした謡曲の題である。

ある大雪の夜、一人の旅僧が下野国佐野の庄のあばらやを訪ね一夜の宿を借りる。主人である武士は貧しい中、粟飯を出し身の上話などをして僧をもてなす。夜が更けて次第に寒くなるが焚火の薪がなく、武士はおもてなしに大事な鉢の木を切って焚火にしようとする。僧は止めようとするが、

シテ(武士) それがしもと世にありし時は、鉢の木に好きあまた持ちて侯へども、かやうに散々の体と罷り成り、いやいや木好きも無用と存じ、皆人に参らせて候ふさりながら、いまだ三本持ちて侯、あの雪持ちたる木にて侯、これは梅桜松にて、それがしが秘蔵にて候へども、今夜のおもてなしに、この木を切り火に焚いてあて申さう
ワキ(旅僧) 以前も申すごとく、おん志しは有難う候へども、自然またおこと世に出で給はん時のおん慰みにて侯ふ間、なかなか思ひも寄らぬことにて侯
シテ(武士) いや、とてもこの身は埋れ木の、花咲く世に逢はんことは、今この身にては逢ひ難し、
ツレ ただ徒らなる鉢の木を、お僧のために焚くならば、
シテ(武士) これぞまことに難行の、法の薪と思しめせ、
ツレ しかもこの程雪降りて、
シテ(武士) 仙人に仕へし雪山の薪、
ツレ かくこそあらめ
シテ(武士) われも身を

旅僧が名を尋ねたところ、武士は佐野の源左衛門という名で、一族の横領によって落ちぶれたことを明かす。しかし、落ちぶれたとはいえ

シテ(武士) かやうに落ちぶれては侯へども、今にてもあれ鎌倉におん大事出で来るならば、千切れたりともこの具足取つて投げ掛け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に弛せ参じ着到に付き、さて合戦始まらば、敵大勢ありとても、敵大勢ありとても、一番に破つて入り、思ふ敵と寄り合ひ、打ち合ひて死なんこの身の、このままならば徒らに、飢えに疲れて死なん命、なんぼう無念のことざうぞ。

と、鎌倉のために死をかけて闘う決意を語る。年が明けて春になり、突然鎌倉から招集の触れがあり、佐野源左衛門も千切れた具足を身にまとい錆びた薙刀を持ち痩せ馬に乗って鎌倉に駆け付ける。

ワキ(旅僧じつは時頼) やあいかにあれなるは佐野の源左衛門常世か、これこそいつぞやの大雪に宿借りし修行者よ見忘れてあるか。今にてもあれ鎌倉におん大事出で来るならば、千切れたりともその具足取つて投げ掛け、錆びたりともその薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に馳せ参ずべきよし申しつる、言葉の末を違へずして、参りたるこそ神妙なれ、まづまづ今度の勢使ひ、まつたく余の儀にあらず、常世が言葉の末、まことか偽りか知らんためなり。

佐野源左衛門の「いざ鎌倉」がうそではなかったことを確認した時頼は、自分があの夜の旅僧であることを明かし、そのときの返報として、鉢の木の梅、桜、松にちなんだ領地を与える。

「鉢の木」は観阿弥・世阿弥の作と言われ、その後、歌舞伎の演目に取り入れられ誰でも知る有名な話となる。戦前は小学校の教科書にも採用されたという。ネットの日本語俗語辞書の「いざ鎌倉」の項を紐解くと、”現在では一部の中高年を除き、ほとんど使われなくなっている”とあり、死語あつかいである。一部の中高年に該当する自分は、この説明に悪意を感じた。

実際の北条時頼は、1227年に生まれ36歳で死去し、息子の時宗同様、早死である。1246年19歳で第五代執権となり、1256年29歳のとき執権を退き出家する。「鉢の木」は時頼が晩年諸国を遊行したという伝説から生まれた話で正史にはないらしい。


いざ鎌倉

2015-11-22 19:38:00 | 中世

中国の正史『元史・巻二百八・外夷一・日本』によると、元の世祖(フビライ)は至元3年(1266年)以降、高麗を通じて何度も日本に使者を送り、国交を結び朝貢するように促すが、その都度無視されるか使者が大宰府に留め置かれ進展がなかった。至元11年(1274年)、世祖は船900艙を仕立て1万5000の兵士を乗せ言うことを聞かない日本を攻撃させた。

「冬10月、其の国に入り之を敗る。而れども官軍整わず、又矢尽きて、唯だ四境を虜掠して帰る。」 

これが『元史・日本』に記録された文永の役の記録である。文永の役もその後の弘安の役も神風が吹いて元軍は敗れたと思っていたが、この記録から文永の役は日本側が矢が尽きた元軍を追い返したように読める。

翌、至元12年に再び国書を送ったが返事がなかった。至元17年に日本は元の国使を殺した。至元18年(1281年弘安の役)、元は十万人の遠征軍を日本に送るが、全軍を失った将軍たちが還ってきて、「日本に至り、大宰府を攻めんと欲せしに、暴風、舟を破る。猶も戦いを議せんと欲せしが、(配下の将たちが)節制を聴かず、すなわち逃げ去る。」ので、自分たちは、残った兵を連れ帰ったと報告した。ところが、その後まもなく敗軍の兵卒が戻り、将軍たちの報告がうそだったことが暴露される。五竜山(平戸の東の鷹島とされる)で暴風雨に会ったあと将軍たちは10万の部下を捨て、自分たちだけが逃げたというのだ。

「官軍、六月海に入り、七月平壺島(平戸)に至り、五竜山(鷹島)に移る。八月一日、風、舟を破る。五日、(范)文虎等の諸将各自ら堅好の船を択びて之に乗り、士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して主師と為し、之を号して張総管と曰い、其の約束を聞く。まさに木を伐りて舟を作り還らんと欲せしに、七日、日本人来たりて戦い、尽く死す。余の二、三万、其の虜となりて去る。九日、(日本人は)八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍を謂いて唐人と為し、殺さずして之を奴とす。閶輩是也(私たちがその例です)。」

八角島は博多のことだとされている。10万以上の兵からなる元軍は、平戸の近くの島で暴風雨にみまわれ船を失くした。戦意を喪失した上層部だけが逃げ帰り、残された兵卒たちはそこに来た日本軍に惨敗し多くが捕虜になったというのが弘安の役の真相であった。

この1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の元寇のときの第八代執権が北条時宗で、元の国書を無視し、使者を追い返したり殺したりしているように、元に対して強硬姿勢を貫いている。国難を説く日蓮を佐渡に流したのも時宗である。下写真の円覚寺は時宗が1282年に元寇の戦没者を追悼するため創建した臨済宗の寺である。円覚寺の開山(寺院を創始すること)である中国僧の無学祖元は時宗の招きに応じ1279年に来日する。

昨日11月21日(土)は、JR北鎌倉で電車を降り、まず近くの円覚寺に行った。円覚寺はもみじの紅葉で有名だということだったが、見頃はまだ少し先だった。右の三門の扁額は”圓覚興聖禅寺”とあり伏見上皇の直筆によるという。伏見上皇は第92代天皇で、あの『とはずかたり』の後深草天皇の第2皇子である。時宗は満32歳で死去しここ円覚寺に埋葬されている。

円覚寺から駆け込み寺の東慶寺に行き、そこから鶴岡八幡宮へ行く途中、下の写真の建長寺に寄った。建長寺は、時宗の父である第五代執権・北条時頼に招かれた中国僧の蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)により1259年に創建された。円覚寺の開山である無学祖元は1279年に没した蘭溪道隆の後継として招かれ建長寺の住職も兼ね、1289年にここで没した。894年遣隋使は廃止されたが、鑑真以来、仏教界の交流は続いていたのである。写真の三門の下でお坊さんから有り難い法話を聞いた。昭和の初めに臨済宗に山本老師という盲目の僧がいた。山本老師が僧になる前、四国八十八か所を回り何順目かの冬、とある臨済宗の禅寺の前で行き倒れになる。山本老師はそこの住職に助けられ寺男となり、その後偉い僧になった。大東亜戦争終戦の時、山本老師は、「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」ということばを首相の鈴木貫太郎に進言し、その言葉が天皇の終戦の玉音放送に採用されたという。この山本老師の話と臨済宗の開祖の語録を記した臨済録に書かれた「だまされるな」という言葉とのつながりがよくわからなかった。右下写真は、柏槇(びゃくしん)というヒノキ科の大木で、木の前には開山の蘭溪道隆が中国より種を持ってきて蒔いたという案内板が立っていた。樹齢760年、樹高13m、周囲6.5mである。

 建長寺から鶴岡八幡宮へ行き、参道を逆に由比ガ浜まで歩いた。鎌倉大仏へは行かず由比ガ浜を西に向かい、由比ガ浜駅から江の島まで江ノ電に乗った。江の島の片瀬海岸の沖合には無数のウインドサーフィンの帆が浮かんでいた。11月でもサーファーは熱いのだ。帰路は江の島から小田急に乗った。歩き疲れて乗ったロマンスカーでは新宿まで爆睡だった。

 


細川ガラシャ

2015-02-28 14:45:14 | 中世

黒田官兵衛は秀吉のキリスト禁教令で一度は棄教したが、秀吉の死後、キリシタンに復帰し彼の葬儀はキリスト教式だったことは以前書いた。それと、当たり前の風習だった側室をもたなかったのは、官兵衛が敬虔なカソリック信者だったためかもしれない。そのNHK大河ドラマ『黒田官兵衛』に、高山右近とオルガンティーノは登場したのに、細川ガラシャが出なかったのは残念だった。ドラマでは、会津の上杉攻めで家康に従った大名たちの大阪に残った妻子を石田三成が人質にとろうとしたとき、官兵衛と長政の妻女は家来の機転で逃げ出した。しかし、有名な細川ガラシャの最期は描かれなかった。

細川ガラシャは、自分を人質にしようと家に押しかけてきた三成の捕り手を前に自害した。しかし、カソリックで自殺は認められていないので家臣に胸を突かせたともいわれる。ただ、たとえ家臣の手を借りたとしても本質的には自殺であることに相違ないので、当時のイエズス会あるいはカソリック教会が、細川ガラシャの自害をどのように解釈あるいは評価していたのかは気になるところだった。それを解説したのが安延苑『細川ガラシャ・キリシタン史料から見た生涯』中公新書である。

背景 

細川ガラシャは明智光秀の娘で、本名を明智玉といい、ガラシャは洗礼名である。明智光秀と縁の深い細川藤孝の嫡男である忠興に嫁したあと本能寺の変(1582)が発生する。本能寺の変で細川藤孝は明智に与せず、突如出家し幽斎と号し家督を忠興に譲る。本能寺の変のあと秀吉に敗れた明智一族は絶滅し、ガラシャだけが生き残った。秀吉を憚った忠興はガラシャを離縁し、一時、味土野(京丹後市)に幽閉する。そこでガラシャは次男の興秋を生んでいる。2年の幽閉ののち秀吉の許しを得てガラシャは復縁するが、謀反人の娘という烙印はついてまわる。

キリスト教への帰依

イエズス会の史料によると、1587年2月21日復活祭の日に、ガラシャが突如、大阪の教会を訪れたという。夫の忠興が九州に遠征中のことである。フロイスは翌年ローマに送った『日本年報』や自著『日本史』の中で、そのときのことを詳細に記している。夫の忠興はキリスト教のことを懇意にしていた高山右近から聞いていてそれをガラシャに話し、それまでの宗教に満たされないものを感じていたガラシャはキリスト教に強い関心を持つようになったという。大阪の教会でガラシャに対応したのは、スペイン人でイエズス会士のセスペデスと日本人修道士イルマン・コスメであった。『1587年日本年報』には、イルマンが”私は日本でこれほど理解力があり、これほど日本の諸宗派について知っている女性には会ったことがない”といって感嘆したことが記されている。彼女は、イルマンから聞いたキリスト教の教えに満足し、その場で洗礼を受けることを望んだが、セスペデスは彼女が秀吉の側室であった場合のことを危惧し許可しなかった。その後、彼女が細川の妻女であることを知り皆喜んだという。

受洗

ガラシャは最初に教会を訪問した後、忠興の命で幽閉状態にあったため再訪できずにいた。その一方、彼女の計らいで周囲の者たちは次々と受洗していった。そうこうするうち、同じ年の6月に秀吉がバテレン追放令を発布し、彼女の受洗の機会がさらに遠のいてしまった。しかし、ガラシャは追放令によってバテレンが京大阪からいなくならないうちに洗礼を授けてくれることを強く願った。ガラシャのゆるぎない信仰を知る教区長のオルガンティーノは、すでに受洗をしていた侍女マリアを介してガラシャに洗礼を授けること代洗を決める。ここでガラシャと言う洗礼名が与えられる。

戦国期の婚姻

当時の日本では、武将とその妻妾の間で離婚と再婚は茶飯事であった。生き残るため近隣の有力者との縁組が頻繁にあり、黒田長政も蜂須賀家から嫁いできた糸を離縁し、家康の養女を後添えとして迎えている。妻から離婚を申し出ることもよくあったらしい。カソリック教会は原則として離婚を認めていないため、日本に来たイエズス会士はこの日本の婚姻の習慣がキリスト教布教の障害になると考え、何度も本部にこの問題を諮問し、対応法について議論している。イエズス会の巡察師ヴァリニャーノは布教のためその地方の習慣に自分たちを適応させる適応主義をとり、戦国時代という日本の特殊事情を考慮し、異宗間婚姻での離婚を認めたが、修道士が離婚に積極的に関与することは禁じた。ガラシャの場合、夫忠興の残忍な性格や彼女自身の殉教願望などが理由で離婚を願っていた。しかし、彼女の場合、夫とは異宗であるが、離婚ができないことを理解したうえでカソリックに入信しているので、離婚は認められないという。離婚が可能な条件に、パオロの特権がある。配偶者が神を冒涜したり信者が背教し大罪を犯す状況が想定される場合などである。しかし、忠興にそのようなことはなかったため、オルガンティーノはガラシャに離婚しないように説得している。

ガラシャの最期とその解釈

忠興は大阪を離れ上杉征伐に出るとき、留守の家臣にガラシャを守って共に自害するよう命じている。ガラシャは三成の軍勢に家を囲まれたとき、自身の体を刺した、家臣に長刀で自分の胸を突かせた、長刀で介錯させたという3つの説がある。いずれをとっても、カソリックが禁じた自傷行為であることには相違ない。ガラシャは夫から命じられた自殺についてオルガンティーノに質問している。すでに自害することを決意しているガラシャの質問の内容は自殺の是非ではなく、この死がキリシタンとして許されるかどうか、神の意志にそむく行為かどうかということであった。

オルガンティーノは、ガラシャの死は自殺ではないと回答したと作者の安延苑は推測している。イエズス会の巡察師ヴァリニャーノは、名誉のための切腹が重んじられる日本では”死が回避できない状況で名誉を守るための自殺は許される”という定見を持っていた。ヴァリニャーノと同じイタリア人であるオルガンティーノも、ガラシャが読んでいた『ジェルソンの書』の「私について来たい者は、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失うものは、それを得る」というキリストのことばを根拠に、ガラシャは忠興の妻であるという十字架を背負ったまま命を失うことでキリストに倣い、キリストについていくものになったと解釈したのだと、安延苑は書く。だから、オルガンティーノはガラシャの死を殉教としたのかもしれない。自殺をうんぬんする以前に、キリストに従う、運命に従う、神の意志に従うことは殉教であるとすることで、ガラシャの最期を正当化したのである。ガラシャは死に臨み「我々の主の御旨に従って、その手にあるものとして亡くなった」と史料は伝えている。

細川ガラシャ辞世の句

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

”散るべき時を知っている人こそ、人としての価値がある”と言うのだが、ガラシャはその時を待ち望んでいたように思う。三成の軍勢に囲まれたのは細川家だけでなく他の多くの大名家も同じだったが、黒田官兵衛父子や加藤清正や加藤嘉明の妻女は逃げているので忠興の自害せよという言葉がなければ逃げることもできた。しかし、本能寺の変以降、ガラシャは謀反人の娘という烙印を押され厭世的に生き、離婚願望があっただけでなく自殺願望もあったと思う。散るべき時をずっと捜していたように思う。そして、そのときがきて司祭の確約を得て、背教にならず確信を持って心安らかにキリストのみ旨(ではなく神のみ旨か? 2017.4.16追記)に抱かれて死ぬことができた。もともと自殺願望のあったガラシャがオルガンティーノら教会をうまく利用したかもなんてことを言うと、何も知らない無宗教の人間が、敬虔なキリスト教徒である細川ガラシャを冒涜したと非難されるかもしれない。 

ところで、今年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』の視聴率がかんばしくないらしいが、野山獄でも吉田松陰の浩然の気は素晴らしかった。いよいよ松下村塾に英才たちが集まってくる。


黒田官兵衛

2014-12-23 03:26:27 | 中世

先日行った愛知県の出張先の受付の女性は蜂須賀さんだった。徳島出身の自分にとって藩主筋のお方であらせられるので恭しく接した。黒田長政に離縁された糸(蜂須賀小六の娘)は、その後の余生を徳島で過ごした。長政は徳川方につくことを鮮明にするため関ヶ原の戦いの直前に糸を離縁し、家康の養女を正室に迎えた。長政は目的達成のためには妻をさえ捨てる冷徹な男である。そのため、蜂須賀家と黒田家は江戸中期まで仲が悪かったらしい。今度、帰省したときには弔いに糸の墓所である臨江寺(眉山の麓)に行ってみよう。

21日の日曜日、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は、藤の花の下に佇む黒田如水の面影に光(てる)が縁側から微笑みかける場面で終わった。官兵衛が荒木村重によって幽閉された土牢の中から眺めて生きる望みをつないだのが藤の花で、黒田家の家紋である。NHK大河ドラマを終わりまで観たのは2010年の「龍馬伝」以来だ。司馬遼太郎の『播磨灘物語』や同時代の時代小説からの知識をもとにドラマで語られるエピソードの品定めに飽きなかったことと、思い入れのある戦国武将の一人だったからだ。「平清盛」や「八重の桜」を途中で断念したのは、もともと人物に魅力を感じてなかったからで、ドラマの出来不出来とはあまり関係ないように思う。

劉邦の軍師だった張良と同じように、軍師官兵衛は智謀と軍略をもって主人を助け戦国の世を生き抜いた。ある時期、官兵衛と同じ立場、同じ条件にあった小寺政職や荒木村重や安国寺恵瓊や小西行長や石田三成らは皆滅んでしまった。その時々のターニングポイントでの選択が運命を分けたということである。荒木村重謀反のときは、主人の小寺は村重につくが、官兵衛は家老でありながら主人に反する選択をし恩顧や情に流されなかった。それは勝ち馬に乗るといった単純で消極的な選択ではなく、自分の力で選択を正解にしようという極めて積極的・能動的なものだった。官兵衛は秀吉を選び、戦略家として秀吉を動かし、そして勝たせた。最終回で如水が一度も戦いに負けたことがないと言ったとおり、負け戦はしなかった。また、キリスト教信者仲間の高山右近や茶道仲間の千利休が失脚する中で保身できたのも、小さな領地に甘んじ秀吉の顔色をうかがい的確に身を処したからだと思う。ここも張良に通じる。

息子の長政も官兵衛と同じで、石田三成や小西行長が豊臣恩顧を貫き反徳川に動いたのに対し、長政はいち早く豊臣に見切りをつけ徳川方についた。石田三成と仲が悪かったからだとされているが、長政の場合は加藤清正や福島正則とは異なり、冷静に天下の情勢を見定め、積極的に徳川を選択したと思う。そうでなければ関ヶ原の直前に正室を取り替えることまではしなかったはずだ。さらに長政は、関ヶ原の戦いを勝利に導くために小早川と吉川を調略し戦闘でも際立った活躍をし、自分で自分の運命を切り開いた。息子長政が徳川にすり寄ったのとは異なり、官兵衛は関ヶ原の動乱に乗じて九州で版図を広げ、関ヶ原で疲弊した相手と天下を争うつもりだったという。しかし、関ヶ原の戦いはわずか1日で終了し、あっという間に天下の大勢は徳川に決したため、官兵衛は征服した九州の地を徳川に返上する。この天下を狙う場面は、官兵衛が何度も戦乱の世を終わらせる大義を言っていたのと矛盾する。官兵衛は結局、大義に生きたのではなく野心を秘めた合理主義を貫いたのだと思う。その点、伊達政宗も官兵衛と似ていて、隙あらば天下を狙っていたと思う。それこそ乱世の英雄というものである。そして、彼らを抑え込んだ家康が一枚上だったともいえる。Hillary Clintonは6年前、”Bloom where you are planted”と言ったが、それは現状に甘んじるという意味ではなく、時期が来れば花を咲かせるために大統領選に打って出るということだったのである。ただし、ひとたび立てば必ず勝つ、負け戦はしない、でなければならない。

出家し仏門に入り如水を号したはずの官兵衛の葬儀はキリスト教式だったという。官兵衛は秀吉が禁教令を出したときに棄教したので、秀吉の死後、キリスト教徒に復帰したということである。禁教令のときにキリスト教信仰を貫いた高山右近とは対照的で、官兵衛の合理主義がうかがえる。この合理主義は、官兵衛の祖父が利で動く商人あがりだったことに由来しているのかもしれない。

信州の真田家は、関ヶ原以前に、兄・信幸が徳川方、父・正幸と弟・幸村(信繁)が豊臣方につき、一族滅亡のリスクを分散する賢い選択をしたように言われている。しかし、昌幸の反徳川の選択は、元の主人で恩顧ある信玄のかつての敵だった家康を嫌ったという情に流されたものとも言われ、客観的な情勢判断を軽視し賢い選択とは言い難い。個人的、心情的には昌幸・幸村親子のような信義に殉じた生き方に共感する。だから、石田三成に殉じた友人の大谷刑部や家臣の島左近も好きである。ただし、滅びの美学に憧れるのはドラマの中や他人事の場合だけであって、実社会においては黒田父子の合理的な生き方を選択するのではと思う。

以下、ドラマを見ていて感じた疑問である。

  • 晩年は警戒され、ほんとうに秀吉と微妙な関係になったのか
  • なぜ荒木村重は官兵衛を殺さず幽閉したのか
  • 長政と後藤又兵衛の仲違いの理由はなんだったのか
  • 官兵衛に側室はいなかったのか
  • 官兵衛のキリスト教信心の深さはどれほどだったのか
  • 光秀の謀反の理由も判然としない

 来年の大河ドラマは、吉田松陰の妹で久坂玄瑞の妻となる文(ふみ)が主人公である。松陰は好きだが、視聴しつづけられるだろうか。 


俊寛

2013-05-04 18:18:21 | 中世

シュリーマンが日本を訪れたときに通過した”Iwogasima” (その1その2その3)のことを調べていたときに、俊寛が喜界島(薩摩硫黄島)に流されたことを知った。俊寛は後白河法皇の側近で清盛ら平家を覆そうとする鹿ケ谷の陰謀に加担し、陰謀が露見して流罪になる。平家物語には”鹿の谷”と”足摺”の巻があり、鹿ケ谷の陰謀と喜界島に流された俊寛のことが語られる。

平家物語「鹿の谷」と「足摺」の概要

鹿の谷にある俊寛の山荘に、成経らは何度も集まり平家滅亡の陰謀を練っていた。山荘には後白河法皇も足を運んだこともあった。しかし、事は露見し、陰謀に加わった俊寛、藤原成経、平康頼の3人は喜界島に流される。

流罪になって何年か後、都より赦免状を持った使者・基康が喜界島に来る。しかし赦免状に成経、康頼の二人の名はあったが俊寛の名はなかった。成経、康頼を乗せた船に俊寛は取りすがり、自分もせめて九州まででも連れて行ってくれと懇願するが、船は無情にも島を離れて行く。

平家物語をもとにした俊寛の話は、その後脚色されて能、歌舞伎、人形浄瑠璃、小説、戯曲で取り上げられた。特に島に残される俊寛の心情についてそれぞれの作品が異なる描写をしている。鹿ケ谷の陰謀が1177年、喜界島に赦免の使者が来るのが配流の翌年の1178年、俊寛の下人の有王が島を訪れ俊寛が自害したのが1179年とされる。

能「俊寛」

平家物語同様、ひとり赦免状が出されなかった俊寛は、他の二人を乗せて島を離れる船にとりすがるが、無情にも打ち捨てられ、渚でうずくまり泣き叫ぶ。二人は「都へ帰れる日は来る。心をしっかりと」と俊寛に声をかけるが、その声も遠ざかり船影も消えてしまう。

歌舞伎「俊寛」・人形浄瑠璃「平家女護島」

使者の持ってきた赦免状に自分の名前がなく俊寛は絶望するが、追いかけてきた別の使者が俊寛の赦免状をもたらし俊寛は一転安堵する。成経の島での妻・千鳥は自分もつれていってくれと使者に頼むが、赦免状には3人しか連れ出せないと書いてあるとして使者は千鳥の懇願を取り合わない。俊寛は、都に残した妻が清盛に殺されたことを知り都で妻と暮らす夢を失くしてしまったため、自分の代わりに千鳥を船に乗せる。しかし、いざ船が動き出すと俊寛は孤独感にさいなまれ船に取りすがる。打ち捨てられた俊寛は岩山に登り島を離れる船に向って声をかけ続ける。船影がみえなくなると絶叫とともに幕がおりる。

先日亡くなった中村勘三郎が2011年10月島で野外歌舞伎「俊寛」を上演した。

芥川龍之介「俊寛」

島に残された俊寛は悠々と島で生活をしていて、赦免状の使者が来た時のことを後日尋ねてきた下人の有王に語る。都では琵琶法師が自分の悲哀を大げさに語っているようだが、赦免状に自分の名前がなかったとき自分は冷静で、なぜ自分だけが赦免されないかその理由を考えていたという。そのとき島で一子をもうけていた成経は、女房と子が自分たちも連れていってくれと船にすがるのに、無情にも無視する。憤慨した俊寛は船に向って罵詈雑言を浴びせ、船に向かって返せ返せと呼びかけたというのである。琵琶法師が語る俊寛と真相は違うという話。

菊池寛「俊寛」

島に残された俊寛の後日談。島に残された俊寛は、最初は自分の不遇を嘆き悲しみ自殺まで考える。ところが、都の衣服を脱ぎ捨て、生きるために漁をし畑作を始めるようになると、煩悩が去り身体も精神もタフに変化してきて、島が浄土のように思えてくる。いつしか都のことを忘れ島の娘と結婚し子をもうける。後日、平家も滅び都へ帰ることも可能になったと下人だった有王が告げに島を訪れたとき、別人になっていた俊寛は有王に向かって自分は死んだことにしてくれと言う。

倉田百三「俊寛」

登場人物4人の戯曲。使者の船が来る前の場面で、俊寛、成経、康頼の3人が登場し、俊寛は他の二人をなじるなど都を偲ぶ心が強く精神が病み始めている。彼を落ち着かせるため成経と康頼は船が来ても俊寛一人を置いて都に帰ることはしないと誓う。やがて船が来て使者の赦免状に俊寛の名がないことがわかる。二人は以前の誓いを反故にし俊寛を置いて島を出る。残された俊寛は恨みと絶望の中、島で餓鬼のような生活を送る。そこに下人だった有王が訪れ、俊寛の妻や子がすでに死んだことを告げる。それを聞いた俊寛は、自分を島流しにした清盛とその一族を呪うため、自分に怨霊がとりつくことを願いながら岩に頭を打ちつけ自死する。有王は俊寛の亡骸を抱いて崖から身を投げる。

芥川龍之介・菊池寛、倉田百三の作品は青空文庫で読める。


ザビエル

2013-03-31 22:28:41 | 中世

 フランシスコ・ザビエル(1506~1552)はスペインのバスク地方に生まれた。司馬遼太郎は「街道をゆく~南蛮のみち~」でザビエルが生まれ育ったバスクのザビエル城を訪問する。10代の終わりにザビエル城を出たザビエルは1525年にパリ大学に入学し11年間そこで哲学を学ぶ。ザビエルは大学生活の後半にイグナティウス・デ・ロヨラ(1491?~1556)に出会う。1534年28歳のとき、モンマルトルの丘でロヨラ以下6名はイエズス会結盟の誓いをし、その後ザビエルはインドのゴアを本拠地としてアジアでの布教に乗り出す。

ザビエルは1549年に鹿児島に上陸し、平戸、博多、山口、京都、豊後などを巡り2年ほど日本に滞在し布教活動を行う。司馬遼太郎の「街道をゆく」から、ザビエルが立ち寄ったであろうと思われる街道で、司馬遼太郎がザビエルやイエズス会の事を書いたであろう思われる場所を探した。

島原・天草の諸道

ザビエルは鉄砲伝来の6年後1549年8月に鹿児島に上陸した。ザビエルは、”東インド地方で発見された国々のなかで、日本の国民だけがキリスト教を伝えるのに適している。”とイエズス会本部に報告している。司馬は当時の日本には一神教を受け入れる土壌があったというのである。それは、”仏教の教義と言語は僧侶が独占し、民衆はただ僧と寺院と仏像を敬するにとどまり、たとえばインドのように輪廻が肉体化していなかった。”という理由によるという。観音信仰に阿弥陀信仰が加わり、ただひたすら如来の救済を待つと日本の土壌がキリスト教的土壌と類縁しているのだという。”仏教は、万有の本体をもっとも豊かなゼロと見、みずからの精神をゼロにすることをもって究極の目的とする。中世の僧侶といえども、真にゼロになりえた者はまれである。”(空の理論)。このように中世の仏教は民衆には何も語りかけなかった。拠るべき規範のなかった民衆はキリストの教えに強い感激を持ったというのである。

 この司馬の解釈を否定する知識も材料も見識も持ち合わせてないのだが、仏教に対する偏見を感じるとともにキリスト教が受け入れられた理由も少し違うような気がする。フィリピンなどは国をあげてキリスト教徒になったが、日本ではそこまでキリスト教が広まったわけではない。日本人の精神性がキリスト受容に適していたと言うよりは、日本人の教養の高さがキリスト教の教説を理解するレベルにあり、そのため布教に適しているということをザビエルは言いたかったのではないだろうか。

平戸

イエズス会ほど異教に非寛容であった会はなさそうである。当時の宣教師は大名を入信させることに熱心でひとたび入信に成功すると領内の神社仏閣をことごとく取り壊させたという。このことが、後のキリシタン弾圧につながった。

横瀬・長崎

ザビエルといっしょに1549年に日本に来たトーレス神父は、その後21年間日本に滞在し、キリスト教の布教につとめた。1580年大村純忠は長崎をイエズス会に割譲し教会領とする。イエズス会は領内の神社仏閣をすべて焼き払い、ポルトガル人は長崎のことを、”ドン・バルトロメオ港”と呼んだ。これは大村純忠の洗礼名である。ポルトガルに力があり、秀吉の中央国家の力が弱ければ、長崎はマカオや香港のようになっていたかもしれないと司馬は記す。長崎が教会領だったのは7年間だけで、その後禁教令を経てイエズス会は追放される。写真の人形は1992年頃長崎で買った高さ5㎝ほどの伴天連(パードレ=宣教師)人形で首が赤べこ人形のようにふらふらと揺れる。同時に買ったビードロはいつの頃にか壊れてしまった。

長州路

ちょうど重臣の陶晴賢が主君の大内氏に対し叛乱を起こした1551年、ザビエルは大内義隆の保護を受けていて山口にいた。このとき義隆は自害し、ザビエルは家臣のナイトンドノ(内藤殿)の寺院に隠れて兵乱が納まるのを待った。

 司馬は「南蛮の道」の中で、日本のキリスト者の中には神と親鸞の阿弥陀如来を近いものと感じている人がいるが、それは正統的な考え方ではなく、”すべてが救われるという親鸞的な世界には、偽善がないかわりに、敬虔、崇高、高潔、あるいは純潔といった要素もすくなくないようであり、キリスト教とくらべ、美学的にはどこか寝ころんでよだれを垂らしている感じがしないでもない。”と、親鸞の教え(浄土真宗)に対し辛辣な言い回しをしている。しかし、山折哲雄や梅原猛の解説する浄土真宗の教えは、司馬が言うような寝ていても成就する受働的で怠惰な教えではなく、極楽往生した人は菩薩となってこの世に戻ってきて衆生を救済しなければならない(往相廻向と還相廻向)というものなのである。司馬の「空海の風景」は読んでないが、ある人の書評によると司馬の空海解釈は偏向したものであるといい、また梅原猛は「空海の風景」を批判して司馬と絶交したと言われている。「南蛮の道」で語る親鸞への偏った見方をみると、空海の思想に対しても偏った見方をしているのだろうと思わざるを得ない。

15年ほど前、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んでいた頃は司馬の意見を無条件に首肯していたが、今読み返すと”ほんとうかよ!”と声を上げたくなるようなところが多々あることに気づく。知恵がついてきたのか、ただものごとを批判的に見るようになっただけなのか、いずれにしても当時の自分とは違う新しい自分を発見できるようでかつて読んだ本を読み返すのも楽しい。


高山ユスト右近

2013-01-26 15:39:52 | 中世

正月明けからシンガポール、ジャカルタ、フィリピンを廻っている間にアルジェリアで天然ガス工場が襲われる事件が発生し他人事とは思えずブログに触れる気力がわかなかった。昨日、シンガポールに戻ってきた。

約1週間のフィリピン出張に合わせてH・チースリク著「高山右近史話」を携行して読んだ。正月に”今年もブッダ探求の年になりそうだ”と言った舌のねも乾かないうちに異教に手を出してしまった。

高山右近のことは戦国キリシタン大名で禁教令により国外追放になりフィリピンで死んだという程度の知識しか持っていなかった。本は聖母の騎士社が出版し聖母文庫と名づけられたシリーズであり、著者は日本に布教で来たドイツ人神父であることから、宗教色が強いことを覚悟で読み始めた。しかし、日本の古文書と文献、イエズス会文書やフロイス書簡などを広く引用し、高山右近の信仰と生涯を客観的に著述しようとする著者の姿勢が明瞭に伝わってきた。良著だと思う。

高山右近の生涯を本書から抜き出す。

  • 1552 摂津高山に高山飛騨守の長男として生まれる
  • 1564 12歳で受洗 クリスチャンネイムはユスト 父飛騨守はダリオ、母はマリア、妻ユリア
  • 1573 信長の配下荒木村重に属し高槻城主となる
  • 1578 荒木村重が信長に叛旗したとき、父ダリオは村重に従うが、右近は信長に味方する。
  • 1582 本能寺の変 山崎の合戦では秀吉の先陣となる。
  • 1583 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方との局地戦に敗れ敗走する
  • 1585 秀吉の紀州、四国征伐に従軍し、功を上げ明石に移封される
  • 1587 キリシタン禁令下り領地を没収され追放される。小西行長の所領・小豆島に匿われる。
  • 1588 前田利家に預けられ金沢に住まう
  • 1590 前田家に属し小田原攻めに参加する
  • 1591 千利休切腹
  • 1592 朝鮮出兵の際、名護屋で秀吉に引見し茶会にも招かれる
  • 1596 サン・フェリペ号事件
  • 1598 秀吉没
  • 1600 関ヶ原の戦い 東軍家康に味方した前田利長に属し北陸の西軍大聖寺攻略
  • 1614 徳川禁教令により国外追放 加賀を去り長崎からマニラへ到着
  • 1615 マニラ到着後40日目、2月3日に熱病のため64歳で死去

キリスト教と茶の湯

右近は千利休の弟子7哲とされ、同じく7哲の細川忠興や蒲生氏郷とは茶道によって結ばれた友人だった。忠興の妻は有名な細川ガラシャ(明智光秀の娘)で右近の影響でキリシタンになったという。7哲のうち蒲生氏郷、牧村政治、瀬田掃部がキリシタンであり、茶道に造詣の深い黒田如水と小西行長もキリシタンである。千利休の時代は茶の湯の黄金時代であるとともにキリシタンにとっても最も華々しい時代であったが、それは偶然ではなく、茶の湯の”和敬静寂”の精神とキリストの説いた清貧、貞潔、愛(アガペ)は相通ずるところが多いからではないかと筆者は言う。茶室に会する人々は強い精神体によって融和することから、キリスト教的な個人と神との一致に繋がるというのである。

セミナリヨ

若い信徒を教育し布教のリーダー、キリシタンのエリートを養成することを目的とする学校をセミナリヨといい、最初のセミナリヨは九州の有馬に建てられた。京都にも建設を計画していたが、右近の提案で信長の城下町・安土に建てることになった。安土のセミナリヨは本能寺の変が起こったため活動期間は短く、変後、高槻に移された。セミナリヨでは、キリスト教だけでなく、ラテン語、日本文学、日本の他の宗教学、オルガンやヴィオラなどの音楽の授業もあったという。

禁教令

秀吉は1587年と1596年に禁教令を出す。1987年の禁教令は宣教師の国外追放だったが、政治的圧力で高山右近は地位を捨て、対照的に黒田如水は棄教する。しかし、小西行長や有馬晴信はキリシタン大名のままだったようにこの時の禁教令は不徹底だった。1596年の禁教令では京都にいたフランシスコ派の教徒が捉えられ処刑された。

1614年の徳川禁教令では京都・長崎の教会が破壊され、伴天連(ポルトガル語のパードレ=司祭)は国外追放された。最後のキリシタン大名の有馬晴信は前年に切腹させられている。まだ南蛮貿易は続いていたので禁教は当初徹底的ではなかった。1616年に幕府は鎖国令を出し、それとともにキリスト教弾圧は強まる。島原の乱が起こったのは1637年のことである。

殉教

1587年の禁教令で、右近は秀吉か信仰のどちらを選ぶかを迫られるが、「2人の主に仕えることはできない」というキリストの教えをわきまえ即座にキリストを選ぶ。高山右近の信仰心は強固で1614年徳川禁教令でも”転ぶ”(背教)ことはなく、富も名誉もすべてを捨て信仰に生きる決心は揺るぎもしなかった。良心に従いKingdom of Conscienceを選んだのである。これは宗教そのものであり、それに比べると人間がいかに生きるべきかを説いたブッダの仏教は道徳であり哲学であるということが良くわかる。仏教が宗教になるのはブッダが神格化されてからなのだと思う。

右近夫婦は孫5人を連れ、他の追放者や伴天連の司祭たちとともに長崎を出港し、1614年マニラに到着する。信者だった息子夫婦は1608年に共に死んでいて、マニラに行った5人の孫の最年長は16歳だった。右近はマニラで歓迎を受けるがすぐに熱病にかかり滞在40日で亡くなる(本では”帰天”と記す)。1616年夏に妻ユスタと孫1人が日本に帰ったと記録されているが彼らのその後はわからない。マニラには1977年に建てられた高山右近の銅像があるらしい。

フィリピンはキリスト教信仰が盛んでどんなに小さな集落にも教会が建っている。普通の家に十字架があるので教会だとわかる小さなものから、下の写真のように立派な教会まで様々である。ミンダナオの南部はイスラム教が支配的な地域もあるが、北部は基本的にキリスト教が極めて盛んである。ブトゥアン市の役所や私邸にもキリスト教関係の像や十字架が飾ってある。当地では、聖歌を聞いたり、神にお祈りをしてから会議が始まることもある。

左:マニラ空港前の教会、右:ミンダナオのブトゥアン市空港近くの教会

左:ブトゥアン市のある役所に飾ってある神父像 右:ブトゥアン市のある人の私邸庭にあったマリア像

 


三十三間堂

2011-10-25 00:29:48 | 中世

 9月の奈良京都の旅の続き。9月22日は京都駅から歩いて鴨川を渡り三十三間堂、大谷祖廟、清水寺へまわり、その後バスで銀閣寺へ行き哲学の道を歩いた。

 三十三間堂は、後白河上皇が1155年に御所に造営した。その後焼失し、後嵯峨上皇が再建し、天台座主にもなった室町幕府六代将軍の足利義教が保護した。三十三間堂で有名な通し矢は、西側の120mの廊下を一昼夜で何本矢を射通せるかを競うもので、江戸時代には大変な人気競技だったそうだ。最高記録は、1686年紀州の和佐大八郎という18歳の若者が総矢13053を射て、8133本を通したとあった。休憩を考えずに矢数を24時間で割ると、1分間に9本射てそのうち6割を成功させたという超人的な記録である。子供のころ通し矢をする場面のある映画を見たという、かすかな記憶がある。ネットで調べると、この和佐大八郎を題材にした”三十三間堂・通し矢物語”1945という映画があるので、おそらくこれを観たのだと思う。

三十三間堂(左)  鴨川(右)

通し矢の発射場から的方向を写したもの

 三十三間堂内には千体の千手観音像が並び、さすがにその数には圧倒されるが、観音像はどれも似たようなもので面白味はなく、観音像を護持する二十八部衆が個性的で面白かった。興福寺の八部衆である阿修羅もいる。下の写真の三十三間堂の阿修羅像は興福寺の美少年とは違い猛々しい顔をしている。インドネシアの航空会社の名前になっているガルーダの迦楼羅王(かるらおう)は嘴と羽があるのですぐにわかった。阿修羅と迦楼羅王の写真はいずれも三十三間堂で買った写真集から転載した。タイのYaku(夜叉)も八部衆の一人なので二十八部衆の中にいるのではと探したが見当たらなかった。

 

 下の写真は9月22日お彼岸のお参り客で混雑する大谷祖廟。親鸞の750回遠忌(50年毎の回忌法要)ということだった。ここでお坊さんの説法を聞いた。当初は三十三間堂のあと比叡山の南麓にある天智天皇陵へ行くつもりだったが、道順の勉強不足で行けなかったので、まだ行ったことのない清水寺と銀閣寺の名所を回ることに当日変更した。この変更が失敗だった。人が多すぎたことと訪問の目的がなかったため、見どころもわからず写真撮影もそこそこに急ぎ足で通り過ぎただけになってしまった。天智陵を探しながらでも当初の計画通りにすれば良かったと後悔している。天智陵は次の旅までとっておく。そのときは欲張って大阪太子町の聖徳太子廟と和歌山海南市の有馬皇子のお墓をセットで訪問したいと思っている。

 

大谷祖廟清水の舞台銀閣寺

 


百人一首

2010-12-30 16:36:59 | 中世

我が家の正月の定番は坊主めくりである。坊主と姫のルールに、笏(しゃく)や弓を持った札をひくと一人飛ばしとか隣の札を総取りとか新しいルールを作って家族で遊んだ。歌を詠むカルタ取りもおまけ程度には遊んだ。我が家の坊主めくりのルーツは、正月二日に母の実家に親戚中が集まり大勢の従妹たちと蜜柑を懸賞にして遊んだことに遡る。このように慣れ親しんだ百人一首なのだが、無風流だったため和歌の中身にまで関心は及ばなかった。高校の古典の授業で、子供のころに聞きなれた和歌を勉強したが、いくつか惹かれた歌はあったものの基本的に関心は低いままだった。11月末の東南アジア出張では読みかけの本を忘れ、成田空港の土産物店で面白そうな本を物色したが、他になかったので”これでがまんしようか”という程度の気持ちで谷知子編「百人一首(全)」を買って読んだ。

改めて百人一首の歌人を見てみると、これまでブログで取り上げた人が大勢いることに気付いた。

  • 持統天皇 ”春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山”
  • 柿本人麻呂 ”あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む”
  • 山部赤人 ”田子の浦に うち出でてみれば 白妙の富士の高嶺に 雪は降りつつ”
  • 猿丸太夫 ”奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき”  梅原猛は猿丸太夫を人麻呂と同一人物とする。
  • 参議(小野)篁 ”わたのはら 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟”
  • 菅原道真 ”このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに”
  • 崇徳院 ”瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ”
  • 西行法師 ”嘆けとて 月やはものを思はする かこち顔なる わが涙かな”
  • 清少納言 ”夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ”
  • 紀貫之 ”人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の 香に匂いける”
  • 壬生忠見 ”恋すてふ わが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか” この歌は高校時代の古典の時間に覚えた。

子規は「歌詠みに与ふる書」で、百人一首の撰者である藤原定家をへたな歌詠みとし、やはりへたな歌詠みとされた紀貫之が撰者である古今集はくだらないと酷評している。万葉集は逆に素晴らしく褒めても褒めたりないという。本歌取りという元歌をアレンジするリメイクが流行ったことについて”糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりにござ候”(糟粕=酒かす)と4度も繰り返して酷評している。定家の頃の和歌は、独創的な歌は少なく技巧に走り男が女になって詠むような軟弱な恋愛歌が多いらしい。

文学、美術、音楽には知識と素養がないので子規の評価がいいのか悪いのかよくわからないが、芸術は円熟してくると技巧が先に立って初期の素朴さが失われてくるから、子規のように写実を大切にする原初に戻れ的な運動が起こるのだろう。科学技術と同じで、芸術の世界も絶えず進化しなければならないということと価値観も変化するということだけははっきりしている。

今日は12月30日。明日は大晦日。今年もいろんなことがあった。今年の自分ニュースは趣味に限ると、

1.上原和の講義を受講し、”彦よ彦よ”という鑑真の叫びに感動したこと

2.奈良旅行をして法隆寺や明日香の聖徳太子の息吹に触れたこと

3.知り合いが退職後広島大学の文学部に入り、退職後の人生を考える上で刺激になったこと

4.史記世家と史記列伝を読んだこと

5.孔子に興味を持ったこと

6.AFI 10Top10制覇という新たな目標ができたこと

7.10kmマラソンを走ったこと

8.”坂の上の雲”はもちろんのこと、”龍馬伝”と”てっぱん”が予想外に面白かったこと

来年も面白い年であればと思う。


後白河院

2010-02-14 14:55:05 | 中世
 井上靖の「後白河院」を読んだ。

 4人の語り部が、自分が関わった事件や出来事の中での後白河院の行動を話すうちに、その時代の空気と後白河院の人となりが徐々に判ってくる。4人はそれぞれ日記を残していて井上靖はその中の記述から後白河院に関わる部分を抜き出し、想像の羽を広げて院の性格を描写する。

第1部 平信範 摂関家(藤原忠通・基実)の家司(家老のようなもの) 主人の罪で後白河院より2度処分を受ける。1156年保元の乱から1160年平治の乱まで 日記「兵範記」
平信範曰く、”崇徳院が起こした保元の乱の後、後白河院に味方した信西入道が力を持つが、平治の乱で源義朝に追われた信西入道は自害する。平治の乱に勝利する清盛派の信西入道は死ぬことはなかった。後白河院は入道を見捨てたのであり、そのことがわかった入道は後白河院から疎まれたことを悲観したために自害したのかもしれない。”

第2部 建春門院中納言 後白河院の譲位後の妃である建春門院に仕えた女御 1168年宮仕えから1176年建春門院の逝去まで 日記「たまきはる」
中納言曰く、”平家の権勢が増す中で開かれた鵯合(ひえどりあわせ=鳥の鳴き声を競う)の時、なかなか勝負がつかない中、引き分けになって鳥を鳥籠に仕舞おうとした寸前に中将光能の鳥がひと声鳴いて勝負が決まったこと対し、後白河院が光能卿に、”ぬしに似て、しのびやかに勝ったな”と仰せになった。このとき中納言は、光能卿が少し顔を硬くしたのを見て、後白河院の話し方に容赦のないもの、聞く側のものには心をえぐられるような、はっとするものがあった。後白河院には親しいものも突き放すようなところがあった。建春門院の死後、後白河院と清盛の間は張りつめたものとなったように感じる。”

第3部 吉田経房 平氏政権の実務官僚を務めた後、頼朝の信頼を得て鎌倉と朝廷の中を取り持つようになる 1177年鹿ケ谷事件から1185年平家滅亡後義経が都に凱旋するまで 日記「吉記」
吉田経房曰く、”後白河院が清盛を引き上げたのはそうするしか仕方がなかったのであり、辛抱強く衰える時期を待ち、ひと度すきを見せると常人の及ばぬ素早さで相手を仕留めようとする。心の奥にあるものを決して人に見せようとはしない。建春門院に対しても同じで、院の冷たい眼光のせいで建春門院は早世したのではないか。義仲については早い時期に見限っていた。義経と頼朝の中を裂くようなことは考えていないはずだと言いながら、後白河院の心のうちは伺いようもない。”

第4部 九条兼実 主に関白として六条、高倉、安徳、後鳥羽の4帝に仕えた、その間、後白河院は法皇として権勢をふるう 1185年平家滅亡から1192年後白河院崩御まで 日記「玉葉」
九条兼実曰く、”若しもこの世に変わらない人があるとすれば、それは後白河院であろう。追従者には温かく見え、その他の者には冷たく見える顔を変えることはなかった。意地の悪い冷たさである。例外なくすべての者を敵とみなした。誰にも気を許すことはなかった。”

 小説では、平安時代末期の主だった人物と出来事はほとんど語り尽くされている。白河院と待賢門院の子とされる崇徳院を鳥羽院が叔父子と呼んだことや崇徳院が讃岐に流されて怨霊になったことも語られていた。この時代に対する深い知識と明確な人物像を持っていないと書けない小説だ。
西域で見せた執念や「しろばんば」や「夏草冬涛」などの子供が読んでも面白い自伝、「風林火山」、「額田女王」、「天平の甍」などの娯楽時代小説から井上靖は懐の広い作家だと思っていたが、この作品を読んで改めて作家としてのレベルの高さと奥深さを再認識した。すごい作家だ。

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 バンクーバーオリンピックが始まった。バンクーバーにいる長女に”どうよ”と聞いたところ、窓からモーグル会場のCypressが見えて、ヘリコプターが飛び回ってるということなので雪でも運んでるのだろうか。


UBCから北方を撮った写真なので、遠くの山がCypressの可能性が高い。

開会式でシャチが潮を吹き上げながら泳ぐ場面はすごかった。
上村愛子ちゃんにメダルをあげたかった。上村選手の後を滑るアメリカの選手が転倒した時不謹慎にも”やった!”と声をあげて、二女に「Fairな戦いをしないとだめ!」とたしなめられた。4回のオリンピックで、7位、6位、5位、4位というのだからすごい。次回もがんばるのだろうか。

戦国武将

2009-12-20 22:28:41 | 中世
 最近、歴史好きの女性のことを指す歴女という言葉をよく聞く。9月に神田で偶然飛び込んだ時代屋という古本屋に戦国武将のグッズが置いてあったのに驚いたが、その時代屋がテレビで紹介されていた。店が集計した歴女の戦国武将人気ランキングが以下である。
1.伊達政宗
2.真田幸村
3.石田三成
4.長曾我部元親
5.直江兼継

私の好きな武将ランキングは下の通りで、男性が好きな織田信長や上杉謙信、武田信玄などとは異なり、歴女ランキングに似ている。
1.大谷刑部吉継
2.島左近
3.黒田如水
4.伊達政宗
5.長曾可部元親

滅びの美学を持った武将か、野心が成就しなかった武将たちである。特に1,2位の二人は時代を見通す力がありながら石田三成に殉じた。大谷刑部はボードワン4世と同じくハンセン病(梅毒説もある)で覆面をし戦場では輿に乗っていたという。私の知識のほとんど、おそらく9割以上は司馬遼太郎の戦国物によるもので残りは当時を扱った新書などで補ったものであり、司馬遼太郎の彼らに対する思い入れが伝染したので好みも相当偏っている。「関ヶ原」、「播磨灘物語」、「馬上少年過ぐ」、「夏草の賦」が上のランキング根拠のすべてといってもいい。そして「新史太閤記」、「功名ケ辻」、「国盗り物語」、「戦雲の夢」などを傍証とする。これら司馬作品はすべて学生時代に読んだ。戦国ものとしては、海音寺潮五郎の「武将列伝」、吉川栄治の「宮本武蔵」、池波正太郎の「真田太平記」、井上靖の「風林火山」などを当時読んだが、10年ほど前から時代小説はあまり読まなくなった。フィクションの多い時代小説より、歴史そのもののほうがずっと面白くなったからだ。
 ゲーム「信長の野望」では、伊達政宗がまだ生まれていないので親父の伊達輝宗、長曾可部元親、島津義久らで全国制覇を目指した。

 さて、今日の「坂の上の雲」は第4回 日清戦争だった。真之が部下の死に悩み、子規に会った森林太郎が”戦争の真実を写生してくれ”と言ったように、脚本に戦争賛美を避ける配慮が感じ取れた。今、半藤一利の「聖断」を読んでいるのでチョイ役でも鈴木貫太郎が登場し旅順港攻撃に参加する場面を期待したが出てこなかった。配役にも名前がないので、坂の上の雲には登場しないかもしれない。「聖断」には鈴木貫太郎と秋山真之が日露戦争後の同時期に海軍大学校の教官になり、”海軍の知恵袋と呼ばれた秋山が戦略と戦術をわけて考え、これに戦務という概念をとりいれ、体系づけた理論家”だったことが書かれている。

白峯陵

2009-01-04 15:24:46 | 中世
年末30日に徳島へ帰省の途中、白峯寺へ行った。崇徳院の白峯陵を見るためである。

白洲正子はその著”西行”で白峯には「思いなしか、このあたりには陰鬱な空気が立ち込めており、木にも草にも、崇徳院の”御霊”が息づいているような気配がある」と述べていたので、その気配のようなものが感じられるか知りたかった。梅原猛なら崇徳院の”御霊”ではなく”怨霊”と書くはずで、これが白洲正子の数寄であり美学なのだろう。結論から言うと、御陵に隣接する白峯寺(81番札所)は大黒さんを始め七福神の石像が脈絡なく鎮座し、お大師様の由来がスピーカーから大音声で流れるなど商業化され、霊気を霧散させているように感じた。

保元の乱に敗れ讃岐に流された崇徳院は、
「其力(そのちから)を持って、日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」(保元物語)梅原猛”百人一語”
という誓願を立て、生きながらに大魔王となった。
慈円は”愚管抄”で保元の乱後、源平の戦乱が続き武士の世となったと言ったのは、「皇を取て民となし、民を皇となさん」という崇徳院の呪いのせいかもしれない(梅原猛)。

上田秋成”雨月物語”の巻1”白峯”に崇徳院が出てくる。崇徳院の死後、白峯に行った西行は御陵が高い山の上の木立がわずかにすいた所に土を盛り上げ、石を三つ重ねただけの塚であった。西行が、
「松山の浪のけしきはかわらじを、かたなく君はなりまさりけり」
と詠んで夜更けまで供養していると、「円位、円位」と西行を呼びながら崇徳院があらわれ、
「松山の浪にながれてこし船の、やがてむなしくなりにけるかな」
という歌を返した。その姿は、「真っ赤な顔、膝にまで達する乱れた長い髪、吊り上った白い目、苦しげに熱い息を吐き、柿色のすすけた着物を着て、手足の爪は伸び、さながら魔王のよう」であった。
西行は、再び
「よしや君、昔の玉の床とてもかからんのちは何にかはせん」
と詠んで、あなたが昔天皇であったとしても隠れたあとは皆同じです。どうか昔の夢や恨みは忘れて成仏してくださいというのである。
崇徳院の怨霊のすさまじいこと。

滝沢馬琴の”椿説弓張月”にも崇徳院が登場し、源為朝は白峯で生霊、死霊になった崇徳院に会う。

明治維新の時、明治天皇は有栖川宮を大将軍とする東征軍を発令したとき、朝廷は勅使を白峯宮に遣わし、崇徳院の怨霊が朝敵に味方しないように祈願している。さらに明治天皇は、京都に白峯神宮を立て崇徳院を祀った。天皇家は明治時代まで怨霊や祟りを信じていたということであり、12月31日に行われる宮中祭祀の大祓(おおはらえ)も悪霊祓いの儀式なので天皇家では今も怨霊を信じているかもしれない。

崇徳院の崇と祟り(たたり)の字が似ているのは単なる偶然か?

清少納言

2008-11-22 08:30:45 | 中世
2008年が源氏物語の執筆が始まって1000年ということで様々なイベントが開かれている。学生時代に買った円地文子のほか谷崎潤一郎、与謝野晶子の訳本を本屋で横目に見ていたが、海外を含め多くの人々が訳本を出しているのを新聞の特集記事で知って驚いた。

私と源氏物語との関わりは、中学や高校の古典の授業でさわりを勉強したことに始まり、大学のとき同い年の従兄の面白いという評価に乗せられて買い込んだ円地本を上巻の途中で投げ出したこと、長女が小学4年生のとき“いづれの御時にか、女御・更衣数多さぶらひける中に、いとやんごとなき際にはあらぬが-----”と暗唱してたのに合わせていつのまにか自分も唱和していたこと、2年ほど前に読んだ“私の好きな古典の女たち”の中で瀬戸内寂聴が六条御息所や女三宮や朧月夜などの寂聴好みの女性を取り上げて紹介し、そのあまりに偏った人間観察に辟易としたこと、梅原猛が自著の中で何度も絶賛していること、などが主なもので、結局通読したことがない。

枕草子も同程度で、古典の授業で最初の数巻を読んだが通読したことがない。清少納言も枕草子も梅原猛著“古代幻視”の中の「清少納言の悲しみ」を読むまで何も知らなかったといえる。梅原猛は自著の中で、紫式部に比べ清少納言が不当に評価されているとし、当時の清少納言と紫式部の境遇を比較し清少納言を擁護している。

後世、清少納言が紫式部に比べ過少評価された理由は、紫式部が日記の中で清少納言を批判していることや宮中を下がったあとの落ちぶれた伝承などが一因となっているらしい。
紫式部の清少納言評(梅原による大意をさらに意訳)
「清少納言は賢ぶって学識をひけらかすが、たいしたことはない。こんな人は末は没落するに違いない。この人はささいなことでも”をかし”とか”あわれ”と感動ブルが軽薄すぎる。そういう人の末は決していいものにはならないだろう。」
と極めて厳しい。しかし紫式部は清少納言が宮中を去った後に宮中に入ったので、直接二人が接触したことはなく、枕草子と周囲の評判による評価なのだろう。
伝承
「自宅前を通りかかった馬車が軒先を壊したときに、簾を上げて鬼のような形相でにらみつけた。」古事談・清少納言零落秀句事
「比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めをうけんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し、尼塚という供養塔を建てたという」徳島県鳴門市里浦町坂田 伝墓所
すさまじいかぎりである。

これに対して、梅原猛は、当時の政治情勢を見て、清少納言は零落した藤原道隆の娘で中宮の定子に仕えた女官であり、紫式部は道隆を追い落として権力者の座についた道長側の女官という恵まれた立場にあったことを考慮すると、清少納言への評価は過酷過ぎるという。道長は定子に様々な嫌がらせをしたらしい。清少納言は、人々が定子を見限って去っていく中にあっても、定子が24歳で死ぬまで仕えた。枕草子は零落し宮中を下がったあとに書かれたものだという。
枕草子という題は、古今集にある平貞文の歌
”枕より 又しる人も なきこひを なみだせきあへず もらしつるかな”
の枕から取られていることは明らかである。枕草子321段に、草子を書いたが「隠していたものが露見し涙がとまらない」と貞文の歌と同じ心境が述べられている。枕草子には定子への思慕や道隆一家の置かれた状況、道長の横暴が抑制された形で隠されているという。

悲惨な境遇にあっても「をかし」、「あわれ」と何事も前向きに捉え様とする清少納言の気持ちはいじらしく、その心境を思うと涙せきあへずだ。権力者側の恵まれた立場にいる紫式部の清少納言評は厳しすぎる。清少納言の才能に対する紫式部の嫉妬ゆえだろうと梅原はみている。

徳島に清少納言の零落ぶりを伝える伝承があるということは初めて知ったが、徳島には、空海、写楽や邪馬台国に関する奇説も多く、キワモノ好き・流行りもの好きは県民性なのだろうか。