備忘録として

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唐大和上東征傳

2010-11-21 14:04:32 | 古代

昨日20日、成城大学で開かれた上原和による『唐大和上東征傳』講演会に妻と参加した。主催者による上原和の紹介から講演は始まった。東征傳原文を上原和が解説するもので、東征傳の解釈に1時間、上原和が和上(鑑真)の足跡を訪ねたスライドショウが1時間、合計2時間の講演である。1時間では、東征傳1ページ目導入部と9ページの鑑真の一番弟子である祥彦(しょうげん)が和上の前で死ぬ場面を解説するのが精いっぱいだった。上の資料の書き込みは上原和の解説を一言一語聞き逃さない覚悟でとった私のメモ。
昭和32年に九州の国立大学(九州大学)にいた上原和は誘われて成城大学に移り専門の西洋美術史とドイツ語を教えていた。前島信次の『玄奘三蔵』に出会い”仏教or東洋?”に興味を持つようになった(不覚にも忘れた)。
東征傳の安藤更生による現代語訳も資料として配られたが、上原和によると時代時代にはスタイルがあり、その時代の精神を知るためには原文を読む必要がある。現代語訳では鑑真の精神は伝わらないので原文をぜひ読んでもらいたい。また現代語版訳者の”安藤更生は海南島には行ってない。”と上原和は2度繰り返したが、訳者も鑑真と同じ道を歩かなければ原文の精神を伝えられないということである。平成8年まで教鞭を取っていた上原和は東征傳原文を1年かけて学生と読み解いたという。それを1時間でやるのだから無理がある。と本人。
上原和は昭和39年の6月5日(旧暦)開山忌に唐招提寺を初めて訪れ、講堂の西隅にあるお堂の中の鑑真像を拝観する。当時は3~4人しか訪れる人がなく一日中鑑真像の前にいて疲れたら講堂の屋根を見た。お堂の前にある芭蕉の句碑”若葉しておん目の雫拭はばや”のとおり若葉の季節に和上のまつ毛の1本1本をはっきりとみることができた。
東征傳は真人元開撰となっている。真人とは皇族の最高位で元開という僧侶名を持つ淡海三船による略伝で、元本は鑑真の弟子である思託(したく)撰『大唐伝戒師僧名記鑑真傳』おそらく3~6巻はあったであろうことが広傳されているが今は残っていない。思託は鑑真にずっと従い鑑真を荼毘にふしたのも思託だった。淡海三船は文章博士という役職にあり壬申の乱で天武天皇に敗れた弘文天皇(大友皇子)のひ孫にあたる。
”大和上諱(いみな)は鑑真”、諱とは死後与えられるおくり名。”揚州江陽県の人なり。俗姓淳于(じゅんう)。斉の弁士髠(こん)の後なり。”、淳于とは1000年以上続いていた大変な名門で、司馬遷の史記列伝第14の孟子・荀卿列伝に名前が載っている。淳于髠は斉の6人の弁士の筆頭であった。首都である臨淄(りんし)に稷門という門がありそこにいた学者を稷下の学士と呼んだ。淳于髠は魏(梁)の恵王に招かれたが2度とも一言も発しなかった。恵王がいぶかしく思い訪ねたところ髠は王様の心が他のことに奪われていたので黙っていたのだと答えた。(帰宅後すぐに史記列伝を紐解き淳于髠を確認した。)
”大和上十四にして父に従い寺に入る。---則天長安元年(702)---沙弥(出家)になり菩薩戒を受ける”。菩薩戒とは大乗仏教の菩薩のこと。”景龍元年(707)西京(長安)の實際寺で具足戒を受ける”。具足戒は250の完全な戒律。
鑑真は、”昔聖徳太子が有ってから200年後、---この運に鐘(あた)る。仏法興隆”のために自身が日本へ行くというが、一番弟子の祥彦(しょうげん)は”百無一至”百に一度も到達できないと反対する。これに対し鑑真は、”不惜身命(ふしゃくしんみょう)”何ぞ命を惜しまんと述べ、弟子21人と日本へ向けて出立する。
ここで主催者より時間なので休憩に入りたいという無粋なアナウンスがあった。上原和は、ちょっと待てと、どうしても話さなければならないという9ページに飛び講義(講演ではなく講義になっている)を続ける。
”次に吉州に至る。僧祥彦船上に端坐し思託師に問うて云うに、大和上お目覚めだろうかと。思託答えていわく、眠りよりいまだ起きず。彦いわく今死別せんとす。ーーー大和上香をたき、彦を椅子にすわらせ西方に向かい阿弥陀仏を念じる。彦は一声仏をとなえ端坐し寂然として言なし。大和上、彦(げん)よ彦(げん)よとさけび悲慟かぎりなし”。この部分の朗誦は上原和自身が鑑真になりきり慟哭のようにも感じられ、感動限りなしだった。
このあとスライドに移るが、2枚目の唐招提寺の鳥瞰写真で鑑真像の座すお堂が写真の左手になければならないのに右手にあったためスライドが左右逆転していることに気づく。いいかげんな主催者はこのままお願いしますと言うのを上原和が受け入れるはずもなく、80枚のスライドはたまたま映写機の隣に座っていた私が総入れ替えした。
スライドは上原和が鑑真の足跡をたどる旅で、海南島の市場で売られるウミヘビの写真を見せ、東征傳の”虵海・飛鳥の海”という記述そのままであり(これは上原和の『トロイア幻想』に記述されている。)、鑑真は海南島まで行ってない東征傳は作り話といった小説家がいたが現地は東征傳そのままの土地であった。この小説家のことは今回の講演では名前を伏せて2度話に出したが、『トロイア幻想』でははっきり松本清張と書かれている。スライドの終わりの方で和上が失明したという嶺南を越えて廬山に入る唐のころの山道と、祥彦がなくなり和上が”彦よ彦よ”と慟哭した河の船上で手を合わせる上原和が出てくる。80歳を超えた上原和は不惜身命の覚悟で中国の旅に出たのだと言う。講演は講義からいつの間にか講談に変わっていた。
講演会後、上原和と2~3言葉を交わし名刺をもらった。肩書は成城大学名誉教授、裏面は英語で、Dr.KAZU UEHARA Honorary Professor of Japanese Art History Seijo University
充実の2時間だった。参加者は成城短期大学の同窓会の催物として開催された講演会だったので卒業生とカルチャークラブの会員のような年配者ばかりだった。おそらく私たちが最年少だったと思う。鑑真でここまで面白いのだから、聖徳太子や法隆寺の講演だったらどれほどかと思う。

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