備忘録として

タイトルのまま

有間皇子

2012-05-27 14:02:58 | 万葉

19歳の有間皇子は紀国海南の藤白坂で絞殺された。

有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首

岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸(さき)くあらば またかへり見む      (巻二-141)

家にあれば 筍(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る  (巻二-142)

 653年中大兄皇子は孝徳天皇の意志に反して強引に都を難波から飛鳥へ戻した。一人難波宮に残された失意の天皇は翌年病没し、中大兄皇子の母・皇極が重祚(ちょうそ)し斉明朝が始まる。民に負担を強いる大規模土木工事を行う斉明に対する世間の批判は、斉明を支える中大兄皇子に向けられ、孝徳天皇の遺児である有間皇子は反対派として疑いの目を向けられる。中大兄皇子からの疑惑をかわすため有間皇子は狂人を装う。658年斉明天皇や中大兄皇子らが南紀白浜温泉(牟婁ムロの湯または紀の湯)に行幸した留守中、有間皇子は蘇我赤兄の口車にのってしまい謀叛の罪を着せられ白浜に護送される。そのときの往路か帰路に岩代(今の田辺市の北の日高郡南部(みなべ)町)で死を目前にした絶望的な状況で詠んだ歌が上の二首である。白浜で中大兄皇子に尋問された有間皇子は、”天と赤兄のみが知る。吾はまったく知らず。”と答えるが、帰路の藤白坂(海南市藤白)で絞殺される。第1首・岩代で結んだ松の枝をもしも無事だったら戻ってきてまた見たい、第2首・家にいたら食器に盛る飯を、旅にいるので椎の葉に盛らなければならない、と自己の境遇を嘆く歌は哀切で、1300年も前の皇子の心情が手に取るように心にひびく。これが万葉歌の力であり、後世の古今和歌集などの歌は技巧に走り素朴で切実な感動がなくなる。

中大兄と有間皇子の関係がわかるように系図をつくった。蛇足だが、本来、聖徳太子もその子山背大兄皇子も皇位継承の資格があるのだが、なぜか敏達系に皇位は移っている。

左:海南市藤白にある有間皇子神社   右:有間皇子の墓と歌碑

 有間皇子神社は藤白神社の境内の片隅にひっそりと建ち、藤白神社(藤白王子権現)と比べ悲しいほどみすぼらしい。有間皇子の墓は神社の西に200mほど行った高速道路の高架下を抜け人家を数件やりすごしたところに建っていた。近所の人か有間皇子を哀悼する人が生けたのか墓には花が添えられていた。犬養孝「万葉の旅・中、藤白のみ坂」には、”墓は皇子が絞殺された藤白坂の登り口に明治42年に建てられたものだが、実際の皇子の墓はどこともわからない。追手の丹比小沢連国襲によって絞殺されたのがこの藤白坂である。”とある。

 藤白神社社殿は斉明天皇の白浜行幸のときに建てられたというから有間皇子が絞殺されたころである。神社の境内には樹齢1000年以上という大きな楠があった。南方熊楠の熊と楠は藤白神社で命名されたらしい。

藤白の み坂を越ゆと 白たへの わが衣手は 濡れにけるかも  作者未詳(巻九-1675)

翼なす あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ  山上臣憶良 (巻二-145)

岩代の 崖の松が枝 結びけむ 人は反りて また見けむかも  長意吉麻呂ナガノオキマロ (巻二-143)

岩代の 野中に立てる 結び松 心も融けず 古思ほゆ    同上 (巻二-144)

 天智天皇時代にはばかられていた有間皇子への同情は、壬申の乱(672)以降、表立って上のような歌が詠まれるようになる。当時は皇子の結び松と伝える松があったのだろう。岩代には昭和10年建碑の結び松記念碑があり小松が植えられていたが、昭和38年8月道路拡張のためとりはらわれたのは惜しい。と犬養孝は嘆く。犬養「万葉の旅」には移建前の結び松の碑の写真が掲載されている。ただし、改訂版「万葉の旅」に、碑は昭和39年6月28日、近くの西岩代バス停付近に再建された。とある。今回の旅では確認しなかった。白浜の湯(紀の湯)には658年斉明、中大兄、有間皇子が訪れた後、701年には持統、文武も訪れている。犬養は露天の岩風呂につかり遠くの岬を眺めながら、”万葉第1期2期の歴史の一角はこの湯をめぐって集約されるようである。屏風のようにつづく岬々に歴史の悲喜はたたまれている感がする。”と感慨深く述べている。この感慨は、有間皇子と同様に天武・持統時代に非業の死をとげた大友皇子や大津皇子を念頭においたものであることは言うまでもない。

 犬養孝は、万葉の旅・中の「おわりに」において、”---前略―――地名も新行政区画にしたがったが、それさえもどんどん変わってゆく。地形の人為的な変動も急テンポの感がある。高師の浜も埋められているし、岩代の結松碑も昭和38年8月には道路拡張のために路傍に倒されていた。万葉の故地もいまこそいそがないと、わからなくなってしまいそうだ。―――後略---” (39年7月) 著者 と結んでいる。昭和39年は高度成長期の真っ盛りであり、その後20年以上、日本列島はさんざんに改変された。39年時点で埋立計画のあった万葉の歌枕である和歌の浦について、藤白坂からの写真を添えて犬養は、”何年かのちには湾内も埋め立てられてしまってスモッグの巷と化すかもしれない”と嘆いている。現在は平成の大合弁でわけのわからない地名が増え、和歌の浦は発電所や製油所が立ち並ぶ工業地帯と化してしまった。東京の在原業平にちなむ業平橋という駅もスカイツリー駅に変わった。熊野古道は南方熊楠が神社合祀令から守ったから世界遺産になった。しかし、平成の大合弁で古名が消えたときも、横文字へ地名が変更されたときも、埋立による歌枕の破壊にも、熊楠は現れなかった。どうしようもなく人間は愚かで、いずれ津波や原発事故の教訓も風化してしまうのではと悲観してしまう。


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