備忘録として

タイトルのまま

昭和の名将と愚将

2010-02-24 22:18:49 | 近代史
 半藤一利と保坂正康が太平洋戦争時の軍人を名将と愚将にわけて評価する対談集である。予想通り「硫黄島からの手紙」の栗林忠道や戦艦大和の伊藤整一や連合艦隊司令長官の山本五十六は名将とされている。一方、ノモンハン事件を進めた服部卓四郎や辻政信、無謀なインパール作戦を立案命令した牟田口廉也、特攻隊の責任者たちに並んで瀬島龍三が愚将とされている。台湾沖航空戦の戦果は間違っていたという電報を握りつぶしたために次のレイテ戦に大敗北を喫したことやソ連の学者によるシベリヤ抑留の研究内容を改竄したことなどを理由としている。半藤と保坂は、瀬島龍三は一度も参謀本部を出たことがないので「戦闘を知らない、戦争を知らない、アメリカもイギリスも知らない」「国家の一大事と自分の点数を引き換えにする軍人」と結論付けている。
 意外だったのは、山下奉文と石原莞爾が名将とされていることだ。山下奉文はシンガポール陥落のときイギリスの将軍に「Yes or No」を迫った強面の軍人という印象しかなかったし、石原莞爾は彼の世界最終戦争論や満洲事変の首謀者ということで拒否感を持っていたから、どちらについても人物や事跡を知ろうという気もなかった。ところが、この本によると山下は温和で、たとえ敵将であっても高圧的に出るような人物ではなかったらしいし、フィリピンの最前線で抵抗戦を指揮し投降したのち泰然自若と死刑を受け入れる。石原莞爾は本気で東亜に理想郷をつくるつもりだったが、東条らによって満州は完全に日本の植民地にされたと激怒している。対ソ戦略の練り直しや参謀本部の組織改革などを行う天才だったが、体制派から疎まれ昭和13年以降左遷されて太平洋戦争のときには予備役として一線から退いてしまっている。
 愚将とされたのは、東条英機に気に入られた軍人、自己顕示欲のかたまり、組織防衛に走り国家を見ていなかった軍人たちである。
 昭和史、特に太平洋戦争のことを読んでいるが、半藤や保坂、家永三郎などが集めた当事者の証言、瀬島などの当事者自身の話など、立場によって評価が異なり興味は尽きない。とりわけ、この本によって石原莞爾の印象がまったく違ってきた。以前、長女が石原莞爾と日蓮宗について話していたのを適当に聞き流していたが、再チェックが必要だ。

オーパーツ

2010-02-21 15:08:04 | 西洋史
 1年ほど前、中国明代400年前の棺の中からスイス製時計を模した指輪が出てきたというニュースが話題になった。このような、その時代にはあり得ない物をオーパーツという。
 オーパーツは、Out of Place Artifactを省略した呼び名で、その時代の技術では製造できないはずの物やその時代でその場所にはあり得ない人工物のことである。インディ・ジョーンズに出てきたクリスタル・スカルや、古代ギリシャの沈没船で発見されたアンティキティラの歯車(写真Wikiより)や15世紀ピリー・レイスの南極の地図などがある。このアンティキティラの歯車は、Wikiによると”太陽や月や天体の位置を計算する機械で、ギリシャの天文学者らにより進められた天文学と数学の理論に基づいて紀元前150-100年に製作されたとされる。ひとつの仮説として、ロードス島に設立された当時の天文学と数学の中心のアカデミーでこの機械は製作されたと考えられている。月の運行の計算技術に天文学者ヒッパルコスの理論が用いられている。”日本では与那国島の海底遺跡がオーパーツとされる。(http://www.ocvb.or.jp/html/yonaguni/)
 
 グラハム・ハンコックの「神々の指紋」はオーパーツを題材に失われた超古代文明のことを書いた読み物だったが、取り上げているオーパーツとされる物にはかなり胡散臭いものが多かったので、本そのものの信憑性には疑問が残った。ピリー・レイスの地図は1512年というコロンブスがアメリカ大陸を発見して20年後に、当時残存する様々な古代地図を参考にして描かれた地図で、氷に覆われているはずの南極大陸の海岸線が描かれているとされるオーパーツである。南極がまだ氷に覆われていない時代、ハンコックによると12000年以上前の超古代文明時代の情報が伝えられたものというのだが、海岸線は南アメリカ大陸のものだとする説が有力である。また、エジプトのスフィンクスの体の表面に降雨による浸食の痕があることから、想定されている時代よりもはるか昔の雨が豊富な時代に作られたはずだとする。
 コロンブス以前にバイキングのアメリカ大陸発見を記す石碑、南米にある日本の縄文土器とそっくりの土器、人間が恐竜時代に生存した証である恐竜の土偶、沖縄の海底遺跡、マチュピチュの階段などもオーパーツに含められる。UFOも同じようなものである。世界の七不思議のうちロードス島の巨人像は痕跡がないこととあまりの大きさから信憑性が疑われているらしいが、他の七不思議は、すべて遺構があるので、巨人像も存在したと考えるほうが合理的だ。理性や現在の科学で理解できないものを簡単に否定したくはないが、眉唾ものが多い。子供のころ読んでいた少年雑誌はオーパーツ話が満載で、好奇心が掻き立てられたものだ。世界の七不思議も少年雑誌で知った。UFOやムー大陸やアトランティス大陸も同じ類だ。

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バンクーバーオリンピックも半分が過ぎた。日本選手が勝っても負けても楽しませてくれる。カーリングは手に汗握る戦いが続き特に面白い。アメリカ戦はミリの差で勝ったが、カナダ戦も中国戦も技術に差はなく勝てた試合だっただけに惜しかった。昨日のイギリス戦も高い技術の応酬による手に汗握る激戦で目黒の最終投は圧巻だったため、また歓声をあげてしまった。イギリスチームのスキップのミアヘッドという選手は19才だというから驚きだ。
 昨日、電車の隣に座ったおばちゃん3人組が、”オリンピック観戦は楽しいけど、祭りが終わったら、また面白くない政治や事件のニュースばかりになるかと思うとうんざりする。”と話していたけど、まったく同感である。

ロードス島

2010-02-20 23:41:24 | 西洋史

 娘が村上春樹の「遠い太鼓」を読んでいるのに便乗して、本をパラパラとめくっている。村上春樹のギリシャ・イタリア滞在中の随筆で、昔から気になっているロードス島(薔薇の咲く島)の回があったので真っ先に読んだ。世界の七不思議のひとつであるロードス島の巨像(写真Wikiより)、塩野七生の「ロードス島攻防記」などで馴染みなので、どんな風に島を語るのか興味があったのだが、案の上、村上春樹は島の歴史や風俗には全く触れず、島にいる孔雀のことや、タベルナ(レストラン)のことや、ホテルの支配人との会話やらを書いている。観光ガイド本ではないのだから、歴史や観光名所の解説を期待するほうが悪いのだろうけど、ロードス、ローマ、アテネ、ミコノス、シシリー、クレタなどの有名な史跡を眼前にして、まったくそれらに触れないのは見事としかいいようがない。ギリシャの歴史や風俗が知りたければ、手元にある川島重成の「ギリシャ紀行」を読めばいいのだけれど、残念ながら”紙幅の関係で”ロードス島が省略されているのである。

 塩野七生の「ロードス島攻防記」は、ロードス島を根城とする聖ヨハネ騎士団がスレイマン大帝が率いるオスマントルコの大軍に攻撃された1522年の攻防戦を書いた小説で、攻防戦前後の聖ヨハネ騎士団の歴史、島の歴史、当時の国際情勢などにかなりの紙幅を割いているため、歴史好きにはたまらない作品である。「コンスタンティノープルの陥落」、「レパントの海戦」との3部作のひとつである。

 「ロードス島攻防記」によると、聖ヨハネ騎士団は宗教と軍事と医療活動を行う目的で組織され、映画「Kingdom of Heaven」で白地に赤の十字架の衣装を着るテンプル騎士団と並び称される騎士団で、当初は十字軍とともにエルサレムをイスラム教徒から奪い返すためにパレスチナにいたが、イスラム勢力に追われ1300年初頭にロードス島を根拠地とするようになる。ロードス島の攻防戦でオスマントルコに敗れた後は、マルタ島に本拠地を移し、マルタ騎士団と呼ばれるようになる。聖ヨハネ騎士団の本部は今もローマにあり、8000人の騎士が所属し、世界中で医療活動を続けているという。小説では騎士団の歴史に加え砦の防御法や攻城法にも多くの紙面が割かれているので、主人公である眉目秀麗な騎士たちの活躍が取ってつけたように思えるほどだ。攻城場面は、カタパルトが大砲に変わっただけで、「Kingdom of Heaven」や「ロード・オブ・ザ・リング」を想像した。本に出てくる捕虜の首を撃ち返すという話は、「ロード・オブ・ザ・リング」に出てきた。

 世界の七不思議であるロードス島の巨像についても言及している。銅製の巨像はロードスの港の入り口をまたいだ形で作られたが、BC227年の地震で崩壊したという。WikiによるとBC284年に像は完成したとあるのでわずか58年間だけ立っていたことになる。世界の七不思議はBC2世紀にビザンチウム(今のイスタンブール)のフィロンが書き残した当時の巨大建造物を指す。

  •   ギザの大ピラミッド 
  •   バビロンの空中庭園 
  •   エフェソスのアルテミス神殿 
  •   オリンピアのゼウス像 
  •   ハリカルナッソスのマウソロス霊廟 
  •   ロードス島の巨像 
  •   アレクサンドリアの大灯台 (フィロンが選んだのはバビロンの城壁)

ピラミッドのみが現存し、アレクサンドリアの大灯台は海底で遺構が発見されるなど、ロードス島の巨像以外はほぼ遺構が見つかっている。


大東亜戦争の実相

2010-02-18 23:07:09 | 近代史
 今日の「不毛地帯」の壱岐は、モスクワ行きを懇願する部下に対し、”極寒の暗闇で11年間つるはしを振るっていた人間の気持ちが判るか!”と声を荒げるが、結局モスクワへ旅立つ。

 「大東亜戦争の実相」は、山崎豊子の「不毛地帯」の主人公”壱岐”のモデルになった瀬島龍三の本である。壱岐が関東軍参謀として満洲で終戦を迎えシベリアに11年間抑留されたように、瀬島龍三は全く同じ経歴を持ち、帰国後総合商社の伊藤忠に入り会長にまで上り詰める。この本は1972年にハーバード大学で行った「1930年代より大東亜戦争開戦までの間、日本が歩んだ途の回顧」というテーマの講演録である。

 講演は戦前の日本の政治体制の問題点の指摘から始まる。
① 軍隊の用兵、作戦のことまたは軍を指揮することを統帥、その権限を統帥権と称した。
② 日本では統帥権は内閣(行政)にはなく天皇にあり、天皇に直属する統帥部(海軍の軍令部と陸軍の参謀本部)が天皇の統帥権行使を補佐した。
③ 陸軍大臣や海軍大臣はそれぞれの予算編成などを管轄する行政職で、陸軍の参謀総長や海軍の軍令部総長はそれと併立する独立機関であった。
④ 旧憲法下では、内閣総理大臣、各国務大臣、参謀総長、軍令部総長らはいずれも同格で天皇の下に併立していた。
⑤ 陸軍と海軍の対立は深刻であったが、これを統括できるのは天皇しかいなかった。しかし、天皇は「君臨すれども統治せず」という立場を守り、その権力を行使することはなかった。

 日本の政治体制、軍政を明らかにした後、満洲事変、満洲国の独立、支那事変、日独伊三国同盟、東条内閣登場、ハル・ノート、開戦を順を追って説明し、その時々の日本の国防方針や上層部の対応が詳細に語られる。大東亜戦争は自存自衛の戦争だったという瀬島の考えや、天皇の「聖断」も出てくる。国際社会の中で、日本がどんどん追い込まれて行き、英米の経済制裁により開戦せざるを得なくなることが、よくわかる。さらに、瀬島は、ここでこうしていれば戦争は回避できたというターニングポイントを示すことも忘れていない。ターニングポイントは1度だけではなく何度も出現する。東条英機も責任の所在がはっきりしない政府の一人にすぎない。

 瀬島龍三の示す教訓
① 結果的に日本の大陸政策はアメリカや中国の反発を招いたため賢明ではなかった
② 満州権益だけを守り、支那事変を防止すべきだった。
③ 旧憲法下では天皇の下に各大臣、参謀が並立し、陸軍と海軍の対立、統帥部と行政の不調和、計画の一貫性の欠如、権力分散に伴う責任所在の不明確があった。
④ 軍事が政治に優先した。最大の問題点は現役武官が陸海軍大臣を歴任したことだという。この制度だと軍の意に沿わない内閣をすぐに倒すことができる。さらに軍人によるテロの脅威がこれに拍車をかけた。
⑤ 海軍と陸軍で国防方針が分裂していた。軍備の増強が戦争抑止になると考えていたが、軍備は戦争促進に直結する。陸海軍それぞれが自軍の軍備に注力し、国を見ていない状態だった。
⑥ 少ない陸軍兵力で南方を制圧や大艦巨砲主義など重大な戦局判断のミスがあった。
⑦ 首脳会談が開けていれば戦争は回避できたかもしれない。

 本を手にした当初は、”大東亜戦争は自存自衛の戦争だった”や”必死に日本を守ろうとした人々(戦犯を含む)の行動は再評価されるべき”や戦時の参謀としての自己批判がないことなどから、右翼思想家の話だと思い、かなり批判的に読んでいた。ところが、最後の教訓まで読み進んだ時点で、この本は一貫して事実と人々の行動を詳細に捉え多角的に分析したものであり、右翼や左翼などの思想をもって語られたものではないことに気付いた。参謀が戦局を分析するのに思想などあるはずもないのである。

後白河院

2010-02-14 14:55:05 | 中世
 井上靖の「後白河院」を読んだ。

 4人の語り部が、自分が関わった事件や出来事の中での後白河院の行動を話すうちに、その時代の空気と後白河院の人となりが徐々に判ってくる。4人はそれぞれ日記を残していて井上靖はその中の記述から後白河院に関わる部分を抜き出し、想像の羽を広げて院の性格を描写する。

第1部 平信範 摂関家(藤原忠通・基実)の家司(家老のようなもの) 主人の罪で後白河院より2度処分を受ける。1156年保元の乱から1160年平治の乱まで 日記「兵範記」
平信範曰く、”崇徳院が起こした保元の乱の後、後白河院に味方した信西入道が力を持つが、平治の乱で源義朝に追われた信西入道は自害する。平治の乱に勝利する清盛派の信西入道は死ぬことはなかった。後白河院は入道を見捨てたのであり、そのことがわかった入道は後白河院から疎まれたことを悲観したために自害したのかもしれない。”

第2部 建春門院中納言 後白河院の譲位後の妃である建春門院に仕えた女御 1168年宮仕えから1176年建春門院の逝去まで 日記「たまきはる」
中納言曰く、”平家の権勢が増す中で開かれた鵯合(ひえどりあわせ=鳥の鳴き声を競う)の時、なかなか勝負がつかない中、引き分けになって鳥を鳥籠に仕舞おうとした寸前に中将光能の鳥がひと声鳴いて勝負が決まったこと対し、後白河院が光能卿に、”ぬしに似て、しのびやかに勝ったな”と仰せになった。このとき中納言は、光能卿が少し顔を硬くしたのを見て、後白河院の話し方に容赦のないもの、聞く側のものには心をえぐられるような、はっとするものがあった。後白河院には親しいものも突き放すようなところがあった。建春門院の死後、後白河院と清盛の間は張りつめたものとなったように感じる。”

第3部 吉田経房 平氏政権の実務官僚を務めた後、頼朝の信頼を得て鎌倉と朝廷の中を取り持つようになる 1177年鹿ケ谷事件から1185年平家滅亡後義経が都に凱旋するまで 日記「吉記」
吉田経房曰く、”後白河院が清盛を引き上げたのはそうするしか仕方がなかったのであり、辛抱強く衰える時期を待ち、ひと度すきを見せると常人の及ばぬ素早さで相手を仕留めようとする。心の奥にあるものを決して人に見せようとはしない。建春門院に対しても同じで、院の冷たい眼光のせいで建春門院は早世したのではないか。義仲については早い時期に見限っていた。義経と頼朝の中を裂くようなことは考えていないはずだと言いながら、後白河院の心のうちは伺いようもない。”

第4部 九条兼実 主に関白として六条、高倉、安徳、後鳥羽の4帝に仕えた、その間、後白河院は法皇として権勢をふるう 1185年平家滅亡から1192年後白河院崩御まで 日記「玉葉」
九条兼実曰く、”若しもこの世に変わらない人があるとすれば、それは後白河院であろう。追従者には温かく見え、その他の者には冷たく見える顔を変えることはなかった。意地の悪い冷たさである。例外なくすべての者を敵とみなした。誰にも気を許すことはなかった。”

 小説では、平安時代末期の主だった人物と出来事はほとんど語り尽くされている。白河院と待賢門院の子とされる崇徳院を鳥羽院が叔父子と呼んだことや崇徳院が讃岐に流されて怨霊になったことも語られていた。この時代に対する深い知識と明確な人物像を持っていないと書けない小説だ。
西域で見せた執念や「しろばんば」や「夏草冬涛」などの子供が読んでも面白い自伝、「風林火山」、「額田女王」、「天平の甍」などの娯楽時代小説から井上靖は懐の広い作家だと思っていたが、この作品を読んで改めて作家としてのレベルの高さと奥深さを再認識した。すごい作家だ。

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 バンクーバーオリンピックが始まった。バンクーバーにいる長女に”どうよ”と聞いたところ、窓からモーグル会場のCypressが見えて、ヘリコプターが飛び回ってるということなので雪でも運んでるのだろうか。


UBCから北方を撮った写真なので、遠くの山がCypressの可能性が高い。

開会式でシャチが潮を吹き上げながら泳ぐ場面はすごかった。
上村愛子ちゃんにメダルをあげたかった。上村選手の後を滑るアメリカの選手が転倒した時不謹慎にも”やった!”と声をあげて、二女に「Fairな戦いをしないとだめ!」とたしなめられた。4回のオリンピックで、7位、6位、5位、4位というのだからすごい。次回もがんばるのだろうか。

Kopi Luwak - Probably True

2010-02-13 09:29:40 | 話の種

 前回と同じ友人がインドネシアで買ってきてくれたこのKopi Luwakは、前のKopi Luwakとは違う。前のKopi Luwakは、粉だったが今度のは豆で艶がある。香りは”じゃこう”の香りを知らないので何とも言えないが、普通のコーヒー豆の炭っぽい煎った香りではなく何となく甘い香りがした。箱にも複雑な豆の香りを壊さないために軽く煎ったと書いてある。挽いてドリップして飲んだが、酸味が少なく心なしか甘い香りがした。インドネシアのトラジャのような粉っぽく濃い味ではない。----と、前のKopi Luwakとほとんど同じ感想じゃないかと思われるかもしれないが、ちょっと違うのである。表現力がないので何と言っていいのかわからないが、とにかく何となく上品で高級そうな味なのである。
 友人は写真の50gパックを買ってきてくれたが前回と違い値段を教えてくれなかった。”もう買えない”と言っていたので、かなり高かったと思う。
The Butterfly Globe Brand
Roasted & Packed by PT. Putra Bhineka Perkasa, Denpasar, Bali
ホームページ(http://www.kopiluwakbali.com/)の記事によると、バリのビーチでエスプレッソカップ3杯分を約2000円で売っているとあった。
100%Guaranteeと書いてあるし、これはProbably Trueである。前のは安すぎるのでProbably Fakeと思う。


Invictus

2010-02-07 16:02:20 | 映画
 昨晩Late Showで観た。クリント・イーストウッド監督でモーガン・フリーマンが出ていて、それにラグビーが絡むのだから観ないわけにはいかない。

 1995年Rugby World Cupの決勝戦はシンガポールでリアルタイムで見ていた。昔からファンだったAll Blacksを応援していたので地元の声援を受けたSpringboksが延長戦で勝ってがっかりしたのを思い出す。昨晩は、そんなことはすっかり忘れ、映画に感情移入しドロップゴールが決まった時には”よし!”と声を出しそうになった。あの大会、あのSpringboksにあんな裏話があったとは。

 以下、Memorable Quotes
1.Nelson Mandelaが読んだ William Ernest Henley (1849–1903)の詩”Invictus”の最後の2行
”I am the master of my fate. I am the captain of my soul.”
(映画の訳:我が運命を決めるのは我なり。我が魂を征するのは我なり。)
原作者のヘンリーは、幼いころ結核で足を切断している。マンデラはこの詩を刑務所の中で愛読したらしい。それぞれ過酷な運命の渦中にあっても、運命を呪ったり運命を神に委ねたりしてはいないのだ。

2. Springboksの主将Francois Pienaar(Matt Damonが演じる)
”I was thinking how a man could spend thirty years in prison, and come out and forgive the men who did it to him.”
マンデラという人はすごい。

3.Mandela
”Forgiveness liberates the soul.”
クリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンの名作”Unforgiven”と何と違うことか。

監督:クリント・イーストウッド、出演:モーガン・フリーマン、マット・デイモン ラグビー試合にもっと迫力が欲しかったとか、マット・デイモンが試合で何もしてなかったとか、テロの恐怖を不必要に煽ったとかは、映画の評価に関係ないことにして。★★★★☆

ローヘイ、ローヘイ

2010-02-06 09:25:02 | 東南アジア
 シンガポールはChinese New Year(中国正月、今年は2月14日で春節ともいう)気分であふれていた。さっそく”ローヘイ、ローヘイ”(写真)をしてきた。ローヘイは”撈起”と書く広東語で、刺身が入ったサラダを”ローヘイ、ローヘイ”と言いながら箸で持ち上げて混ぜ甘酢のドレッシングで食べる。箸で高く持ち上げるほどその年は恭喜發財(金に恵まれる)なのである。



 サラダは、ニンジン、大根、ネギ、ピーマン、コリアンダーなどの千切りで、白身魚や鮭の刺身とセンベイ、ナッツ、ゴマなども混ざる。今回はキュウリがなかったのでなおさら美味しかった。ローヘイはシンガポールとマレーシアの華僑の風習で中国本土や台湾にはないと今回食事に招待してくれた中国系シンガポーリアンが話してくれた。シンガポール駐在中は、毎年のようにこれを食べていた。

 最近ではそうでもないが、10~30年前のシンガポールでは中国正月にはスーパーマーケットを始めほとんどの店が閉まってしまいホテルのコーヒーハウスが細々と開いている程度で、現地の習慣を知らないと正月中は食事にも困ることになる。友人が日本から遊びに来ていたある年の正月は、夕食をする場所を必死に探し、やっとの思いで小さなホテルのコーヒーハウスのバイキングにありつくことができた。そのホテルも中国人スタッフは見当たらず、マレー人やインド人スタッフだけが働いていた。そのためかバイキングのメニューは質量ともにお粗末だった。会社で働いていたマレーシアからの出稼ぎの中国系スタッフは2週間近い長期休暇を取って故郷に帰って行ったものだ。正月前の数日間、シンガポールとマレーシアの国境イミグレーションや各種交通機関の混雑は相当なものだった。日本人にとっての正月以上に、シンガポールやマレーシアの華僑にとって正月は大切で最大のイベントなのである。だから、中国正月期間中のシンガポールは旅行には不向きなのである。シンガポール駐在員の中国正月は、中国系の友人に正月2日に家に招かれ、その他の日は家でのんびり何もしないか、近くのマレーシアやインドネシアのリゾートホテルでゆっくり休暇を楽しむかのどちらかなのである。
 ライオンダンス(獅子舞)集団を荷台に乗せ、幟で飾ったトラックが家の前を次々と、「ジャンジャカ♪、ジャンジャカ♪」鳴り物の大音響を響かせて走り去る風景を懐かしく思い出す。裕福な中国系家族が福を呼びよせるためにライオンダンスを家に呼ぶのである。

Million Dollars Baby

2010-02-05 22:14:47 | 映画

先々週に続き、2月1日から2泊+1機中泊でシンガポールへ行ってきた。機中映画はヒラリー・スワンク特集で、”Million Dollar Baby”、”AMELIA”、”PS I Love You”の3本を観た。

 ”Million Dollar Baby”は、評判通りの名作で、貧しく才能ある女性ボクサーを演じるヒラリーはひたむきで、ボクサーとしての動きも野性的で華麗で魅力的だった。ずっと前にシンガポールでDVDを買っていたが字幕なしの英語版のため億劫で観ていなかった。映画が評判になったとき”衝撃の結末”とか”悲劇”という宣伝文句が使われていたが、そのとおり結末は非情だった。クリント・イーストウッドが、“お前が口出ししなければ自分は彼女のコーチをしなかった。そうすればこんなことにはならなかった。”と友人のモーガン・フリーマンをなじる場面がある。結果が思わしくなかったときにずっと前の決断を持ち出して、“あのときそうしなければ良かった。”と後悔することはよくある。例えば、子供が大きくなって親の意にそぐわない行動をしたときなど、3歳の時の育て方にまで遡って後悔したりする。その間には子供の才能や成績に親バカぶりを発揮して驚喜したことが何度もあったはずなのにそれを忘れ、目の前の出来事に失望し後悔するのである。クリント・イーストウッドの場合は結末があまりに悲劇的であっただけに自責の念は大きく、友人さえ詰ってしまうのである。2004年 監督:クリント・イーストウッド ★★★★☆

 ”AMELIA”は、20世紀初頭に大西洋を初めて横断した女性飛行士のアメリア・イアハートの生涯を描いた映画である。リチャード・ギアが夫、イアン・マグレガーが愛人を演じ、彼女の飛行家としての冒険や挑戦と私生活での夫や愛人との関係を並行して描写し、アメリアという人間を浮き彫りにしようとしていた。はっきり言って、私生活の部分が飛行家としてのアメリアの魅力を削いでいて、この映画のヒラリーはよくなかった。”ナイトミュージアム2”でアメリアを演じたエイミー・アダムスが魅力的で気に入っていたので、その違和感のせいかもしれない。下の写真のアメリアを演じる二人を比べると一目瞭然なのだ。断っておくが面食いでエイミー・アダムスを取ったわけではないのだ。2009年 監督:ミラー・ナイル 出演:ヒラリー・スワンク、リチャード・ギア、イアン・マグレガー ★★☆☆☆


アメリア・イアハートを演じる”Amelia”のヒラリー・スワンク(左)と”ナイトミュージアム2”のエイミー・アダムス(右)

 ”PS I Love You”は、死んだ夫から手紙が届く設定だが、以前テレビ番組の”これだ1,2,3”で紹介されていた不治の病で死んだ女の子が両親に宛てた手紙を家の様々な所に隠していて、死後、両親が手紙を機会があるごとに見つけ勇気づけられたという話に通じるものだった。自分の死後に妻がどのような行動にでるのかすべて予測できるほど愛していたという設定ができすぎていて、ありえないだろうという思いのままに映画を見終わった。この映画のヒラリーはアメリアよりは良かったが、ミリオンダラーには遠く及ばない。アイルランドの風景は綺麗だった。2007年 監督:リチャード・ラグラヴェネーズ 出演:ヒラリー・スワンク、ジェラルド・バトラー ★★★☆☆

 もう1本機中で観た映画は、ヒラリー・スワンクとは関係のない”Matchstick Men”で、すご腕詐欺師のニコラス・ケイジが、まんまと嵌められる話で、観ているこちらも、こいつもグルだったのかと完全に騙されてしまった。2003年 監督:リドリー・スコット 出演:ニコラス・ケイジ、サム・ロックウェル、アリソン・ローマン ★★★☆☆