備忘録として

タイトルのまま

漱石の妻

2009-07-21 19:18:57 | 松山

漱石の妻・鏡子夫人は、”ソクラテスの妻と並び称されるほどの悪妻”と言われている。悪妻の根拠は、朝寝坊で漱石が出勤するときも寝ていたとか、料理がまったくできなかったとか、お嬢様育ちで散財家だったというようなことらしい。また、山折哲雄はその著「デクノボウになりたい」で、鏡子が胃潰瘍で苦しむ漱石に劇薬を飲ませていた可能性があると述べている。
しかし、半藤一利夫人で漱石の孫の半藤末利子の随筆「夏目家の福猫」には、末利子の母であり漱石の娘である筆子の言として、”鏡子だからあの(気難しい)漱石とやっていけた”と述べられている。
随筆で語られる鏡子夫人は、
1.漱石は持病である神経衰弱が時に爆発し狂気に陥ったが、鏡子は愚痴も言わず仕えた。
2.漱石が鏡子に宛てた愛情あふれる手紙がたくさん残されている。
3.漱石死後も親戚を金銭的に援助した。
4.7人の子供を育て上げた。
5.仄暗い行燈のもとで夜遅くまで針仕事をしていた。
と、良妻賢母である。

さらに、
1.計画性とは無縁な人であり、貯蓄や運用などは大の苦手で、漱石死後は遺産を切り売りし、一千坪は優にあった家が鏡子が亡くなったときには二百五十坪まで減っていた。
2.占い好きで
①病気(胃潰瘍)の漱石に占い師の指示で毒掃丸を飲ませた。②漱石の神経症を直そうと神社から赤ちゃん用の虫封じのお札をもらってきて家の壁に五寸釘で毎日トントンと打ち付けた。③漱石の死後、庭に稲荷神社を建てた。④易者や祈祷師が入れ替わり出入りしていた。⑤毎晩布団の中でトランプ占いをしてその日の運勢を占っていた。
などの鏡子の行動は、随筆では愛すべき人として語られる。

しかし、鏡子の無計画性や占い好きは、愛すべきとは程遠く、度が過ぎているように感じるのは私だけだろうか。特に、医者の言よりも占い師の言を信じて密かに毒掃丸を飲ませたのは、山折哲雄の言う劇薬を飲ませていたという話に通じていて、極めて異常である。だからといって、漱石が鏡子を愛し夫婦仲が良かったということを否定するものではない。


道後温泉

2009-07-18 19:54:47 | 松山
聖徳太子も、額田王も、中大兄皇子も、子規も、夏目漱石も、坊っちゃんも入った道後温泉の神の湯に、松山に住んでいた昭和41年頃、昭和46年高校時代ラグビーの遠征で松山へ行った時、昭和49年従兄と四国一周旅行をした時、平成11年に松山での学会にシンガポールより参加した時と少なくとも4度入っている。前3回は風呂に入ったこと以外忘れてしまったが、平成11年のときはシンガポール人の同僚と2階の広間でお茶と菓子を喫っした。写真は、2007年のお盆に一泊旅行をした時に写したものだが、このときは同行した妻と二女の賛成が得られず温泉には入らなかった。坂の上の雲ミュージアムへ行ったのはこのときである。

半藤一利の「歴史をあるく、文学をゆく」の”夏目漱石『坊っちゃん』と道後温泉”によると、夏目漱石は無類の温泉好きだったらしい。「坊っちゃん」では松山と松山人のことをぼろくそにこき下ろしているけれど、道後温泉のことだけは絶賛しているらしい。曰く、
”余は湯槽(ゆぶね)のふちに仰向けの頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わしてみた。ふわり、ふわりと魂がくらげの様に浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前をあけて、執着の栓張(しんばり)をはづす。どうともせよと、温泉(ゆ)のなかで、温泉(ゆ)と同化してしまう。”
家の狭い湯船では、何もかも忘れてふわりふわりとはいかないが、のぼせるまで好きな本を読み、本の世界に同化できる至福の時間を持つことができる。半藤夫人、半藤末利子は半藤漱石の孫である。今日、半藤末利子著「夏目家の福猫」を買った。

半藤は同じ本で”司馬遼太郎『坂の上の雲』と松山の人”の巻でも松山へ行き、秋山兄弟ゆかりの地を訪れている。昭和49年私が学生のとき梅津寺まで見に行った銅像の前で、瀬戸内海に沈む夕陽を眺めながら、半藤は秋山兄弟と対話する。
「今の日本は、もういっぺん、まじめさをとり戻すことだ。」と真之がせっかちに言うのに対し、「人間が人間らしく生きるためには、他人を思いやるという広い心が基礎になっていなければな。とくに自然を大切にしなきゃ。」と好古はのんびりと噛んで含め、続けて「馬を引け」と野太い声で言った。

夕陽に陰る来島海峡大橋(2007年8月)

半藤一利原作の映画「日本のいちばん長い日」はRealTimeで観た。小学6年生か中学1年の時で、軍人の三船敏郎が切腹する場面だけを鮮明に覚えている。家には半藤の「昭和史」がほこりをかぶっている。

坊ちゃん

2009-03-12 19:59:57 | 松山
松山市駅で坊ちゃん電車を見た。小説のとおり“マッチ箱のような汽車”だ。客車と機関車を切り離し方向転換させていた。切り離しも、回転も、連結もすべて人力でやっていた。


中学2年の運動会の時、仮装行列でクラスの仲間と坊ちゃんの登場人物に扮した。級長で行列の先頭だったため自然と坊ちゃん役になり、白と薄緑基調の羽織はかまに高下駄を履いた。山嵐は、クラス一背の高いサッカー部のキャプテンをやっていた男が扮し、黒っぽい羽織はかまに、あごひげと胸毛をつけた。赤シャツは洋装にカンカン帽をかぶった。うらなり、野だぬき他はどんな扮装だったのか忘れた。男ばかりのグループだったので、マドンナはいなかった。クラスの女の子に声をかける勇気がなかったのだから仕方がない。仮装行列の後、その衣装のままフォークダンスになるのだが、予行練習で高下駄を履いたまま踊ったら、担任のアオケン(あだな)から、“おまえがいちばんへたくそだ!”と全学年の前で言われたので、本番では裸足になった。それでもリズム感がないので一番下手だったかもしれない。

山折哲雄のデクノボーになりたいに夏目漱石に関し驚くべき話が書かれていた。夏目漱石の奥さんの鏡子夫人は悪妻で有名なのだが、その鏡子夫人が病気で伏せっていた漱石に故意に劇薬を飲ませていたというのである。話の信憑性を確かめようとネットで何度も検索し、漱石の日記に胃潰瘍の薬として硝酸銀を飲んでいたことが書かれていることがわかった。平岡敏夫編『漱石日記』(岩波文庫)や鳥越碧著『漱石の妻』参照
同時代のニーチェ(1844~1900)も胃潰瘍の薬として硝酸銀を飲んでいた(小林真『ニーチェの病跡』(金剛出版))ので、当時の医療では胃潰瘍に劇薬の硝酸銀を飲むことは一般的で、鏡子夫人は医者の処方を守っていただけのことになる。山折哲雄は鏡子夫人が劇薬と知って飲ませていたように述べており、一方、子孫の証言などから鏡子夫人は実は良妻だったという説もあり、山折が何を根拠に毒殺説を取るのかはわからない。漱石の脳と胃は東大医学部に保存されているので、硝酸銀服用説は今でも検証できるだろうが、胃潰瘍の治療法として硝酸銀を用いることが当時の処方であり、鏡子夫人が長与胃腸病院の処方箋に従ったとなれば、毒殺説はお蔵入りである。

“強酸性物質、強アルカリ性物質、砒素、硝酸銀、ヨードなどを間違って口の中に入った場合に胃炎が起こります。酸性が強い場合には胃の中で炎症を引き起こし、アルカリ性の強い場合には食道にも炎症がおこります。摂取するとすぐに状腹部に痛みを感じてしまいます。 http://www.xmtennis.com/inobyouki/557_1.html”という。硝酸銀は水いぼなどを焼き切るのに使う劇薬で、今では硝酸銀を飲むなどもってのほかであるらしい。

漱石は1916年50歳のとき胃潰瘍で死んでいるが、硝酸銀を服用しなければ、もっと長生きしたかもしれない。


坂の上の雲ミュージアム

2007-08-16 19:19:11 | 松山
13日に松山の”坂の上の雲”ミュージアムへ行った。30年も前、学生の時に読んで以来なのだが、あらすじのかなりの部分は覚えていた。それだけ読み応えのある印象深い小説だったということだ。読後すぐ、司馬遼太郎作品に触れると称して回った四国一周旅行で、子規堂や梅津寺パークの秋山好古(真之?)の銅像を見学した。俳句の素養も興味もなかったのに子規の本を買ったのもそのころだ。人にも一押し本として熱心に勧めていた。この本の面白さは、田舎町で育った秀才たちが抱く野心が国家の発展とシンクロしていたところを司馬が壮大に描いた点だと思う。明治時代に西洋に追いつこうとする国家の躍動感とその中で大望を抱く若者の気概が伝わってくる。壁いっぱいに貼り付けられた新聞連載のオリジナル版は毎回の挿絵が面白く、この挿絵の付いた”坂の上の雲”が出版されたら購入してもいいと思った。

子規堂も秋山兄弟記念館も司馬遼太郎記念館もある中で、一小説でミュージアムを成り立たせようとしているのだから無理もないのだが、建物に比べ展示品が少なすぎる。空間を贅沢に使うと言えば聞こえは良くなるが、安藤忠雄の無機質で巨大で近代的でお得意のコンクリートむき出しでガラス張りの建築物はあまり好きではない。街を走る坊ちゃん電車や道後温泉の昔風の建物に似合った建物が正解ではなかっただろうか。例えばミュージアムの展示写真にもあった旧愛媛県庁のような木造建築や明治時代に流行った赤レンガ造りはどうだろうか。時は松山まつりの最中で、浴衣着物を着た野球拳踊りのグループが夜の街を練り踊っていた。祭りも明治・大正の古き良き時代を懐かしむ風情があり、しつこいようだが、やはり安藤建築は違うような気がする。

もうひとつ”坂の上の雲”は藤岡信勝が自由主義史観を唱えるきっかけになった作品という話があるが、”この国のかたち”や”街道をゆく”に散見される司馬の歴史観からは、自由主義史観に通ずるものがあるとは到底考えられない。一方、明治時代は近代化を軍事力と勘違いしていた時代だと思うのだが、明治時代を賛美する司馬史観も少し違うように思う。

”坂の上の雲”は近々NHKでドラマ化されるらしい。楽しみだが、CGあればこその作品になるのだろう。