備忘録として

タイトルのまま

建国の父とPragmatism

2015-03-29 11:57:27 | 東南アジア

シンガポールの初代首相であるリー・クワンユー(Lee Kuan Yew)が23日未明、肺炎のため亡くなった。1週間、国民は喪に服し、今日は国葬である。亡くなる10日ほど前、病院の集中治療室にいて病状が悪化している(Worsen)というニュースが流れ、3日程前に危篤状態(Critical)と報道されていた。彼の死を伝えた23日朝のThe Strait Timesの1面記事が以下である。

Mr Lee Kuan Yew, Singapore's founding father, died on March 23 at the age of 91. He was Prime Minister from 1959 to 1990 and instrumental in transforming the country from a colonial trading post to an independent, thriving city state. 

シンガポール建国の父(Singapore's Founding Father)と呼ばれるLee Kuan Yewは、文字通り右腕1本で植民地の交易所にすぎなかった地を東南アジア一経済の発展した独立国家に作り変えた。シンガポールの国民所得はすでに日本を上回っていて、現地の新入社員の初任給は大学や成績や分野によっては30万円を超える場合もある。ここ数年は不動産をはじめとして物価上昇が著しいが、それ以上に所得は上昇し日本との差は開くばかりである。

彼が残した業績は新聞やネット情報に譲るとして、彼が残した以下の有名なことばを書いておく。

”I'm very determined. If I decide that something is worth doing, then I'll put my heart and soul to it. " (自分は決断力がある。実行する価値があると一度決めたなら、全身全霊で実行する。)

この自信に満ちた言葉で代表される強固な意志で、シンガポールを50年近く引っ張ってきた。その中心になったものが経済最優先の実利主義(Pragmatism)である。目的達成のためには、時に言論統制とまで言われるほどの激しさで反対意見を封じ込め、自分の政策を強引に推し進めてきた。政策の中で有名なものがシンガポールを地域の交通ハブ、金融ハブとするために積極的に外資を誘致したことである。もう20年ほども前になるだろうか、ドイツの大企業シーメンズがシンガポールに工場を建てたとき、シーメンズの社長が開所式で”これがシンガポールで最初で最後の工場になる。”と挨拶をした。これを聞いた2代目首相のゴー・チョク・トンがすぐに飛んできて、そのあいさつの真意を質したことがあった。シンガポールの賃金が上がっていることから工場を建てるメリットがなくなったことによる発言だったが、ゴー・チョク・トンは何を変えれば外資を誘致し続けられるかを社長に尋ねたという。社長の回答が何だったかはわからないが、一国の首相が一企業の言動を気にかけ即座に行動したことに驚いたことを鮮明に覚えている。その後シンガポールは、外資誘致や国家発展のための政策を次々に打ち出していく。その一部を以下に列挙する。

  • 法人税率を周辺国よりも安くし、今では日本の法人税の半額の17%
  • 所得税率は日本と同じ累進課税だが、最高税率はわずかに20%で、高額所得者を誘致する
  • チャンギ空港は現在3本目の滑走路と第5ターミナルを建設中
  • 港湾でのコンテナー取扱量は上海、香港と世界一を競うため、巨大港湾施設を建設中
  • 国土が狭いので埋立、高層ビル、地下空間開発を促進する
  • 30年前に導入された地下鉄はその後も着々と延伸され、まもなく東京の総延長を抜く
  • 人的資源が大切だということで、移民を受け入れ人口を増やし続ける。今550万人で、650万人まで増やす計画
  • 観光立国のためアトラクションを増やし続ける(ナイトサファリ、カジノ、USS、パンダ、アンダーワールドなど)
  • 中国、台湾、アメリカ、日本、韓国などと全方位外交
  • バイオ、IT、医療など最先端技術のハブを目指し、世界中から最高水準の頭脳を誘致する
  • エリート教育
  • 政治家や官僚の給与を世界最高水準とし汚職を失くす
  • 極端な小選挙区制により安定政権を維持する
  • シンガポールの淡水化技術と水ビジネスは世界中の技術を導入し20年程で世界一になった
  • 一度決定した政策で、現実に合わなくなったらすぐに修正変更する。”Two are enough”の人口抑制策は変更され、今では第3子から補助金がでる。

1980年にシンガポールにはじめて来て、ここで長く仕事をし生活してきたが外国人として不便を感じたことはあまりない。日本の占領下で虐殺や拷問などの圧政はあったが、政府は反日ではなく日本を利用する現実主義路線(Pragmatism)を貫いたため、日本人として当地で暮らすことに不自由や気苦労はなかった。リー・クワンユーのPragmatismは、今後も継承されるはずである。


”古寺巡礼”批判

2015-03-22 16:38:16 | 古代

美術史家の田中英道は歴史認識発言で有名なので、彼の専門分野である美術史の本『日本美術全史』の評論も彼の歴史観をもとに語られているのではないかという危惧を抱きながら恐る恐る読んだ。不安は杞憂で、本は純粋に美術的な視点から評論したものだった。例えば、阿修羅像の作者・将軍萬福や百済観音像の作者が大陸からの渡来人であることを否定せず、”渡来系であったが故にこうして日本人像を対象化出来たのかもしれない”や”日本人は多かれ少なかれ皆渡来人である”と述べ、国粋的な主張はなかった。読む前の漠然とした不安は、田中英道の”新しい歴史教科書をつくる会”元会長という肩書や南京大虐殺や従軍慰安婦についてのヘッドライン上の発言によるものであり、彼の主張の詳細を知ってのものではないことを明記しておく。

『日本美術全史』は土偶、仏教彫刻、中世の絵巻、江戸時代の浮世絵、明治以降の画壇まで日本の美術作品を通観し評価するものである。中でも、運慶・快慶とその弟子たちの作品群に対する田中の評論は魅力的で、文庫本の中の白黒写真でさえ迫力があり実物を見たくなる。田中英道は和辻哲郎『古寺巡礼』を批判し、写楽北斎説を提唱している。和辻哲郎の「古寺巡礼」は奈良旅行や仏像がニュースになるときなどにお世話になるし、写楽については何度かこのブログで取り上げているので気になるところである。また、救世観音についても評価しているので以下に並べて示す。

『古寺巡礼』批判

田中英道の批判は、”和辻氏が、この「巡礼」は「美術」に対するものであって宗教的な意味合いのものではない、と述べて、あたかも美術作品の美的価値を中心に廻ったように述べている点が気にかかるのである。”と、まず和辻の仏像鑑賞姿勢に対する疑問で始まる。和辻の鑑賞方法は、対象に対する感情移入が激しすぎて、冷静さに欠けているため、古美術の客観的な評価ができていないとする。さらに和辻の”実をいうと古美術の研究は自分には脇道だと思われる”という認識そのものが『古寺巡礼』の欠点であると断定する。すなわち、芸術鑑賞は和辻の専門領域である哲学(道の探究や人心の救済)に役に立たないとする消極的な態度で作品を見ているが、そもそも宗教美術も純粋美術も、道や人心に深く関わっているはずで、そこから目を背けたときから芸術の退廃が始まったことは和辻も認識していたのではないのかと疑問を投げかける。専門外であることを認識しながら古美術を”したり顔”で、しかも極めて主観的に評論をする素人の和辻に、美術評論を専門とする田中は憤りさえ覚えているように見える。

さらに、”奈良の秀作を見て回ったにしては省かれているものが多すぎる”として、和辻の審美眼にも疑いの目を向けている。実は私も、田中と同じように、新薬師寺の十二神将に強烈な印象を受けたのだが、和辻は新薬師寺を訪れても十二神将にはまったく心を動かされていないのである。和辻の新薬師寺での文章ーー

本堂の中には円い仏壇があって、本尊薬師を中心に十二神将が並んでいる。薬師のきつい顔はーーーー(この後、本尊薬師についての感想が9行にわたって述べられ、”木彫りでこれほど堂々とした作は、ちょっとほかにはないと思う”と絶賛し、十二神将についてはまったく触れない)

2010年に新薬師寺を訪れ、薄暗い講堂に差し込む自然光の中に立つ十二神将の躍動感に圧倒された。本尊の薬師如来の存在がかすむほどの迫力だった。ところが、和辻の『古寺巡礼』がこのような記載だったので、自分の審美眼はまだまだなのかなと思っていた。木彫り仏像でも飛鳥大仏のほうに存在感があると思う。今回、田中英道が十二神将を絶賛し、和辻に疑問を呈するのを読んで、内心ほっとしている。田中が飛鳥時代の第一の傑作として百済観音を上げていることや、三十三間堂の二十八部衆を高く評価しているのもうれしかった。

写楽・北斎説

田中の根拠は以下のとおり。

彼の作風を見ると、決して能役者齋藤十郎兵衛の手すさびのようなものでなく、長く描いていた熟練した手腕を感じさせる。そしてその最終期の武者絵や相撲絵には、勝川春朗すなわち後の北斎の手を思わせるものがある。すでに16年も役者絵を描いていた春朗は、まさにこの時期、空白期となっていることからも、この春朗(=北斎)が写楽である可能性が高い。「しゃらく(写楽)さい、あほくさい(北斎)」という語呂合わせも、北斎らしい洒脱さをうかがわせる。

田中は上記に先立ち写楽の作品群について評論している。写楽の絵は表現主義的で、歌麿のような色気がなく見得をきる人物の性格描写しかない。役者の躍動感、緊張感の見得をきる一瞬を狙ったものや、美人とは言えない女形にリアリズムがあり、これが浮世絵類考で「あらぬさまにかきなせし故、長く世に行われず」とされた理由だろうとする。写楽の制作は146点、2年足らずで終わるが、緊張感のある作品は最初の10か月までで、その後は息切れがはじまり作品が単調になっているという。

梅原猛の豊国説や池田満寿男の中村此蔵説など別人説は多多あるが、浮世絵類考の齋藤十郎兵衛が実在したことが判明したあと自分的には写楽問題は解決し、美術の専門家に別人説を唱える人はいないと思っていた。田中は別に『実証 写楽は北斎である』や『写楽問題は終わっていない』で北斎説を書いているので読んでみたい。

 救世観音

田中の評は、当時の代表的作家である止利仏師の形式性の強い自然さが欠け、顔におおらかさがある反面、高貴さがやや乏しいし、目、鼻、口の彫りの硬さ、首に見える三本の皺も写実性が不足している。百済観音と同じように評価されるには問題がある。これが聖徳太子の等身像であるとか、滅多に見られぬ秘仏であるとか、さまざまに神秘化される要素があるが、美術作品として冷静に見られる必要があるとし、フェノロサや和辻や亀井や梅原らの像から受ける印象による評価を排除している。

『日本美術全史』に円空がないのは残念だった。田中の円空評を聞きたかった。それとも、運慶や快慶には並ぶべくもないということだろうか。田中英道の運慶・快慶とその弟子たちの話はまた別の機会とする。


Aquarium

2015-03-15 19:44:15 | 東南アジア

妻のたっての望みでセントーサにある水族館へ行った。水族館はUSSの対面にある。見どころは大きな水槽で泳ぐサメやマンタエイ、水中トンネル、ドルフィンの芸などである。

イルカがジャンプしたり水上に立って泳ぐ芸は何度か見ているが、ここでは飼育係の指示でイルカが体をくねらせたり、ドーナツ型気泡を吐き出したりする水中芸を水槽のガラスを通して見ることができる。右下の写真はタツノオトシゴの仲間のSea Dragonで、写真の上の海藻も実は海藻ではなく、海藻で擬態したSea Dragonである。

でも、一番感激したのが下のクラゲだった。様々な光を当てて幻想的なクラゲを見せてくれる。子供の頃、針金の先端を蚊取り線香のように丸めてスプーンのようにして、岸壁の下をゆらゆらと漂うクラゲを採って遊んだことを思い出した。採ったクラゲはガラス瓶に詰め込んで持ち帰るのだが、採ることが楽しく、瓶に入れたクラゲのことはすっかり忘れて放置され死んだクラゲをおそらく母親がどこかに処分したと思う。さらにクラゲで思い出すのが、インドネシアのパレンバンで仕事をしていたとき、ムシ川の河口の浅瀬を見渡す限り埋め尽くしたクラゲの大群に船外機付きのボートで突っ込んだこと、パラオの島にある数多くの池が海水と分離されたときに同種だったクラゲが、その後、各池の環境に応じて独自の進化をし異なる形態を示すようになったことである。クラゲの一種で毒を持つカツオノエボシもいて、アメリカのテレビSFドラマで原潜シービュー号が巨大なカツオノエボシに取りつかれる場面も思い出した。


4年目の3.11

2015-03-14 12:21:03 | 仙台

NHK衛星放送は毎日のように震災特番を放映している。被災者が語る深い悲しみがずしんと響いてくる。

津波に流される中、兄は弟の手を放してしまった。船を津波から逃がすため家を空けた漁師は戻ると家族が家ごとなくなっていた。記録ビデオに残された津波を避けようと歩く老いた父親の最期が形見になった。家に残った自分が助かり指定避難所に行った家族が亡くなってしまった。避難生活の中、病気の母を亡くした娘は母との思い出がいっぱい詰まった汚染地帯の故郷へ一時帰郷する。辛い体験を思い出すので震災遺構を残さないでほしいと願う人、家族の思い出が風化してしまうから遺構を残してほしいと願う人。そこには、被災した人の数だけ後悔と悲しみがあった。

昨日こそ君はありしか 思わぬに浜松が上の雲にたなびく (万葉集 3-444 大伴三中)

昨日生きていた君が今は海岸の松の上の雲になってたなびいている。番組を観ながら突然死んだ友人を偲ぶこの大伴三中の万葉歌を思った。この4年、当事者でない自分も3.11震災に無関係ではいられなかったように、折々に科学技術、先人の教え、政治、文化、精神面などから震災について考えたことを過去のブログを読み返し思い出した。

未だ仮設住宅に住む人は2万人以上、故郷に戻れない避難者はさらに多く、震災復興は道半ばである。それなのに遠くシンガポールに住んでいると、寺田寅彦が『津波と人間』で警告したとおり、月日と共に関心が薄れていくのをどうしようもなかった。寺田は、”地震や津波被害にあった地域の人でさえ月日とともに教訓を忘れ、人間はまた同じ悲劇を繰り返す”と80年も前に警告している。被害を予防するために神戸や東北の震災の日に繰り返し繰り返し警告を発するメディアや学校教育の役割は重要である。終戦記念日に不戦を誓うのも同じことだと思う。

数日前、還暦を迎えた。還暦にこれといった感慨はないが、歳を重ね人生の終盤に入り、このままではいけないという思いは年々強くなっている。松陰が高杉晋作にかけた「君の志は何ですか?」という問いに、「わからん!」では済まない歳なのである。早く第2の人生をスタートしなければという焦りだけがつのっている。