備忘録として

タイトルのまま

丈六寺

2009-10-31 23:39:48 | 徳島
梅原猛の「戦争と仏教」を読んでいると、京都の養源院に伏見城から移された”血天井”があるとあった。関ヶ原の時、石田三成の西軍は前哨戦として徳川の家来の鳥居元忠が守る京都の伏見城を攻めた。元忠は、伏見城に立てこもったが衆寡敵せず討ち死にした。このとき元忠が流した血のついた床板を移して天井板に使ったという話である。
徳島市郊外の丈六寺にも血天井がある。小学校の遠足で丈六寺に行ったとき血天井を見ながら、その由来を聞いたのだが、あとからの知識も加えると”戦国時代に土佐の長宗我部が阿波に攻め込んできて、当地を守る新開なにがしを言葉巧みに寺に呼び出し、だまし討ちにした。その時に流れた血に染まった床板を天井に使った”というものだった。小学生が天井を見上げながら血の痕跡を一生懸命捜すという今思えば気味の悪い見学だった。
勇者を顕彰するため、怨念を残して死んだ人の供養のためなどと説明されている。

丈六寺の名前は、本尊である聖観音坐像が立ちあがると一丈六尺(約4.8m)になることに由来するという。聖観音坐像の実際の高さは3.6mとある。先週古本屋で買った梅原猛・岡部伊都子の「仏像に想う」に聖観音坐像が紹介されていた。梅原によると普通、観音様は、衆生の苦難を救うためすぐに駆けつけられるように立っているのだが、丈六寺の観音様は悠然と座っている。さらに、観音様のお腹に納められていた阿弥陀仏は、正面から見ると燕、横から見るとおたまじゃくしに見えるというユニークな仏像だという。(写真)

注1:1丈=3.03m=10尺
注2:仏像は普通、4種類に分けられる。1.如来、2.菩薩、3.明王、4.天部であり、このうち如来はすでに悟りの境地にいたっている仏である。これから仏になる修行中の人間が菩薩である。なろうと思えばいつでも如来になれるのに菩薩の位に止まり、人間救済に努力する菩薩の代表が、観音菩薩である。(梅原)

そういえば、奈良の飛鳥寺(元の法興寺)の鞍作鳥(くらつくりのとり)が作った釈迦如来(飛鳥大仏)も丈六だった。推古4年(596年)に完成していたはずの法興寺の金堂に9年後の推古13年(605年)になって丈六の仏像が本尊として苦労の末、入れられた。梅原(「聖徳太子 3」)曰く、”寺が完成したときに本尊がなかったとは考えられず、9年後に仏像を作り大変な無理をして金堂に入れる必要があったのか。それまで本尊はなかったのか。”という問題は、小型だが古代史学の邪馬台国問題に匹敵するという。上原和や梅原猛は、この本尊の交替を権力者の交替、蘇我馬子から聖徳太子への交替に結びつける。

ソクラテス

2009-10-25 22:04:15 | 西洋史
ソクラテスといえば、悪妻、考え事をしていて溝に落ちたという放心癖、プラトンの師匠、野坂昭如の歌う「ソ、ソ、ソクラテスか、プラトンか」という歌、ソクラテスの弁明、刑死、などが思い出される。だが、その哲学について何も知らない。高校の倫理社会の授業で、まっさきに登場したはずだが、ほとんど覚えていない。

梅原猛はエッセー「戦争と仏教」(2002~2004年東京新聞・中日新聞連載)の中で、ソクラテスの無知の知とは逆の知の無知にある、イラク戦争を始めたブッシュ大統領とアメリカを危惧する。20世紀初頭のドイツはハイデガー、ヤスパース、フロイト、アインシュタイン、ハイゼンベルクらを輩出し哲学と科学の王国であったにも関わらず偏狭な民族主義的な理論を巧みに宣伝したヒトラーに国を委ねてしまったことと、アメリカの現状(2002年当時)を重ねて憂いている。
ソクラテスの無知の知とは、
”ソクラテスは自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えた。”

梅原猛は、”アメリカの知性は優れているが、自分がどう生きるべきかということについてまったく無知であり、部分において知恵があることがかえって自分が無知であることを自覚することを妨げている。”いわゆる知の無知状態にあるという。
梅原の言うことを言いかえれば、アメリカとアメリカ人は自国の科学、文化、知性が世界最高であるという自負のために、世界の中でどのように生きていくかを冷静に考えることができない。ということか。

同じ本で梅原は、白川静の業績を絶賛していたのでさっそく読まねばと思い、古本屋に並んでいた白川静の本の中から最も読みやすそうな「孔子伝」を買ってきた。パラパラとめくったところ、白川静は孔子をソクラテスと頻繁に比較していた。
・孔子はソクラテスと同じように何の著作も残さなかった。哲人は、新しい思想の宣布者ではなく、むしろ伝統の持つ意味を追及し発見し、今このようにあることの根拠を問う。探究者であり、求道者であることをその本質とする。
・ソクラテスはプラトンの数編の文章によって、孔子は論語によってすべてが伝えられている。
・ソクラテスやキリストの死は死することが生きることであった。「いまだ生を知らず、焉(いずく)んぞ死をしらん。」という孔子の立場からすれば生きることがすべて死への意味付けであった。
・ソクラテスがダイモンのささやきを語るように、孔子は周公の声を聞き幻影を見て生きた。(注;ダイモン=神霊、ソクラテスはダイモンの声を聞いていた。映画ライラの冒険のダイモンはこれから取ったかも)
・古代の思想は、神と人との関係から生まれている。孔子は巫女の子であり、このことは儒教の組織者として必要かつ不可欠の条件である。ここでもソクラテスがデルフォイの神託の意味を問い続けたことに通じる。(デルフォイ=デルフィ;アポロンの神殿のあった場所)
・ソクラテスは、ノモス(法律)の命ずるままに死ぬことでイデア(真理)の存在を証明するしかなかったが、仁によって真理を求めることができるとした孔子に死は必要なかった。

夏目漱石の妻・鏡子が悪妻だったという話は以前述べた。元祖悪妻は、ソクラテスの妻だが、そのクサンティッペを悪妻とするエピソードには、以下のようなものがある。(Wikiなどより ただし出典やその根拠は示されず)
・クサンティッペはソクラテスに激怒して、水を頭から浴びせた。
・ソクラテスが、「セミは幸せだ。なぜなら物を言わない妻がいるから」と言った。
・ソクラテスが、「ぜひ結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」と言った。
・ソクラテスが、「この人とうまくやっていけるようなら、他の誰とでもうまくやっていけるだろうからね」 と言った。
・ソクラテスは妻に、「何が哲学だ!?屁理屈ばかり重ねずに仕事をしろ」と言われた。

多賀城

2009-10-24 15:29:38 | 仙台
仙台の隣の多賀城は、大和朝廷が蝦夷を制圧するために建てたと習ったので、柵をめぐらした砦(砦といえば中学時代映画で見たアラモ砦のようなもの)という印象を持っていたが、資料を見ると南辺約870m、北辺約780m、西辺約660m、東辺約1,050mという広大な面積を持ち、西の太宰府に匹敵する寺や政庁を伴っていたようだ。多賀城には、城の場所と由来を記した8世紀の石碑が立っている。(写真 多賀城市観光協会HP http://tagakan.jp/rekishi/index-emishi.html)

多賀城 去京一千五百里 
    去蝦夷国界一百二十里 
    去常陸国界四百十二里   
    去下野国界二百七十四里 
    去靺鞨国界三千里

西  此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将
   軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
   也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
   節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
   府将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也
             天平宝字六年十二月一日

前半は、この城からいろいろな国までの距離で、京から1500里、蝦夷との境界から120里、靺鞨国(まっかつ)から3000里とあり、靺鞨国は、沿海州にある渤海国のことである。後半は城の由来で、城は大野東人(あずまひと)が神亀元年(724)に建て、藤原朝獦(あさかり)が天平宝字6年(762)に修造したものと記す。

芭蕉は、「ここに至りて疑いなき千載の記念、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の喜び、羇旅(きりょ)の労を忘れて、涙も落つるばかりなり」と、奥の細道で涙を流して感動した石碑なのだが、実はこの石碑は芭蕉が疑いなきと思っている”壺の碑”ではないのである。

”壺の碑”とは、坂上田村麻呂が青森県上北郡天間林村に建てたと伝えられる石碑で、弓の筈で”日本中央”と書きつけてあったという。

西行がみちのくに旅する前に詠んだように、壺の碑は西行の時代(1150年頃)には歌枕になっていた。

陸奥の奥ゆかしくぞおもほゆる 壺の碑そとの浜風

白洲正子はその著「西行」のなかで、多賀城を訪れ壺の碑を見たと書いているが、これは芭蕉が勘違いした碑であり、西行の壺の碑ではないのだ。

多賀城の碑は、壺の碑ではないのだが、天平宝治6年に建てられたものでもないという偽物説がある。この碑は芭蕉以前の江戸時代に土の中から発見されたことや書体や碑文の彫り方など理由にもならない理由によるという。
梅原猛は「日本の深層」のなかで、天平宝治6年は藤原仲麻呂の息子である藤原朝獦とその兄弟が異例の昇進を遂げた年であり、2年後には一族すべてが失脚するという権力の危機の兆候があらわれたころであることから、”この碑文には当時の人間たちの大変微妙で複雑な感情があらわれーーーー、後世、こんな手の込んだにせものをつくるはずがない”とする。
一方、司馬遼太郎は、「街道をゆく仙台・石巻」で、靺鞨国界三千里に注目し、”偽作とすれば、江戸時代の人にこういう感覚があるだろうか”と述べ、梅原も司馬も本物派である。神亀4年に渤海(靺鞨国)使が初めて来日したことが続日本紀に書かれている。

「日本の深層」は、人類学的に日本人と同じモンゴロイドであるアイヌ(=蝦夷)は弥生時代以前、日本全域にいた縄文人であり、、アイヌ語と日本語、アイヌの宗教と日本の宗教は深く繋がっていることを、アイヌの風習が色濃く残る東北を旅しながら明らかにしようというものである。
その中で以下の新知識を得た。
1.中尊寺金色堂の藤原3代のミイラは、仏教にミイラを作る風習はないのでアイヌの風習ではないか。古墳時代の殯(もがり)もアイヌ(=蝦夷)の風習かもしれない。
2.高橋富雄説は、倭の国が日本の国を合わせて日本を名乗ったという旧唐書の記述は、蝦夷を征服した西の倭が蝦夷の国号である日本を名乗ったと解釈する。古田武彦説は、白村江(663年)で敗れ衰微した九州王朝(倭)を大和朝廷が700年頃に合わせて日本を名乗ったとする。

安達太良山

2009-10-21 17:09:07 | 仙台
大学1年の夏、安達太良山に登ったことがある。1000m以上の山で頂上まで登ったのは、この安達太良山(1699m)と高校の時に登った徳島の剣山(1955m)しかない。ところが、剣山登山のことは鮮明に覚えているのだが、安達太良山の記憶が希薄なのである。山頂の風景やどこから山に入ったのかさえ覚えていないのだが、登山したことだけは確かなのである。福島の飯坂温泉に泊まった記憶、クラブの先輩が膝の靱帯損傷にも関わらず登山に参加し痛みでしょっちゅう顔をしかめていたこと、小石だらけの急崖をはいのぼる記憶など断片的な記憶があるのだ。

あれが阿多多羅山
   あの光るのが阿武隈川

有名な高村光太郎の「智恵子抄 樹下の二人」(大正12年)の書き出しである。

安達太良山は智恵子抄で有名だが、万葉歌にも詠まれている。

  安達太良の 嶺に臥す鹿猪の ありつつも 我は至らむ 寝処な去りそね
                          東歌 (巻14-3428)
犬養孝は「万葉の旅」で、「”あれが阿太太羅山”と指すまでもなく、東南に大きく開いた裾野の大観には”嶺に臥す鹿猪”も思うことができる」とし、智恵子抄の一節を借りて歌の情景を描写している。
   
梅原猛の東北紀行をまとめた「日本の深層」の中に、「光太郎の自虐」という章がある。高村光太郎は戦争末期の昭和20年4月に宮沢賢治の父の家に疎開したが、そこも焼けて、”聞きしにまさるひどい”山小屋に移った。戦争が終わり疎開していた人々は皆都会に戻ったが、なぜか光太郎はこの厳寒の地に昭和27年まで一人留まった。智恵子は昭和13年に死んでいるのだが、光太郎はここで智恵子とともに生きた。遠野物語で柳田国男の語るこの世とあの世の男女の愛の話のようなところがある。彼ほど有名な彫刻家で詩人なら都会で裕福に暮らせたはずなのに、あえて一人ここに留まったのは、智恵子とともに生きたことだけでなく、戦時中、戦争肯定の歌を高らかに歌ったことに対し自分を罰しようとする心があったからだ。と梅原は推論する。
そういえば、梅原が「水底の歌」でこれでもかと非難した斎藤茂吉も戦争賛歌を歌っている。
「日本の深層」では、アイヌ語が日本語とは系統の違う言語だと結論付けた金田一京助をやり玉にあげ、金田一はアイヌ語研究の息の根を止めたと非難する。梅原に非難された学者は、他に、聖徳太子のような超人的な事績を残す人物は存在しないとする凡人史観の津田左右吉、津田左右吉史観を受け継ぐ井上光貞、円空を過小評価した飯沢匡と五来重らがいる。梅原の舌鋒は鋭く厳しい。「空海の風景」を批判したため司馬遼太郎と絶縁状態になったことも以前書いた。だから梅原はやめられない。「日本の深層」が終わったので、「戦争と仏教」を読み始めた。

Iwogasima

2009-10-18 21:40:47 | 
シュリーマンが上海から横浜までの船旅中に見たという”Ivogasima”探しを続けている。上のGoogleの衛星写真の赤丸は、(薩摩)硫黄島である。下は島の拡大写真で、噴煙が上がっているのがわかる。


下の古地図は、モルティールというオランダ人が1655年に作成したもので、Straet van Diemenという海峡の中で、Vulkanisと名付けた噴煙を上げている火山島の絵がある。Vulkanはドイツ語で火山のことで、火山の北の大きなピンク色の島は、Yatzuxiro(八代)やVosumi(大隅)とあり九州である。(九州大学付属図書館アジア図http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/asia2/)


オランダ人Tririonが1738年に作成した下の地図は、”ケンペル(E. Kaempfer)の『日本誌』所載の地図に拠るもの”(大阪大学図書館 西洋古版アジア図
http://www.library.osaka-u.ac.jp/tenji/maps/maps.htmより)で、Satzuma(薩摩)、Oosumi(大隅)の南、Iakunosima(屋久島)の西に、”Iwogasima”の文字が見える。その南のTanaximaは琉球らしい。

ドイツ人ケンペル(1651~1716)は、1690から2年間出島に滞在し、「日本誌」を書いた。その「日本誌」(英語版 The History of Japan)に、”Iwogasima”の名が見える。
”The burning mountain Iwogasima throws out vast quantities of sulphur, which is dug up besides in many other places.”邦訳:火を噴く山”Iwogasima”では、他の多くの場所でも掘っている硫黄を豊富に産する。

スイス人のショイヒツェルも、”Iwogasima”の名が見えるケンペルの「日本誌」に基づく下の地図を1730年頃に作っている。(前出の九州大学図書館HP)


フランス人のBellinは、1752年に”日本図”という地図を作っており、下はその一部である。Saxuma薩摩の南に、”I. de Soufre”という島を描いているが、これはフランス語で硫黄の島という意味である。


薩摩の南に、Sulfur Islandという名の島が見られる西洋の古地図は他にLa Perouse1797、Pinkerton1809、Rapkin1851などがある。(いずれも前出の大阪大学図書館HP)

下は、勝海舟が幕末に編集した地図(北は左手)だが、”硫黄シマ 二千五百五十一フィート”とあり、日本側も九州の南の島を硫黄島と呼んでいたことがわかる。(国土地理院HP)


一方、"Pierer's Universal Lexikon"(ピエラーの用語集1857年)というドイツ語の辞書があり、”Iwogasima"が載っている。(Google Book)


”Iwogasima; japanische Insel bei Kiusiu, hat Schwefelgruben”
邦訳 Iwogasima;日本語、硫黄を掘っている九州の島

”Iwogasima”という、噴煙を上げ、硫黄を採取しているという火山島が日本にあることは、西洋人の共通認識であり、その場所は薩摩のすぐ南で、種子島や屋久島の近くの”(薩摩)硫黄島”と結論付けていいと思う。その他の証拠(山の標高、九州までの距離など)からも、シュリーマンが見た火山島”d’Ivogasima”は薩摩硫黄島である可能性は、極めて高いと思う。

ところで、今回掲載した地図のうち勝海舟図以外のすべての地図で、Iwogasimaの西に、St Clara、S Clara、或いはSt Claireという名の島が描かれている。これは、鹿児島の宇治諸島に相当するらしい。また、Iwogasimaのある海峡は、Diemenという名が付けられていることがわかる。Diemenはオランダ語で”一つ”という意味である。

シュリーマン その2

2009-10-15 22:08:47 | 
前回、梅原猛が「日本人の深層」という本の中で、東北人は想像力にまかせて話すうちに自分の言葉が嘘か本当かわからなくなると評したことを紹介した。シュリーマンには、もっとひどい大ぼら吹きだという評価があるらしい。
英語版Wikiには、批判(Criticism)の項が設けられていて、シュリーマンのトロイ発掘はトロイ戦争でギリシャ軍が破壊したよりもひどい破壊だったとか、プリアモス(トロイの王)の宝は彼の偽造だとか、奴隷商人だったとか、自身の見聞や発見を飾り立てる性癖があったとか記されている。“古代への情熱“に書かれた、あの有名な小さい時にギリシャやトロイの英雄たちの話を父親から聞かされて育ち、トロイ戦争が神話ではなく史実であると信じ、トロイを発掘して幼い頃の夢を果たしたという話も、研究者によって、シュリーマンが残した書簡の分析から、彼はある時期まで考古学にはまったく興味がなかったと結論付けられている。しかし、日本語版Wikiには批判はほとんどない。マルコポーロの英語版Wikiと日本語版Wikiの場合と逆であるのが不思議だ。

シュリーマンの旅行記“シナと日本“の内容を、Paul Keyserという人が「The Composition of “LA CHINA ET LE JAPON” An Introduction to Tendentious Editing」(”シナと日本“の創作、偏向編集の開始)という論文の中で批判している。Google Bookに全文は掲載されていなかったが、著者は、”シナと日本“の出版本と彼の日記(生前には出版されず)のうち、上海を出港してからの10日間の記述を読み比べて、以下のようなfraud(欺瞞)、distortion(歪曲)、exaggeration(誇張)があることを指摘している。

1.Ivogasimaの近くを通過し標高を833mとしているが、2500ftを1m=3ftで割った適当な値である。(この程度の適当は許してもいいのでは?)
2.火山は噴火していると日記には書かれているのみだが、出版本では、溶岩が4km先まで流れ、地鳴りを響かせている。
3.日記と出版本ともにIvogasimaは孤島であると書いてあるのに、近くに九州があると書いてあるので、この火山島は青ヶ島(八丈島の南)の間違い。(これは、後述するように論文の著者が間違っていると思う。)
4.火山を見た同じ日に、彼はトビウオが船に飛び込んできて船員が食べたと出版本に記すが、当日の日記にはそのような記述はない。後日、横浜のレストランで彼はトビウオを食べたと日記にあるので、その話をヒントにした創作だと思われる。
5.6月3日の出版本にシュリーマンは富士山を見たとあるが、日記では6月3日は悪天候で何も見えなかったとある。2週間後に富士山の記述があるのでそれを挿入したのだろう。
6.6月4日の日記に記録された以上の日本の風俗を出版本に付け加えている。例えば、二人のいれずみ男のこと、家の外観と内側、日本の食べ物、習慣、着物、風呂、銭湯、結婚、娼婦のことなど。
7.日記では横浜の道路の一部が舗装されているが、出版本では横浜の道路はすべて舗装されていることになっている。
8.日記では道路脇で2体の死体を見たと記すが、出版本では死体を道で踏みつけたことになっている。
9.6月4日の出版本には、日記にない3つのエピソードが挿入されている。ひとつは、正直な荷役人夫が正当な賃金しか要求しなかったことに驚いたこと、二つ目は疥癬持ちの人夫を取り換えたこと、三つめは役人が賄賂を拒否したことである。
10.日記では吉原のことを詳細に5ページにわたって描写しているのに、出版本では大きな規律ある遊郭に教養のある娼婦がいるとだけ述べられている。著者はシュリーマンが、吉原で一晩かそれ以上Enjoy(原本ママ)したはずだと推測している。
11.出版本では将軍の上洛の行列に出くわすが、日付から祭りの人出だったと推測する。日記で江戸から来た通行人の話として道路脇に3人の死体あったと聞いたのを、出版本では彼自身が死体を見たことになっている。

”古代の情熱”には、日本に来る前にすべての事業を清算し旅に出たと書かれているが、論文の著者は、シュリーマンは漆を取引しようとして日本に来たと書いている。シュリーマンは、その後商売には戻らず日本にきた3年後には考古学の発掘を始めている。
Academicな論文でもない出版物に、読者の興味を引くためのちょっとした誇張があってもいいのではないだろうか。火山の溶岩や地鳴りがなかったとしたら、少しやりすぎのような気もするが、論文の著者の指摘は厳しすぎるように思う。

歪曲や誇張の多いというシュリーマンの言葉を信じて、Ivogasima探しその2をするのは徒労なのだろうか?
上海を5月31日に出て6月3日夜には横浜についているのに誇張はないように、日記には何がしかの真実が記されているはずだ。シュリーマンの記述の真実と嘘を見分ければ、Ivogasimaの謎も解けると思う。論文の著者は、Ivogasimaが八丈島の南の青ヶ島だとしているが、この根拠は示されていない上、上海から日本沿岸を通過して横浜に行くには遠回りしすぎだと思う。当時の上海~横浜の航路図や西洋人による古地図にIvogasimaが見つかれば、Ivogasimaがどの火山島を指すかわかるはずだ。西洋人による古地図などの追加資料がいくつか見つかったので、近々に掲載したい。

Big Fish

2009-10-11 00:19:36 | 広島

Fukuの散歩中、近くの川で
「1m以上の鯉を見た。」と、家族に話したところ、
「あんな小さな川にそんな大きな魚がいるはずがない。」
「ほんとに鯉だった?」
と、適当にあしらわれたので、撮った写真を見せて
「写真のコンクリートの橋脚の幅が1.5mくらいある」と言っても、
「ハイハイ。」
で終わってしまった。

今まで見た中で、最大の鯉だと思う。華麗なる一族でキムタクに寄ってくる鯉ぐらい大きかった---と思う。以前、テレビの”ナニコレ珍百景”で、通勤路沿いの小川にいる野生化した鯉がネコ面をしているというのがあったように、広島にはたくさんいろんな鯉がいるのだ。

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【珍百景No.166】「川にいるネコ」広島県広島市安佐南区

★○○○○さん(34歳・主婦)
新安川で群れをなす、野生化した錦鯉たち…
その中に、ネコの顔のような模様を持つ鯉がいた!
目や鼻だけでなく耳まであるこの鯉の噂は口コミで広がり、
地元ではちょっとしたブームになっているそう。
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http://www.tv-asahi.co.jp/nanikore/contents_pre/collection/090121.html


あまりに信じてもらえなかったので、昔見た映画”ビッグ・フィッシュ”を思い出した。
”The Big Fish”2003 監督:ティム・バートン 主演:ユアン・マグレガー アルバート・フィーニー ビリー・クラダップ 少しだけ大袈裟に誇張して面白おかしく話をするのは誰もがすることで、悪気があるわけでなく他人を害するわけでもない。双子がシャム双生児になったり、大男は5mだったり、サーカス団長が狼男だったり。こんなホラ話ばかりする父親に息子はついていけない。うちの妻や子供達が”ハイハイ!”と私の話を遮り話題を変えようとするのも、付き合いきれないということか。映画の孤独な親父への同情と最後は親父を理解する息子に、★★★★☆

ところで、今読んでいる「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」で、東北地方を旅しながら梅原猛は、”東北の人の話を聞いていると、嘘か本当かよくわからないことがある。多くの東北人は豊かな想像力に恵まれていて、奔放な想像力のままにいろいろ話をしているうちに、その話に酔って、自分でも嘘と本当のけじめが分からなくなってしまうのであろう。”と、啄木や太宰を代表に東北人を評している。また別の個所では、東北(縄文人)と関西(弥生人)には異なる価値観があり、東北人は正直だが、関西は古代からマキャベリズムが浸透しているため 嘘は悪ではないと述べている。梅原猛の基準では、東北人による想像力いっぱいの話は、ウソには入らないのである。

私の見た鯉はほんとうに、”大きかった!”
そして私は、想像力豊かな東北人でも嘘を肯定する関西人でもなく、”普通に正直な”四国人なのである。


鞆の浦

2009-10-07 20:14:56 | 万葉
昭和30年代後半、犬養孝が撮った”黎明の鞆の浦、手前・弁天島、後方・仙酔島”である。
下は今。


海人小舟 帆かも張れると 見るまでに 鞆の浦廻に 波立てり見ゆ  作者不詳(巻7-1182)

「備後の鞆は、こんにちでは、4~5月ごろの鯛網の観光や、弁天島から仙酔島にかけての風光のよさで知られているが、(中略)いまはさびれた港町となって 昔の由緒も、船具などの鉄工場のひびきの陰にわずかに余喘をたもっている趣きである」犬養孝
注:余喘(よぜん)をたもつ=滅びそうなものがかろうじて続いている

10月4日の日曜日に鞆の浦へ車で行った。写真の弁天島、仙酔島、万葉歌碑、常夜灯、坂本竜馬のいろは丸、古い街並みなど見どころは多かった。鞆の浦では街なかの交通渋滞の解消のため、埋め立てと架橋が下の写真の場所に計画されている。

中国新聞の写真にお絵かきした。

犬養孝が訪れた昭和30年代後半、鞆の浦の由緒はすでに虫の息状態だった。それから50年、鞆の浦の由緒は何とか保たれてきたが、埋め立てと架橋が虫の息までも止めてしまうはずだった。そして先週10月1日、広島地裁は、景観保護を目的として、埋め立てと架橋計画の差し止めを命じた。この判決で鞆の浦が生き残る可能性がでてきたのである。

吾妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞ無き  大伴旅人(巻3-446)

大伴旅人は太宰府から帰京する途上、鞆の浦を過ぎるとき、赴任先で亡くした亡妻を思慕する歌を詠んだ。むろの木は松杉科のハイネズという木で、仙酔島に自生するのを犬養は弁天島を背景に撮影している。



仙酔島には渡らなかったのでむろの木の写真を撮れなかった。代わりに弁天島と仙酔島への観光船発着場の向かいに立つ大伴旅人の万葉歌碑を載せておく。歌碑のとなりに立つ木は、松杉のたぐいだと思うのだが、むろの木であるという表示はなかった。上の写真のむろの木とは、少し違うような気がする。もしも、むろの木でないとしたら、むろの木の歌碑の脇に”紛らわしい木を植えるな!”


白彼岸花

2009-10-06 20:16:17 | 話の種
白い彼岸花があるというので、彼岸花を探しながら通勤路の緑道を走った。いつも通っているはずなのに見逃していた白い花が、あった!
緑道の彼岸花は散り、変わりにコスモスが咲き乱れている。コスモスを見ると、さだまさし作詞作曲で山口百恵の歌う「秋桜(コスモス)」を思い出す。

「薄紅のコスモスが秋の日の
何気ない陽だまりに揺れている
この頃 涙もろくなった母が
庭先でひとつ咳をする
縁側でアルバムを開いては
私の幼い日の思い出を
何度も同じ話繰り返す
ひとりごとみたいな小さな声で
こんな小春日和の穏やかな日は
あなたの優しさがしみてくる
明日嫁ぐ私に苦労はしても
笑い話に時が変えるよ
心配いらないと笑った」

学生時代は、山口百恵の歌う歌が好きだったけど、
この歳になって、しみじみと”詩”を味わうことができる。

長門の島

2009-10-03 08:28:36 | 万葉

わが命を 長門の島の 小松原 幾代を経てか 神さびわたる (巻15-3621)
恋繁み 慰めかねて ひぐらしの 鳴く島陰に 蘆(いおり)するかも (巻15-3620)
石走る 滝もとどろに 鳴く蝉の 声をし聞けば 都し思ほゆ (巻15-3617)
われのみや 夜船は漕ぐと 思へれば 沖辺の方に 楫の音すなり (巻15-3624)
4首ともに遣新羅使人

遣新羅使は、天平8年(736)、瀬戸内海を西進しながら長門の島に仮泊し、上の4首を含め8首の歌を詠んでいる。望郷、妻恋い、異郷のわびしさを歌っているけれど、都を出たばかりで新羅までの道のりはまだ遥かである。これから先のことを考えたら、気が狂いそうになるかもしれない。確か大使は新羅からの帰途、対馬で亡くなっている。(天平の鬱

長門の島に擬せられる倉橋島の桂浜に行ったのは先週の日曜日(9月27日)で、犬養孝と同じように、音戸の瀬戸にかかるラセン型の橋(昭和36年竣工)を渡った。


砂浜と海と遠くの島を見る限りでは、犬養孝の行った昭和30年代後半と違いがないように見える。海辺には万葉歌碑が立っていたが、犬養孝の頃もあったそうだ。しかし、海から陸に目を転じると、海岸の道路脇には町営の近代的な温泉や体育館や公民館が建っている。
写真の灯篭の脇に大きな鳥居があり、陸に向かって道路を渡ると桂浜神社がある。祭神は仲哀天皇と神功皇后とその子応神天皇である。確か、山口県宇部市の琴八幡宮の祭神も同じだった。都から九州にかけては、熊襲や新羅征伐に行った3神を祭神とする神社が多いのだろうか。絵馬堂の絵は保存状態が悪く色あせ破れさびれていた。