備忘録として

タイトルのまま

法華義疏

2014-11-30 19:36:29 | 仏教

聖徳太子は三経義疏を著わした。三経とは勝曼経、維摩経、法華経であり、義疏とはその注釈書である。法華経を解説した鎌田茂雄の『法華経を読む』も義疏ということになる。日本書紀には、606年に皇太子が推古天皇に勝曼経と法華経を講義したとある。天皇は大いに喜び、(褒美として)播磨国の水田100町を皇太子に施し、因って以て斑鳩寺に納めた。

(推古天皇十四年)秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經於岡本宮、天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。

聖徳太子』の中で梅原猛は、三教義疏を読んでそれらが聖徳太子の作品であることを確信したと記す。津田左右吉らの偽書説に対して、三教義疏も読まずにそれらが聖徳太子の作ではないとしていることに痛烈な批判を加えている。梅原猛が依拠するものが花山信勝の訳した『法華義疏』である。先月、神田古書店街で掘り出し物がないかと渉猟していたときに、偶然、彼の本をみつけ衝動買いした。文庫本上下2冊組で、ビニールでカバーされていたため中身も確かめずに買った。家に戻りそそくさとビニールを破り捨て表紙をめくったところ、内容があまりに難解で自分の実力では手に負えず、結局は花山信勝のあとがきだけを読んだ。

本の最初のページに以下の法華義疏冒頭の写真が載っている。”法華義疏第一 此是 大委上宮王私 集非海彼本”とあり、”大和の国の上宮王の私に集まるところ、海の彼(かなた)の本には非ず”と訳される。花山は、”本来、奈良時代の本はほとんどが朝鮮半島か中国大陸からもたらされた。海外の仏教経典の注釈は上宮王である自分のところに集り、その中から自分の意に適した文章を採用し、簡潔にまとめた。”と解し、義疏は聖徳太子自筆とする。

法華義疏については偽書説が盛んであるが、花山は訳本のあとがきで、”法華義疏を読めば読むほど、義疏を書いたのは聖徳太子以外の何人でもありえないと思うようになった”と述べている。花山の示す理由は以下のとおりであるが、法華義疏の著者に習い、一部私意を付け加える。

1.全四巻にわたって行間や余白に細字で加筆、貼り紙、文字の上下入れ替え、返り点、消字など、本書の著者でなければ不可能と考えられる前後連絡のある統一的加筆修正がなされている。字体は欧陽詢(おうようじゅん=557-641年唐の書家)の筆法が加わっているので奈良中期の文字とみられる。貼り紙があるような草稿本が偽書である可能性は低い。

2.法華義疏など三教義疏は、聖徳太子の死後すぐから太子御製として久しく伝承されていた。

8世紀中旬の鑑真は南岳の恵思禅師が上宮聖徳王として生まれ変わり法華経を弘通されたという信念のもと渡海を決意する。鑑真に同伴した弟子の思託(したく)は、『上宮皇太子菩薩伝』を著して、太子が三教義疏を作ったと記し、772年に入唐した日本僧は揚州竜興寺にいた鑑真の遺弟の霊祐大師に上宮王の撰号のある『法華義疏』四巻と『勝曼経義疏』一巻をもたらした。そして唐僧の明空が『勝曼経義疏』に私抄一巻を書き”上宮王 非海彼本”の注釈をした。9世紀に入唐した円仁がそれを写して我が国にもたらした。 (恵思禅師=6世紀に活動した天台宗の二祖。龍樹が開祖)

708年生まれの智光は自著で三教義疏から多くの引用をしているが、その引用文は現存の三教義疏と相違がない。

天平19年(747年)の法隆寺伽藍縁起並流記資材帳に、法華義疏四巻、維摩経疏三巻、勝曼経疏壱巻が記録されている。

3.法華義疏では光宅寺法雲(467-529年)の書いた注釈書である『法華義記』を直接引挙し、また是非するものが多い。その大胆な批判精神と、経文や先人の解釈にとらわれない独自の解釈の発表、簡潔明晰な特徴など、太子のような大人物であって初めて私集できるものである。

「ただし、私に懐(おも)うには」、「ただし疑うらくは---」、「然れども、これはこれ私の意なり」、「しかれども、私意及ばず。ゆえに、記さざるなり」、「しかれども、私意は少しく安らかならず」、「今、私に釈すれば」、「論ぜざるも明らかなり」、「これに例して推すべし」など、自身のことばで解釈を行っている。特筆すべきは、「実に就いて論ずることを成さば(実例に沿って論ずるとすれば)」ということばの多さで、論議が常に実際的立場からなされているのである。

4.法華義疏の中には、少乗の誤字(正は小乗)、身子と真子の混用、舎利弗と舎利仏の混用など他にも誤字や異字があり、漢字が使用され始めた時期の専門僧でない上宮太子こそその著者としてふさわしい。

5.606年の法華経講義の翌年、太子は小野妹子を隋に遣わし、沙門数十人を同伴させ仏法を学ばせ仏典を請来させている。

6.一大乗という法華義疏独自の用語がある。小乗に対する大乗、三乗に対する一乗を合体させた一大乗は、著者の造語であり、他の義疏にない独自の解釈をしている。一大乗は誰もが仏性を持てるという平等思想であり、これはまさに十七条の憲法の10条に通ずる。

7.法華義疏は他の2義疏に言及しているので同一人物が書いた可能性が高く、解釈は勝曼、維摩、法華の順に要を得てくることから、成立年もこの順番だと考えられる。これは日本書紀の年代順に一致する。

8.著者は安楽行品で”山の中で常に坐することを好む小乗の禅師には親近せざれ”と解釈し、そんなことをしていては仏の教えを世間に弘められないではないかと疑問を呈する。これは先人の天台智や法雲の解釈とは真逆であり、著者の解釈が間違っているのだが、僧侶でない仏教で日本の政治を変えようと考える為政者、すなわち聖徳太子のことばであることを証明している。

またまた、聖徳太子の人間性に惚れ込んでしまった。


ガンダーラ

2014-11-29 23:44:26 | 仏教

古館伊知郎が報道ステーションで、対馬のお寺の仏像盗難事件をコメントし、”(仏教は)こだわらない心、とらわれない心を教えてくれるんですよね。”と述べ窃盗行為を許せと言っているようにとらえられたため、ネットやツイッター上で激しくバッシングされている。物への執着を捨てることや自己にとらわれない心(無我=我執を捨てる)は、ブッダの大切な教えの一つであることは確かである。古舘の言う仏教の教えは間違ってはいないが、事実を報道するニュースキャスターがテレビの画面で真顔で宗教の教義を説くことに違和感を感じないでもない。

ブッダの死後しばらくは、ブッダ自身が”自灯明・法灯明という、自分を拠り所とし法(ダルマ)を拠り所にしなさい”と言ったことや、ブッダを像とすることが畏れ多かったことなどで仏像を作って祀ることはなかった。仏教徒は仏像ではなく代わりにストゥーパや仏足石法輪や菩提樹を信仰対象としていた。仏像が作られ始めるのは、仏教がインド西北のガンダーラ地方や北インドのマトゥーラ地方に伝わってからとされる。ガンダーラはパキスタンのペシャワール付近である。紀元前330年頃、アレキサンダー大王がこの地方に遠征しギリシャ文化を持ち込んだ。紀元前3世紀のアショカ王の時代はまだ仏像は作られておらず、王はガンダーラにもストゥーパを建てた。紀元前2世紀にこの地方を支配したのは、インド・グリーク朝のメナンドロス王で、彼と比丘ナーガセーナの問答が「ミリンダ王の問い」という仏典に残されているように引き続き仏教はこの地方に浸透している。

仏像が作られ始めるのは、紀元2世紀中頃、ガンダーラ地方を支配したクシャーン朝のカニシカ王の時代からである。この地方で作られた多くの仏像や絵画はギリシャ彫刻の影響を受けガンダーラ美術と呼ばれる。日本や中国と異なり仏像の顔がギリシャ風である。日本では最古の飛鳥寺に飛鳥大仏があるように、仏教伝来の6世紀にはすでに仏像崇拝が始まっている。マルコ・ポーロは東方見聞録の中で仏教徒のことを偶像崇拝教徒と呼び、13世紀のキリスト教徒からみた仏教徒は様々な仏像を拝む連中と認識されている。

 

如来立像、東京国立博物館蔵、パキスタン・ペシャワール付近、紀元2~3世紀

上原和は、ペシャワール博物館で上の仏像のような”托鉢するブッダ像”や”説法するブッダ像”を見ている。ブッダ像は、たくましい腰と太い脚を持ち、跣(はだし)で立ち、頭髪は、後年の肉髻(にっけい=頭のてっぺんにお椀を伏せたような盛り上がり)ではなく髪を細紐一本で束ねただけだった。上原和は粗衣を着て托鉢する素朴な行脚姿こそが世俗を捨てたブッダにふさわしいとつぶやく。

法顕はガンダーラ地方を訪れ、『法顕伝』あるいは『仏国記』で以下のように記録している。

この国の仏法もまた盛んである。むかし天帝釈が菩薩を試し、鷹と鴿(はと)に化し、(菩薩が)肉を割いて鴿をあがなった処である。(のちに)仏が成道してから、諸弟子と遊行し(た際)、ここはもと私が肉を割いて鴿をあがなった処だと語った。国人はそれでそのことを知り、ここに塔をたて金銀で校飾(かざ)った。ここから東へ五日下って行くと、ガンダーラ(犍陀衛)国に到った。アショカ王の子ダルマヴァルダナ(法益)が統治した処である。仏が菩薩だった時にも、また国において(自らの)眼を人に施したという。そこにも大塔をたて、金銀で校飾(かざ)ってある。この国の人は多くは小乗学である。 (長澤和俊訳『法顕伝』より)

玄奘三蔵も『大唐西域記』(水谷真成訳)でガンダーラ(健駄邏)国について以下のように記録している。

ガンダーラ国は東西千余里、南北八百余里あり、東はインダス川に臨んでいる。国の大都城はプルシャプラ(今のペシャワール)といい、周囲四十余里ある。---村里は荒れはて、住人は稀で、宮城の一隅に千余戸あるだけである。農業は盛んで、花・果はよくなり、甘蔗(さとうきび)が多く、石蜜(氷砂糖)を産出する。---

ガンダーラには仏鉢、ブッダが木陰に座ったピッパラ樹、カニシカ王が建てた大ストゥーパや伽藍、仏像画や白石の仏像、世親菩薩や如意論師や鬼子母の遺跡、大自在天(シバ神)象、アショカ王のストゥーパなど多くの仏跡や遺跡が存在し、玄奘三蔵はそれらの由来を示す不思議な話を書き連ねている。

ペシャワール博物館やインドの博物館は写真撮影が自由で、ネット上の多くのブログで仏像を見ることができた。上原和も「世界史の中の聖徳太子」に自分で撮影した説法のブッダ像を載せている。シンガポールでパリのオルセー美術館展が開催されたときも写真撮影は自由だった。仏像や絵画を収蔵する日本の博物館、美術館、寺や神社では何でもかんでも写真撮影禁止である。商業目的でなければ許可としてほしいものだ。


地球温暖化

2014-11-23 13:39:29 | 話の種

地球温暖化が進行しているのは明白と言われる。上のグラフ(Wiki)は1880年から2014年の年間平均気温(カラー線)の推移を示す。黒線は変動傾向をわかりやすくするための5年毎の移動平均である。1910年から1℃、1960年頃から比べると0.6℃上がっている。温室効果ガスである二酸化炭素の放出が主因と言われている。グラフをよく見ると1998年以降、温度は横ばいになっている。この温度の停滞(grobal warming hiatus)は、太陽の活動低下や海洋による熱摂取によるものと説明されていたが、小さな火山の噴火が原因という新しい研究報告がある。

火山の噴火が気温を下げることは、恐竜絶滅の原因のひとつとして有名だが、太陽エネルギーを遮断するには、大量の噴出物が10~15km上空の成層圏(Stratosphere)にまで達するほどの巨大噴火が必要だとされていた。実例として、1991年のフィリピンのピナツボ火山噴火VEI=5)が地表面温度を0.5℃下げ、それは1年程で通常に戻ったことがわかっている。これが、いわゆる日傘効果である。30年ほど前に読んだ「Cosmos」の著者で映画「コンタクト」の原作者カール・セーガンが提唱した核の冬も同じ考えによる。そのため、科学者は成層圏内の二酸化硫黄、粉塵やエアロゾル(微小浮遊物)に着目していた。最近、LIDARという光を照射し粒子を検出する技術を用いて大気圏中の微粒子を測定したところ、上空10㎞までの対流圏(Toroposphere)の極地方に小規模火山噴火による粉塵が考えていたよりも多く存在していることがわかった。それをモデル解析したところ、この粉塵や浮遊物が地球の温度を0.05~0.12℃下げるに十分な量だということがわかったというのが、今回の研究報告である。

だとしたら、中国やインドのPM2.5やインドネシアの焼畑による煙などの対流圏中の浮遊物は、地球温暖化を停滞させるのだろうか。それとも同時に発生する二酸化炭素による温室効果のほうが優勢なのだろうか。

ブドリは冷夏を防ぐために、カルボナード火山を噴火させ二酸化炭素の温室効果で温度を上げようとする。それが逆効果だったとしたら、わが身を犠牲にしたブドリがあまりに悲しすぎる。


Jersey Boys

2014-11-21 00:13:13 | 映画

ポスターはIMDb

You're just too good to be true  Can't take my eyes off of you
You'd be like heaven to touch  I wanna hold you so much

(中略)

I love you baby  And if it's quite all right
I need you baby  To warm the lonely night
I love you baby  Trust in me when I say

Oh, baby baby  Don't bring me down, I pray
Oh pretty baby  Now that I found you, stay
Let me love you, baby  Let me love you, baby

You're just too good to be true  Can't take my eyes off of you
You'd be like heaven to touch  And I wanna hold so much

     *Youtube (https://www.youtube.com/watch?v=PzpWKAGvGdA&index=6&list=RDHC7u5MMKyFgTs) 

1967年にフランキー・バリが歌った"Can't take my eyes off you"(日本語題名は”君の瞳に恋してる”)の歌詞である。直訳すると”君から目が離せない”や”君を見つめずにいられない”ということになる。歌詞の”Too good to be true”は、”話がうますぎる”ときに使う慣用句で、Kopi Luwakの回に出てきた。映画では”夢のように美しすぎる”と訳し、あるウェブサイトでは、”あなたのような人がいるなんて夢のよう”と訳していた。

フランキー・バリとフォーシーズンズのことを映画化した「Jersey Boys」2014は、クリント・イーストウッドの監督である。出演:ジョン・ロイド・ヤング(フランキー・バリ)、ヴィンセント・ピアッツァ(トミー・デビート)、エリック・バーゲン(ボブ・ゴーディオ)、マイケル・ロメンダ(ニック・マシー) The Four Seasonsの出世曲である”Sherry”や上の”Can't take my eyes off ”など後年何度もカバーされたOldiesが聞けて楽しかった。ハリウッド映画「Dream Girls」や「Sparkle」など他の出世物語同様に、グループの内輪もめや家族の崩壊などが描かれ話のテンポが良く、最後はボリウッド映画のように出演者全員が、”December, 1963 (Oh What a Night)”を歌い踊る。イーストウッド監督はミュージカルでも非凡だった。★★★★☆

「Dawn of the Planet of the Apes、邦題:猿の惑星ライジング」2014、監督:マット・リーブズ、出演:アンディー・サーキス(シーザー)、ジェイソン・クラーク、ゲイリー・オールドマン、前作の「猿の惑星・創世記」は飼い主に愛情を感じながら種のリーダーとして人間から離れていくシーザーの内面を描き出していてとても面白かった。今回は、人間にどう対峙するかで意見の分かれた部下に裏切られるシーザーを描くが、猿との共生を目指す人間との関係や息子の離反と復帰が少し安直だったため、リーダーとしてのシーザーの行動に前作ほどの必然性と説得力を感じなかった。最後の戦闘場面が暗くてセットも小さく、前作のGolden Bridgeを舞台にした戦いのような躍動感や解放感がなかった。★★★☆☆

「Edge of Tomorrow 邦題:All You Need is Kill」2014、監督:ダグ・リーマン、出演:トム・クルーズ、エミリー・ブラント、邦題が英語なのは、英語タイトルの日本のノベルを映画化したからである。人類を破滅から救うには主人公を殺して時間をリセットしなければならないから、確かに”All you need is to kill him”なのだが、それでは味気なさすぎる。人類が明日を迎えるための戦いとしては、”Edge of Tomorrow”に軍配を上げる。エイリアンからの攻撃を受ける人類の未来は、エイリアンとの接触で過去に戻る再生能力を得たトム・クルーズの反撃にかかっていた。エイリアンをやっつけることに失敗するたびに自ら死んで過去に戻り、正しい戦い方に修正していくという話だが、ドラクエやファイナルファンタジーに夢中になっていたとき、強いモンスターにやっつけられる度にリセットボタンを押して同じことををやっていた。人生はそういう訳にはいかないので、このまま突っ走り玉砕するのみである。この映画のマッチョなエミリー・ブラント(「Arther Newman」、「Looper」、「The adjustment Bureau」、ガリバー旅行記」)を初めてカッコイイと思ったので星をひとつおまけして、★★★☆☆

「Chef」2014、監督:ジョン・ファブリュー、出演:ジョン・ファブリュー(父)、エムジェイ・アンソニー(息子)、店のオーナーと作る料理で対立し首になったシェフが古いキッチンカーでアメリカを横断しながら自分の好きな料理を提供する。離婚した妻に養われる息子が旅に同行することになり、その息子が得意のネットで料理を紹介すると行く先々で彼の料理は大評判を呼び、家族のきずなを取り戻す。贅沢にもロバート・ダウニー・Jrとスカーレット・ヨハンセンとダスティン・ホフマンがチョイ役で出ていた。料理に対する信念を貫きとおしたシェフを嘉して、★★★☆☆

「Transformer:Age of Extinction」2014、トランスフォーマーシリーズを一度も見たことがないのでなぜ彼らが追われているのかがわからなかった。採点する権利はないかもしれないし、このシリーズに思い入れのある人には申し訳ないが、星ゼロ。

「六月燈の三姉妹」2013、監督:佐々部清、出演:吹石一恵、吉田羊、徳永えり、津田寛治、市毛良枝、西田聖志郎、鹿児島市の和菓子屋を舞台に三姉妹、親子、夫婦の関係を描く。離婚するつもりで郷里に帰ってきた二女を東京から夫が追いかけてくる。映画の宣伝文句は、”和菓子屋の再生に奮闘する三姉妹を描くーーー笑いと涙のハートフルコメディー”とあったが、映画の主題は二女と夫がどのように寄りを戻すかで、和菓子屋再建に奮闘しているようには思えなかったし、笑いも涙するような場面もなかった。離婚や浮気や不倫がオンパレードであるにも関わらず映画がなぜかほのぼのとしていたのは、二女の夫の愚直な誠実さと町内会長の井上順ら気のいいご近所さんによるものだろう。六月燈というお祭りで少し年増の美人三姉妹が歌うキャンディーズ(微笑み返しだったと思うけど忘れた)を親でもないのに気恥ずかしく思った。歳の所為か。★★☆☆☆


野島断層

2014-11-16 17:56:14 | 徳島

先週の帰郷時、両親を連れて鳴門海峡大橋を渡り淡路島の北端まで行った。あいにくの雨模様で、淡路島の岩屋側から明石海峡大橋を霞の中に撮った。その後、野島断層を保存する北淡震災記念公園を見学した。

 

野島断層は淡路島の北端から明石海峡大橋の2本の主塔の間を西南から北東に抜け神戸市に達する約10㎞の活断層である。保存館では野島断層140mほどを写真のようにそのまま保存している。3枚目の写真の一段高くなった南東側がせり上がり右手方向(西)に1.2~1.5mほど動いた右横ずれ逆断層である。横ずれは9kmに及んだという。4枚目の写真にあるように右側が左側に乗り上がり、断層面は一直線でシャープだった。兵庫県南部地震は野島断層が動くことで発生した。地震で断層が発生したのではないのである。下はUSGSに記録されている兵庫県南部地震のShape Mapで、マグニチュードはM6.9となっているが、日本の気象庁の公式記録はM7.3である。

下の表は気象庁震度階級と加速度(Gal)の関係である。1g=981Galなので、USGSの上表と比較するには、USGSのPeak ACC(%g)の数字を10倍すればよい。気象庁の震度7(400Gal)とUSGSのVIII(Peak Acc 40%g)が同規模ということになる。気象庁の震度階級は震度7が最大だが、Wordenでは、さらにIX(750Gal)とX+(1390Gal以上)という2階級を設定している。上図で淡路島北部と神戸周辺は赤く染まっているので、IXからX+だったという判定である。

記念館で神戸の震度7を疑似体験した。下から突き上げてくるような振動で、もちろん立っていることのできないほどの揺れだった。1978年の宮城県沖地震(M=7.4)を仙台で被災(震度5)し、2011年3.11を東京(震度5弱)で遭遇した妻によると、疑似体験した震度7や35年前の震度5よりも3.11の方の横揺れの方が激しい感じがしたという。3.11のとき妻は東京スカイツリー近くの小学校の校庭にいて、建設中のスカイツリー上のクレーンがぐるぐると大きく回るのを見て今にも落ちるのではないかと不安に思ったという。3.11は横揺れの振れ幅が大きく、さらに揺れの時間も2~3分継続し、恐怖心が増幅された所為かもしれない。

震度と加速度の目安
震度加速度(Gal)
0 0.8以下
  1
0.8 - 2.5
  2
2.5 - 8.0
  3
8.0 - 25
  4
25 - 80
  5
80 - 250
  6
250 - 400
  7
400以上

 淡路島では昔花博が行われたという淡路夢舞台という大きな温室にも立ち寄った。外には庭園や階段状の花壇もあったが雨だったのとやたらと広いので温室内だけを見学した。温室内に植えられた花々は素晴らしく癒されたが、足腰の弱い年寄が見学するには広すぎる。もう少しコンパクトでバリアフリーにしてもらえないだろうか。下の写真右は紫式部という花である。小紫式部という花もあり、両者をじっくり見比べたが違いがわからなかった。

 


ペレの涙

2014-11-02 12:14:44 | 話の種

ペレの涙(Pele's Tear)とペレの毛髪(Pele's Hair)は地学事典に最小の火山砕屑物として記載されている。USGSから拝借した下の写真の左が小さな黒いガラスの粒からなるペレの涙で、髪の毛か羽毛のように見える右の写真がペレの毛髪である。学生時代にシャーレの白い綿の上にみたものは、3cmほどの細い糸状のペレの毛髪に1~2mmほどの小さな黒い粒のペレの涙がくっついたものだった。そのとき、その名前の由来を知ることはなかった。その後、Peleがハワイ神話の火山の女神の名前であることを知り、20年前に家族旅行で行ったハワイ島のキラウエア火山で実物を目にした。ペレの毛髪は、径0.5mmで長いものは2mにもなるとUSGSに書いてある。

ペレの涙や毛髪のような小さな物も、9月27日に御嶽山から噴出した大きな火山弾も、今、流れ出ているハワイのキラウエア火山の溶岩(USGS)も、かつてのポンペイや雲仙岳の火砕流も、すべて火山噴出物である。火山噴出物は噴火の形態やマグマの成分などによって異なる様相を呈する。逃げることもできないほど突然急速に降下するものもあれば、キラウエアのようにゆっくりと時速1m~10mのスピードで流れる溶岩もある。

火山爆発指数(VEI)はUSGSの教授とハワイ大学の教授が提唱した火山の爆発規模を示す区分で噴出ボリュームを基準に0~8の9段階に分類される。今回の御嶽山噴火は噴出ボリュームが0.01~0.1立方kmのVEI=3に区分される。東京ドームの容積は0.00124立方kmなのでドームの10倍から100倍の量だったということである。噴出ボリュームは爆発のエネルギーと無関係であることや静かに流れる溶岩流はカウントされないので厳密には噴火の規模とは言えないが太古の噴火規模を分類するのに適しているという。日本における最大級の火山噴火は、9万年前の阿蘇山噴火、紀元前25,000年の姶良(あいら)カルデラ、紀元前5,300年の鬼界カルデラ(アカホヤ噴火)の三つで、VEI=7に分類されている。いずれも火山灰は御岳山噴火の1万倍である。阿蘇山の噴火は過去4度起こっていて、そのうち最後の9万年前の4回目(Aso-4)の規模が最も大きく、その時に発生した阿蘇の火砕流堆積物は山口県の宇部や秋吉台で見つかっている。姶良カルデラは今の桜島を中央火口丘とし鹿児島湾がカルデラとなったもので、火山灰は偏西風で関東平野まで運ばれ10cmの厚みで堆積している。鬼界カルデラは薩摩硫黄島付近に位置し、噴出したアカホヤ火山灰は東北地方まで飛来し琵琶湖では3~5cmの厚みで堆積している。

最大のVEI=8に分類される火山噴火は、7万5000年前のインドネシアのトバ湖の噴火や220万年前の米国イエローストーンの噴火で、巨大爆発はいずれも巨大なカルデラを形成している。1707年の富士山の噴火はVEI=5、2000年の三宅島はVEI=2、2000年有珠山はVEI=1、2010年のアイスランドの火山エイヤフィヤトルヨークトルはVEI=5である。

御嶽山噴火のあと、神戸大学の火山学の先生が100年以内に日本でVEI=8級の超巨大噴火が起こる確率は1%と発表した。どの火山とは言わなかったと記憶しているし、1%という確率が高いのか低いのかピンと来ないのだが、もし噴火すれば大きな災害となることは明らかである。今回の御嶽山噴火では予報ができなかったように、ポンペイや雲仙岳のような火砕流を防ぐのは厳しいのではと思う。

20年前の家族旅行は、徳島の両親を伴う7人の大旅行だった。1週間ほどのハワイ旅行で、ハワイ島まで足を伸ばし、ヒロでレンタカーを借りコナまで南回りで半周した。道中どこかのリゾートホテルとコナ近くのホテルに1泊ずつしたがホテルの名前も場所も忘れてしまった。古いアルバムを引っ張り出せばたぶんわかると思うのだがアルバムは田舎の押入れの片隅に眠っている。それよりも、初めての左ハンドル車の運転で緊張したこと、キラウエア火山の雄大なカルデラ、強風の中、黒砂海岸で黒い砂や貝を拾ったこと、海岸べりに車を止めて皆でみた太平洋に沈む夕陽を鮮明に覚えている。この旅がきっかけで長女は後日ハワイ大学で学ぶことになる。