備忘録として

タイトルのまま

My Last Run

2018-03-30 12:49:22 | 東南アジア

 昨日、引越しが終わり近くのホテルに入った。3月末をもってシンガポールを引き払い帰国する。今後シンガポールに出張することはあっても再び駐在することはないだろう。今朝は、ホテルで『わろてんか』に続き声を潰した有働アナの『あさイチ』を観てから、馴染みのEast Coast Park(ECP)でLast Run 8kmを楽しんだ。今日のシンガポールはGood Fridayの休日で、ECPはジョギング、ウォーキング、サイクリング、太極拳、エアロダンス、スイミング、キャンプなど様々に休日を楽しむ人々で溢れていた。

ヤシの木の下に見える自転車は、今シンガポールを席巻するレンタサイクル。

幼児をストローラーに乗せてランニングする女性。西洋人に多い。

Lifeguardがいないので自己責任で水泳をしろという看板。左手に見える太陽光パネルは、海を監視するビデオカメラ。数十年前、インドネシアの海賊がこのあたりに上陸し付近を荒らしたことがあった。今は、インドネシアからのテロ攻撃や密輸団に対し監視を強化している。

広場でフリスビーをしている若者たち。背後の左手に建つ白と青の高層ビル群が昨日まで住んでいたコンドミニアム。休日には高速道路の下を通る歩行者トンネルを抜けてこちらのECPに渡った。

East Coast Parkway高速道路。向かい側中央の高層ビルとその左の低層ビル(壁に銀行や商店のロゴ)がParkway Paradeというショッピングセンターで、その左が昨日までの我が家。ショッピングセンターには伊勢丹、ベスト電器、ダイソーや様々な商店、レストラン、スーパーが入る。この右脇に歩行者トンネルがある。

ランニングのあと公営住宅(HDB)の中のキャンティーン(フードコート)で食べた朝食 Egg Roti PrataとKopi-O。卵の入った小麦粉を焼いたインド風パンとカレーとコーヒーブラックで、併せてS$4(約320円)美味である。

ホテルの部屋の窓から。Parway Paradeショッピングセンターと右手が旧宅。一番左手の棟の8階に5年間住んだ。ショッピングセンターの前は、建設中の地下鉄(Thomson-East Coast Line)で、2023年開通予定である。あと5年いれば利用できた。

ホテルにもう一泊し、明日31日、早朝便で帰国する。4月から千葉で新しい生活が始まる。


大都会のカワウソ

2018-02-24 19:08:48 | 東南アジア

 上の写真は、今日ジョギング中にFlower Dome(『風の谷のナウシカ』のオームのような建物)近くで撮影したカワウソ注意の看板である。カワウソに出会ったらどうするかの注意書きもある。シンガポールのカワウソは、NHKの『ダーウィンが来た』2017年7月9日放送”驚き!!大都会のカワウソ家族”や『ワイルドライフ』2018年2月5日放送”シンガポール大都会カワウソ家族 仁義なき争いを勝ち抜け”で紹介されたので、マリナベイ周辺をジョギングするときは、すぐ写真が撮れるように準備をして走っている。残念ながらカワウソに遭遇したことはまだない。

上の2つの写真は『513話ダーウィンが来た』より

 放送によると、ここにはビシャン一家という昔の任侠集団のような名前が付けられたカワウソ一家が棲みついている。1980年以前は海で、1980年代始めに埋め立てられ最近までカワウソはいなかった。2008年に埋立地の先端に堰(ダム)がつくられ、内部は貯水池(Marina Bay)として淡水化された。貯水池は浄化され、時間とともに魚が棲み、埋立地にはFlower Dome、Supertree Grove(大きな木のモニュメント)、自然遊歩道、人工池などからなる”Garden by the Bay”がつくられた。そこにマレーシアからカワウソ一家が移住してきたのだ。シンガポールには、北部の一部や中央の環境保護区を除き本当の自然はほとんど残っていない。しかし、シンガポールを一歩出たマレーシアには手つかずの自然の河川やマングローブの繁茂した海岸が残り、カワウソをはじめ多くの野生生物が生息している。シンガポールの人工の貯水池や公園が、カワウソの生息に適するようになったということだ。

 考えてみると、日本の里山も村人が長い年月をかけて自然と共生しながら造り出したもので、シンガポールの大都会の自然環境は形態は異なるが基本的には里山と同じだと思う。大都会の環境が生物を育み、長い年月の間にそれが自然と同化する。造った環境が劣悪だったら、何者も来ず、不毛の人工物で終わってしまうだろう。そういう意味でシンガポールの建設面での国造りは今のところ成功しているのかもしれない。シンガポールは何もかも人工物だと否定してはいけないのだ。

 貯水池ではドラゴンボートの練習をしていた。街は春節真っ盛りである。


グルカ族(Gurkha)

2017-08-06 14:40:05 | 東南アジア

 好んで飲んでいたApple Cinnamon Chai Teaが店頭から消え、2か月間見ていない。リンゴとシナモンの香りが鼻をくすぐる香ばしいお茶である。

 ダージリンでデモが発生し紅茶の9割が出荷できない状態が続いているというニュースを聞き、この紅茶が消えたのはその所為かと思った。ところが、紅茶のパッケージを読むとアッサム茶だった。そもそもダージリンとアッサムの違いを認識してないので、インド北部の地図(下)をのぞいてみた。ダージリンはネパールとブータンに挟まれた狭い場所で西ベンガル州に所属する。アッサム州はその東、バングラデッシュとブータンに挟まれ、ダージリンよりもっと広い範囲を指す。もうひとつのニュースでは、ダージリンの北東、インド、中国、ブータンの接する付近でインドと中国間で国境紛争が発生し、両国の軍隊が今にらみ合っているという。

 ダージリンのデモは、グルカ族(またはゴルカ)が、インド中央政府の教育政策(同化制度)に反発して起こしたものだという。

 ところで、シンガポールの警察には、Gurkha Contingentというグルカ族で構成する部隊がある。外国の要人が集まる会議などを警護することで知られている。シンガポールの警察が、わざわざ、ネパールの一部山岳民族を雇っているのだ。警察のWeb-siteによると、設立は1949年4月で、市民暴動の鎮圧やVIPの警護のために警察内に設けられたという。初期のころは、マレー半島の共産主義者追跡に従事した。一時期、刑務所の警備についたが、今は要人警護や反テロリスト対策に従事する。グルカ部隊はその強靭な身体的精神的な能力をもとに、高い規律と忠誠を発揮することで知られている。

 グルカ部隊の起源は、もっと昔にさかのぼる。19世紀にイギリスの東インド会社が、彼らの能力に目をつけ傭兵としたことに始まり、セポイの反乱のときはその鎮圧に大きく貢献する。イギリス軍に組み入れられ、第2次世界大戦では日本軍と戦闘し、戦後は日本の占領任務や朝鮮戦争に参加している。

 シンガポールのグルカ部隊は軍隊には所属せず、前首相のリー・クワン・ユーの警護や伝統的に大統領府イスタナの警護を担当している。シンガポール人ではないのであくまで傭兵である。ローマ法王を警護するバチカンのスイス傭兵に似ている。スイス傭兵は、1527年のドイツ・スペインによるローマ略奪のときに法王に忠誠を尽くし全滅している。現在のバチカンのスイス傭兵は儀礼的な存在だが、シンガポールのグルカ部隊は実戦部隊で重要な任務についている。シンガポール人に能力や忠誠心がないのか、政府が自国民を信用していないのかシンガポールの不思議のひとつだ。


Hindu Wedding

2017-06-28 23:28:32 | 東南アジア

 先週の土曜日6月24日、知り合いのインド人の娘さんの結婚式レセプションに招待された。会場はシンガポールで有名なヒンズー教寺院”Sri Thendayuthapani Temple" 略して"ST Temple”で、夕方7時に行くと寺は点灯されていた。この寺が有名なのは、信者が体に針を刺して街を練り歩くタイプーサム(Thai Pusam)の終点になるからだ。タイプーサムはテレビのニュースでは見ても、実物は痛々しくて見たことはない。寺のweb-siteによると、シンガポールで最も古いヒンズー寺院のひとつで1859年創建とある。

 新婦はシンガポール大学土木学科を今年6月トップクラス(Honour)で卒業したばかりで、新郎はカナダのトロントで育ちアメリカのミシガンで仕事をしている。親が決めた結婚で、二人は会ったこともないまま結婚している。親が決める結婚はインドでは普通だということだ。双方ともインドのチェンナイ出身で、式はそのチェンナイの寺院で挙げたという。レセプションすなわち披露宴の次第は、下の写真のように新郎新婦が舞台に立ち、招待客が順番に舞台に上がり二人を祝福する。そのとき、中国正月などで使うアンパオ(お年玉袋)に入れたご祝儀を新婦関係者なら新婦に渡し、それを脇に控えた兄弟か親戚が預かる。それから招待客は新郎新婦と並んで写真を撮る。このとき両親は招待客を寺院の前で出迎えているので舞台にはいない。舞台の新郎新婦は仲睦まじく、到底、知りあって日の浅い夫婦には見えなかった。

 招待客のほとんどがインド人で女性は色鮮やかな民族衣装のサリーで着飾っている。インド人でないのは、妻と私以外では若い中国人女性が数人だけだった。おそらく新婦の大学の友人だと思われる。招待客は数百人はいただろうから、この祝福の儀式に一時間以上はかかる。そのため、舞台のある2階で祝福を終えた招待客は三々五々、1階に設けられたテーブルで料理を御馳走になる。振舞われる料理は、写真のようなバナナリーフの盛るカレー中心のベジタリアン料理で、セルフサービスのビュッフェスタイルである。カレーは少し辛いが美味であった。

下は、引き出物の置物。


中国正月2017

2017-02-05 12:08:30 | 東南アジア

今年の中国正月は1月29日(土)で、シンガポールは月曜日まで3連休だった。下は2日目のチャイナタウンの飾りと近くのショッピングセンターの干支占い。ひと昔前の中国正月3ケ日は商店やレストランが閉まり、街を走る車も少なかった。今年は正月初日こそ静かだったが、2日目にはスーパーマーケットも通常営業を開始し、街はいつにも増してにぎわった。

1週間後の今週末は、いつものようにジャンジャカジャンが街に繰り出し、近くのショッピングセンターでは支柱の上を飛び跳ねる曲芸ライオンダンスや大太鼓の乱舞が披露された。

曲芸ライオンダンス動画はこちら https://youtu.be/LJZCFhJexLw


ボタニックガーデン

2016-11-10 23:34:56 | 東南アジア

先週末、ボロブドールに続きボタニックガーデンを訪れ世界遺産のはしごをした。昨年2015年に登録されたシンガポール初の世界文化遺産である。土曜日にもかかわらず小雨だった所為か入場者は少なく、のんびりと快適に園内を探索できた。入園は無料で、遺産登録で保護される貴重なHeritage Tree1本1本、熱帯特有の樹々と草花、それと疑似熱帯雨林に触れることができる。種類が豊富だとされるオーキッド園は別区画になっていて有料である。下は園内の様子と野外コンサートホール。

オーキッドとブランコをする少女像のある池

15m以上の蛇のように伸びた根を持つ木と園内のカフェーで食べたチキンサテーとBacon Cheese BurgerとFried Potate。

Heritage Tree(カポックまたはシルクコットンという名の遺産樹)、オーキッド園前の時計台とマダツボミ

園内博物館の掲示板(下)にボタニックガーデンに貢献した人々が紹介されていた。掲示板中央の1929~1945 E.J.H. Cornerは、ケンブリッジ大学出身の植物学者で、日本占領時(1942年2月)の副園長である。ボタニックガーデンでネットサーフィンしているうちに、彼が日本統治時代のことを回想した本を出していることを知った。

本のタイトルは『The Marquis—A Tale of Syonan-to』(侯爵ー昭南島の物語)で、石井美樹子の『思い出の昭南博物館-占領下シンガポールと徳川侯』(中公文庫)という日本語訳がある。シンガポール日本人会図書館で見つけた訳本を借りだして読んだ。訳者の石井は本に出てくる日本人科学者に直接会うなどし、Cornerによる原本の執筆に深く関わっていた。

コーナーは、1942年2月のシンガポール陥落後すぐに東北大学地質学教授と名乗る高橋舘秀三と出会う。実は高橋舘教授の自己紹介の半分はウソで、彼は教授ではなく講師にすぎなかった。「じつにダイナミックな人間であった。ときには圧倒的でさえあった。公の場での駆け引きがうまく、私的には歯に衣を着せずにものを言い、ときには慈愛深く、ときには冷酷で、詩人であると同時に実際的な人間であった。」とコーナーがいう田中館教授は、”大学の同窓”の山下奉文将軍と交渉し、植物園と博物館の管理を任される。山下は陸軍大学校出身なので大学の同窓というのもうそ。上の掲示板に名前のある著者のコーナー、ホルタム(Eric Holttum), ミスター・カン(Kwan Koriba)に、上の写真の右端に立つ水産局長バート(William Birtwhistle)を加えた4人は、掠奪から植物園と博物館を守ることと研究を続けるために田中館教授のもとで働くことになる。1942年当時、広さ32ha、100年近くの歴史を持つ植物園内は、熱帯から亜熱帯にかけて3000種もの樹木で埋まっていた。彼らの主な仕事は、マレー半島全域の植物を採取し、分類、研究することであった。世界中から種々の植物を移植し、有用な植物は園内の試験場で品種改良を行うことも重要な仕事であった。植物園は単なる散歩道や遊園地などではなく、シンガポールの産業の主要な拠点となっていた。世界一の植物園として、世界の植物学者で知らないものはなかった。「高橋舘教授がいなければシンガポールの博物館と植物園と図書館はあとかたもなく滅び去っていただろう。」とコーナーは回想する。教授は早い段階から日本は戦争に敗れると思っていたという。教授は昭和18年7月に帰国し、代わりに侯爵の徳川義親が総長に、博物館長に羽根田弥太博士、植物園長に郡場教授が就任し、高橋舘教授の仕事を引き継いだ。「私たちは田中館教授の意志を受け継ぎ、希望の灯をたかだかと掲げ続けたのである。」 コーナーは田中館が教授ではなかったことを知りながら、本ではずっと彼を教授という尊称で呼んでいるので、田中館の人柄に心酔していたことがわかる。

コーナーは博物館の仕事を続ける中、日本軍による非人道的な蛮行を見聞する。フォートカニングの丘のふもとに今もあるYMCAに置かれた憲兵隊司令部では華僑を捉えては拷問を行っていた。集められた大勢の華僑はトラックに乗せられどこかに連れて行かれ帰ってくることはなかった。戦後、チャンギの海岸で日本軍の虐殺による無数の人骨が発見されたことで、彼の証言は裏付けられた。戦争末期の1944年には日本の占領に陰りがでてきて、食糧事情や衛生状態が悪く病気や飢餓でなくなった人々の死体が博物館の横に放置され悪臭を放った。そのころの日本軍にはモラルハザードが発生し、日中でも街中で地元民を殺人虐待凌辱する地獄のような光景が繰り広げられたという。コーナーは日本人科学者との日々を好意的に書いているが、華人大量虐殺と終戦間際の蛮行は日本の占領時代の汚点だと非難する。「世界大戦は人間性を踏みにじった。もし自分が日本人科学者に出会えなかったら、人間を信頼する力を失っていただろう」と述懐する。

1945年にシンガポールは解放される。コーナーは、「戦争の勝利が日本人科学者の姿勢を左右しなかったように、敗戦によっても、学問への奉仕者としての姿勢を変えなかった。」とし、1946年コーナーは植物園を守った日本人科学者についての記事をタイムズ紙に送ったが、「日本人がシンガポールで人類の文化に貢献したなどとは、とても信じられない、嘘っぱちだ」ということで記事は掲載されなかった。戦争中のシンガポールにおける日本人科学者のことが世に出るのは、1981年まで待たなければならなかったのである。

コーナーたち以外の英国人は皆チャンギ捕虜収容所に入れられたため、同胞からは戦争協力者だとみられた。シンガポールのNational Library Databaseで見つけた1982年The Strait Timesの下の記事(部分)は、コーナーの出版本についてのものである。Wartime Controversy(戦争時の論争)という記事には、コーナーが日本人科学者たちと植物園で研究を続けたのは自国を裏切り、日本軍に協力したことになるのではないかという疑問をコーナー自身が自分に問い続けたと書く。掲示板の植物園に貢献した人々の中に、日本人科学者の名前はない。日本占領下で日本人科学者がボタニックガーデンに関わったということは黙殺されている。善行が抹消されるほどの蛮行があり、戦後70年経った今もそれはシンガポールで許されてはいないのである。

 訳本のシンガポール地図 (今はないカトン飛行場は位置が間違っていたので赤で訂正した)


ボロブドール

2016-11-05 00:58:46 | 東南アジア

10年前行きそびれたボロブドールにやっと行くことができた。中部ジャワのジョグジャカルタ市内から北西に約1時間のところにある。車を手配したホテルで、日の出を寺院から見ることを薦められたが、朝4時出発ということだったので丁重にお断りし朝7時出発にした。入場料Rp260,000(約3000円)を払い広い敷地に入った頃の入場者はまばらだったが、遺跡を観るうちにみるみる増え、2時間後遺跡を出るころには人であふれた。

ボロブドールは、7~11世紀に中部ジャワを支配したシャイレンドーラ朝が8世紀に造営した仏教寺院で、地元では、Candi Borobudurと呼ぶ。9層ピラミッドの下位5層は方形で最下層は1辺120m、上位3層は円形になっている。最上段の大きなストゥーパを仏像一体を収めた釣鐘状のストゥーパ72基が取り囲んでいる。ピラミッドは手で抱えられるくらいに小さく成形した20~30㎝大の四角いブロック(安山岩や粘板岩)を漆喰などを使わず丁寧に積み重ねてできている。

シャイレンドーラ朝の起源には、地元ジャワ、スマトラ、インド、カンボジアの4説があり、発見された古マレー語碑文などからジャワ起源が有力とされている。インド起源説は、あのアショカ王が征服した東インドのカリンガを起源とする。しかし、アショカ王のカリンガ征服は紀元前3世紀なので、7世紀に始まったシャイレンドーラ朝とは時代が隔たりすぎていると思う。

9世紀半ば、シャイレンドーラ朝の王子が政争に敗れ逃れたのがシュリービジャヤ朝である。以降、シュリービジャヤ朝は栄え、10世紀にはマレー半島、スマトラ、ジャワを含む広大な地域を支配し全盛期を迎える。シャイレンドーラ朝は、シュリービジャヤ朝に併合されたとも並立したとも言われる。ボロブドールは大乗仏教寺院で、7世紀インド往復時に義浄が立ち寄り修行したシュリービジャヤの首都パレンバンの寺院が大乗仏教だったように、大乗仏教は7~9世紀のインドネシア全域に広まっていた。学校で、大乗仏教は北伝、小乗仏教は南伝と習ったと記憶しているが、大乗仏教は南伝もしているじゃないか。ボロブドールの周りには9世紀のヒンズー教のプランバナン寺院遺跡群もある。現在、インドネシアは世界最大のイスラム教徒人口を有する国で、仏教は衰退、バリ島にヒンズー教、スラウェシにキリスト教が細々と分布する。

ボロブドールは近世まで忘れ去られていて、19世紀始めにラッフルズが土に埋没した状態で発見し、その後、オランダ統治領時代に発掘が続けられた。第2次世界大戦後はユネスコの指導で発掘保存が行われ、1991年に世界遺産登録された。遺跡は2010年ムラピ火山の噴火により降灰の被害を受けたということだったが、丁寧に保存修復されていて好感が持てた。

最下層のレリーフはブッダの一生を描いているというので念入りに見学した。下のレリーフの前でフランス人グループのガイドがしきりにクァトロ(4)と叫んでいたので、これは愛馬カンタカに乗ったシッダールタ王子が腰が曲がり杖をついた老人を見た四門出遊の場面に違いないと思い写真を撮ったが、間違っているかもしれない。次のレリーフは、ブッダの周りに人間だけでなく鳥獣が集まり説法を聞いている。菩提樹下の悟り、初転法輪、沙羅双樹と涅槃などはないかと2度巡ったが結局わからなかった。構内の博物館に期待したが、レリーフの説明は限定的でやはりどのレリーフがどんな場面を表現しているかはわからなかった。ガイドをつけるべきだったかもしれない。


シンガポールのオリンピック

2016-08-21 15:18:09 | 東南アジア

 

日本選手が活躍するリオオリンピックも早や最終日。陸上400mリレーは個々の力が結集し素晴らしい結果を出した。卓球やバドミントンは接戦が多く、観ているだけで1打1打に胸が締め付けられたので選手のプレッシャーはどれほどだったかと思う。レスリングの吉田は残念だった。後は男子マラソンを残すのみである。

シンガポールのオリンピックの話題は、ジョセフ・スクーリングが100mバタフライでUSAの伝説フェルペスを破りシンガポール初の金メダルを獲得したことと、卓球女子団体が日本、それも15歳の少女に敗れ銅メダルを逃したことで、連日テレビや新聞でその様子が報道された。

ジョセフ・スクーリングは現在21歳、テキサス大学の寄宿舎で学びながらトレーニングを積んでいる。シンガポールには徴兵制があり、男子は18歳で2年間の兵役につかなければならないが、彼はリオオリンピック終了まで徴兵延期されていた。シンガポールには韓国のような活躍したスポーツ選手に対する徴兵免除はなく、今回の活躍でスクーリングの徴兵はさらに延長されることになるらしい。一躍ヒーローになったスクーリングは先週帰国し凱旋パレードがあった。彼の父親はシンガポール生まれのイギリス人2世のビジネスマンで母親は中国系マレーシア人であることや、アメリカ人のガールフレンドがいることや、好物はダークソヤソースをたっぷり使ったキャロットケーキだといった情報がネット上にあふれている。キャロットケーキは日本人の間では大根モチと呼ばれ、スクーリングが好きなダークソヤの黒いのもいいが、卵と炒めた白いのをチリソースで食べるのも美味しい。

卓球女子団体について当地の新聞は、世界ランキング4位のフェン選手が15歳の伊藤美誠に0-3で敗れ、ロンドンオリンピックに続き再び日本に敗れ銅メダルを逃したと報じた。写真は、The Strait Timesより。

この二つの出来事がシンガポールで大きな議論になっている。

シンガポールには1993年に導入されたForeign Sports Talent Schemeという外国人スポーツ選手優遇制度があり、外国から有望なスポーツ選手をリクルートし移民させ政府が金銭面と待遇面でサポートするという制度である。その制度を使って最初に採用されたのが中国からの卓球選手で、2008年北京オリンピックでは女子団体が銀メダルを獲り、2012年ロンドンオリンピックでは女子個人が銅メダルを獲ったが、今回は終にゼロとなり、どんどん後退している上に、シンガポール人の卓球選手が育っていない。スクーリングより1歳年上の中国でスカウトされた男子卓球選手は政府のサポートを受け、さらに徴兵も免除されているのに、シンガポール人であるスクーリングは徴兵を免除されず、政府の援助もなく、スクーリングの両親は、アメリカで本格的なトレーニングを積ませるために家を売り自分たちを犠牲にして慎ましい生活をしながら彼をサポートしているというのである。自国の有望なスポーツ選手に対する徴兵と外国人スポーツ選手優遇制度が、大きな議論になっているのである。

 


ジョギング

2016-05-29 23:09:15 | 東南アジア

シンガポールは暑くて湿度が高く、もっぱら明け方か夕方、あるいはジムで走る。ジムはクーラーが効いているので快適に汗をかくことができるが、戸外は朝夕でも”汗をかく”ではなく、”汗が噴出する”感じで、30分も走ると体重は1㎏減る。少なくとも1リッターは汗をかいた計算になる。明け方でも気温は25℃、湿度は95%もあるからだ。

自宅近くのEast Coast Parkでの朝ジョギングは、朝日の中チャンギ空港に降りる飛行機や太極拳体操の老人グループを見ながら走る。涼しい日本でのジョギングの爽快感までは味わえないが予め決めた距離や時間の達成感を得られる。

フィットネスに通い始めたのは広島時代2009年3月だからもう7年も前のことになる。荒川で10㎞を走ったのは2011年10月なので5年前のことだ。その後、シンガポールに駐在し、週末にジムで走ることさえさぼるようになり、2014年後半、ついに体重はコンスタントに70㎏を超えメタボになり、血糖値、コレステロール、尿酸値が標準値を超えた。そんなとき高校の同級生がフルマラソンを走ったという年賀状が舞い込んできた。高校時代、自分はクラブで毎日走り、持久走は学年でも速い方で2年のときは陸上部の助っ人として駅伝県大会にも出た。運動部所属でなかった同級生に負けるわけにはいかないと、今年1月から週3回のジョギングと体重管理を始めた。海外出張があるので週3回のジョギングはできないときがあるが、何とか体重を65kgまで落とした。そして先日、今年10月の荒川ハーフマラソンを申し込んだ。2年計画でフルマラソンを走る。と、ブログで宣言し、自分を追い込んだのでやるしかない。


パレンバン

2016-05-25 00:27:36 | 東南アジア

記憶が正しければ、30年ぶりの再訪である。先週、仕事で立ち寄った帰りの飛行機便を待つ合間に見覚えのある場所を巡った。街は変貌していたが、昔の面影もたくさん残っていた。

下はパレンバンの中心部を流れるムシ川にかかるアンペラ橋で、2つの橋脚で吊った中央桁が昇降する。スマトラの南部に位置するパレンバンは近くで石油を産出し、製油所からの積み荷などを運ぶ大型船がムシ川を行き来するために、このような昇降橋が必要だったのだろう。日本の戦後賠償で建設した橋だから30年前にももちろん存在していた。今、橋はパレンバンの陸上交通の大動脈で橋上は大渋滞だった。現在は下流にも大きな橋がかかっている。

30年前、車の数はまばらでバンコクのように水上交通が主流だった。昔も下の写真のように、あふれる乗客を屋根に乗せた水上バスが水しぶきをあげていた。当時、アンペラ橋の両岸は水上に張り出した民家が軒を連ね、人々はムシ川で、水浴、調理、洗濯、大小便など生活のすべてをまかなっていた。現在、その貧民街は一掃され、公園やレストランとしてきれいに整備されている。

右下、30年前に長期滞在したSanddjaja Hotelは当時のままに建っていた。そのころのパレンバンでは数少ない高層ビルで、街一番の高級ホテルだった。今回の再訪でホテルのコーヒーショップに入りアイスコーヒーを飲んだ。古い場末のホテルの趣で昔日の高級ホテルの面影はなくなっていた。フロントで宿泊代を尋ねたところ驚くほど高額だった。昔の格付けのままに営業しているのだろうか。

下の写真のように商店の建物は古く、30年前の街並みのままだと思う。しかし、決定的に昔と違うのは商店の看板から漢字が消えたことだ。インドネシアは1965年の共産事件とスカルノ失脚で華僑のインドネシア同化政策が進み、ジャカルタなどでは30年前でも漢字は見られなかった。ところが、パレンバンの街中には多くの漢字が残っていたので驚いたことを覚えている。今は漢字が街からきれいさっぱり消えている。それと、当時の街に車は少なく、アンペラ橋近くにあった船着き場からSandjaja Hotelまでの道を、右下の写真に写るベチャという自転車タクシーに乗ってのんびり行き来したものだ。今では、道路に車とバイクがあふれ、ベチャにゆったり乗ることなどできないだろう。

左下は、空港と街の中心をつなぐ新交通LRTの建設現場で、これも渋滞の原因になっている。右下はアンペラ橋近くに建つ大きな真新しいモスクで、30年前にはなかった。

アンペラ橋とモスクの間に博物館があり、シュリービジャヤ王国の遺物があるという案内だったがネットでの評価が低かったので入らなかった。30歳の頃に仕事で滞在した街の懐かしい場所を訪ねると、忘れていた記憶が呼び起され感慨深い旅になった。


チリクラブ

2016-03-06 11:44:20 | 東南アジア

チリクラブは、チリ(Chile)のクラブ(Club)じゃなく、チリ唐辛子(Chili)のカニ(Crab)のことである。甘辛い唐辛子ソースでカニを煮たシンガポールやマレーシアの地元料理で海鮮料理屋で食べることができる。カニはMud Crabと呼ばれるシンガポールやマレーシアの海岸沿いのマングローブに生息するハサミの大きなカニだが、例にもれずシンガポールのマングローブは消滅寸前のため地元のカニは少なくなり、マレーシアやスリランカやベトナムから輸入されている。アラスカから来る高価な別種のカニもチリクラブに使われるようになった。チリソースの味が勝っているのでカニは肉が豊富なら種類は問わない。Mud CrabはBlack Pepperでバーベキューとして食べるのも美味しいがどうしてもチリクラブを選んでしまう。

チリクラブは、シンガポール東部マリンパレードにあるRolandという店が、「The Year 1956, Founder of Chili Crab」(1956年、チリクラブ創始者)と主張しているが真偽は不明である。店の創業者はカラン川のほとりの屋台で炭コンロを使って調理したSeafoodを売ることから始め、その後Upper East Coast Roadで店を持ったという。自分が初めてシンガポールに来た1980年頃にはUpper East Coast Road沿いに多くの海鮮料理屋が軒を連ね何れの店もチリクラブを出していた。そのいずれもが屋外レストランだった。ポンゴールやウビン島にもチリクラブを出す店があったが、区画整理により街中の地区に移り、現在、チリクラブレストランはクーラーのあるこぎれいな高級レストランと庶民のフードコートである屋外レストランに分けられる。

これまで食べたチリクラブの場所リスト

  • 1980年頃 Upper East Coast RoadのRed House、ポンゴール、旧国立競技場下のレストラン、ニュートンサーカス、マレーシアのKemaman
  • 1990年代 East Coast ParkのRed Houseとその周辺、マレーシアのPort Klang
  • 2000年以降、Jumbo、Red House、Long Beachなどのチェーン店、Marine ParadeのRoland、EsplanadeのNo Signboard、Joo Chiat RoadのUbin、各地フードコート

東京にもチェーン店のひとつが店を出しているが行ったことはない。店によって使っているチリソースが違うので味が微妙に異なる。外道だがカレー味のチリクラブを出す店もある。

チリクラブをきれいに食べ尽くすためには、丁寧に殻からカニの身を取り出さなければならない。大きなハサミの部分は簡単だが、足とその付け根の部位は難しく手をソースでべとべとにしなければきれいに身を取り出せない。そのため手を洗うFinger BowlとHand Towelが欠かせない。カニ肉をたっぷり満足するまで食べるには我慢強さが必要である。友人家族は日本で買ってきたMy カニフォークを持参していた。チリクラブにはパンが付き物で、チリソースをつけて食べるパンがまた美味である。むかしは食パンを数センチ角にぶった切ったパンが出されたが、いつの頃からかしゃれた揚げパンや蒸しパンが付くようになった。

チリクラブは味が濃厚で、その後に食べる料理の味がわからなくなるのでその日のメーンとして最後に食べなければならない。この順番を取り違えた店に苦情を言ったところ、”最後に出せと言わなかったじゃないか”とウェイターが言いかえしてきたので二度と行かなくなった老舗がある。いつも通っていた店で、料理を出す順番はいつも同じだったため暗黙の了解があると思っていた。その後、事情のわからない観光客に目が飛び出る程高価な貝料理を出した話や、自分と同じような経験をした知り合いがいて、経営が傲慢になってしまったのか有名店だったがあっという間に評判を落とし店じまいに追い込まれた。客は店の対応に敏感なのだ。

チリクラブを食べるために毎年シンガポールを訪れる友人夫婦や、食べ残したソースをビニール袋に詰めて持ち帰った日本からの客もいる。若い頃はそうでもなかったがカニ一匹を老夫婦二人で食べるには多すぎるので、日本から客が来た時や会社の同僚と食べに行くのが定番だ。殻を取るときにソースが飛び跳ねて白いシャツに赤いシミを付けて家に帰り妻に「またやったネ!簡単に落ちないんだよ!」と叱責されたことは数知れない。最近では紙のエプロンを出す店が増えてきたので叱られることが減った。


Garden of Fame

2016-02-28 16:37:01 | 東南アジア

昨日、昔シンガポールに住んでいた古い友人の希望でバードパーク背後の丘(Jurong Hill)に登った。かつては、Hill Topという日本食レストランがあり昼食に利用したり、日本からの客を展望台に案内したりした。今は観光コースからはずれ、展望台もレストランも閉鎖され閑散としていた。それでも、丘の上は外国からの国賓が植樹した木々が生い茂り、『Garden of Fame』と名付けられ、きれいに整備されている。ハリウッドスターが手形を刻した『Hollywood Walk of Fame』と同じ命名である。上の写真はイギリスのエリザベス女王(エリザベス2世)が植樹をしたときのもので、庭園の脇にこの写真と説明板が建っている。木の根元に置かれた銘盤には、「この木は、エリザベスII女王のシンガポール訪問を記念し1972年2月19日に植樹された」と記されている。植樹したTembusu Treeの小さな苗木が44年後、下の写真のように大きく育った。エリザベス女王以外には、小平、福田赳夫、スハルト、マルコスらのFameが確認できた。

1926年4月生まれのエリザベス女王は、シンガポールを訪問した1972年2月には45歳だった。1972年のエリザベス女王をネットで探したところ、以下の写真が見つかった。最初の写真はSingapore Bird Park関係のWeb-siteにあったもので、上の植樹の写真と同じ服と帽子を着て白っぽい手袋をしているので同じ日に撮影されたものだろう。この日は陽射しが強かったのだろうか女王と夫のエジンバラ公(女王の左の背の高い頭髪の薄い白人)はサングラスをかけている。植樹の時はサングラスを外している。その次の写真は、1972年2月21日付けの新聞記事で梁廣記という中国風餅屋をリー・クワンユー夫妻と訪問している。中国語の餅は、焼き菓子のことである。梁廣記という店が今どこにあるのかわからない。次は1947年の結婚から25年目の銀婚式を祝う写真である。車に乗った写真は、フランスを訪問した時の女王と24歳のチャールズ皇太子で、まだダイアナ妃と結婚(1981年)する前のことである。

 

エリザベス女王はジョージ6世(「国王のスピーチ」)の長女として生まれ、1952年26歳で即位し、下の地図(Wiki)のうち赤色のGreat Britain and North Irelandと、ピンク色のイギリス連邦16か国の君主となった。茶色はかつてのイギリス植民地で、女王を君主とはしないが独立後もCommonwealth(イギリス連邦)として深い関係を保っている。ピンクのカナダの君主はエリザベス女王だが、茶色のシンガポールは独自に選出した大統領を国家元首としている。また、シンガポールにはアメリカ大使館や日本大使館はあるが、英国大使館はなくイギリスの外交機関は高等弁務官(High Commisioner)事務所と呼ばれている。High Commisionerは植民地時代に植民地を統括した責任者のことである。

下は、丘から北方の景色で、かすかにテレビ塔の立つブキティマ山が見える。ブキティマ山では第2次世界大戦において当地を守備するイギリス軍とマレー半島を南下してきた山下奉文率いる日本軍の激戦があった。ブキティマ山の激戦とシンガポール陥落は1942年2月のことで、そのちょうど30年後の同じ月にエリザベス女王がシンガポールを訪問し、ブキティマ山を望むこの地で植樹をしたのには意図があったのかもしれないなどと想像してみる。エリザベス女王は勇敢にも1945年2月に18歳で英国女子国防軍に入隊している。

 


Jakarta

2015-12-13 15:21:47 | 東南アジア

今ジャカルタ・スカルノハッタ空港でシンガポールに戻る便を待っている。現地社員の結婚式に出席した帰りだ。新郎新婦とも中国系インドネシア人で社内結婚である。若い二人の結婚式はケーキカット、シャンパングラスツリー、ブーケ投げのある西洋風だった。立食パーティー形式で、インドネシア料理、北京ダック、フカヒレスープ、点心、ラクサを食べた。いずれも美味しく、中でもKambing Gulingというヤギ肉の料理は絶品だった。ダイエット中なのだがつい食べ過ぎた。これでまた1週間ほどのダイエット努力が無駄になりやり直しになるのだが、食い気に勝てなかった。ジャカルタの街はクリスマス一色で、クリスマスツリーの前をヒジャブを被ったモスリムの女性が闊歩していた。シンガポールでは見慣れた光景だが、世界最大のイスラム教徒のいるインドネシアで、これほど盛大にクリスマスを祝うことに少し違和感を覚えた。伝統的なイスラム国でも商業主義が優勢になっているということなのだろうか。

下の写真のJKT48の専用劇場はホテルの隣のショッピングセンターでたまたま見つけた。劇場の前には開演を待っているのかサインの機会を狙っているのか、数人の若者がたむろしていた。会社の若い現地社員は誰もJKT48を知らなかったので現地での人気ぶりはわからなかった。そのショッピングセンターのスーパーマーケットでKopi Luwakを買ってしまった。100g約1000円とやはりいい値段である。Kopi Luwakは数年前までは2ブランドしかなかったのが、空港内の土産物屋で数えただけでも10ブランド近くあった。そんなにジャコウネコがいるはずはないと思うのだが、Kopi Luwakの希少価値は減少し値段だけが驚くほど高く商業主義に完全に乗っかっている。価値があるとは思えないそんなKopi Luwakを購入した自分こそ商業主義に取り込まれているのかもしれない。

ホテルの窓から野球をしているのが見えたので行ってのぞいてみた。小学生高学年かと思われる子供たちが硬式野球の試合をしていた。インドネシア各地からチームが集まっていて、おそらく駐在員の子弟だと思うけど日本人のチームもあった。女子ソフトボールの試合も同時に行われていた。日本チームとローカルチームの試合を少し観戦したが、ローカルチームのピッチャーのコントロールが悪く一方的な試合だった。最終回抑えで出てきた日本チームのピッチャーは剛速球投手で、3人の打者をすべて3球三振で片づけた。

搭乗時間がきたので、PCを閉じる。

 


Haze

2015-10-04 12:03:55 | 東南アジア

10月3日(土)のシンガポールHaze PSIは150でUnhealthy(不健康)状態である。下は朝9時過ぎに撮ったマリナベイサンズと高層ビル群で、もう3週間こんな状態が続いている。2日前、雨が降って少しは良くなると期待したが、まったく状況は改善されない。報道では、風向きが変わらないので、あと1か月くらいこの状態が続くらしい。

汚染の程度を表すPSI(Pollutant Standards Index)は、PM2.5(微細粒子)、PM10、二酸化硫黄、二酸化窒素、一酸化炭素、オゾンの総濃度を表す指数で、0-50通常、51-100中位、101-200不健康、201-300極めて不健康、301以上は危険と分類されている。

Haze(大気汚染)が一向によくならないので、シンガポールの環境庁やメディア記事をのぞいて見た。下のグラフは、Asia Oneというメディアのポータルサイトから拾った今年7月から9月のPSI(Pollutant Standard Index=汚染指数)の推移である。9月10日頃から健康によくない(Unhealthy)のPSI=100を超え、上下しながら9月25日に危険(Hazardous)のPSI=320を記録している。9月25日は学校が休校になった。今日10月4日朝9時の空もHazeで霞がかかり、太陽はくすんだ赤い色をしている。今日のPSIは130程度で昨日の150よりは少しましだが不健康に変わりはない。そのため、いつもの日曜日なら窓を開け放ち部屋の換気をするところ、今日は窓を閉め切ってクーラーをかけている。

前にも書いたが、記憶する限りでは1990年代中頃のHazeもひどかったので、もう20年対策がとられていないことになる。20年前と異なる点は、豊富な衛星データや気象情報に一般市民がアクセスでき市民意識がより高まっていること、汚染基準値PSIの厳密な採用と危険情報の開示、PSI=300以上で学校を休校とするといった法制化などである。中国のPM2.5 と同じで明白な根本原因を取り除くことができず、インドネシアの行政に期待できないことは明らかである。

下の地図はシンガポール環境庁のWeb-siteに掲げられた昨日のRegional Haze Mapで、ボルネオとスマトラの濃い茶色の地域がDense Haze、その周辺の薄い茶色がModerate Hazeの地域で、シンガポールと半島マレーシアはすっぽりとHaze影響圏に入っている。地図の薄い茶色のModerateは、昨日のシンガポールがPSI=100を超えたUnhealthyだったため、PSI=50~100のModerateとは意味が違うはずである。地図にはHot Spotという小さな赤い点が示されていて、おそらく焼畑の中心地だと思われる。濃い茶色の地域は視界がないほどにひどい状態だと思われる。地図の矢印は風向きで、シンガポールやマレーシアには南東の風が吹いているためボルネオやスマトラのHot Spotの風下に位置する。写真は2年前にクアラルンプールのKLタワーからペトロナスタワー方向を撮ったものである。クアラルンプールは内陸山裾にあるため大気の循環が悪くシンガポールよりHazeがひどい。

昨晩のRugby World Cupの日本サモア戦は、東京留守宅のテレビをSkypeで生中継してもらって観た。画像は思いのほか鮮明で、家族の歓声を共有し臨場感たっぷりだった。欲を言えば4トライ取って欲しかったが、これまでの歴史を考えると文句なく素晴らしい大会になっている。決勝トーナメント進出は厳しい(サモアがスコットランドを倒すことが必須)が、USA戦で再度力を見せてほしい。イングランド=ウェールズ戦はシンガポールのケーブルテレビがたまたま無料放映をしていたのでLiveで観ることができた。地元イングランドは後半途中まで優勢に試合を進めていたのに最後赤いジャージのウェールズに気迫で押し切られ2点差で負けた。今朝方Skypeで観たイングランド=オーストラリア戦は地力に勝るオーストラリアに歯が立たず開催国の決勝ラウンド進出は絶たれた。Jonny Wilkinson以来イングランド贔屓の自分としては残念だが、あとは前回2011年のRWCで気迫の戦いをしたWalesを応援するつもりである。

下の写真は、RWC Official SiteのPhotosから、サモアのハカであるSipa Tauと、前半終了間際のディフェンスのタックルをかわして右隅に飛び込んだウィング山田のトライ。

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Jonny Wilkinsonの3 Oct ツイッター

Another inspiring example from Japan of how to play rugby. Huge congratulations and respect to you all. Keep it coming!!

These are the games you want to play. Incredible circumstances can produce incredible performances and memories which last forever.


ジャイナ教

2015-10-03 15:01:16 | 東南アジア

シンガポールにもジャイナ教徒がいて、自宅アパートの近くにジャイナ教協会(Singapore Jain Religious Society)の建物が立っている。ジャイナ教の始祖マハーヴィーラは、ゴータマ・ブッダと同時代(紀元前400年前後)の人で、しかも活動地域がパータリプトラやヴァイシャリーやシュラーヴァスティーなどマガダ国周辺でありブッダの活動域と重なる。ジャイナ教は五戒(不殺生、不妄語、不偸盗、不邪淫、不執着)の上に苦行を重んじ、輪廻と因果を断ち切ることで解脱できるとする(佐藤圭四郎著『世界の歴史6古代インド』より)。不邪淫は禁欲のことで、ガンジーは独立運動に入る頃、これ(ブラフマアーチャルヤ)を誓っているので、ジャイナ教に帰依したのかもしれない。苦行に打ち勝った者を勝利者(ジナ)という。ジャイナ教徒は苦行によって最高の完全智に達することを説くので、しぜん世俗を離れて厭世的になる(佐藤圭四郎)。ジャイナ教徒はこの五戒を厳格に守るために、殺生のない商業、特に貴金属業に従事するものが多いらしい。シンガポールのインド人街やチャイナタウンには貴金属店や宝石店が軒を連ねているが、そのいくつかはジャイナ教徒が営む店かもしれない。インド人女性が足の指にも大きく鮮やかな指輪をするのをよく見かけるように、インド人の貴金属に対する執着は強そうなので貴金属店は繁盛していると思う。富を追求する商業とジャイナ教の不執着の戒が矛盾しないのだろうかと考えてしまう。

協会のWeb-siteによると現在協会に所属するジャイナ教徒数は約700人で、その95%はインドのグジャラート州の出身である。入口の看板に、PujaとDarshanの時間が書いてあった。Pujaは崇拝、Darshanは神に会うことや神を観ずることで、いずれもサンスクリット語らしいが英語の辞書にも、「I perform puja every day」や「how to feel the darshan of a deity」などの例文が示されている。インドを中心に世界中で400万から600万人の信者がいて、日本の神戸北野にもジャイナ教寺院がある。

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10 Oct追記

ジャイナ教は、玄奘三蔵の『大唐西域記』に出てくる。

四 僧訶補羅国(シンハプラ国=インダス川に臨むカシュミール地方にあった国)

四・四 白衣外道

傍に伽藍があるが久しく僧侶はいない。窣堵波(アショカ王が建てた卒塔婆)の側の遠からざる所に白衣外道の開祖が希求する理法を悟り初めて説法をした処がある。現在封をしたるしるしがあり、傍に天祠を建てている。その修行者は昼夜精勤し休む遑(いとま)のないほどである。開祖が説いた法は多くの仏典の義理を剽窃しており、部類に随って法を設け軌範を定めている。年長のものは苾蒭(ひっすう?)といい、年少のものは沙弥という。威儀戒律は概ね僧のあり方と同じであるが、ただ少し頭髪を残し、それに露形である[点が異なる]。衣服をつけているものもあるが、白色である点が異なっている。このやり方によって[同宗教とはいうものの]少しく区分されている。その祠る天師の像は[仏教の]如来をまねており、衣服に差はあるが、相好に異なるところがない。

[]は訳者による補足

玄奘は露形派と白衣派があると書いている。中村元『古代インド』によると、「初期のジャイナ教の行者は無所有の戒律を厳守した。いっさいの所有を否定した結果は、衣類を身につけることも禁じることになる。彼らは真っ裸で暮らしていた。」とある。中村元は1956年にデリーで開かれたジャイナ教の大会で実際に完全な裸形の行者が司会をするのを見たという。不殺生の戒律を守るため白衣派のジャイナ教の行者たちははだしで払子(ほっす)のようなもので虫を払いのけて歩き、白衣にマスクをし、虫が口に入って殺生してしまうことを防ぐという。シンガポールジャイナ協会のホームページにある下の写真で、信者が白衣でマスクをしていることがわかる。写真のジャイナ教の”天師”は、玄奘が記したとおりで、”仏教の如来をまねており、相好に異なるところがない。”ように、螺髪で耳が大きい。

『大唐西域記』のジャイナ教の話のすぐあと、四・五 摩訶薩埵本生譚に、捨身飼虎の話が出てくる。

昔、摩訶薩埵王子がここで身を投げだし、餓えた烏襗(実際は木扁)に食べさせたのである。----摩訶薩埵が飢えた獣が力をなくしているのを憐れんだ所である。ここまでやって来て枯れた竹で自分の体を刺し、血を獣に飲ませた。すると獣はなんと王子を食べてしまったのである。ここの土地は草木にいたるまで少し赤色を帯び、ちょうど血に染まったようである。その地を履む人は棘に刺されたように感じる。疑うものも信ずるものも、悲愴な気持ちにならないものはない。

烏襗は牝虎だとされる。