備忘録として

タイトルのまま

Saving Mr. Banks

2014-05-29 22:32:29 | 映画

4月、5月の機中映画。上の4作はいずれも面白かった。ポスターはIMDbより。

「Saving Mr. Banks 邦題:ウォルト・ディズニーの約束」2013、監督:ジョン・リー・ハンコック、出演:エマ・トンプソン(日の名残り)、トム・ハンクス、コリン・ファレル、アニー・ローズ・バクレイ、ウォルト・ディズニーは娘の好きだった本「メリー・ポピンズ」の映画化を20年来待ち望んでいた。ずっと映画化を拒否していた原作者P L Traversは、自身の収入の減少もあり、映画化の条件として自身が映画制作に関与することを申し出る。ロンドンからハリウッドに出向き映画の内容に注文をつけるTraversの修正要求は細かく、冒頭から作曲家のSherman兄弟と脚本家のDon Da Gradiはその対応に腐心するが、そのうちミュージカルはだめ、アニメはダメ、赤はだめなど理不尽な反対が増えていく。彼女のメリー・ポピンズに対するこのような思い入れは、幼いころの父との体験(トラウマ)に起因していて、それが映画作りと並行して語られる。メリー・ポピンズを乳母あるいは子守(Nanny)として雇うMr. Banksは銀行家で、Traversの父親も銀行家だった。父親はアル中のため失敗と失業を繰り返し病気になる。幼いTraversはその頃雇った乳母(メリー・ポピンズと同じNanny)が父親を救ってくれると期待したが、乳母の介護もむなしく父親は病死する。P L Traversの実名はHelen Goffといい、Traversというペンネームに彼女の父親に対する思いがあることが映画の後半でわかる。映画タイトルのSavingには、父親を救いたかったTraversの強い思いが込められているので、邦題「ウォルト・ディズニーの約束」では作品の真意が伝わらない。

「Mary Poppins」1964、監督:ロバート・スティーブンソン、出演:ジュリー・アンドリュース、ディック・ヴァン・ダイク、この映画をいつどこで観たのか思い出せない。徳島の映画館で観たようにも思うし、テレビの洋画劇場だったかもしれないし、子供たちとレンタルビデオで観たようにも思う。メリー・ポピンズは東風とともにやってきて西風が吹くと去って行った。風の又三郎と同じだ。映画冒頭のクレジット・タイトルには、「Saving Mr. Banks」に出てくる作曲家Sherman兄弟と脚本家Don Da Gradiが出てくる。P L Traversの名は、原作者と並びConsultantとしてもクレジットされている。

正しい映画鑑賞法は、まずこの映画「Saving Mr. Banks」を観て、次に「メリー・ポピンズ」を観て、もう一度この映画を観ることである。そうすると原作者Traversの思いや映画製作の裏話がよりリアルに見えてくる。特に、「メリー・ポピンズ」では脇役だと思っていた雇用主のMr. Banksが、「Saving Mr. Banks」を観た後では、「メリー・ポピンズ」のストーリーの中心にいることがわかる。二つの映画を通して初めてわかる発見がいっぱいあり、それを見つけるだけでも楽しい。原作本「メリー・ポピンズ」を読むともっと別の発見ができるかもしれない。★★★★☆

「her 邦題:世界でひとつの彼女」2013、監督:スパイク・ジョーンズ、出演:ジョアキン・フェニックス、エイミー・アダムス、離婚協議が進行中のライターが買ったコンピューターのOperating System(OS)はガールフレンドの代行をするソフトである。サマンサ(声はスカーレット・ヨハンセン)と名付けられたOS上のガールフレンドと会話することで充たされない心が癒されていく。サマンサには学習能力があり進化しながら彼を完璧に癒してくれる。同時並行して他者のガールフレンドやボーイフレンドも兼ねるサマンサに嫉妬するなど、バーチャルと現実が交錯し、そのうちサマンサなしでは暮らしていけなくなる。同じアパートの隣人(エイミー・アダムズ)も同棲していた現実の彼と別れ、完璧なOSの彼と付き合い始めた。学習につれてサマンサ自身にも感情が生まれ、バーチャルの自分と現実の彼の住む世界が違うことに苦しむようになる。日々進化を続けるサマンサはネットに出現したOS哲学者の影響で自立することに目覚め、いつか人間たちのもとから去っていく。バーチャルに翻弄されながらも現実世界では充たされない人間の哀歓が伝わってくる。こんなクオリアを持つAI(Artificial Intelligence)の出現はもうそこまで来ているかもしれない。本作はアカデミー脚本賞をとったが妥当だと思う。★★★☆☆

「The Best Offer 邦題:鑑定士と顔のない依頼人」2013、監督:ジュゼッペ・トメイトウ、出演:ジオフリー・ラッシュ(英国王のスピーチ)、ジム・スタージェス、シルビア・ホウクス、「ニューシネマパラダイス」の監督だということで観始めたところ、主人公と同様にいつのまにかミステリアスな若い女依頼人に魅了されていた。女依頼人の虜になる主人公は独身で初老で絵画や骨董品の一流の鑑定士でオークションディーラーである。オークションを利用して女性の肖像画ばかりの名画を収集している。女依頼人の虜になった主人公が気が付いた時には、コレクションのすべてが消え失せていた。若い女の虜になり騙され廃人同様になる初老の主人公が哀れだった。主人公が雇用主に興味を持つきっかけとなり、また詐欺の道具にもなる機械仕掛けの人形と同じような人形は映画「ヒューゴの不思議な冒険」にも出てきた。王の愛妾に色目をつかう列子偃師の人形を思い出した。★★★☆☆

「12 Years a Slave 邦題:それでも夜は明ける」2013、監督:スティーブ・マックウィーン、出演:チエテル・エジャフォー、アシュリー・ダイク、ベネディクト・カンバーバッチ、マイケル・ファスベンダー、ブラッド・ピット、アカデミー作品賞をとった話題作で、南北戦争前、北部の自由な黒人が誘拐され南部で12年間奴隷にされていたという実話である。奴隷制度下で酷使される黒人に対する非人道的な話が連続するが、これまで黒人差別を描いた映画で見てきたような想定内の虐待話の連続だったことと、12年という年月の重みが家族と再会したときでさえ画面から伝わらなかった。話は重く救いがない中、奴隷解放主義者のブラッド・ピットが主人公の前に突然現れ、まもなく彼は開放される。この年のアカデミー作品賞としては対抗馬が弱く、この映画が妥当だったのだと思う。対抗馬の「アメリカンハッスル」はクリスチャン・ベール、エイミー・アダムス、ジェニファー・ローレンスと芸達者で好きな俳優が揃ったが話についていけず途中で鑑賞を断念してしまった。もうひとつの対抗馬「Gravity」は映像美だけでは戦いにならなかった。★★★☆☆

「Ender's Game」2013、監督:ガビン・フッド、出演:アサ・バターフィールド(ヒューゴの不思議な冒険)、へイリー・スタインフェルド、ハリソン・フォード、映画「スターシップトゥルーパーズ」の敵と同じような地球侵略を目指すBag型のエイリアンと戦うために訓練を受ける少年少女たちの話である。若い戦士の成長物語という意味では「スターシップトゥルーパーズ」と同じくロバート・A・ハインラインのSF「宇宙の戦士」からの派生だが、主人公は海兵隊員のような肉体派でなく、コンピューター上で戦略を武器にエイリアンと戦う。「トゥルー・グリット」で鮮烈デビューしたヘイリー・スタインフェルドはまだ成長途上である。★★☆☆☆

「Jack Ryan:Shadow Recruit」2014、監督:ケネス・ブラナー、出演:クリス・パイン(People Like Us)、キーラ・ナイトレイ、ケヴィン・コスナー トム・クランシー作品で馴染みのCIA分析官ジャック・ライアンの若き日を描く。ジャック・ライアンが主人公の映画は「今そこにある危機」と「パトリオットゲーム」ではハリソンフォードが、「レッドオクトバーを追え」ではアレック・ボールドウィンが演じたものを観ている。「レッドオクトーバーを追え」はソ連の原子力潜水艦が乗組員ごと亡命する話で、艦長ショーン・コネリーが最高だった。スパイが妻に身元を明かす場面ではアーノルド・シュワルツネッガーの「トゥルーライズ」を思い出したが、こっちはもっとシリアスである。★★★☆☆


支倉常長

2014-05-25 10:25:23 | 仙台

ドン・キホーテ』の舞台となったスペインのラ・マンチャ地方を支倉常長一行が歩いた1614年、作者のセルバンテスは存命で翌年『ドン・キホーテ後編』を出版する。

先週末、支倉常長展が常設されている仙台市博物館に義母を伴って妻と行った。近くに上の支倉常長像も立っている。

伊達政宗の命を受けた支倉常長がイスパニア(スペイン)国王とローマ法王に会うために、帆船サン・ファン・バウティスタ号に乗って石巻の月浦を出港したのは今から400年前の1613年のことである。船には140人の日本人とソテロ神父ら40人のスペイン人が乗り込んだ。太平洋を渡りメキシコのアカプルコに上陸し、陸路メヒコ(メキシコシティー)でノビスパニア(メキシコ)総督に通商を申し出るが本国の指示がなければ総督が通商を受け入れられないのは明らかだった。そこで選抜された日本人26名が、大西洋岸のベラクルスから、再び船に乗りスペインを目指した。残りの日本人はメキシコに残り使節団の帰りを待った。支倉常長らがキューバのハバナを経由しスペイン南部のグアダルキビル川に上陸したのは翌1614年9月である。そこから陸路セビリア、コルドバ、ラマンチャ、トレドを経てマドリッドに行き1615年1月30日に国王フェリペ三世に謁見する。この時、マドリッドで余生を送っていたセルバンテスは支倉常長一行のことを見聞きしたかもしれない。その後一行は地中海のバルセロナに出て船でローマに向かう。ローマ法王パオロ五世に会うためである。1615年11月3日に支倉らは法王に謁見する。徳川幕府は1612年に禁教令を出し布教禁止、1613年には伴天連追放令を出している。この措置によって高山右近がマニラに追放されたのは1614年のことである。このような日本の事情はすでにローマにも伝わっていたため、洗礼を受けていた支倉一行は歓迎はされたが、政宗の求めた宣教師の派遣や通商許可については保留された。

下の行路図はいずれもWiki スペイン版から拝借した。

仙台市立博物館で買った太田尚樹『支倉遣欧使節 もうひとつの遺産』は、支倉の行路を実際に辿った紀行本である。本には参考文献の索引がないので、以下に列挙した参考資料は本文より出現順に拾った。仙台市立博物館所蔵の資料は主に支倉常長が持ち帰ったもので、スペイン、フランス、ローマにも常長の足跡が多く残されている。

  • セヴァスチャン・ビスカイノの金銀島探検報告 イスパニア太平洋艦隊司令官ビスカイノが1611年に政宗に出会ったときのことが書かれている
  • 政宗から茂庭石見宛ての書状 支倉常長の実父に切腹を命じ常長は追放せよという内容
  • セビリア市歴史博物館に残る政宗からセビリア市に友好関係と通商を求める書 慶長18年9月4日付
  • 仙台市博物館所蔵の常長がヨーロッパから持ち帰った自身の肖像画
  • ボルゲーゼ宮殿内に保存されている法王庁絵師クロード・ドゥルエの描いた常長の全身像 上の帯刀し白い羽織袴を着用した肖像画(Wiki)
  • ヴェネチア国立文書館に残るローマ駐在ヴェネチア大使の報告書に記された常長の風貌
  • 岩倉具視ら欧米使節団がヴェネチアの古文書館で見せられた常長署名入りの書状
  • マドリッドからローマまで常長に同行した歴史学者シピオーネ・アマティの伊達政宗遣使録
  • 政宗からノビスパニア総長直属管区長コミサリオ・ヘネラルに宛てた書状
  • マドリッドの北シマンカス国立文書館にある支倉常長から宰相レルマ公爵宛ての書状 慶長19年8月26日付
  • メディナ・シドニア公爵が枢密院書記官に宛てた書状 常長ら30人が当地に来たと記す
  • ソテロからセビリア市に宛てた書状 奥州王の船をノビスパニアに残し30人のみを同伴してきたと記す
  • セルビアのアルカーサル宮殿に残る記録 常長らが1か月滞在した
  • 仙台藩士・石母田家に残る政宗からイスパニア国王宛て親書
  • フランスのアヴィニョン近くカンパトラの古文書館で見つかった4点の日記 使節は南フランスのサン・トロペのコスペ未亡人宅に2泊した
  • ローマのクィリナーレ宮殿の王の間にある常長ら5人とソテロを描くフレスコ画
  • 聖フランシスコ派神父アンジェロ・リボルタの日本奥州の大使による法王謁見顛末記 法王謁見の様子
  • 法王庁式武官パウロ・アラレオネの法王パウロ五世在位日記 法王謁見の様子
  • 法王庁式武官パウロ・ムカンチの式部職日記 法王謁見の様子
  • ローマ駐在のイスパニア大使カストロ伯爵からイスパニア国王に宛てた書簡 法王謁見の様子
  • 政宗のローマ法王宛て親書 慶長18年9月4日付

支倉常長は法王謁見後、スペイン、メキシコ、フィリピンのマニラを経由し長崎に入り、仙台に戻った。月浦出航から7年後の1620年のことである。

太田尚樹の本の後半は、スペインのセビリア市近郊のコリア・デル・リオ中心に住むハポン(japon)姓の人たちが、スペインに残った支倉使節の末裔ではないかという話が中心になる。スペインのハポンさんたちがサムライの末裔かどうかの結論はDNA鑑定に任せるとして、一番知りたかった帰国後の常長にはまったく触れていなかった。洗礼を受けた支倉常長にとって禁教下の仙台は住みにくい土地だったと思う。帰国2年後、常長は失意の中死去したと伝えられる。帰国後の常長については別途追求してみたい。 


日和山

2014-05-24 14:19:17 | 仙台

芭蕉は『奥の細道』で松島を訪れたあと、平泉を目指すが、”つひに道踏みたがえて石の巻といふ港に出づ。”と道を間違えて石巻に行ったように書いている。しかし、同行の曽良が事前に準備した『名勝備忘録』には石巻の歌枕がある上、同じ曽良の『随行日記』に松島から道ずれになった武士から石巻の宿を紹介されたとあるので、石巻訪問は当初から予定に入っていたらしい。

”金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそいて、竈(かまど)の煙立ち続けられたり。”

芭蕉は石巻の日和山(ひよりやま)から、金華山を海上に見、北上川の河口には数百の廻船が集まり、隙間なく建つ人家のかまどから煙が立ち上っていると記す。

先日5月17日、3年半ぶりに仙台の義両親のご機嫌伺いに行った。震災の2か月前に仙台に行って以来である。この時期つつじがきれいだと言うので震災痕を見ることも兼ねて石巻の日和山に行った。下の写真は芭蕉と同じように日和山から”海上を見わたし”たものである。写真の左手、遠くにかすむ島は石巻沖の田代島で、金華山は牡鹿半島の陰に隠れ日和山からは見えない。芭蕉は田代島を金華山と勘違いしたとは思えないので心象上で金華山をみたのだと思う。芭蕉は旅立ちのときにも深川から見えるはずのない”上野・谷中の花の梢”を今度またいつか見ることができるだろうかと書いているように、曽良の日記とは矛盾する想念や心象風景を描く。これをFraudとかDistortionとかExaggerationなどと評価されたら文芸の創作者はたまったものじゃない。

日和大橋のある日和山を南に降りたあたりは、芭蕉の時代からずっと”人家地をあらそいて竈の煙立ち続けられたり”というほど人家が密集していたはずなのに、道路と宅地の土台と、廃屋が1件だけぽつんと残されていた。背後の日和山上には民家が密集し無傷である。こうしてみると、日和山南面斜面が被災地、非被災地の境界であり、死生の境界だったと思わずにはいられない。

下の地図は仙台藩が1645年に作成し、元禄年間(1688~1708)に模写した奥州仙台領国絵図(仙台市博物館所蔵)から石巻周辺を抜き取ったものである。芭蕉が日和山を訪れたのは元禄2年(1689)なので、この地図は芭蕉が訪れた石巻周辺を表していると考えていいと思う。石巻村と門脇村が北上川と日和山の間、すなわち日和山の東の北上川河口に面しているが、現在の石巻中心街は日和山の北西に広がる。上の写真と地図の廃屋付近の地名が門脇町で当時の地名を残している。地名は残すが町は津波で消滅してしまった。

日和山のつつじは満開だった。芭蕉が日和山に登ったのは旧暦5月10日すなわち陽暦の6月26日なのでつつじはもう散っていたのではないかと思う。日和山には芭蕉と曽良像以外にも、ここを訪れた宮沢賢治、石川啄木、種田山頭火斉藤茂吉らの詩碑、歌碑が建っている。賢治は中学校の修学旅行で盛岡から北上川を下ってきて日和山に登り、その時の詩を残している。石川啄木も修学旅行で日和山を訪れ詩をつくっているので、明治後半当時の盛岡あるいは岩手県では北上川を下る修学旅行が定番だったようだ。斉藤茂吉は1931年に日和山を訪れ歌を詠んでいる。山頭火はわざわざ芭蕉と同じ旧暦5月10日にここを訪れ歌を詠んだように、彼が芭蕉あるいは奥の細道に傾倒していたことがうかがわれる。

 


海石榴

2014-05-04 14:29:05 | 古代

海石榴は、パソコンで”つばき”と打つと、椿に並んでちゃんと登録変換される。海石榴は、8世紀に撰述された日本書紀や万葉集に海石榴市(つばきち、或いは つばいち)として登場する。椿とは書かず、もともとザクロを意味する石榴に海をつけた海石榴をツバキと読ませるのはなぜだろうと考えた上原和は、自著の「大和古寺幻想」や「世界史上の聖徳太子」の中でその理由を考える。手元やネットにある資料を引きずり出してきて上原和の考察をたどってみた。まずは、万葉集と日本書紀に海石榴の出現する箇所を取り出した。

犬養孝の『万葉の旅(上)』に海石榴市の項がある。

紫は灰指すものぞ海石榴市の八十の衢(ちまた)に逢へる児や誰れ

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか  作者不詳 巻12-3101,3102

犬養孝は、”大三輪町金屋は、いまでこそ、わびしい村にすぎないが、古代には北から山の辺の道、東から初瀬道、飛鳥からの磐余の道・山田の道、それに西、二上山裾(大津皇子が葬られた)の大坂越えからの道がここで一つにあつまって、四通八達、まさに「八十の衢」となっていた。したがって、ここに古代物品交易の市ができ、椿の街路樹を植えて、海石榴市といわれていた。春秋の季節に青年男女があつまって、たがいに恋の歌をかけあわせて結婚の機会をつくる歌垣が行われた。日本書紀の武烈天皇が皇太子のとき平群鮪(へぐりのしび)と影姫を争った物語も、この海石榴市巷であった。”としるし 続けて”明治のはじめまで伊勢参りの旅人ににぎわったところだが、いま村中の小祠に「椿市観音」「つば市谷」の名をのこすのみで、家並のうしろの旧街道も、忘れ去られている。”として下の写真をのせる(『万葉の旅』は昭和39年初版だから昭和30年代に撮った写真と思われる)。

日本書紀の武烈天皇の歌垣の争いの箇所をネットで検索した。http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_16.html

十一年八月、億計天皇崩。大臣平群眞鳥臣、專擅國政、欲王日本、陽爲太子營宮、了卽自居、觸事驕慢、都無臣節。於是、太子、思欲聘物部麁鹿火大連女影媛、遺媒人向影媛宅期會。影媛、會姧眞鳥大臣男鮪。鮪、此云茲寐。恐違太子所期、報曰「妾望、奉待海柘榴市巷。」

由是、太子、欲往期處、遣近侍舍人就平群大臣宅、奉太子命求索官馬。大臣戲言陽進曰「官馬、爲誰飼養。隨命而已。」久之不進。太子、懷恨、忍不發顏、果之所期、立歌場衆歌場、此云宇多我岐執影媛袖、躑躅從容。俄而鮪臣來、排太子與影媛間立。由是、太子放影媛袖、移𢌞向前、立直當鮪。歌曰、 (このあと太子と鮪の間に歌による応酬がある)

石が柘(つげ)になっている。この歌垣で敗れた太子は大伴金村に命じて鮪を討ち取らせたという。武烈天皇は25代天皇で、恋敵を討ち取らせた以外にも天皇の異常な行動が日本書紀にいくつも記されている。次が越前にいた応神天皇5世の孫で、即位してから大和に入るまで19年もかかった継体天皇であること、中国の易姓革命では、前王朝の最後の皇帝が暴虐だったため天命によって王朝が変わっていることなどから、日本でも武烈から継体の間で王朝の交代があったとする説がある。また、古事記では、歌垣で平群鮪と争いこれを殺したのは武烈天皇ではなく、第23代顕宗天皇が皇太子のときのことと記されている。継体天皇即位を正当化するために武烈に暴虐残忍性を押し付けたともいわれる。

以下は景行天皇が九州遠征のとき、海石榴樹(つばきの木)をとって椎(つい=つち=打撃武具)をつくり兵に持たせ土蜘蛛を殺した場所を、海石榴市と呼んだという記事である。大和じゃなく九州に海石榴市があることになる。景行天皇の九州平定説話には平定地として北九州が含まれていないことから北九州にあった九州王朝の九州平定説話を大和朝廷が剽窃したというのが古田武彦の「九州王朝説」である。

仍與群臣議之曰「今多動兵衆、以討土蜘蛛。若其畏我兵勢、將隱山野、必爲後愁。」則採海石榴樹、作椎爲兵。因簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛而破于稻葉川上、悉殺其黨、血流至踝。故、時人其作海石榴椎之處曰海石榴市、亦血流之處曰血田也。復將討打猨、侄度禰疑山。時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前如雨。天皇、更返城原而卜於水上、便勒兵、先擊八田於禰疑野而破。爰打猨謂不可勝而請服、然不聽矣、皆自投澗谷而死之。

以下は日本書紀推古16年(608年)の条で、飾り付けた75騎が海石榴市で、唐からの答礼使である裴世清を出迎えた様子を記す。朝廷に導かれた裴世清は大唐からの信物を庭におき親書を言上する。海石榴には関係ないが、古田の九州王朝説では、この日本書紀の記述も九州王朝でのできごとを剽窃したものとする。隋書の記述から裴世清は九州に留まり大和までは行っていない。裴世清は筑紫国の東にある倭(俀)国に行き、王(多利思北孤タリシヒコ)に直接面会しているが女帝とは書かれていない。

秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉。壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。時、阿倍鳥臣・物部依網連抱二人、爲客之導者也。於是、大唐之國信物、置於庭中。時、使主裴世、親持書兩度再拜、言上使旨而立之。其書曰「皇帝問倭皇。使人大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、思弘化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。知皇介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、達脩朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世等、稍宣往意、幷送物如別。」時、阿倍臣、出進以受其書而進行。大伴囓連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時、皇子諸王諸臣、悉以金髻花着頭、亦衣服皆用錦紫繡織及五色綾羅。一云、服色皆用冠色。丙辰、饗唐客等於朝。

以下は天武天皇に、倭国添下群の鰐積というものが瑞鶏(めでたいにわとり)を献上する吉事があったという記事で、鶏冠が海石榴の花に似ているという。同じ日にメスがオス鶏になった報告もあった。下の文章には西国、東国、美濃国などと並んで倭国添下群と書かれていて、日本の中に倭国という名を持つ地域があったようである。

夏四月戊戌朔辛丑、祭龍田風・廣瀬大忌。倭國添下郡鰐積吉事、貢瑞鶏。其冠、似海石榴華。是日、倭國飽波郡言、雌鶏化雄。辛亥、勅「諸王諸臣被給封戸之税者、除以西國、相易給以東國。又外國人欲進仕者、臣連伴造之子及國造子、聽之。唯雖以下庶人、其才能長亦聽之。」己未、詔美濃國司曰「在礪杵郡紀臣訶佐麻呂之子、遷東國、卽爲其國之百姓。」

海石榴市のことは清少納言の『枕草子』にも見える。これも全文検索できる。http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html

(一四段)

 市は  辰(たつ)の市。椿市は、大和に數多ある中に、長谷寺にまうづる人の、かならずそこにとどまりければ、觀音の御縁あるにやと、心ことなるなり。おふさの市。餝摩の市。飛鳥の市。

椿市には長谷寺参りの人がかならず留まるとあり平安時代も繁華だった。西暦1000年前後の清少納言の頃には椿を海石榴とは書かなくなっていたのかもしれない。

次に上原和が注目する隋の煬帝が春に詠んだ詩である。

東堂に宴するの詩

  • 雨罷春光潤 日落瞑霞暉
  • 海榴舒欲尽 山桜開未飛
  • 清音出歌扇 浮颸香舞衣
  • 翠帳全臨戸 金屏半隠扉
  • 風花意無極 芳樹暁禽帰

石のとれたツバキ(海榴)だけでなく桜もでてくる。2行目は”海榴(つばき)は花びらが舒(ひら)き終えて落ちるばかりだが、山桜はようやく開花したばかりで、花びらはまだ舞い飛ぶにはいたらない”(上原和訳)。中国にはもともとツバキもサクラもなかったらしい。中国の椿樹は、荘子「逍遙遊」にある長寿のシンボルとしての伝説上の巨木で、日本の椿とは異なる。中国で春の花といえば梅、桃、牡丹の類であろうと上原は言い、江戸時代の契沖の『萬葉代匠記』を引用する。

およそ海棠(かいどう)、海石榴等は、海を越えてもろこしにいたるゆゑに、海の字をもてわかつよしなり。つはきは、石榴(ざくろ)の花に似て、海をこえて外国よりくれば、海石榴なり。

石榴はザクロで、海石榴は海から渡ってきたザクロに似た花だと契沖は書いている。煬帝から1世紀ほどのち、中唐の詩人・柳宗元は『柳河東集』に”海石榴を植う”という題の詩をつくり、”弱植尺にみたざれども、遠意蓬瀛にとどまる”と書き、海石榴が蓬莱や瀛州(えいしゅう)から来たことを示唆している。蓬莱や瀛州は、秦始皇帝の時、徐福が不老不死の仙薬を求めて山東半島から船出し目指した海東の神仙の地で、当時の中国人にとっては倭国のことである。当時の中国知識人に海石榴は海の向こうの倭から来た石榴という認識があったことから、上原和は、煬帝の詩は倭国から献上され、裴世清が持ち帰ったツバキとサクラを愛でたものであると”想像する”のである。ここまで調べつくしたら、梅原猛なら”断定する”ところを、上原和はとても控えめである。

8世紀に日本書紀や万葉集を書いた舎人親王や柿本人麻呂ら文人たちは、舶来好みで煬帝の詩などから本来の”椿”に、逆輸入した”海石榴”を当てたのかもしれない。今、文章中に英語を散りばめるようなものである。

ザクロ(Wiki)

下の椿の写真は、今年3月末に徳島の神山森林公園で撮ったものだから落花寸前で少しくたびれている。ザクロは実しか見たことがなかったので、花がツバキに似ているとは知らなかった。神山森林公園は、明王寺などよりも標高が高く、サクラの満開まではあと数日、サクラ祭りは次の週末に予定されていた。まさに”海榴舒欲尽 山桜開未飛”だった。