備忘録として

タイトルのまま

小塚原

2012-03-25 21:04:09 | 江戸

3月末だというのに気温10度、東京に春はまだ来ない。肌寒い中、南千住の回向院、かつての小塚原刑場跡へ行った。南千住の回向院は両国回向院の別院で、吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎、桜田門外で井伊大老を襲撃した志士たち、鼠小僧次郎吉の墓や、前野良沢や杉田玄白がターヘルアナトミアを片手に受刑者の死体を腑分けした観臓記念碑がある。

左:南千住回向院    右:吉田松陰の墓

南千住回向院は日比谷線南千住駅の南口を出て右手に行ったすぐのところにある。吉田松陰らの墓はこの建物をくぐった向こう側のこじんまりとした一画にまとめて安置されている。下は小塚原刑場の説明で、お墓の配置図もある。この回向院近くにあった小塚原刑場は、江戸時代から明治初期まで、火罪、磔、獄門などの刑罰が行われ、刑死者や行き倒れ人の供養をここ回向院で行っていた。

 

 

左:左より鼠小僧、片岡直次郎、高橋お伝、腕の喜三郎の墓     右:杉田玄白、前野良沢、中川淳庵の観臓記念碑 

鼠小僧の墓は両国回向院にもあった。片岡直次郎は御家人くずれの悪党、高橋お伝は明治初頭の殺人者、腕が墓になっている腕の喜三郎は江戸時代寛文のころの侠客である。杉田玄白らが小塚原で刑死人の腑分け(解剖)を行ったところ、人体の内臓がオランダの書ターヘルアナトミアに記されたとおりであったことから、その翌日から、ターヘルアナトミアの翻訳を始めた。

 雲井龍雄の墓

松陰や橋本佐内はもちろんのこと、鼠小僧ら強盗や殺人者の墓でさえ案内板に記載され、数日前がお彼岸だった所為か墓には花まで添えられていたのだが、雲井龍雄の墓は何の案内もなく上の写真のように捨て置かれていた。藤沢周平の「雲奔る、小説雲井龍雄」を知らなかったなら、雲井の墓は見過ごしていたところだ。雲井は米沢藩出身の幕末・維新の志士だが、明治政府に不満を持つ武士たちと政府転覆を謀る首謀者として捕えられ、まともな詮議もなく斬首され小塚原に晒し首にされた。事実は、旧幕臣や脱藩者の救済を政府に嘆願したもので、実際に暴発した佐賀の乱や萩の乱とはまったく違ったものだったという。明治政府だけでなく郷里の米沢においてさえ長く雲井の名は禁句だったという。

首切地蔵は回向院を出て右手に少し歩き、高架線路をくぐったところにあったが、昨年3.11の地震で左手が落ちたため修理中だった。腕の喜三郎が切り落とした腕は右手なので、彼の怨念がさせたものではなさそうだ。

左:3.11で落下した左手と修理を待つ首切地蔵の上半身   右:首切地蔵の台座(階段上の円座)と修理の説明板

小塚原ではあの首切浅右衛門が代々刀の試し切りを行い、明治初頭の高橋お伝も八代目浅右衛門に首切られたという。 小塚原跡を見た後、素戔嗚神社(スサノオ)神社をみて、千住大橋を渡り、芭蕉が歩いた日光街道(旧道)を北千住まで歩いた。途中、芭蕉時代の千住宿の町並みが紹介されていて、歩かなければわからない掘り出し物があった。


文天祥 字は宋瑞

2012-03-18 18:02:31 | 中国

息子の名前に使おうと思っていた3字のうち、”良”の張良と”亮”の諸葛亮孔明については書いたから、あとは”祥”の文天祥である。結局、名前は泰山の”泰”を拝借したことは以前書いた。

文天祥は13世紀、元(モンゴル)に攻められ滅びゆく宋に忠誠を尽くした軍人・政治家である。元に抗戦したものの捉えられ獄中で有名な「正気(せいき)の歌」を詠む。

  • 天地には正気があり
  • 渾然として形を持たず存在する
  • 下に行けば川や山岳になり
  • 上に行けば日星になる
  • 人において浩然の気という
  • 大いに天地に満ちている
  • 大いなる道が清らかで太平な時は
  • 和やかに明るい朝廷に吐き出される
  • 動乱の時代には節義があらわれ
  • ひとつひとつ歴史に残る

以上が第1段で、第2段には歴史にあらわれた正気が述べられる。張良が始皇帝に投げた鉄槌や、孔明の出師表も正気である。権力者に殺されても歴史を曲げなかった太史(史家)、軍人は断たれる頭は持っているが垂れる頭は持ってないと言った蜀の厳顔将軍のことばなども含まれる。正気の清らかな節操は氷雪よりも厳く、その意気は異民族を呑込み反逆者の頭を破裂させる。以下、第3段に続く。

  • 歴史の事象は正気が噴出するところであり
  • 永遠に残る
  • 正気は日月さえ貫き
  • 生死は論ずるに足りない
  • 大地は正気によって存在し
  • 天は正気によって尊いとされる
  • 三綱(人の道)も正気によってその命を与えられ
  • 道義は正気を根幹とする

正気は第1段で”浩然の気”とあるから孟子だが、第3段まで読むと、渾然としていたるところに存在し、生死さえ区別がないという点で、老子荘子あるいは列子の道家思想で、正気とは”道”そのものではないかと思えてくる。文天祥の思想は儒教よりも老荘思想が根底にあるような気がする。どちらにしても、文天祥は口先だけの儒家や道家の形式主義者ではなく実践家であった。

第4段は獄中での苛酷な境遇を語り、自分は正気があるから生きていられると述べる。人間の模範は昔にあり、書物の中の古の哲人の正気が自分を照らしてくれると結ぶ。

  • 典刑在夙昔
  • 風檐展書読
  • 古道照顔色

文天祥は、その才を惜しむフビライの説得にも応じず4年間の幽囚のあと刑死する。彼の生き方は、張良や孔明にも通じ、権力・権威に屈せず信念を貫き通す。苛烈な生き方なのである。


諸葛亮 字は孔明

2012-03-17 18:19:50 | 中国

諸葛孔明は、28歳のとき「三顧の礼」をもって劉備に迎えられる。ゲーム「三国志」で劉備玄徳をプレーヤーとし、新野に根拠をおくと200年に「三顧の礼」のイベントが開始され、孔明を臣下にすることができる。このときの劉備は、荊州を根拠地とする劉表の客将にすぎず、天下の情勢は、曹操が中国北部をほぼ制圧し中国統一のため荊州を目指して南征を始めようとしていたころである。一度は曹操に仕えその後離反した劉備は曹操のもとで生きる道はなく、荊州を逃げ出すか徹底的に抗戦するしかないのである。客観的にみて、劉備の立場は風前のともしびにも近いほど不安定で、曹操によって滅ぼされる危険性は高く、なぜ28歳の前途ある青年がこの状況の劉備に仕えたのか、なぜあえて困難な道を選んだのかずっと疑問に思っていた。彼の才能を考えると曹操に仕え勝ち馬に乗る選択肢もあっただろうし、また孫権に仕えていた兄(諸葛瑾)の伝手で劉備よりは安全な孫権に仕えることもできたはずである。

この若者に、孫権を味方にできるという自信はあったのだろうか。仮に同盟がなったとして曹操と闘って勝てるという確信はあったのだろうか。目の前の危機を脱出できたとしても、曹操に傾いている天下の情勢を変え、劉備を押し立てることができるという勝算はあったのだろうか。

その後の展開は、劉備は孫権と同盟し赤壁で曹操軍を打ち破り、荊州を手に入れ地歩を確保し、やがて蜀漢という政権を建てることに成功し三国鼎立の状況を作り出す。すべてが孔明の筋書きによるものとされ、彼が天下の奇才とか稀代の政治家・軍師と言われる由縁である。

そのあたりの疑問に答えてくれるのではないかと、古本屋で買った植村清二著「諸葛孔明」を読んだ。それは、P76以降「孔明の心事」の章に解説されていた。(植村清二は相当昔に著書「神武天皇」を読んだ。)

劉備の人間性:

”劉備が白面の1青年を三たびまで訪問した雅量と、これに当世の時務を問うた切実な態度とは、人を打つものがあったに違いない。劉備は真率な(裏表のない)精神の持主であるという点で、カーライルのいう英雄たる資格を具えていた。出師表に「是レニ由リテ感激シ、遂ニ先帝ニ許スニ馳駆(ちく=力を尽くす)ヲ以テス」と書かれているように、孔明は劉備の誠実な精神に答えて、彼のために、その全力を挙げて活動することとなったのである。”

孔明の大望:

曹操に仕えればそれなりに地歩を築けたが、孔明がいなくても曹操の事業はある程度成就できた可能性が高い。それは孔明の才能にとっては、”小に過ぎ、また安易に過ぎるものであった。劉備の勢力は小さいが、これを助けて将来の未知の何かを求めることは、さらにいっそう大きい事業である。(その達成には)前途に多くの危険と困難が横たわっているに違いないが、大きい自信を持つ者は大きい艱難を意としない。孔明は、艱難を克服して、自己の大いなる可能性をその限界まで確かめようとしたのである。”

才能ある人間は安定に生きることなど考えもしないし、機会があれば、その前途がどのように困難であたっとしても果敢に挑戦を続ける。ただし、劉備の可能性を見抜いた人間洞察力と当時の形勢に対する戦略眼と判断力があったればこその選択だったのである。

孔明は、劉備が死に臨んで残した”自分の跡継ぎに才能がなければ、君が取って代われ。”と言うのに対し、あくまで先帝の遺児を推戴しつづけた。北伐(魏を攻める)のときの「出師表」には、劉備に対する恩顧、若い皇帝劉禅に対する忠誠、孔明の壮烈な決意が”平明で簡素な文章で語られ”ていて、頭脳明晰な人間にありがちな計算高さや怜悧さは見られない。だからこそ、中国史上で、孔明はいつも張良と並び称される存在なのである。


A Princess of Mars

2012-03-11 22:12:41 | 映画

初日3月9日に観に行く予定が、日本から来客があったため、今日近所のシネコンで観てきた。封切後最初の日曜日だというのに空席が目立ち、いまひとつ人気はないようだ。”火星のプリンセス”(映画のタイトルは”John Carter")には、あまりに思い入れが強いため、まともな映画評ができない。とにかく中学生の時に読んだ創元推理文庫版火星シリーズの武部本一郎の挿絵のイメージが脳裏にこびりついているため、映画を観ながら比較ばかりしていた。

まずは、火星のプリンセスDejah Thorisの比較から。

写真はいつものようにIMDbより。

とにかくデジャー・ソリスには気品がなければならない。 映画のDejah Thorisは、Lynn Collinsという女優で、きりっとした目鼻立ちをしてるので合格である。先週シンガポールでテレビ放映した”Uruvarin:X-men Zero”にも出ていた。もう少し若い女優でも良かったような気もするが、気品が出てくるのはこのくらいの歳(1977年生)かなとも思う。並べて見ると武部本一郎のデジャーソリスは、こんなに東洋顔をしていたのかと改めて思うが、中学生のガキにとっては十分エキゾチックだった。

次はJohn Carterだが、写真と武部本一郎の挿絵は割愛する。演じたのはLynn Collinsといっしょに”X-men Zero”にも出ていたTaylor Kitschだが、こっちは逆に若すぎた(1981年生)ように思う。私のイメージのジョン・カーターは、同じX-menからなら、鬚のないヒュー・ジャックマンのほうが合っている。

武部の緑色人はもう少しがっちりしていたが大体合格で、愛犬ウーラは口が裂けて牙が並ぶ凶暴な風貌だったが、映画は少し愛嬌がありすぎた。馬のソートはサイのように太り過ぎである。話の筋はもう少し原作に忠実でも良かったと思うし、原作にないホーリー・サンの変身や不思議な蔦のパワーでなく、もっと神秘的でオカルト的な集団で良かったように思う。何よりも映画のタイトルが良くない。大体、人の名前を冠してヒットした映画をあまり知らない。どうして原作通り”A Princess of Mars"にしなかったのだろう。少なくとも”John Carter of Mars"だろう。映画が終わり、私以外の観客はEnd Rollも観ずにほとんどが退席した中、ひとりスクリーンを観ていると、”John Carter of Mars"というタイトルが画面に出てきた。このタイトル表示は、最初は地球人で最後は火星人になったという監督のこだわりのような気がする。それにポスターのロゴには、JohnのJとCarterのCとMarsのMがアレンジされている。

”John Carter”2012、監督:アンドリュー・スタントン、出演:テイラー・キッシュ、リン・コリンズ 昔の火星シリーズファンとしては、原作の火星の雰囲気をよく捉えているので原作のイメージがひどく壊されることもなく、原作と比較しながら十分楽しく鑑賞できた。生きてるうちに火星シリーズの映画が観れるなんて、よくぞ映画にしてくれたという感謝の気持ちが強い。続編が出たら当然観に行ってチェックするのだが、ネット上の評価を読むと初日の出足は悪く、Avatarなどの3Dと比較され評価も低いため、続編はないかもしれない。それはそれでさみしい気がする。何よりもリン・コリンズの気品を嘉して、★★★★☆

シンガポールの映画館に足を運んだのは、6年以上ぶりである。最後に観たのは何だったのかを思い出せない。最も古い映画は、有名な”2001年宇宙の旅”で、これは1979年にオーチャードシネマで観た。まだシネコンのない時代である。リバイバルのベンハー、封切ではスターウォーズ第1作、タイタニックなどの大作も観ている。もちろん日本語字幕はないので、中身が単純なアクションやSF物が中心である。今日の”John Carter"は、S$14(約900円)で3Dメガネは料金に含まれていた。 


Garuda

2012-03-04 12:16:18 | 東南アジア

ジャカルタのスカルノハッタ空港で今にも飛翔しようとする大きなガルーダ像。先週のジャカルタ出張時に撮った。

ガルーダはインド神話に出てくる神鳥で、インドネシアやタイの国章に使われている。インドネシアの国営航空会社ガルーダ・インドネシアは社名だけでなくそのロゴ(下の写真)もガルーダをアレンジしている。インドネシアの民芸品店にはガルーダの置物が並んでいる。また、タイの空港から市内へ向かう高速道路沿いに金色のガルーダ(たぶん)が等間隔に並んでいて、以前訪問したときに車から写真を撮ったが、みんなピンボケで全滅だった。迦楼羅王(かるらおう)がガルーダだということは、以前訪れた京都の三十三間堂の回に書いた。インド神話が仏教に取り込まれたものだという。

ラーマーヤナ」では、ラーマ王子がシータ妃を救い出すためにランカ島の羅刹王ラーヴァナ(トッサカン)と闘ったとき、ラーヴァナの子インドラジットの攻撃によってラーマ王子と弟ラクシュマナ王子が矢傷を負って危機におちいると、ガルーダが助けにあらわれる。このあとラーマとラクシュマナは力を取り戻し、猿軍団の助けを借りてラーヴァナを倒し、シータ妃を助け出すことに成功する。 

傷ついたラーマとラクシュマナを助けるガルーダ http://www.indianetzone.com/46/arrival_garuda.htmより 右はガルーダ航空のロゴ

鳥つながりで、羽田~シンガポール便の機中で観た映画「The Big Year」を紹介する。

「The Big Year」2011、監督:デイヴィッド・フランケル、出演:ジャック・ブラック、オーウェン・ウィルソン、スティーブ・マーティン、1年間に北米でみた野鳥の種類の数を競う趣味の人たちの話で、「The Big Year」という実際にこの競技に参加した人から取材した原作本がある。映画では仕事をしながら参加する人、仕事も家庭も投げ出して参加する人、競争相手を出し抜く人、それぞれの姿を喜劇仕立てで描いている。観た鳥の数は自己申告で、競争相手を出し抜きはするが嘘の報告なしのフェアー・プレイなのである。野鳥を追って北米中を駆け巡り、アラスカ、フロリダ、ニューメキシコ、はては1週間に1本しか飛行機が飛ばないアリューシャン列島の最西端にあるアッツ島にまで足を延ばす。嵐は野鳥観察には絶好の機会であり、渡り鳥が一斉に避難してくるので、そのときはすべてを投げ捨てて鳥を追う。優勝者が1年間に観た745種類の鳥の中には、人が飼っているハチドリ、森のフクロウをはじめ多分希少な鳥がいっぱい出てきてバードウォッチングが趣味の人にはたまらないだろう。主演の3人はそれぞれ持ち味を発揮し、競技に参加した1年で何かを得た人失った人さまざまだったが、何かに全身全霊で熱中することの素晴らしさが伝わってきた。★★★★☆

 バードウォッチャーが行ったアリューシャン列島のアッツ島は、太平洋戦争の知られざる日米激戦地で、硫黄島同様、日本軍守備隊の2600人余りが1943年5月に玉砕している。アッツ島近くのキスカ島にはもうひとつの日本軍基地があり、玉砕後米軍に包囲されていたが、その2か月後、霧の中で行われた奇跡の救出と言われる作戦により守備隊5000人全員が無傷で救出されている。昨年の東北大震災後、日本に帰化したドナルド・キーンは、戦時中日本語通訳の情報士官として海軍に勤務し、そのときキスカ島に上陸している。というのを、以前彼の本(司馬遼太郎との対談集だったか、彼の回顧録のようなものだったか忘れた)で読んだ。


シンガポールの歴史

2012-03-03 14:50:13 | 東南アジア

19世紀初頭、ラッフルズはシンガポールの地政学的な重要性に着目し、ジョホール王国からこの地を獲得、自由貿易港を宣言し、イギリスの東南アジア地域の植民地経営の中心とした。現在のシンガポール南方沖合には無数の船が停泊し、ラッフルズの先見性に感心するばかりである。政府は、海運だけに頼らず、空、金融、IT、医療、学問のHubを目指している。

Hotel Sandsから南を眺望南方からHotel Sands方向Google Map衛星写真East Coastより

シンガポールの歴史は、当地のNational Museumに行くと日本語ガイダンス付きで概略を教えてくれるが、展示品はどちらかと言えば貧弱で内部は迷路のようになっていて、あまりいいできとは言えない。シンガポールの歴史を知りたいならWikiが最もてっとり早い。歴史に姿を現すシンガポールらしき地名は中国の3世紀の文献が最初らしいが、ほぼ確実なのは、7世紀シュリービジャヤ王国の領地として記録のあるTemasekである。Temasekはシンガポールのいたるところで目にし耳にし、通り名はもちろん、会社、病院、学校などにその名がみえる。特に有名なのが、政府系投資会社のTemasek Holdingsで、世界中で投資を行っている。最近では、オリンパスの株をスキャンダルが出た瞬間に売りさばいたことを早々と公表し、日本の一企業にまで投資の手を広げていたことに驚かされた。14世紀末にはシュリービジャヤの王子がこの地でライオンを見たとしてつけられたシンガプーラという名が定着する。実際には、マレー半島にはライオンはいないので、トラだったとされる。

16世紀の初めにポルトガルの侵略で町が壊滅し、その後300年、ラッフルズが価値を見出すまで歴史から姿を消す。ラッフルズが1819年に上陸したときの人口はわずか150人だったという。1826年からイギリスの植民地となり、マレー半島で産するゴムや錫の積み出し港として繁栄する。

1942~1945年は日本統治時代で、昭南島、昭南市と呼ばれる。シンガポールでは日本統治時代は、暗黒時代とされ、セントーサのSurrender館には日本占領時代のことを詳しく紹介している。終戦とともにイギリス植民地に戻るが、1957年マラヤ連邦の州として独立し、1965年にマレーシアから分離独立する。その後はリークワンユー率いるPAPという政党に率いられて華々しく発展し、1人当たりのGDPは日本を超えた。現在、シンガポールの人口は500万人近くまで増え、外国人、特に中華系移民を奨励している。

シンガポールで目に見える歴史は、Fullerton HotelやCity Hallのイギリス植民地時代のコロニアル風建造物(残念にもRaffles Hotelは再建)であり、それ以前の古い遺跡はないので面白くはないが復習の意味で書いておく。