貝塚茂樹の「孟子」は、内山俊彦の「荀子」より初心者向けだった。孟子は、孔子から200年ほど後、曽子、子思の流れを汲む正統の儒家である。孟子の生きた時代背景や思想を概説したあと、孟子の言葉や対話をまとめた書「孟子」を順に紹介し、性善説、孟母三遷、五十歩百歩、人事を尽くして天命を待つ、など有名な話を解説しながら、孟子の人となりがわかる構成になっている。「孟子」は、「論語」、「中庸」、「大学」と合わせ儒教の四書と呼ばれる。
性善説
人間は誰でも人の悲しみに対する同情心を持っている。子供が井戸に落ちかけているのを見た人は誰でも驚きあわて、いたたまれない感情になり、救けに駆け出すに違いない。このいたたまれない感情は仁の端緒である。これに対し墨子学派の告子が、人間は善でも悪でもないし、どちらにも成りうると反論したが、孟子は感情的に答弁したという。人間の善なる本性を拡充するには非常な意志力が必要であり、浩然の気を養わなければならないとする点で性善説はあまり説得的ではなかった。性悪を礼や学習で善に変えるという荀子の性悪説のほうが説得力がある。
孟母三遷
孟子が小さいころ、家が墓場のそばにあり孟子がいつも墓場で遊んでばかりいるので孟子の母は市場の近くに引っ越した。ところが今度は、孟子が市場で商人のまねばかりするので学校の近くに引っ越す。ここでは孟子は礼を学び始めた。母親が教育熱心だったから孟子という偉人が誕生したという逸話であるが、これは後世の作り話だろうとされる。
五十歩百歩
高校の漢文で習った。梁の恵王が自分は他国よりも善政によって国を経営しているのに、どうして自国の人口が増えないのかを孟子に問うたとき、孟子は戦争で50歩逃げた兵隊が100歩逃げた兵隊を笑ったという比喩を持ち出し、人口の増加よりも質を上げるべきだと諭す。孟子はこのような比喩が得意な雄弁家であった。
泰山を小脇に抱えて北海を飛び越える
などということは現実的にできないが、按摩をしてあげよと言われてできませんと答えるのは、できないのではなく、やろうとしないだけだ。王に仁政をするように促す際に、このような比喩を持ち出し、不可能なことと意欲しないことの差を説明している。
浩然の気を養う
孟子は弟子に何が得意かを尋ねられたとき、人の議論が理解できることと浩然の気を養うことの二つが得意だと答える。浩然の気とは天地に充満し、義と道を通じて養われる。浩然の気を養うとは、道義を体得すること、気を支配する志を重要視する。吉田松陰は、”大敵を恐れず小敵を侮らず、安逸に溺れず、断固として励むことができる気力である”とし、それを養うには、”一日一日、志に向かってやるべきことを積み重ねることである”と言った。西郷隆盛も浩然の気を養っていると述べている。らしい。孟子は浩然の気を養う勇者だと自負している。貝塚はこれを、”何か大人げない感じがする”うえに、”孔子のような穏健で時宜に適した行動をするのとは、たいへん相違し、孟子はつまらないことにこだわりすぎて、大事な仕えている王との間に仲違いの原因を作ってしまった。”と、孟子の人格を否定的に見ている。
天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず
戦争を孫子が重要視する軍事学的、地理的な状況よりも、人間の問題がもっと重要だとする。戦争は儒教的な政治学の問題であるとした。
男児は、天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行く
大丈夫の心意気。
誠は天の道
孔子、曽子、子思を経て孟子に伝わる儒教の道徳哲学。まごころがこもっていれば動かされない人があるはずがない。
人の患いは、好みて人の師となるにあり
人に自分の説を押し付けようとしてはならない。
人事を尽くして天命を待つ
孟子は運命論者であるが宿命論者ではない。
人間の本性は善であるという性善説や、仁義を説く姿から、孟子はどんな聖人君主かと思っていたら、結構人間臭い。貝塚茂樹によると、孟子は派手好み贅沢好みで、権力主義的で、自信家でへりくだることがない性格で、情に欠けるところがあり、”人間として欠点の多い人であった”ことになる。穏健な性格の孔子とは大分違う。仕えていた斉国国王に隣国の燕を攻めることを勧めたり、その後燕国の支配に失敗すると今度は燕国を捨てるように進言するといったご都合主義が見られる。斉国国王によって自分の理想を実現することを焦ったのか、仁政や忠恕を説く儒家の立場と矛盾する言動が見られる。貝塚茂樹は、孟子のことがあまり好きではないように感じたし、孟子が貝塚の言うとおりだとしたら、儒家が孟子を孔子と並列して孔孟と呼ぶことに違和感がある。
(注:貝塚茂樹は、ノーベル賞の湯川秀樹や史記を訳した小川環樹の兄)