備忘録として

タイトルのまま

上関

2006-12-31 12:05:19 | 万葉
山口県の山陽側、瀬戸内海に面して上関という港がある。柳井市から南に伸びる室積半島突端に室津という港があり、100mほどの海峡を挟んだ長島の向かい側が上関だ。8世紀遣新羅使が立ち寄り詠んだ歌が万葉集にあるとともに、かの泉光院も訪れている。

都辺に 行かむ舟もが 刈り薦の 乱れて思ふ こと告げ遣らむ

都へ帰る船に慕情を伝えたいという意。
室津と上関の間の海峡には、大型船を通すために海面から数十mの高さに1スパンの桁を渡したコンクリート橋が架かっている。橋の下に灯台があるのが奇妙だ。

長島の南方沖にある祝島も万葉集ゆかりの島である。

家人は 帰りはや来と 伊波比島 齋ひ待つらむ 旅行く我を
草枕 旅行く人を 伊波比島 幾代経るまで 齋ひ来にけむ

望郷と旅の不安を歌ったものだ。長島南端、祝島の目と鼻の先に原発建設が計画されている。当然のように反対運動が活発だ。環境破壊を問題にしているが、文化財的な理由からの反対はあまり聞かない。

列島改造

2006-12-24 14:54:48 | 話の種
帰国して驚いたのは、市町村の名前がすっかり変わってしまったことだ。平成の大合弁というのだそうだ。徳島でも、かつては徳島、小松島、鳴門、阿南の4市だったものが、合弁で吉野川市、阿波市、三好市の3市が新たに出来、日和佐あたりが美波町、海部や海南あたりが海陽町になっていた。古い地名は字などで残るのだろうが、過去の風景がすでに変貌してしまった現在、せめて記紀や万葉集のような古文書に出てくる地名が比定できないようなことにはなって欲しくないものだ。泉光院旅日記の地名でも、かろうじてバスの停留所にその名を留めているという例が紹介されていた。
建設、土木工事は物理的な国土の改変だが、地名改変は日本人の精神的拠り所を変えてしまう暴挙かもしれない。
建設、土木工事は、戦後の高度成長期に本格化し、角栄の列島改造からバブルにかけて絶望的な状況をもたらし今日に至る。災害対策とした土木工事が災害を増やしたという意見もある。手当たり次第に進めた土木建築工事に、営林行政の無策が重なり山が痩せたため、斜面崩壊や土石流が発生しやすくなり災害が増えている。
地球温暖化→雨量強度の増大
植林の促進と広葉樹林の減少→雨水涵養の劣化→土砂と表流水の流出
河川改修→遊水地の減少と鉄砲水の助長→河川災害の増加
こんなところか。
災害は短期的なものだが、川から魚や虫が消えた生態系の破壊は、目に見えないところで静かに進行し人間生活や健康に影響を及ぼしているに違いない。

ところで、山寺立石寺の向かいの丘の上に”閑さや-----”とは縁遠い立派な芭蕉博物館が建っていた。俳句一首に頼った展示場にしては豪華すぎる箱物行政の典型的な産物だ。土曜日に参観したが、我ら6人以外に入館者はなく、展示物も一般受けするものがないので採算が見込める代物ではなかった。為政者の精神的貧困がここでも見られた。

山寺

2006-12-17 08:31:17 | 江戸
今、仙台にいる。
昨日は、山形そば街道で板そばを食べた帰りに山寺立石寺に寄った。最澄の弟子で遣唐僧だった円仁が開祖の天台宗の名刹だ。1980年頃立ち寄った時には、寺には長い長い木の滑り台があったが、今はもうない。
”閑さや岩にしみ入蝉の声”の芭蕉から150年ほど後、泉光院も訪れている。泉光院は、他の芭蕉ゆかりの地である象潟や松島にも立ち寄っている。泉光院の時代、俳句は日本中で盛んで、泉光院は立ち寄った先々で出会った人々と俳句を交わしている。泉光院が象潟を訪れたのは、1804年の鳥海山噴火から10年ほど後のことだったようで、すでに隆起し、芭蕉が見た風景ではなかった。泉光院は松島から塩釜まで船に乗っており、今もそのコースの遊覧船がある。41作目あたりで寅さんも遊覧船に乗っていたが泉光院とは逆に彼は五台堂で降りていた。
泉光院とほぼ同じ時代に生きた一茶は鳥海山噴火前後で象潟の句を何首か詠んでいるが現地に行ったわけではないそうだ。ただ、関東周辺や西国へ出掛け、土地の俳句好きを集めた句会を催し参加者やスポンサーから教授料をもらっていた。一茶の生涯は藤沢周平の小説で知ったが、俳句から受けていた素朴な印象とは程遠く、生々しいとしか言いようがなかった。同時代人の北斎や馬琴の生涯も人間くさく、作品の風雅に興じるより、作者の生き様を眺めるほうが面白い。その意味では、嵐山光三郎の悪人芭蕉は必読だ。


泉光院

2006-12-04 19:50:32 | 江戸
3月の帰国以来ブログから遠ざかっていたのだけれど、石川英輔の泉光院の旅を書いた本を読んで、記憶のために書き留める必要上、再びブログを開いた。
この間、法隆寺と聖徳太子関係の本を10冊ほどと時代劇専門チャンネルで見た剣客商売に動かされて原作16冊などを読んだ。これらの話はまた別の機会として、まずは泉光院である。
この宮崎佐土原出身の山伏は、江戸時代文化年間に6年と半年をかけて日本各地を托鉢しながら旅した(回国)ときの日記を残している。泉光院が行かなかったのは、沖縄、青森、岩手、北海道、徳島、香川、高知だけである。その健脚にも驚かされるが、関所が多く通行手形がないと旅ができなかったと思っていた江戸時代の日本はそれほど窮屈でもなかったようだ。
面白かったのは、長崎でオランダ人に会ったこと、一向宗の広島では托鉢できなかったので山陰を回ったこと、他宗派には冷淡だったのか日蓮宗の村は急ぎ足で通り過ぎたこと、松平定信の会津藩はその支藩も併せて窮屈だったこと、祖谷でないところのかずら橋の話、大仙、立山、鳥海山、富士山などの頂上に立ったことなど。泉光院は日記に訪れた村や町の名前を記しており大半は場所の特定ができるのだが、失われた地名もあるようだ。最近の市町村の合弁で昔からの地名が味気ない名前に変わったことは腹立たしいかぎりだ。
歩き通した泉光院のまねはできないが、いつか彼の日記と司馬遼太郎の街道をゆくをリュックに詰めて旅がしてみたいものだ。