備忘録として

タイトルのまま

Red Lights

2012-11-25 23:52:25 | 映画

 

ポスターはいつものIMDbより。

”Red Lights”2012、監督:ロドリゴ・コルテス、出演:ロバート・デ・ニーロ(Taxi Driver、アンタッチャブル、Goodfellas、Rasing Bullなど)、シガニー・ウィーヴァー(エイリアンシリーズ、Working Girl、Galaxy Quest、Ghostbusters、Dave、Avatar)、キリアン・マーフィー(In Time)、エリザベス・オルセン、

サイコ、スリラー、オカルト系の映画は好きではないが、ロバート・デ・ニーロとシガニー・ウィーヴァーが出演する映画を見逃すわけにはいかなかった。それに好きじゃないといいながら同系列の「羊たちの沈黙」、「セブン」、「シックスセンス」は衝撃的だったので、期待半分に見始めた。が、最後が”ほぉ!そうだったんだ”という程度の落ちで、これら名作の衝撃度には遙かに及ばなかった。以下、ネタバレになるので読む人はご注意を!

超常現象を認めない超常現象研究者マーガレット(シガニー・ウィーヴァー)とその助手トム(キリアン・マーフィー)は、様々な超常現象のカラクリを暴いている。あるとき彼らは突然復活してきた伝説の超能力者サイモン・シルバー(ロバート・デ・ニーロ)と対決することになる。ところが、これから本格的な対決だという段階で突然マーガレットが死んでしまい、助手のトムがその仕事を引き継ぐ。こんな中途半端な状況で主人公のマーガレットがストーリーから消えるはずはないから、きっと一時的に外しておいて、サイモン・シルバーを追い詰めるクライマックスに彼女は再登場するはずだと勝手に思い込んでいた。結局、超常現象のようなマーガレットの復活はなく、仕事を引き継いだトムがサイモン・シルバーのインチキを暴き、最後は「ほぉ!」となるのである。エクスプラネーションマーク”!”が1個しかつかないところに、この映画の衝撃度レベルと評価が現れているのだ。ただ、結末はどうなるのかと視聴者の興味を引き続ける脚本と二人の名優におまけして、★★★☆☆

ところで、映画の中でシガニー・ウィーヴァー扮するマーガレット博士が、”人間には2種類の人間がいて、超能力を信じる人間と超能力の証明はできないと考える人間がいる。でも、それは両方とも間違っている”と言う。ブッダも孔子もアインシュタインスナフキンも超常現象を語らない現実主義者だった。これら偉人と並べて非常に恐縮なのだけれど私も同じ。

”Total Recall”2012、監督:レン・ワイズマン、出演:コリン・ファレル、ケイト・ベッキンセイル、ジェシカ・ビール、遙か昔に観たアーノルド・シュワルツェネッガーの”トータル・リコール”1990のリメイクである。前作では地球と火星だった舞台を、地球を貫通するエレベーターでつながれたイギリスとその植民地オーストラリアに置き換えている。主人公に偽の記憶を植え付ける妻は魅惑的なシャロン・ストーンだったが早い段階で死んでしまったように記憶している。今回のケイト・ベッキンセールも美人で、それに最後まで執拗に強かった。前作のイメージが強すぎて平凡な映画に見えてしまった。前作を観てなかったら違った評価をしたかもしれない。★★☆☆☆

”Seeking for a Friend for the end of the World"2012、監督:ローリーン・スカファリア、出演:スティーブン・カレル、キーラ・ナイトレイ、彗星が地球に衝突するまで数週間しかない状況で、最後の時をどのように誰と過ごすのか。地球最後の日を前に妻に逃げられたカレルは、偶然知り合った隣人のキーラ・ナイトレイと心残りをなくす旅に出る。地球の最後まで幾日もないという状況は異常なのだが、若い時の恋人に会いに行ったり、親の離婚で離ればなれになっていた父親に会ったりと、話は淡々と進んでいく。そしていよいよ最後のときを迎える。カレルの雇っているメイドは、地球の最後など関係なく、あたりまえのように仕事を続け日常を変える気はないのである。それが正しい最後の迎え方なのかもしれない。中学の時、原作を読んで観た映画「渚にて」を思い出す。キーラ・ナイトレイはPirates of Caribbeanのヒロインをつとめるなど今売出し中らしいが、特にこれといって魅力は感じなかった。”Never Let Me Go”にも出ていたが主人公のキャリー・マリガンの方がよほど理知的で魅力的だった。★★★☆☆

”On the Beach(邦題:渚にて)”1959、監督:スタンレイ・クレイマー、出演:グレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー、フレッド・アステア、アンソニー・パーキンス、この名作映画はDVDで持っていてくり返し観ている。北半球で起こった核戦争による放射能汚染が、徐々に主人公たちのいるオーストラリアにも及んでくる。アメリカ海軍の原子力潜水艦が汚染を免れオーストラリアに寄港し、乗員たちは家族をアメリカに残したまま最後を迎えようとしている。グレゴリー・ペックは潜水艦の艦長で寄港先でエヴァ・ガードナーと知り合う。この映画でも、絶望的な状況下で淡々と日常を続ける人、宗教にすがる人たち、精神的に病んでいく人々が描かれている。最後は見えない放射能に覆われた人ひとりいないオーストラリアの町に新聞紙が風に舞う。故郷に帰っていくグレゴリー・ペックの潜水艦を丘の上から見送るエヴァ・ガードナーに胸が熱くなる。ネビル・シュートの原作はもっとせつない。★★★★☆

”To Rome With Love”2012、監督:ウッディ・アレン、出演:ウッディ・アレン、ジェセ・アイゼンバーグ、ロベルト・ベニグニら多数、ウッディ・アレンの世界にはついていけなかった。前作”Midnight in Paris”は稀な作品だったのかもしれない。ロベルト・ベニグニの”Life is Beautiful”は良かった。★☆☆☆☆

”The Watch”2012、監督:アキバ・シェイファー、出演:ベン・スティラー、ジョナ・ヒル、B級エイリアン映画。時間を返してくれ。にしては最後まで観てしまった。☆☆☆☆☆


ディーパバリ

2012-11-13 00:30:45 | 東南アジア

 11月13日は、シンガポールはディーパバリ(DeepavaliまたはDiwali)というヒンズー教の祭日である。インド人街リトルインディアの通りは電飾でまぶしく飾られ”光の祭典(Festival of Lights)”とも呼ばれる。アパートの隣人は、ドアの前に小さな陶器のお皿に灯をともしてきれいに飾り付けをしている。女神ラクシュミが訪れて一家を祝福してくれることを願って飾るのである。

 ディーパバリは、ヒンズー教では「ラーマーヤナ」のラーマ王子がシータ妃を救いだし凱旋した日を祝うとも、「マハーバーラタ」でクリシュナ神が魔王ナラカスラに勝利し善が悪に勝利(Triumph of good over evil)したことを祝う祭りだともいう。また、ジャイナ教では、紀元前527年(ジャイナ教で信じられている年)教祖バルダマーナ(マハービラ=偉大な勝利者)が解脱し涅槃(=死亡)に入った記念日である。

  • ラクシュミ:ヒンズー教の富、繁栄、幸運、美の女神で、ディーパバリのときに勤勉で清潔な家だけを訪れ祝福する。ビシュヌ神がラーマに化身したときは、その妻シータに化身し、ビシュヌがクリシュナに化身したときは、その愛人ラーダに化身すると言われる。
  • 「マハーバーラタ」:「ラーマーヤナ」と並ぶ古代インドの大叙事詩。クル族とバーンドヤ族の戦いを中心とした叙事詩で、クリシュナがバーンドヤ族の王子アルジュナに正義の戦いを避けてはいけないと諭した教訓が「バガヴァッド・ギーター」である。
  • クリシュナ:ヒンズー教の神のひとりでビシュヌ神のAvatar(化身)である。ビシュヌ神は太陽があまねくものを照らす働きを神格化した神で、さまざまに化身する。クリシュナをはじめとして、魚、亀、猪、ラーマなどに加え、ブッダもその化身とされている。
  • ジャイナ教:ブッダと同時代(紀元前5~4世紀)に教祖バルダマーナが始めた宗教で、厳格な不殺生を戒律とする。現在、インドに300万人以上の信徒がいる。
  • 以上は、手元にある村上重良著「世界宗教事典」と佐藤圭四郎著「世界の歴史6 古代インド」およびWiki(英語版)から引用した。

 リトルインディアには、よくインドカレーを食べに行く。行きつけのレストランでメニューを見てカレーを選ぶのだが、種類が多い上にもの覚えが悪いのでいつも前回食べておいしかったカレーをオーダーできない。ティカ、タンドーリ、ラッシ、マサラティー、それにナンは間違わずにオーダーしている。適当に選んだカレーでも、カレーはカレーなので大きく外れることはなく、いつも食べ過ぎて苦しくなるぐらい満腹になる。別のバナナリーフカレー屋はその点、フィッシュヘッドカレーしかオーダーしないので間違えることがない。他にLittle Indiaには、Komalaというインド料理のファーストフード店がある。マックのようでマックでなくカレーがおかわり出来るところが面白い。そしてLittle Indiaで忘れてならないのが、Mustafa Centre(シンガポールはBritish Englishなのでcenterはcentreと書く)というインド系のデパートである。とにかく有名ブランドからインドでしか売られていない由来のわからない商品まで品数が多く、広い店内に所狭しと並べられている。インドの見たこともない珍しい食品類も手に入る。シンガポールのMustafa Centreを紹介するWiki(英語版)によると、商品数は150,000種という。それが多いか少ないかは比較するものがないのでわからないのだけれど、たぶん多い。


空の理論

2012-11-11 10:55:32 | 仏教

前回書いたように、般若心経の空の部分を中村元はサンスクリット原典から以下のように訳している。

  • 色性是空 空性是色 (中村訳 物質的現象には実体がない、実体がないからこそ、物質的現象でありうる。)(注:この語は玄奘の般若心経にはない)
  • 色不異空 空不異色 (中村訳 しかし、実体がないといっても物質的現象から離れていない。すなわち、物質的現象は、実体がないことから離れて物質的現象ではありえない。)
  • 色即是空 空即是色 (中村訳 このように、物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。) 

般若心経を写経し訳を読んだのはいいのだけれど、否定に次ぐ否定で論理的にも感覚的にもさっぱり理解できない。空の思想を理論化したのは2~3世紀のナーガールジュナ(龍樹)で、それを何とか理解したいと思い手持ちの本やネットを探した。山折哲雄の空や三枝充悳の「仏教入門」から龍樹の空の解説、ネットでは石飛道子、チベット老僧の空の縁起、果ては知恵袋まで動員した。その中では、「中村元 生誕100年」で中村元が自著「龍樹」で行った空の解釈を奥住毅という人が解説しているのが一番わかりやすかった。(1)空は縁起および無自性と同義である。(2)縁起はつねに理由、空は帰結、無自性(実体がないこと)は空に対しては理由、縁起に対しては帰結という関係がある。という。

  1. 縁起=無自性(実体がないこと)=空
  2. 縁起⇒無自性(実体がないこと)⇒空

あらゆる現象には因果関係がある。悪いことをすれば悪い結果になる。(縁起) しかし、考えてみれば、あらゆる現象は絶えず変化していて(諸行無常)、悪いと思った自分でさえ、次の瞬間には別の考えに変わっている可能性が高い。このように自己にとらわれない考えに達した(無我=我執を捨てる)なら、そこではすべての現象に実体がないことに気づく(無自性)。これが(空)である。このように縁起から考えていくと空にたどり着ける。と自分なりに理解したようなしないような気になったところで、同じ本に”中村元著「龍樹」の中の一節を読んで、”空とはこういうことだったのか”と理解できた”と池田晶子が書いた文章が目に飛び込んできた。

「束縛と解脱とがある」と思うときは束縛であり、「束縛もなく、解脱もない」と思うときに解脱がある。譬えていうならば、われわれが夜眠れないときに、「眠ろう」「眠ろう」と努めると、なかなか眠れない。眠れなくてもよいのだ、と覚悟を決めると、あっさり眠れるようなものである。

と、中村元が書いてるらしい。なるほど、そういうことなのか。仏教の空や我執を去れとはこういうことなんだと、わかった気がする。さらに解脱の先にはニルヴァーナ(涅槃)があるはずだが、空の理論では”ニルヴァーナはない”のである。中村はさらに続けて、

「ニルヴァーナが無い」というのはたんなる形式論理をもって解釈することのできない境地である。結局各人の体験を通して理解するよりほかに仕方がないのであろう。

と言う。ブッダが弟子たちに向かって言った最後のことば ”さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさいと。” は、自分の死も無常の一部であり、嘆き悲しむことなく時間を惜しみ修行を続けなさいという意味だと思っていた。実はそれだけでなく、”無常も空もニルヴァーナも、すべては修行の中で各人理解するしかないのだぞ。”と、ブッダは最後に弟子たちを諭したのだということに中村元のことばで気づかされた。

 教科書だけではブッダの教えの真髄はわからないんだぞ。という中村元の遺言なんだと思う。

おまけに、「中村元 生誕100年」で鶴見和子が、南方曼荼羅の名付け親は、中村元だという思い出を語っていた。鶴見和子は、南方熊楠の描いたいたずら書きのような図形をなぜ中村元が「南方曼荼羅」と咄嗟に命名したのか、詳しく聞かなかったことを悔い、”教え乞いておけばよかりしこの人を おきてきくべき人なきことを”という短歌で彼女の寄稿を結んでいる。


般若心経

2012-11-04 12:16:06 | 仏教

 写経の功徳は、集中力と忍耐力がつき、心が清浄となり、極楽往生ができる。と、あるお寺のWeb-siteに書いてあった。字もうまくなるという。ブッダは極楽往生などとは一言も言ってないのだが、姿勢を正し精神統一して一字一字、般若心経を写経した。生来の悪筆なのでPC写経で許してもらおうというわけである。これでも功徳があるだろうか。ネタ本は、下の写真の中村元・紀野一義訳注の「般若心経・金剛般若経」である。そういえば、金剛般若経に、ブッダは”善行をすると意識して修行すべきでない。迷いも悟りも区別しない。我執を捨てよ。”と繰り返し繰り返し説いていた。だから、ブッダ本来の教えに従うなら功徳が得られるといった利益(りやく)期待で写経をしてはいけないはずだ。

 ついでに、読み終わった中村元「原始仏典」も写しておく。この場合の”写す”は単に写真に撮ることで、原始仏典を写経した訳ではないので誤解のないように。

 写経「般若心経」 2012年11月4日

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄不増不減。是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣儗。無罣儗故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多。是大神咒。能除一切苦。眞實不虚故。説般若波羅蜜多咒。即説咒曰

掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅儈掲帝 菩提儈莎訶

般若波羅蜜多心経

 

般若心経は別名「般若波羅蜜多心経」ともいい、上のようにわずか257文字の仏典であるが、すぐに変換できない古い漢字が多くIMDパッドで探しながら写経した。それでも、最後から2行前の”掲帝”(ギャテイ)の””と打った字は、本の活字とは少し違い、右下は”ヒ”ではなく”Lと人”である。本の字の右側は””のとおりだが、木へんではなく手へんである。本来の”掲”は何度探しても見つからなかった。最後から2行目は、”智慧の完成を説く真言で、サンスクリット語では、”ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スバーハー”と発音するらしい。漢文では、”ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボジソワカ”と読むようだ。般若心経は、日本では浄土教以外の宗派で重視され読誦、講説されているので、お坊さんがお経を唱えるときはこのように発音しているに違いないので、次回機会があれば、しっかりと聞き分けたいと思う。般若心経はそのわずか257文字に仏教の真髄を表していると言われ、最澄は「摩訶般若心経釈」、空海は「般若心経秘鍵」という注釈書を残している。

 中村元は、玄奘三蔵が訳した「般若心経」を漢訳ではなく、サンスクリット原典を参照ながら口語訳してるので、内容は容易に理解できるのではと期待したが、有名な”色即是空”(形あるものは空)ということばが見えるように、空の理念を述べていて難解だった。なんでも否定するものだから、般若心経の漢字には、やたらと不と無が多い。修行を積み、空の理念を悟ったあかつき、すなわち智慧(般若)が完成(波羅蜜多)したときには、生死の区別さえなくなるのだという。般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)はサンスクリット語で智慧の完成である。数字のゼロ”0”はインドで発明されたことは有名だが、数字のゼロと同じ意味の”空”もインド発祥である。

 般若心経は、存在するものは5つの構成要素があり、その要素は実体がない、すなわち空だというのである。それを3段階で説明する。

  • 色性是空 空性是色 (訳 物質的現象には実体がない、実体がないからこそ、物質的現象でありうる。) ⇒ 刻々変化する現象を見据えると、すべてのものが関係性の中で存在することが見えてくるだろう。すなわち縁起の世界が体得できる。(この部分は上の玄奘訳に記述がないが他の訳本に記されているので、ここに付け加える)
  • 色不異空 空不異色 (訳 しかし、実体がないといっても物質的現象から離れていない。すなわち、物質的現象は、実体がないことから離れて物質的現象ではありえない。) ⇒ 一切のものは、絶えず自己と対立し、自己を否定するものによって限定されるという関係に立ち、限定されることによって自己を肯定していく働きを持っている。私という現象は、常に他のものによって規定され、私であって私でないものに成りつつあることが理解される。
  • 色即是空 空即是色 (訳 このように、物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。) ⇒ 上段と同じ意味であるが、上段が観念であるのに比し、ここは実感の上で確実につかまれた世界である。上段の観念論とは一線を画する。

同じように、感覚も、表象も、意志も、知識もすべて実体がないのである。眼も耳も鼻も舌も身体も心もない(六根)。識すなわちクオリアもないのである。さとりも、迷いも、老いも死も苦しみもない。恐れがないから顛倒(理にそむく)した心から遠く離れ、永遠の平安に入っている。

  • 乃至無老死 亦無老死盡 (訳 老いも死もなく、老いと死がなくなることもない。
  • 無苦集滅道 (訳 苦、集、滅、道、すなわち四諦、苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。この場合、漢字は滅だが、中村によるとサンスクリット原典は滅ではなく制するの意で記されているのでそのように訳している。
  • 無罣儗故 無有恐怖 (訳 心をおおうものがないから恐れがない
  • 究竟涅槃 (訳 永遠の平安(涅槃)に入っている。
  • 是大神咒(しゅ) (マハー・マントラ=真言、はじめブッダはこれを禁じたが、後に毒蛇、歯痛、腹痛を治癒させる呪文は使用を許可した。密教では翻訳せずそのまま口に誦(とな)えれば真理と合一することができると説かれる。
  • gate gate paragate parasamgate bodhi svaha (真言のサンスクリット原文、正規のサンスクリットでなく俗語的だという。漢訳せずこのまま唱える。意味は”彼岸に往けるときにさとりあり”)

般若波羅蜜多心経 ここに智慧の完成の心が終った。

 下(Wiki)は、法隆寺に伝わる般若心経の世界最古のサンスクリット語写本で、こんな古いものはインドにも存在しない。8世紀後半のものとされているが、609年小野妹子が持ち帰ったという説もあり、もしかしたら聖徳太子はこれを見ているかもしれない。2年前の法隆寺訪問時に無知だったため、これを見逃したことが悔しい。 おっと忘れるところだった。無智亦無得。以無所得故。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るというところがないから、心がおおわれることがなく平安で、悔しさもない。般若心経の教えを忘れるところだった。