備忘録として

タイトルのまま

高松塚その3

2010-09-26 17:01:17 | 古代
 高松塚古墳は、天武持統陵の南、そう遠くないところにあった。高松塚古墳については関心があったので()今回やっと行くことができた。石棺の解体で古墳は、ずたずたになったはずだが、何事もなかったかのようにきれいに整備されていた。
 石棺の壁画は修繕のためどこかの施設に収容されていて、古墳近くにあった展示室にはレプリカが置いてあった。展示室で面白かったのは、石棺の盗掘孔から中をのぞく趣向で、古墳内部の様子が実感できた。梅原猛は、のろわれた弓削皇子が被葬者であり壁画は埋葬後すぐに故意に傷つけられたという説をとっていたので、専門家じゃないのだからわかるはずもないのだけれど、どのように傷がついているかじっくりと観察した。当然のごとく自然の剥落なのか故意の傷なのかはわからなかった。展示室の奥に高松塚関係資料や市販本が本棚に並んでいたが、梅原猛の「黄泉の王-私見高松塚」も上原和の論文が載っている「倭から日本へ」も見あたらなかった。

 蘇我馬子の墳墓と言われる石舞台には、あまり関心はなかったのだけれど、明日香に来て見とかないわけにはいかないので一応行ったが、大きな石があるだけで知的好奇心を刺激してくれるものは何もなかった。ただ、石棺を入れたであろう石組は大きく、馬子の権力の大きさに思いを馳すことだけはできた。
 
 
 先日ニュースになった斉明天皇陵とされる牽牛子塚古墳(けんごしづか)へはもちろん行った。あすか駅から西へ自転車で10分足らずの丘の上にあったが、発掘調査中で工事中の柵で囲まれ中を伺うことはできなかった。高松塚古墳と同じように丘の一角を利用した墳墓で、天武持統陵のような独立丘の墳墓ではなかった。

飛鳥大仏

2010-09-25 10:05:06 | 古代
 飛鳥寺はもともと法興寺または元興寺と呼ばれていて、日本最古の仏教寺院である。
日本書紀と飛鳥大仏の光背銘によると、
崇峻天皇元年(588)百済から学者や技術者が来て法興寺を作り始める
591年 山に入り寺の木を切る
推古天皇元年(593) 仏堂と歩廊を起つ、塔を建てる。
596年 法興寺完成。高句麗から慧慈(えじ)、百済から慧聡(えそう)が来て寺に住まう。
605年 鞍作鳥が丈六の仏像(飛鳥大仏)を作る。このとき鞍作鳥は、すでにできていた金堂の戸を壊さずに仏像を入れることができ、賞賛されている。
608年 小野妹子といっしょに来日した隋の使節・裴世清(はいせいせい)が法興寺を訪れ仏像に参った。

飛鳥大仏は写真撮影がOKだった。
鞍作鳥(くらつくりのとり)は法隆寺金堂にある釈迦三尊像の作者でもあるが、飛鳥大仏と釈迦三尊像は口元をすこし上げたかすかな微笑とやや面長な相貌などよく似ていると思った。梅原猛は「聖徳太子3」で、”釈迦三尊像は聖徳太子等身像と言われているので、飛鳥大仏も聖徳太子をイメージした可能性が高い”という。顔は継ぎはぎだらけで、特に右ほほの横に入る筋が傷跡のようで痛々しかった。

飛鳥寺の外に入鹿の首塚が立っていた。
 

宿に帰って万葉の旅に上の首塚の写真を見つけ、もっと予習しとけばよかったと悔やんだ。ひどい写真を撮ってしまった。首塚のまわりは犬養の写真のように田畑が広がっていたがもっと人家が多いような気がする。写真中央遠方は聖徳太子が生まれたという橘寺である。今回の旅は駆け足だったので見逃しが多く後悔も多い。写真に添えて犬養孝は、飛鳥大仏のことを次のように記している。
”止利仏師作と伝える釈迦金銅座像は補修のひどいものではあるが、顔面などにはわずかに推古仏のおもかげが見られる。”

大化の改新で宮殿で中大兄皇子に殺害された入鹿は、斉明天皇と通じていたといわれる。

天武持統陵

2010-09-24 23:37:06 | 古代
 飛鳥駅でレンタサイクルを借りて東に向かい高松塚へ行ったあと天武天皇と持統天皇を合葬する檜隈(ひのくま)大内陵へ行った。宮内庁が指定する天皇陵としては被葬者が確実な数少ない天皇陵のひとつである。天武天皇は686年に崩御した。持統天皇はその17年後の703年に崩御し1年の殯(もがり)ののち火葬され天武陵に合葬された。そのため天武天皇の遺体は石棺に入れられ、持統天皇は火葬され銀の壺に入れられ葬られたという。陵は13世紀に盗掘に会い銀の壺や副葬品が盗まれ、骨や灰は遺棄されたらしい。

やすみしし 我が大君の 夕されば 見したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし
神岡の 山の黄葉(もみぢ)を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見したまはまし
その山を 振り放(さ)け見つつ 夕されば あやにかなしみ 明け来れば うらさび暮らし
あらたへの 衣の袖は 乾(ふ)る時もなし
                                持統天皇(巻2-159)

 天武天皇崩御のおり、殯宮(あらき=仮のとむらい)での妻持統の挽歌である。御在世ならいっしょに見るもみじを今はひとりで朝夕にながめなければならぬ悲しさ、ああ、衣の袖はかわくこともない。切々と夫への思慕の想いをうったえた歌である。と、犬養孝は記す。

 かとおもえば、この持統天皇は、我が子、我が孫を天皇にするために、皇位継承権のあった大津皇子を死においやるなど自分の血統に激しくこだわった。藤原不比等を重用したのも持統天皇である。

 
左:犬養孝「万葉の旅上巻」、右:今


飛鳥

2010-09-20 21:02:53 | 古代
 犬飼孝の「万葉の旅・上巻」と上原和の「法隆寺を歩く」と梅原猛の「飛鳥とは何か」を持って奈良の旅に行ってきた。初日あすか駅でレンタサイクルを借りて、天武持統陵、高松塚古墳、石舞台、牽牛子塚古墳などの古墳や、橘寺、飛鳥寺などの寺を巡り、甘樫丘(あまかしのおか)の登り、駆け足ならぬ駆けチャリで廻った。



甘樫丘から、真ん中に富士山の形をした耳成山、右手に

 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山 
(巻1-18) 持統天皇

で有名な香久山が見える。写真にはないが左手西方に畝傍山があり、大和三山が一堂に望める。

 この甘樫丘の北側一帯は豊浦という土地で、推古天皇から始まり持統天皇が藤原宮に都を移すまで約100年間政治の中心であった小墾田宮(おはりだのみや)があったとされている。しかし、「飛鳥とは何か」で梅原猛は、その説をとらず、ずっと北の耳成山の東側の大福一帯を小墾田宮とする説を支持している。
 そんなことより、飛鳥はサイクリングで一日あれば回れるほど狭く、どこにでもあるようなのんびりとした田園風景が広がり、有名な飛鳥川もただの小川なのだけれど、そこではかつて、日本で最初の本格的な仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が立てられ、14歳の聖徳太子が蘇我馬子とともに物部を討ち、推古天皇が馬子と太子のトロイカ体制で政治を行い、蝦夷と入鹿は甘樫丘に宮殿を立て、中大兄皇子が鎌足とともに蘇我入鹿を討ち、斉明天皇が土木工事に狂い、柿本人麻呂が大君をめでる歌を詠んだ、唯一無二の場所なのである。 

斉明天皇陵

2010-09-11 17:25:23 | 古代
 斉明天皇陵は、これまで車木ケンノウ古墳とされていたが、発掘中の牽牛子塚古墳(けんごしづか)が八角形だったことからほぼ間違いないという記事が出た。七世紀の天皇陵は八角形が特徴であること、日本書紀に娘の間人皇女と合葬されたという記述があり今回の発掘で石槨(せっかく)が二室に分けられその一つから皇女と同年代の女性の歯が出たことから確定的とされた。ところが、宮内庁は発掘成果を注視はするが、息子の天智天皇は大規模土木工事をしなかったと書記に書かれていることを理由に被葬者の名前が記された墓誌などが出ない限り見直さないという。
  (毎日新聞記事より)

 高松塚やキトラ古墳の北西に位置している。

 斉明天皇は推古天皇のあとの舒明天皇の皇后として、中大兄皇子、大海人皇子、間人皇女を産み、夫が崩御した642年に皇極天皇として即位した。645年の大化の改新を経て同年、弟の孝徳天皇に譲位した。654年孝徳天皇は斉明や中大兄らに難波宮に置き去りにされたことで孤独のうちに崩御し、斉明天皇(皇極天皇が名前を変えて)が再度即位(重祚)した。
 斉明天皇の在世中は、国際的には百済・日本連合軍と新羅・唐連合軍の間で白村江の戦いが起こったり(熟田津に参照)、国内では大化の改新の政変があるなど多難の中、「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)と呼ばれる運河や百済大寺を造るなど大土木建築工事が好きだったと言われる。大化の改新以降は斉明天皇の背後に実権を握る中大兄皇子がいたはずなので、土木工事も中大兄皇子が主導していた可能性が高い。天智天皇になってからは大土木工事をしなかったとされるが、土木工事に対する民の怨嗟を斉明天皇に押しつける天智天皇の深謀かもしれない。
 梅原猛は大化の改新のとき斉明天皇は蘇我入鹿と深い関係にあったと疑っている。多武峰縁起絵巻の大化の改新の場面で、中大兄皇子に切られた入鹿の首が皇極天皇(斉明天皇)に向かって飛びかかっているように見えることもその関係を示唆しているように書いている。(梅原猛著「塔」第四部第二章若き中大兄皇子など)
 661年斉明天皇は、百済救援の遠征途中、北九州で崩御した。

 そもそも現在の天皇陵は明治以降に指定されたもので今回のように誤りも多く、宮内庁が調査解禁の英断をし天皇陵調査が進めば日本の歴史が変わる可能性もあるという。

 来週末、上原和の「法隆寺を歩く」を手に法隆寺へ行くが、明日香にも足を延ばす予定にしている。

地脈を断つ

2010-09-04 09:43:31 | 中国
「小豆とごうか♪、人獲って喰おうか♪、しゃきしゃき~」

 ゲゲゲの女房に出てくる水木しげるの妖怪も柳田国男の山人も宮沢賢治の動物たちも皆、人間が自然の一部であった時代は、人間と区別なくまわりにいた。と、彼らは考えていたらしい。それは遠い昔の話ではなくごく最近のはなしなのである。明治天皇は崇徳院の怨霊封じのために明治初年の即位と同時に京都に白峰神宮を建立している。おそらく天皇家は今も皇居の奥殿で怨霊封じの儀式を続けている。・・・かもしれない。

 ところが、2200年前の司馬遷の史記には超自然現象は出てこない。出てくるのは生々しい人間ばかりである。まだ、史記列伝2巻目が終わったばかりだけど、各列伝の最後の太史公(司馬遷)の批評が抜群なのである。
 李斯(りし)列伝では、始皇帝の死後、”趙高の邪説に加担して、嫡子を廃し、庶子を立てた。諸将の反乱がおこったあとで、やっと強く諫言しようとしたが、なんと本末を誤っているではないか。”と批判する。始皇帝の遺言を偽り嫡子の扶蘇を自害させ、胡亥(こがい=二世皇帝)を即位させた宦官の趙高の策に加担したり、韓非を謀殺し焚書坑儒を行ったり、後世の評判が悪いが、少なくとも始皇帝に天下を獲らせた最大の貢献者であり、”さもなければ李斯の功績は、聖人周公や賢人召公とさえ肩を並べることになろう。”と評価している。世間の評価に左右されない司馬遷のバランスの良さが際立つ。
 李斯の前に秦の宰相だった范雎(はんしょ)列伝では、”長袖は善く舞い、多銭は善く買う”(準備が良い人が成功する)という韓非子の言葉は至言であるといい、準備をしてことに臨む人は多いが、ただ成功するには偶然も重要であると指摘し、”困窮におちいらなかったら、発奮することができたであろうか。”と李斯の努力を評価する。人の業績を単純に評価しないところが、宮刑を受けた困窮の中で史記を完成させた司馬遷らしいのである。
 ”奇貨居くべし”の呂不韋列伝では、”孔子のいわゆる”聞”とは、つまり呂不韋のことをいうのである。”といい、孔子の聞とは、仁を看板にかかげて行動はその逆、しかもそんな自分に疑問すらおこさない有名な人物のことで、その逆の”達”は、まっすぐな性、正義を愛し、注意深く、人に同情があり、謙遜がある人物を指す。
 刺客列伝では、五人の刺客が、”義侠の行ないを成しとげた者も、成らなかった者もいる。けれどもその心ばえは明白であって、志にそむきはしなかった。”と、司馬遷は結果よりも志を評価する。
 秦末の混乱期に台頭した張耳・陳余列伝では、貧しいころ二人は助け合い誠実であったが、のちに裏切りあい残忍だった。自分の利益をはかろうとしたからだと批評する。
 始皇帝の嫡子扶蘇を支えたが、のちに趙高に責められ自殺する秦の将軍蒙恬(もうてん)列伝では、蒙恬が死にのぞんで、自分の罪は長城や道路建設の土木工事で”地脈を断った罪”だと言ったことに対し、司馬遷は、天下が治まって未だ長い時間が絶たず、負傷者たちの傷さえまだ治っていなかったのに、蒙恬は秦の名将軍として、このときにこそ主君を諫言し人民の困窮を救わず、逆に始皇帝の気持ちにおもねって土木工事をおこした。”その罪を地脈を断ったことにおいてよいわけはないのである。”と断罪するのである。地脈は地層の筋道で、これを断つと天罰がくだるという迷信があった。史記に超自然現象が出てこないように司馬遷が迷信にとらわれない現実主義者であったことがうかがわれる。
 
 ”地脈を断つ”仕事(土木工事)ばかりしていると、地球から逆襲を受けていずれ天罰が下るかもしれないのが怖い。司馬遷のようにいつも現実的ではいられないところが普通の人間の弱さなのかもしれない。

鉱山

2010-09-02 07:35:26 | 話の種
 チリの鉱山落盤事故のニュースをリアルに感じられるのは、深さ1000mの鉱山の切羽に立ったことがあることとボーリングや掘削機械に日頃接しているからだと思う。救出のボーリング掘削が始まったが、とにかく順調に掘り進んでほしいと思う。
 
 学生の時、学校の巡検で秋田の鉱山へ行き、1000m近い鉛直のシャフトを一気にエレベーターで下り横坑を歩いて切羽まで行った。僅かな時間だったはずだが、高温と湿気と粉じんの狭く薄暗い坑道から、ほこりまみれ汗まみれで地上に戻りシャワーを浴びたときには生き返った気がした。鉱山会社に勤める先輩が案内してくれたが、そのとき鉱山には就職すまいと思った。地質技術者が坑道の中で鉱石を掘るわけではないのだが、地質技術者の役割などふっとんでしまうほど坑道の中は過酷だった。ほんの小一時間の経験だったが、坑道の中の環境と救出に要する数カ月という時間を考えると自分がチリのシェルターにいたら耐えられないのではと思ったりする。

 狭所恐怖症は英語で”Claustrophobia”という。若い時、シンガポールで通っていた英語学校(Inlingua)の英国人の先生が、自分はClaustrophobiaだと言っていた。シンガポールが狭くて楽しみが少ないことから、そう言ったのである。高所恐怖症は”Acrophobia”で、映画”めまい(Vertigo)”の主人公がこれだった。List of Phobiasが英語版Wikiに出ていたので面白いのを拾うと、”Paraskevidekatriaphobia”fear of Friday the 13th(発音できないくらい長い単語だ)、”Nomophobia”携帯不携帯恐怖症(私の近くにもいる)、”Heliophobia”日光恐怖症(ドラキュラのこと?)、”Tetraphobia”番号4恐怖症(中国人や日本人ではあるまいに英語人が4を嫌う理由がわからない、”Triskaidekaphobia”番号13恐怖症(これならわかる)、”Phobophobia”fear of having phobia(恐怖症になることの恐怖症って、何?)、”Desidophobia”fear of making decision決断恐怖症(どこかの経営者ではなかろうか?)、あとAnimal Phobia、”Xenophobia”外人恐怖症などがある。

 ところで、鉱山はいやだといいながら掘削中の薄暗く息苦しいトンネルに入るような仕事についてしまった。だから、”Workplace phobia”fear of work placeになってしまったのだと思う。

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PS.(2/9/2010)
学生時代に行った秋田の鉱山がどこだったのか気になってネットで探した。
手掛かりは、秋田十和田湖の近く、黒鉱鉱床、閃亜鉛鉱を精錬、深い坑道、昭和52年は操業中、同和鉱業が運営。
検索で引っかかったのは、小坂、花岡、釈迦内、松峰鉱山などで、十和田湖に近い小坂鉱山が有力だ。坑道情報以外はぴったり一致した。坑道情報がないので”1000mの立て坑をエレベーターで一気に”は誇張された記憶かもしれないと思ったりしたが、検索中に知った尾花沢鉱山や生田銀山の坑道深さが1000m規模だったのでひとまず訂正せずに置く。
小坂鉱山の精錬所は今、黒鉱から金属を選鉱する技術をそのまま活かし携帯やパソコンなどの廃棄物からレアメタルを採取している。廃棄物の多い都市鉱山のレアメタル埋蔵量は、自然鉱床と異なり絶え間なく供給があるので、ほぼ無尽蔵と言える。
同和鉱業(今、DOWAホールディング)のりっぱなホームページを見て就職を考えとけばよかったとちょっぴり後悔した。