備忘録として

タイトルのまま

写楽その2

2007-04-15 12:19:13 | 江戸

江戸末期の斎藤月岑による”増補浮世絵類考”で写楽は、
”俗称斎藤十郎兵衛。江戸八丁堀に住む。阿波侯の能役者。”
と記載されている。
これがほぼ唯一の写楽の身元を記録した資料で、類考が写楽の活動期から50年後に成立したことや斎藤十郎兵衛の実在が証明されなかったことが主な原因となり、類考記述の信憑性が疑われたことから様々な写楽が比定されることになったのである。
中野三敏の中公新書”写楽”を羽田空港で買って機内・バス内・自宅風呂場で一気読みした。中野三敏は以前読んだいくつかの写楽本で頻繁に引用されていたので馴染みだったが、直接中野自身の本を手にしたのは初めてだ。私自身、中野や内田千鶴子によって写楽は斎藤十郎兵衛で決着したと考えていたのだが、中野によるとどうも世間はそう簡単ではないようだ。
すでに私が理解していたこと以外に中野の”写楽”で新しくわかったことは、太田南畝から月岑までの類考成立の流れ、写楽の身元を書き記した月岑の人物像を明らかにし類考の信憑性を論証したこと、江戸の人名録”江戸方角分”の八丁堀に住む写楽斎の記述に俗名がない不備は写楽が士分であったことで身元を明かせなかったという推理、”八丁堀図”(1854)に斎藤与右衛門(斎藤家では十郎兵衛と与右衛門が交互に世襲されている)が八丁堀に住んでいたことが確かめられ隣人の証言も残っていることなどだ。類考記事の信憑性を疑う論者たちの根拠は極めて希薄で、中野による論証にはるか及ばない。”江戸方角分”の記述が写楽でなく写楽斎としている不備は江戸時代は知識人であっても当て字を使うなど文字に対しておおらかだったことによるという中野の言い分は学者らしくないと思うかもしれないが、月岑とほぼ同時代人であった泉光院日記の地名や人名も当て字だらけだったことを知っていたのですぐ首肯できた。これが江戸時代人の通癖だとしたら、写楽の落款が違うことで合作説や別人説を論ずる細かい作業は徒労ということになる。
いずれにせよ斎藤十郎兵衛説以外は全く史料がないわけだから別人説は推理小説の域を出ず学術的に立証できないので別人説の提唱者に江戸史や美術史の専門家はいない。


最新の画像もっと見る