備忘録として

タイトルのまま

4年目の3.11

2015-03-14 12:21:03 | 仙台

NHK衛星放送は毎日のように震災特番を放映している。被災者が語る深い悲しみがずしんと響いてくる。

津波に流される中、兄は弟の手を放してしまった。船を津波から逃がすため家を空けた漁師は戻ると家族が家ごとなくなっていた。記録ビデオに残された津波を避けようと歩く老いた父親の最期が形見になった。家に残った自分が助かり指定避難所に行った家族が亡くなってしまった。避難生活の中、病気の母を亡くした娘は母との思い出がいっぱい詰まった汚染地帯の故郷へ一時帰郷する。辛い体験を思い出すので震災遺構を残さないでほしいと願う人、家族の思い出が風化してしまうから遺構を残してほしいと願う人。そこには、被災した人の数だけ後悔と悲しみがあった。

昨日こそ君はありしか 思わぬに浜松が上の雲にたなびく (万葉集 3-444 大伴三中)

昨日生きていた君が今は海岸の松の上の雲になってたなびいている。番組を観ながら突然死んだ友人を偲ぶこの大伴三中の万葉歌を思った。この4年、当事者でない自分も3.11震災に無関係ではいられなかったように、折々に科学技術、先人の教え、政治、文化、精神面などから震災について考えたことを過去のブログを読み返し思い出した。

未だ仮設住宅に住む人は2万人以上、故郷に戻れない避難者はさらに多く、震災復興は道半ばである。それなのに遠くシンガポールに住んでいると、寺田寅彦が『津波と人間』で警告したとおり、月日と共に関心が薄れていくのをどうしようもなかった。寺田は、”地震や津波被害にあった地域の人でさえ月日とともに教訓を忘れ、人間はまた同じ悲劇を繰り返す”と80年も前に警告している。被害を予防するために神戸や東北の震災の日に繰り返し繰り返し警告を発するメディアや学校教育の役割は重要である。終戦記念日に不戦を誓うのも同じことだと思う。

数日前、還暦を迎えた。還暦にこれといった感慨はないが、歳を重ね人生の終盤に入り、このままではいけないという思いは年々強くなっている。松陰が高杉晋作にかけた「君の志は何ですか?」という問いに、「わからん!」では済まない歳なのである。早く第2の人生をスタートしなければという焦りだけがつのっている。


支倉常長

2014-05-25 10:25:23 | 仙台

ドン・キホーテ』の舞台となったスペインのラ・マンチャ地方を支倉常長一行が歩いた1614年、作者のセルバンテスは存命で翌年『ドン・キホーテ後編』を出版する。

先週末、支倉常長展が常設されている仙台市博物館に義母を伴って妻と行った。近くに上の支倉常長像も立っている。

伊達政宗の命を受けた支倉常長がイスパニア(スペイン)国王とローマ法王に会うために、帆船サン・ファン・バウティスタ号に乗って石巻の月浦を出港したのは今から400年前の1613年のことである。船には140人の日本人とソテロ神父ら40人のスペイン人が乗り込んだ。太平洋を渡りメキシコのアカプルコに上陸し、陸路メヒコ(メキシコシティー)でノビスパニア(メキシコ)総督に通商を申し出るが本国の指示がなければ総督が通商を受け入れられないのは明らかだった。そこで選抜された日本人26名が、大西洋岸のベラクルスから、再び船に乗りスペインを目指した。残りの日本人はメキシコに残り使節団の帰りを待った。支倉常長らがキューバのハバナを経由しスペイン南部のグアダルキビル川に上陸したのは翌1614年9月である。そこから陸路セビリア、コルドバ、ラマンチャ、トレドを経てマドリッドに行き1615年1月30日に国王フェリペ三世に謁見する。この時、マドリッドで余生を送っていたセルバンテスは支倉常長一行のことを見聞きしたかもしれない。その後一行は地中海のバルセロナに出て船でローマに向かう。ローマ法王パオロ五世に会うためである。1615年11月3日に支倉らは法王に謁見する。徳川幕府は1612年に禁教令を出し布教禁止、1613年には伴天連追放令を出している。この措置によって高山右近がマニラに追放されたのは1614年のことである。このような日本の事情はすでにローマにも伝わっていたため、洗礼を受けていた支倉一行は歓迎はされたが、政宗の求めた宣教師の派遣や通商許可については保留された。

下の行路図はいずれもWiki スペイン版から拝借した。

仙台市立博物館で買った太田尚樹『支倉遣欧使節 もうひとつの遺産』は、支倉の行路を実際に辿った紀行本である。本には参考文献の索引がないので、以下に列挙した参考資料は本文より出現順に拾った。仙台市立博物館所蔵の資料は主に支倉常長が持ち帰ったもので、スペイン、フランス、ローマにも常長の足跡が多く残されている。

  • セヴァスチャン・ビスカイノの金銀島探検報告 イスパニア太平洋艦隊司令官ビスカイノが1611年に政宗に出会ったときのことが書かれている
  • 政宗から茂庭石見宛ての書状 支倉常長の実父に切腹を命じ常長は追放せよという内容
  • セビリア市歴史博物館に残る政宗からセビリア市に友好関係と通商を求める書 慶長18年9月4日付
  • 仙台市博物館所蔵の常長がヨーロッパから持ち帰った自身の肖像画
  • ボルゲーゼ宮殿内に保存されている法王庁絵師クロード・ドゥルエの描いた常長の全身像 上の帯刀し白い羽織袴を着用した肖像画(Wiki)
  • ヴェネチア国立文書館に残るローマ駐在ヴェネチア大使の報告書に記された常長の風貌
  • 岩倉具視ら欧米使節団がヴェネチアの古文書館で見せられた常長署名入りの書状
  • マドリッドからローマまで常長に同行した歴史学者シピオーネ・アマティの伊達政宗遣使録
  • 政宗からノビスパニア総長直属管区長コミサリオ・ヘネラルに宛てた書状
  • マドリッドの北シマンカス国立文書館にある支倉常長から宰相レルマ公爵宛ての書状 慶長19年8月26日付
  • メディナ・シドニア公爵が枢密院書記官に宛てた書状 常長ら30人が当地に来たと記す
  • ソテロからセビリア市に宛てた書状 奥州王の船をノビスパニアに残し30人のみを同伴してきたと記す
  • セルビアのアルカーサル宮殿に残る記録 常長らが1か月滞在した
  • 仙台藩士・石母田家に残る政宗からイスパニア国王宛て親書
  • フランスのアヴィニョン近くカンパトラの古文書館で見つかった4点の日記 使節は南フランスのサン・トロペのコスペ未亡人宅に2泊した
  • ローマのクィリナーレ宮殿の王の間にある常長ら5人とソテロを描くフレスコ画
  • 聖フランシスコ派神父アンジェロ・リボルタの日本奥州の大使による法王謁見顛末記 法王謁見の様子
  • 法王庁式武官パウロ・アラレオネの法王パウロ五世在位日記 法王謁見の様子
  • 法王庁式武官パウロ・ムカンチの式部職日記 法王謁見の様子
  • ローマ駐在のイスパニア大使カストロ伯爵からイスパニア国王に宛てた書簡 法王謁見の様子
  • 政宗のローマ法王宛て親書 慶長18年9月4日付

支倉常長は法王謁見後、スペイン、メキシコ、フィリピンのマニラを経由し長崎に入り、仙台に戻った。月浦出航から7年後の1620年のことである。

太田尚樹の本の後半は、スペインのセビリア市近郊のコリア・デル・リオ中心に住むハポン(japon)姓の人たちが、スペインに残った支倉使節の末裔ではないかという話が中心になる。スペインのハポンさんたちがサムライの末裔かどうかの結論はDNA鑑定に任せるとして、一番知りたかった帰国後の常長にはまったく触れていなかった。洗礼を受けた支倉常長にとって禁教下の仙台は住みにくい土地だったと思う。帰国2年後、常長は失意の中死去したと伝えられる。帰国後の常長については別途追求してみたい。 


日和山

2014-05-24 14:19:17 | 仙台

芭蕉は『奥の細道』で松島を訪れたあと、平泉を目指すが、”つひに道踏みたがえて石の巻といふ港に出づ。”と道を間違えて石巻に行ったように書いている。しかし、同行の曽良が事前に準備した『名勝備忘録』には石巻の歌枕がある上、同じ曽良の『随行日記』に松島から道ずれになった武士から石巻の宿を紹介されたとあるので、石巻訪問は当初から予定に入っていたらしい。

”金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそいて、竈(かまど)の煙立ち続けられたり。”

芭蕉は石巻の日和山(ひよりやま)から、金華山を海上に見、北上川の河口には数百の廻船が集まり、隙間なく建つ人家のかまどから煙が立ち上っていると記す。

先日5月17日、3年半ぶりに仙台の義両親のご機嫌伺いに行った。震災の2か月前に仙台に行って以来である。この時期つつじがきれいだと言うので震災痕を見ることも兼ねて石巻の日和山に行った。下の写真は芭蕉と同じように日和山から”海上を見わたし”たものである。写真の左手、遠くにかすむ島は石巻沖の田代島で、金華山は牡鹿半島の陰に隠れ日和山からは見えない。芭蕉は田代島を金華山と勘違いしたとは思えないので心象上で金華山をみたのだと思う。芭蕉は旅立ちのときにも深川から見えるはずのない”上野・谷中の花の梢”を今度またいつか見ることができるだろうかと書いているように、曽良の日記とは矛盾する想念や心象風景を描く。これをFraudとかDistortionとかExaggerationなどと評価されたら文芸の創作者はたまったものじゃない。

日和大橋のある日和山を南に降りたあたりは、芭蕉の時代からずっと”人家地をあらそいて竈の煙立ち続けられたり”というほど人家が密集していたはずなのに、道路と宅地の土台と、廃屋が1件だけぽつんと残されていた。背後の日和山上には民家が密集し無傷である。こうしてみると、日和山南面斜面が被災地、非被災地の境界であり、死生の境界だったと思わずにはいられない。

下の地図は仙台藩が1645年に作成し、元禄年間(1688~1708)に模写した奥州仙台領国絵図(仙台市博物館所蔵)から石巻周辺を抜き取ったものである。芭蕉が日和山を訪れたのは元禄2年(1689)なので、この地図は芭蕉が訪れた石巻周辺を表していると考えていいと思う。石巻村と門脇村が北上川と日和山の間、すなわち日和山の東の北上川河口に面しているが、現在の石巻中心街は日和山の北西に広がる。上の写真と地図の廃屋付近の地名が門脇町で当時の地名を残している。地名は残すが町は津波で消滅してしまった。

日和山のつつじは満開だった。芭蕉が日和山に登ったのは旧暦5月10日すなわち陽暦の6月26日なのでつつじはもう散っていたのではないかと思う。日和山には芭蕉と曽良像以外にも、ここを訪れた宮沢賢治、石川啄木、種田山頭火斉藤茂吉らの詩碑、歌碑が建っている。賢治は中学校の修学旅行で盛岡から北上川を下ってきて日和山に登り、その時の詩を残している。石川啄木も修学旅行で日和山を訪れ詩をつくっているので、明治後半当時の盛岡あるいは岩手県では北上川を下る修学旅行が定番だったようだ。斉藤茂吉は1931年に日和山を訪れ歌を詠んでいる。山頭火はわざわざ芭蕉と同じ旧暦5月10日にここを訪れ歌を詠んだように、彼が芭蕉あるいは奥の細道に傾倒していたことがうかがわれる。

 


惜別

2013-11-08 05:56:22 | 仙台

苦節9年、やっと楽天ゴールデンイーグルスが日本一になった。思えば2005年8月、シンガポールから一時帰国し創設したばかりの楽天イーグルスの試合を仙台で観た。西武ライオンズとの試合は僅差で9回まで進み、さよなら逆転のチャンスに出てきた代打は1割バッターで案の定負けた。創設年の8月はたしか2勝15敗だったので勝試合に遭遇するのは宝くじにあたるようなものだった。その時、楽天ファンになるぞとエンジ色の野球帽を買った。学生時代は阪急ファンで、当時の阪急は名将西本監督のあとを継いだ上田監督のもとめっぽう強かった。仙台をサブフランチャイズにしていたロッテとの試合を宮城野球場で見たことがある。その時の阪急のピッチャーはサブマリン投法で一世を風靡した足立だった。ロッテファンの中でひとり阪急を応援したことを思い出す。

骨格構造的に上手投げは肩の関節に負担がかかる無理な投球法で、下手投げは自然で負担はかからないと聞いたことがある。その所為か北京オリンピックでソフトボールの上野が2日3試合で413球を連投したときも批判は起きなかった。田中マー君はこれからMLBに行くのにあんなに投げていいのかと心配した。日本からMLBへ行ったほとんどの投手は肩やひじを壊しているので、日本での肩の酷使が影響しているのだろうか。MLBではRed SoxがWorld Seriesを制した。上原と田沢の活躍は1試合ずつ丸ごとYoutubeにアップされていたのでたっぷり鑑賞した。1点差やピンチで投げる上原の制球力と精神力には感服した。

さて、楽天イーグルス優勝ということで仙台の話題をネットサーフィンしていたところ、魯迅の「藤野先生」という小説に遭遇した。藤野先生は魯迅が1904年9月から1906年3月までの1年半留学していた仙台医学専門学校(現東北大学医学部)の当時の解剖学教授である。中国からの留学生である魯迅に目をかけ、講義ノートを熱心に添削してくれたことを後日「藤野先生」という短編に書いている。藤野先生は魯迅が2学年で医学校を中退し仙台を去るときに、自身の写真の裏に”惜別”ということばを添えて送る。

その写真は北京の住居の壁に張り付けてある。夜ごと疲れて怠けたくなる時に顔をあげて先生の黒い顔をみるたびに今にもあの抑揚のきつい口調で話しだすようで、忽ち私は良心を目覚めさせられ、そして勇気を奮い立たせられるのだ。

只有他的照相至今還挂在我北京寓居的東墻上、書棹対面。毎当夜間疲倦、正想偸懶時、仰面在灯光中瞥見他黒痩的面貌、似乎正要説出抑揚頓挫的話來、便使我忽又良心発現

魯迅が小説「吶喊」に書いた日露戦争時に日本軍に捉えられ公開処刑される中国人スパイを中国人の群集が無表情で見つめる幻燈を授業で見る話が短編「藤野先生」にも出てくる。幻燈を見て笑う日本人の同級生の中で青ざめて沈思する魯迅の姿が目に浮かぶ。この”幻燈事件”は、医学で体を治すより自国民の精神を直す方が大切だとして魯迅が文芸運動を起こすきっかけになったと言われる。

太宰治は、魯迅の「藤野先生」を題材に「惜別」という小説を書いている。青空文庫にあるので全編読むことができる。

魯迅の同級生である東北の田舎町出身の学生を語り手にして、仙台、塩釜、松島などの名所旧跡を舞台に、日露戦争を時代背景とし、中国人留学生の異国での孤独、自身の生き方への葛藤、周囲の日本人との交流が描かれる。主人公の東北人の方言に対する劣等感も描かれていて、これは津軽出身の太宰の屈折した感情の反映だと思う。藤野先生への感謝と期待に答えられなかったという申し訳なさを胸に、いつも自分を奮い立たせている魯迅の思いが、「惜別」という題から想像して当然抒情的に書かれていると期待していたのだが、この小説からは感じられなかった。太宰は、”幻燈事件”が医学を捨て文芸に入ったきっかけとなったとされていることに対し、魯迅はすでに文学に身を置こうと決めていて、それは小さなきっかけでしかなかったと長々と理屈っぽく述べている。魯迅のカンニングを糾弾する同級生も基本的に善人であり、異国民に対する差別はなかったかのように書かれている。

この小説は内閣情報局と文芸報国会の委嘱で書かれたものであると「惜別」の末尾に書いてある。文芸報国会は1942年に国策の施行実践に協力することを目的に設立された作家団体であることを考えると、中国人に親切な日本人と言う構図は、当時にあっては”国策の施行実践”に沿った内容のような気もする。太宰は、「惜別」は一作家の責任で書いたもので、(当局により)一字半句の訂正もなかったと書いている。太宰の思考がすでに体制派だったのか、日本人は善人だと無邪気に思っていたのか、太宰の当時の活動や作品を知らないので何とも言えない。 

話は変わるが、中国の国家主席だった江沢民は1998年の日本訪問の際、仙台まで足を延ばし魯迅が授業を受けたという東北大学の医学教室や魯迅像を訪れている。訪日時は歴史認識で日本批判を繰り返した江沢民だったが魯迅の足跡を訪ねることで日中友好のバランスを取ろうとしたのかもしれない。


末の松山 波越さず

2011-05-29 22:59:54 | 仙台

契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは    (清原元輔)

 多賀城の末の松山を津波が越えたか気になっていて、機会があれば仙台に行って確認しようと思っていたが、結局行けなかった。今の世の中便利なもので、Youtubeにちゃんと現地へ行ってみてきた人のビデオ投稿があった。表題の通り津波は越えず末の松山は無傷で木の下の椿がきれいに咲いていた。わずか60mのところにある沖の石は池にタイヤなどの津波の残骸が散乱し無残な姿になっていた。下記の公表されたデータを見ても津波は末の松山をかろうじてかわしている。(赤が津波の範囲)

下は黄色の範囲の拡大図

 末の松山のあるところは周辺が赤に染まっているのに、奇跡的に津波から免れている。国土地理院の地形図を見ると、沖の石など周辺が標高2mばかりであるのに比べ末の松山付近は数m程度小高くなっている。”末の松山を波が越すということがありえないように、二人の間の恋は永遠で心変わりしない”という清原元輔の歌の根拠は今回の震災でもくつがえらなかった。清原元輔(清少納言の父親)は908~990年生没で869年の貞観の大津波から100年ほどあとの人である。末の松山を詠んだ歌が初出する古今和歌集(905年奏上)は貞観津波からどれほども経っていないので、貞観津波が末の松山を越えなかったという伝承が都に伝わり多くの歌が生まれたというのが妥当な解釈だと思う。しかし、逆に津波が越えた伝承から歌が生まれたと解釈する人もいるらしい。清原元輔の元歌と言われる古今和歌集の東歌”きみをおきて あだしこころを わがもたば 末の松山 波も越えなむ”から、波が越えたと解釈する。しかし、これは、”うわきごころを起こすなど、末の松山を波が越えるほどありえない。”という意(古文の反語)で、越えないことを前提としているのは明らかだと思う。

 仙台平野の地質調査で貞観津波をはじめ津波の痕跡を示す砂層が複数確認され、1000年ごとに大津波が発生しているという研究成果が東北大学の広報誌「まなびの杜」2001年夏16号の箕浦教授”津波被害は繰り返す”という特集(http://web.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi16/mm16-45.html)で報告されている。津波シミュレーションで有名な今村教授による貞観津波のシミュレーションから相馬を中心に福島沿岸を大きな津波が襲うことが推定されている。さらに貞観津波から1100年が経過しており、津波はいつきてもおかしくないと警告する。以下特集から抜粋。

”仙台平野の表層堆積物中に厚さ数㎝の砂層が3層確認され、1番上位は貞観の津波堆積物です。津波堆積物の周期性と堆積物年代測定結果から、津波による海水の溯上が800年から1100年に1度発生していると 推定されました。貞観津波の襲来から既に1100年余の時が経ており、津波による堆積作用の周期性を考慮するならば、 仙台湾沖で巨大な津波が発生する可能性が懸念されます。”

結果的に10年前の研究成果が活かされなかったということである。科学者の研究を活かすも無視するも為政者や当事者の問題意識次第ということである。おっと大事なことを忘れるところだった。末の松山を貞観津波が越えたか越えなかったかが文学史上、論争になっているのなら、箕浦教授に頼んで掘って砂層があるかどうか確認してもらえばいいのだ。


3月11日14時46分

2011-03-26 09:47:34 | 仙台

そのとき地下鉄半蔵門線に乗っていた。電車が急停車し、その後、車体が左右に大きくゆっくりと揺れた。長い揺れが収まって時間をみると14時49分だった。三陸沖からの地震波到達時間を考えても2分余り揺れていただろうか。電車は最寄の清澄白河駅まで徐行したあと運行停止となり駅の外に追い出された。清澄白河駅から錦糸町まで歩いたが、その間も余震は断続し周囲のビルや電柱が大きく揺れた。余震での地表の揺れは大きく、地下鉄内での揺れの方が小さかったように感じた。ビル上階の揺れは相当なものだったらしい。錦糸町までの道中、水道管が破裂したのか水が噴き出すビルや外壁のタイルがはがれたビルや棚のものが落ちて店内がめちゃくちゃになった店舗があった。三陸沖でM8級の大きな地震があったということと津波で相当な被害が出ていることがわかってきたので、仙台の妻の実家と友人の携帯に電話したが通じずメールを入れておいた。妻の実家は仙台市泉区の高台にあり津波の心配はなかったが友人は津波被害の大きい相馬で勤務している。友人から返事が返ってきたのは翌日だった。相馬の勤務先は高台に立つ8階建てのビルで津波には遇わなかったが仙台まで海岸沿いを避け5時間かけて車で帰ったということだった。仙台の実家から無事という連絡が入ったのは二日後で、家の中のものはひっくり返り電気水道ガスは全滅ということだった。

 当日は電車が止まったため、錦糸町から自宅まで約3時間をかけて歩いた。20時過ぎに荒川にかかる西新井大橋を渡っていた、ちょうどそのとき津波に遭遇した。”ざぁ~”という大きな音で欄干から川を覗き込むと、暗闇の中を白波が一列になって遡上するのが見えた。

妻は1978年の宮城県沖地震(M7.9)を経験している。勤務先にいた妻は震度5の揺れに立っていられなかったという。結婚前のことで、私は妻に会うため前日まで仙台にいたが、その日は東京に戻っていた。まだ携帯がない時代で、公衆電話から何度も妻の実家に電話をしたがつながらなかったことを思い出す。この地震では無筋のブロック塀が倒れて犠牲者が出たことと八木山の造成団地の切り盛り境界が崩壊したことが問題になった。津波被害はなかったと思う。

 地震発生から2週間経ったが、被害規模は拡大を続け、原発と放射能汚染は深刻さを増している。この間にシンガポール出張が入り、3月16日の成田空港までの電車は余震で2度緊急停車をし、通常1時間半の道のりが3時間近くを要した。成田空港は国外に避難する外国人でごった返し、手荷物検査には長蛇の列ができ、通関までに1時間以上かかった。シンガポールの新聞ストレートタイムズは日本の災害記事で埋め尽くされていた。最大の関心事は放射能で、福島原発で事故処理にあたる50人を称賛する記事やシンガポールは十分遠いので放射能が拡散してくることはないという記事やシンガポールの食料や水は安全だという記事が目を引いた。中国発の放射能に塩が有効だというデマが流布した所為でスーパーマーケットの塩が無くなっていた。帰国は21日だったが行きとは違い機内はがらがらだった。

 機中映画は、津波の場面があるため被害者感情に配慮し上映が延期(中止?)されたクリント・イーストウッド監督の「Hereafter」2010を観た。津波に巻き込まれ臨死体験をしたフランスのニュースキャスターの女、霊と交信できることが負担となり厭世的に生きるアメリカの男、双子の兄を亡くし立ち直れないイギリスの男の子の話が別々に進行するが、最後は偶然に出会った3人がそれぞれ癒される。ニュースキャスターが自分の体験を出版するため、スイスのホスピスの女医(セラピスト?)から資料を借りる場面が出てくるが、明らかに「死の瞬間」の著者キューブラー・ロスをモデルにしている。マット・デイモンが死んだ双子の兄の言葉を借りて弟をさとす場面はぐっとくる。最愛の人を亡くした喪失感はあまりに大きいが残されたものは前を向いて生きるしかない。この映画は上映すべきだと思う。出演:マット・デイモン、セシル・ド・フランス ★★★★★

「奇蹟の輝き」1998 監督:ビンセント・ウォード、出演:ロビン・ウィリアムズ、アナベラ・シオラ 次々と襲ってくる家族の置かれた状況は痛ましく天国で再会しても救われた気持ちにはならなかった。ダンテの「神曲」のように天国と地獄を見せることが目的の映画なのか?★★☆☆☆

「ハリーポッター死の秘宝Part1」も観たが、Part2を観る頃には忘れてると思う。Part2を観てから併せて寸評することにする。

地震の前にアカデミー賞を取った「King’s Speech」を映画館で観た。その映画館は地震で被害を受けたらしく2週間たった今も閉鎖中である。被災地の宮古市の映画館が開演したというのにどうしたんだろう。第5グループはなぜか輪番回数が多いという計画停電の所為かも。

「King's Speech」2010、監督:トム・フーバー、出演:コリン・ファース、ヘレナ・ボナム・カーター、ジェフリー・ラッシュ 吃音のジョージ6世とそれを矯正しようとする先生の話。最後は素晴らしいスピーチで締めくくること、しかもイギリス人には馴染の既知のスピーチをすることなど、映画を観る前から結末がわかっているにもかかわらず、スピーチで観客を感動させたコリン・ファースがオスカーを取ったのは妥当と思う。ジョージ6世を懇親的に支える王女役のヘレナ・ボナム・カーターは、ハリーポッターでシリウスを殺す憎たらしい魔女ベラトリックスを演じており、プロの女優の演技はすごい。★★★★☆


末の松山

2011-01-15 23:48:50 | 仙台

”それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相(いりあい=夕暮れ)のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が島(まがきがしま=塩釜の沖合の島)もほど近し。蜑(あま=漁師)の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとど哀也。其夜目盲法師の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。”

芭蕉と同じように多賀城碑をみたあと、末の松山や沖の石の歌枕を見に行った。

契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは    (清原元輔)

作者の清原元輔は10世紀の人だが、彼の歌には本歌、「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」古今和歌集・東歌がある。905年に編まれた古今和歌集は過去140年間に詠まれた歌を収録した歌集なので末の松山の松はもっと古い。芭蕉が末の松山を尋ねたのは元禄2年(1689年)の約320年前である。もしも芭蕉がみた松が歌枕当時の松だとし、今ある松もそのままだとすると、優に1100年の樹齢ということになる。ネット情報では、樹齢400年の松の幹回りが4~5M、600年が7Mという記録があり、今の松の幹回りは3Mあるかなしかなので、芭蕉が見た松でさえないのではと無粋な詮索をしている。末の松山も沖の石もかつては波打ち際にあったはずだが、今は少なくとも2㎞は海辺から離れている。末の松山から数十Mのところに沖の石の歌枕がある。

       わが袖は 潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし  (二条院讃岐)

この沖の石は写真のようにコンクリート擁壁に囲まれた住宅地にあって風情も何もない。
芭蕉の言う野田の玉川も近くにあるはずだがコンクリートで固められた川になっているようなので行かなかった。

多賀城碑

2011-01-10 22:45:36 | 仙台
成人式の連休は仙台へいく用があったのでついでに多賀城碑を見に行った。多賀城政庁跡などのある広い丘陵の一角の小さな祠の中に碑は納められていた。
碑文の天部には”西”の文字が彫られているが、そのとおり碑は西向きに建てられていて、祠の屋根にも東西南北が示されている。3連休の中日だったが、寒い日だったためか観光地としては地味すぎるのか訪れる人はほとんどなく、カメラを片手にした学生らしき若者がただひとりの同行者で、祠の北の政庁跡から多賀城碑までいっしょだった。
多賀城碑の碑文は高さ約2mで、研磨され滑らかそうな平面に彫られているが裏側は自然石のままだった。
8世紀の日本最古級の金石文を見られて幸せだった。日本3古碑というものがあり、多賀城碑、那須国造碑、多胡碑がそれである。那須国造碑は700年に国造になったことを顕彰して建てられた碑で栃木県大田原市にある。また、多胡碑は8世紀に群馬県高崎市にあり多胡郡を設置したことを記念して建てられたと言われる。伊予国風土記逸文に聖徳太子が病気療養のため僧恵を伴い596年に道後に滞在し記念に碑を残したことが記録されているが碑そのものは現存しない。

大倉ダム

2010-04-30 21:26:28 | 仙台

 伊坂幸太郎原作の映画「重力ピエロ」は仙台を舞台にしているので、「ゴールデンスランバー」と同じように馴染みの地名がたくさん出てきた。特にこの映画は仙台各地で放火事件が発生し、「小田原」、「東照宮」、「木町通」、「霊屋橋(おたまやばし)」、「連坊小路」など馴染みの地名が満載だった。最初の放火現場の小田原二丁目は、学生時代下宿していた小田原八丁目のすぐ近くであり、放火の何番目かの霊屋橋はよくランニングをした場所のため、どこか見慣れた場所はないかと目を皿のようにして探した。結局、馴染みの建物や目印は見つからなかった。ただひとつ、主人公の兄・泉水が男を誘い出そうと計画するために開いたネット上の空中写真にはっきりと上の写真のダブルアーチダムが見え、即座に大倉ダムだとわかった。
 広瀬川の上流に位置する大倉ダムは日本に二つしかないダブルアーチ式コンクリートダムで、学生時代バイクのツーリングで友人と行った。そのときに見たダムは雄大だった。その頃は自分が後日、ダムを始めとした土木構造物に関わる仕事につくことなど想像さえしていなかった。大学のキャンパスもロケに使われたらしいが、泉水が通う研究室ではDNA分析をしているので、北四番町の医学部か青葉山の上にある理学部生物学科のどちらかのはずだ。
 ”重力ピエロ”2009年 監督:森淳一、脚本:相沢友子、出演:加瀬亮、岡田将生、小日向文世、鈴木京香 あの父だからこそ生み育てることを決断したのだが、それが正しい選択だったのか最後まで疑問を持ち続けながら観た。命とは家族とは人間とはという命題は重い。”ゴールデンスランバー”より惹きこまれた。伊坂作品を読みこんでいる妻は原作の方がいいと言った。映画をみながらうたたねをしたにも関わらずの妻の意見だったが、伊坂作品をひとつも読んでない私には反論のしようもなかった。★★★★☆


多賀城

2009-10-24 15:29:38 | 仙台
仙台の隣の多賀城は、大和朝廷が蝦夷を制圧するために建てたと習ったので、柵をめぐらした砦(砦といえば中学時代映画で見たアラモ砦のようなもの)という印象を持っていたが、資料を見ると南辺約870m、北辺約780m、西辺約660m、東辺約1,050mという広大な面積を持ち、西の太宰府に匹敵する寺や政庁を伴っていたようだ。多賀城には、城の場所と由来を記した8世紀の石碑が立っている。(写真 多賀城市観光協会HP http://tagakan.jp/rekishi/index-emishi.html)

多賀城 去京一千五百里 
    去蝦夷国界一百二十里 
    去常陸国界四百十二里   
    去下野国界二百七十四里 
    去靺鞨国界三千里

西  此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将
   軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
   也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
   節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
   府将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也
             天平宝字六年十二月一日

前半は、この城からいろいろな国までの距離で、京から1500里、蝦夷との境界から120里、靺鞨国(まっかつ)から3000里とあり、靺鞨国は、沿海州にある渤海国のことである。後半は城の由来で、城は大野東人(あずまひと)が神亀元年(724)に建て、藤原朝獦(あさかり)が天平宝字6年(762)に修造したものと記す。

芭蕉は、「ここに至りて疑いなき千載の記念、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の喜び、羇旅(きりょ)の労を忘れて、涙も落つるばかりなり」と、奥の細道で涙を流して感動した石碑なのだが、実はこの石碑は芭蕉が疑いなきと思っている”壺の碑”ではないのである。

”壺の碑”とは、坂上田村麻呂が青森県上北郡天間林村に建てたと伝えられる石碑で、弓の筈で”日本中央”と書きつけてあったという。

西行がみちのくに旅する前に詠んだように、壺の碑は西行の時代(1150年頃)には歌枕になっていた。

陸奥の奥ゆかしくぞおもほゆる 壺の碑そとの浜風

白洲正子はその著「西行」のなかで、多賀城を訪れ壺の碑を見たと書いているが、これは芭蕉が勘違いした碑であり、西行の壺の碑ではないのだ。

多賀城の碑は、壺の碑ではないのだが、天平宝治6年に建てられたものでもないという偽物説がある。この碑は芭蕉以前の江戸時代に土の中から発見されたことや書体や碑文の彫り方など理由にもならない理由によるという。
梅原猛は「日本の深層」のなかで、天平宝治6年は藤原仲麻呂の息子である藤原朝獦とその兄弟が異例の昇進を遂げた年であり、2年後には一族すべてが失脚するという権力の危機の兆候があらわれたころであることから、”この碑文には当時の人間たちの大変微妙で複雑な感情があらわれーーーー、後世、こんな手の込んだにせものをつくるはずがない”とする。
一方、司馬遼太郎は、「街道をゆく仙台・石巻」で、靺鞨国界三千里に注目し、”偽作とすれば、江戸時代の人にこういう感覚があるだろうか”と述べ、梅原も司馬も本物派である。神亀4年に渤海(靺鞨国)使が初めて来日したことが続日本紀に書かれている。

「日本の深層」は、人類学的に日本人と同じモンゴロイドであるアイヌ(=蝦夷)は弥生時代以前、日本全域にいた縄文人であり、、アイヌ語と日本語、アイヌの宗教と日本の宗教は深く繋がっていることを、アイヌの風習が色濃く残る東北を旅しながら明らかにしようというものである。
その中で以下の新知識を得た。
1.中尊寺金色堂の藤原3代のミイラは、仏教にミイラを作る風習はないのでアイヌの風習ではないか。古墳時代の殯(もがり)もアイヌ(=蝦夷)の風習かもしれない。
2.高橋富雄説は、倭の国が日本の国を合わせて日本を名乗ったという旧唐書の記述は、蝦夷を征服した西の倭が蝦夷の国号である日本を名乗ったと解釈する。古田武彦説は、白村江(663年)で敗れ衰微した九州王朝(倭)を大和朝廷が700年頃に合わせて日本を名乗ったとする。

安達太良山

2009-10-21 17:09:07 | 仙台
大学1年の夏、安達太良山に登ったことがある。1000m以上の山で頂上まで登ったのは、この安達太良山(1699m)と高校の時に登った徳島の剣山(1955m)しかない。ところが、剣山登山のことは鮮明に覚えているのだが、安達太良山の記憶が希薄なのである。山頂の風景やどこから山に入ったのかさえ覚えていないのだが、登山したことだけは確かなのである。福島の飯坂温泉に泊まった記憶、クラブの先輩が膝の靱帯損傷にも関わらず登山に参加し痛みでしょっちゅう顔をしかめていたこと、小石だらけの急崖をはいのぼる記憶など断片的な記憶があるのだ。

あれが阿多多羅山
   あの光るのが阿武隈川

有名な高村光太郎の「智恵子抄 樹下の二人」(大正12年)の書き出しである。

安達太良山は智恵子抄で有名だが、万葉歌にも詠まれている。

  安達太良の 嶺に臥す鹿猪の ありつつも 我は至らむ 寝処な去りそね
                          東歌 (巻14-3428)
犬養孝は「万葉の旅」で、「”あれが阿太太羅山”と指すまでもなく、東南に大きく開いた裾野の大観には”嶺に臥す鹿猪”も思うことができる」とし、智恵子抄の一節を借りて歌の情景を描写している。
   
梅原猛の東北紀行をまとめた「日本の深層」の中に、「光太郎の自虐」という章がある。高村光太郎は戦争末期の昭和20年4月に宮沢賢治の父の家に疎開したが、そこも焼けて、”聞きしにまさるひどい”山小屋に移った。戦争が終わり疎開していた人々は皆都会に戻ったが、なぜか光太郎はこの厳寒の地に昭和27年まで一人留まった。智恵子は昭和13年に死んでいるのだが、光太郎はここで智恵子とともに生きた。遠野物語で柳田国男の語るこの世とあの世の男女の愛の話のようなところがある。彼ほど有名な彫刻家で詩人なら都会で裕福に暮らせたはずなのに、あえて一人ここに留まったのは、智恵子とともに生きたことだけでなく、戦時中、戦争肯定の歌を高らかに歌ったことに対し自分を罰しようとする心があったからだ。と梅原は推論する。
そういえば、梅原が「水底の歌」でこれでもかと非難した斎藤茂吉も戦争賛歌を歌っている。
「日本の深層」では、アイヌ語が日本語とは系統の違う言語だと結論付けた金田一京助をやり玉にあげ、金田一はアイヌ語研究の息の根を止めたと非難する。梅原に非難された学者は、他に、聖徳太子のような超人的な事績を残す人物は存在しないとする凡人史観の津田左右吉、津田左右吉史観を受け継ぐ井上光貞、円空を過小評価した飯沢匡と五来重らがいる。梅原の舌鋒は鋭く厳しい。「空海の風景」を批判したため司馬遼太郎と絶縁状態になったことも以前書いた。だから梅原はやめられない。「日本の深層」が終わったので、「戦争と仏教」を読み始めた。

松島

2009-09-05 19:47:31 | 仙台

梅原猛の「歓喜する円空」に円空仏が瑞巌寺にあるとあったので、仙台に来たついでに何年ぶりかで松島へ行った。瑞巌寺の宝仏殿の地下へ降りた階段脇のガラスケースの中に円空仏はあった。像は欅の根っこの部分で作られたもので、岩座の上に座った像である(梅原猛)。写真撮影が禁止されていたので、梅原本が引用していた辻惟雄氏の描写を再引用する。
”像は禅定印を結び結跏趺坐(けっかふざ)するかたちで、印相から見て、釈迦如来像と考えられる。頭には羅髪(らはつ)がちょうどパイナップルの表皮を思わせるような特徴あるきざみであらわされ、顔はふっくらと大きな丸顔で、(頭長23.3cm、面長14.2cm、面奥17.6cm)刀の痕を残さず磨き上げられ、眉の上下瞼が美しい弧線をなして刻み込まれている。口許にはかすかに微笑が浮かび、そのあたりから頬・顎にかけてのモデリングは可愛らしく捨てがたい。ただ、このお顔は、痛ましいことに、眉間から鼻、口にかけて削がれ傷ついている。”

像の頭や顔は辻の描写のとおりだった。眉間に左から右下にかけて長さ数cmの切り傷が2条あり、鼻と唇がそぎ落とされ、横から見た顔は額から顎までのっぺりとしていて、何とも痛々しかった。朽ちかけているのか元から朽ちた木を使ったのか、胸や背、肩の何箇所かで木の繊維が筋となって浮き出ていて、岩座の裏は大きく窪んでいる。円空は生々しさを残した素木にたくさんの仏像を彫っているので、もとから朽ちていた木を使ったのだろう。円空仏の背によく見られる梵字は見当たらなかった。
宝物殿の説明書には、寛文7年頃に北海道からの途次にここに立ち寄って彫ったとあった。

松島への初訪問は、1973年大学に入ってすぐの4月、仙台から松島までの30km余りを夜通し歩く新歓イベントで、写真の五大堂で缶ビールを片手に朝陽を拝んだ。帰りは松島海岸駅から電車で帰った。その後は、ルートマップと層序の地質踏査の初歩を学ぶフィールド授業で訪れ、結婚前の妻と松島湾で手漕ぎボートに乗り、結婚後は子供たちと松島水族館でラッコやオットセイの曲芸を見、友人と精進料理を食べに行くなど、その他何回となく訪れている。瑞巌寺は学生のとき一人で原付バイクに乗って訪ねたが、政宗が甲冑を着た両目を開いた像と岩窟を見た記憶しかない。今回。松島湾に手漕ぎボートは見当たらなかった。



この岩窟で僧侶が修行をしたという。岩窟は第三紀の凝灰岩に穿たれたもので、この凝灰岩は五大堂の下の崖を始め松島湾に浮かぶ奇岩や島々を構成し、学生時代に層序の勉強をした地層でもある。

松島の瑞巌寺は、828年の円仁による開山で天台宗延福寺であったのが、1259年に臨済宗円福寺に改宗、その後妙心寺派となり、1609年政宗により瑞巌寺と改名し竣工、以後伊達家の菩提寺となる。本尊は聖観音菩薩。
徳島の瑞巌寺は初代藩主蜂須賀至鎮が弟義英の菩提のため1614年に臨済宗妙心寺派の一顎禅師による開山であるが、本尊はなぜか切支丹灯篭(Wiki)。
同じ宗派で同じころに開かれた同名の2寺が無関係ということがあるのだろうか。三重県松阪市には空海が開山した浄土真宗の瑞巌寺もあるので、めでたい(瑞)名をつけたら、たまたま同じになったと見るべきか。