備忘録として

タイトルのまま

七人の侍

2007-01-21 10:36:07 | 映画
寅さんのことを書いたついでに映画の話。
私が黒澤明の”七人の侍”を始めて観たのは高校の文化祭の時で、映画部(研究会?)が文化祭の催しとして、どこかから借りてきたフィルムを離れ校舎の一室で上映したものだった。記憶は曖昧だが柔道場か剣道場に椅子を並べ2~3m幅のスクリーンを壁に立てかけただけの簡易映画館だったが、物語に引き込まれ活劇の迫力に釘付けになっていた。それまでは洋画ファンを自認し、徳島城公園近くの徳島ホール、紺屋町のOS劇場、東新町の松竹ピカデリーなどの映画館に足繁く通っていた。黒澤のくの字も知らず文化祭で時間つぶしに観た”七人の侍”は黒澤明だけでなく邦画にも目を向けるきっかけになった。ただ当時の邦画界は衰退の一途を辿っていて、テレビ放映も少なく、高校時代に映画館で観たのは黒澤明の初カラー映画”どですかでん”だけだったと思う。なぜか洋画専門館で上映されていた。”七人の侍”並の面白さや活劇を期待していただけに市井の底辺で生きる人間模様と言われても何が面白いのかピンとこなかった。”七人の侍”を始めとして”隠し砦の三悪人””用心棒””椿三十郎””赤ひげ”はビデオまで買って繰り返し見るのだが”どですかでん”は初見以来触手が動かない。七人の侍の裏話はマレーシアで買った英語版DVDのSpecial Featureと都築政昭”黒澤明と七人の侍”で繰り返し楽しんでいる。
高校時代は部活や受験勉強で忙しく、かつ小遣いも少なかったはずなのだが結構映画館に通っていたのが不思議だ。”ロスト・ホライズン””ある愛の詩””チップス先生さようなら”は本も読んだ。当時人気のあった女優は”ブリット”のジャクリーン・ビセット、”明日に向かって撃て”のキャサリン・ロス、”ロミオとジュリエット”(未見)や”ロスト・ホライズン”のオリビア・ハッセイで、友人と贔屓を自慢しあったものだ。性格俳優のフェイ・ダナウェイやキャンディス・バーゲン、肉体派のラクウェル・ウェルチも好きだったし、テレビの名画劇場で見たイングリッド・バーグマン、グレース・ケリー、エリノア・パーカー、キム・ノバック、デボラ・カーなど誰彼なく好きになっていた。
高校では生徒全員で映画を観に行く遠足?があったが、映画部が企画し七人の侍の二番煎じを目指したと思われる名作”戦艦ポチョムキンは期待したほどではなかった。同じくフランス映画でアラン・ドロンの出ていた”何とか特急”は駄作だった。遠足ではないが”屋根の上のバイオリン弾き”を観たのは高校2年の終わりか3年の初めだったと思う。
ところで、あれほど人を集めていた映画館は最後の徳島ホールが昨年閉館し、徳島市内から映画館が消えた。


寅さん

2007-01-20 11:52:23 | 映画
BS2土曜日寅さん全48作シリーズは今日を入れて残り2作になってしまった。後半はほとんど毎週見たが、前半は放送に気づいたのが遅く見逃した作品が多い。
寅さんとの出会いは30年余り昔、大学生の時に仙台一番町の松竹のオールナイトで見た吉永小百合の回(柴又慕情?)だったはずだ。いつものように寅さんが旅先で吉永小百合扮する女子大生3人組に出会うことから話が始まる。テレビ放映を見逃してしまい、ストーリーはまったく覚えていない。唯一印象に残っているのが女子大生にカメラのシャッターを頼まれた寅さんが、合図に”バター~~~!”と言う場面で、四角い顔に大きな口と小さな目が瞼に浮かぶ。今では誰も見向きもしない親父ギャグだが、フィルムの中の吉永小百合も映画館の観客も大爆笑した素朴ないい時代だった。数作後、吉永小百合は前作と同役で再登場した。
大学から社会人になってシンガポールへ行くまでの数年間の夏と正月は欠かさず寅さんを見ていた。その頃のおいちゃんは松村達夫だった。後は、ビデオでお世話になっている。いずれ全作制覇と主要作品のレビューをしたいと思っているが、焦ることはない楽しみは取っておこう。
ところで、BS2では本編にもまして放映後の寅さんレビューが面白い。2月1日にレビューの特集があるようだ。

スピリチュアル

2007-01-07 23:47:04 | 他本
自称ハマらない私が、香山リカの”スピリチュアルにハマる人、ハマらない人”にハマってしまい、怒涛の一気読みだった。江原にハマる人、小泉劇場に踊らされる人、占いや血液型性格にハマる人など日頃から危ういと思っていたことが網羅されている。
高校の頃、某宗教団体に属する級友から”神を知って無限の世界が広がった。”と言われたことがあるが、無神論者の私は”一宗教の一教義に囚われている。”と感じたものだった。超常的精神世界を信じない私のような人間は、級友や林真理子らに言わせると心の狭い人間ということになる。人間の行動パターンや思考回路は複雑すぎて科学で明らかにすることは難しいが、かと言って”それでいいのだ”とスピリチュアルで納得してしまう訳にはいかない。
江原が自分本来の思想を発信する手段としてスピリチュアルを利用しているとしたら、それも有りかなとも思う。香山リカが明日スピリチュアルに自分もハマるかもしれないと心にもないことを述べて批判的な読者に迎合しようとする姿勢も同根だろう。
いずれにしても癒し、救いをスピリチュアルに求め個人主義に落ち入り、不条理、不安、困難などの現実から目を背け過ぎると、世の中いいことにはならない気がする。