備忘録として

タイトルのまま

武部本一郎

2008-10-28 22:42:24 | 他本

中1坊主の頭の中のヒロインは、武部本一郎が描いた火星のデジャー・ソリス(上)であり、金星のドゥーアーレー(下)だった。火星や金星のイメージは彼の挿絵そのままである。当時まだなじみのなかったヒロイック・ファンタジーのブームに火を点けたのは武部本一郎の挿絵だったと信じている。なぜなら、火星・金星シリーズに続けて、私が武部本一郎の挿絵のある本を選んで読んだように、多くの読者もそうしたに違いないと信じるからであり、それはコナン、ペルシダー、ゴル、ゾンガーなどのヒロイック・ファンタジーシリーズであったからである。

シリーズは、中学1年生(1967年)のとき、徳島駅前の小山助学館で、たまたま表紙の絵にひかれて第3巻の”火星の大元帥カーター”を手に取ったことに始まる。創元推理文庫から第1巻”火星のプリンセス”が刊行されたのが1965年であり、第7巻”火星の秘密兵器”が1967年で、次回作を今か今かと心待ちにして読んだ。火星や金星シリーズと並行して、創元推理文庫の新刊SF本に目を光らせ、面白そうなSFがあれば躊躇なく買って読んだ。
SFに始まり、ジェームズ・ヒルトンやデュマの冒険物も蔵書に加わり、中でも”紅はこべ”、”三銃士”、”黒いチューリップ”、”モンテクリスト伯”などフランス革命の頃の話に夢中になった。同じ頃に刊行された別の出版社のジュール・ベルヌシリーズにも手を出し、”海底2万マイル”、”2年間のバカンス”、”神秘の島シリーズ”、”80日間世界一周”、”地底旅行”などを読みふけった。”シナ人の苦悶”の苦悶の読み方がわからず長い間”クノウ”と読んでいたことを思い出す。
中学時代、なぜか推理小説には手を出さなかった。後年になって、”シャーロック・ホームズ”のファンになり、全作品を読んだあとは、オタク度の極めて低いシャーロッキアンを自称したが、友人たちが勧めるエラリー・クィーンやアガサ・クリスティなどの推理小説に、なぜか興味が湧かなかった。
先日のブログに書いたが、高校に入って級友の影響で、読書がSFから難解文学に移っていったが、本質は変わりようがなく、ファンタジー好きなのである。長くファンタジー小説は読まなくなったが、魔法と剣、ファンタジー映画は好んで観る。


天国と地獄

2008-10-27 20:19:20 | 映画
BS黒澤特集の”天国と地獄”は、いつ観たか覚えていないほど昔に観た。10年ほど前にスピルバーグの白黒映画”シンドラーのリスト”を観て、ナチスの虐殺が続く中を赤い服を着た少女がさまよい歩く場面は、黒澤明の”天国と地獄”の煙突から立ち上る煙からヒントを得ているという話を聞いたときも、そのシーンを覚えていなかったので、よほど昔のことだと思う。特急こだまから身代金の入ったカバンを投げ捨てる場面や山崎努が汚いアパートから三船の豪邸を見上げる場面など、細切れのシーンと大まかなあらすじは覚えていたが、今回は、初めて観たかのように感情移入した。ピンクの煙が立ち上る場面では”これだ!”と叫んだ。
黒澤映画馴染みの俳優が端役で登場するのを観る楽しみも味わった。警察が誘拐報道の発表を遅らせる要請や仲代の刑事が三船を擁護するように依頼したときにマスコミが極めて協力的だったところは、”醜聞(スキャンダル)”でのマスコミ批判とは対照的だったのが不思議な感じがした。また、将来有望なはずの医学インターンがこのような犯罪を犯す必然性に若干の疑問を感じた。頭のいい犯人でなければならなかったから医学生にしたのだろうが、毎日見上げる豪邸に腹が立ったという理由だけで誘拐や殺人を繰り返すのはリスクが大きすぎると思う。子供が拉致された道筋や監禁された家の外の風景を思い出すのは、頭がいいはずの犯人としては不用意すぎる。あのころ横浜には映画のような麻薬窟があったのだろうか。
ハリソン・フォードの”逃亡者”でトミー・リー・ジョーンズの部下が会話記録を繰り返し聞いてシカゴの地下鉄を聞きわける場面があるのだが、もしかして”天国と地獄”の通話記録から江ノ電の音を聞きわける場面をパクったのではと思ったりした。
黒澤映画は、白黒17本、カラー4本を観ている。そのうち私のベスト5は、すべて白黒でカラーはない。
七人の侍
赤ひげ
天国と地獄
椿三十郎
静かなる決闘


SF

2008-10-26 12:36:07 | 他本
教科書や絵本以外で、自発的に本に興味を持ったのは、小学校3年か4年の頃、担任の先生が休みかなにかで自習になり、図書館から好きな本を持ってきて読むということになり、ロビンフッドの本を読んだことに始まる。弓を操るロビンフッドの神業、大男なのにリトル・ジョンや愛嬌のタック坊主の活躍にわくわくした。その後、小学校6年(1966)のとき教室の学級文庫に並んだ真新しいSFシリーズをクラス中で争って読んだ。堅い表紙の挿絵たっぷりのSFで内容も覚えていないのだが、シベリアの隕石と宇宙人の話があったので、ソ連の作家シリーズだったように思う。ネットでその頃、ソビエトSF作家シリーズというのが出版されていたという情報があったので、これかもしれないが、本の装丁や表紙の写真が確認できなかったかったので確実とは言えない。
中学になると、創元推理文庫のSFにのめり込んだ。アイザック・アシモフ、ハインライン、アーサー・C・クラークなどの有名どころから、エドガー・ライス・バローズの火星、金星シリーズなどを貪り読んだ。高校に入ってもSF熱は冷めずある時期までコナンシリーズ、石原藤夫、広瀬正シリーズ、小松左京を読んでいたのだが、高校1年の終わりごろに級友達の愛読書と違うことに愕然として徐々に本の種類が変わっていった。級友らは、その頃すでに三島由紀夫、太宰治、ドストエフスキー、トルストイやその年の芥川賞作品などを読んでいたのだ。焦って読み始めてはみたものの、純文学を受容する素養が育ってなかったこと、受験勉強が始まっていたこと、読み始めたのは彼らに負けられないという不純な動機だった所為で、最初は読書が苦痛だった。がまんして読み続けるうちにいつの頃からか、本の魅力に徐々に魅せられていった。それでもSFを捨てたわけではなく今も好きで細々と読んではいる。ファンタジー物も含め私のSFベストは、懐かしさも込めて---

石原藤夫の惑星シリーズ(不思議な生物がいっぱい出てくる)
広瀬正の作品群(タイムマシンの不思議)
ハインラインの宇宙の戦士や銀河市民(主人公の成長に共感)
エドガー・ライス・バローズの火星・金星シリーズ(武部本一郎の挿絵が絶品)
ハワードのコナンシリーズ(シュワルツェネッガー主演で映画化された)
宇宙船ビーグル号(不思議に進化した生物に総合科学の主人公が対処する)
マキャフリーの竜騎士シリーズ(竜は”ライラの冒険”のダイモンの先駆か?)
アシモフの銀河シリーズや映画”I,Robot”の原作も読んだが、アシモフ作品は面白かったという記憶がない。有名なロボット3原則を主題にしている”I,Robot”は面白かった。
1.A robot may not injure a human, or allow a human to be injured.
2.A robot must follow any order given by a human that doesn't conflict with the First Law.
3.A robot must protect itself unless that would conflict with the First or Second Laws.
3原則に従いながら、ロボットが人間に危害を加える映画である。人類存続の大義の前には、目の前の人間を抹殺することは可能であるとスーパーコンピューターの””は解釈するのである。これはどこか戦時中の仏教者の解釈”一殺多生”に通じる。
フランク・ハーバートの”砂の惑星Dune”は、原作を読み2種類の映画を観た。これは不思議な本だったが、映画もおどろおどろしていた。
”猿の惑星”も原作と映画シリーズを観た。原作の最後と映画(第一作)の結末は異なる。
”指輪物語”は”ホビットの冒険”で終わったが、映画は繰り返し繰り返し見ている(現在進行形)。劇場版より中身の濃いDVD版をマレーシアのJBで手に入れた。
映画”スターウォーズ”は、はじめシンガポールの映画館でリアルタイムで観ている。Episod1もシンガポールでリアルタイムで見たが、銀河系をバックに字幕が流れジョン・ウィリアムスの音楽が流れ始めると、劇場内(ほとんどが白人)は拍手に包まれた。今まで待って、やっと再会できたという熱烈なファンの心理だったに違いない。
”2001年宇宙の旅”も30年近く前にシンガポールの映画館で観た。未だにあの石版の意味がわからない。

実家の倉庫が解体されたときに、何冊かは娘が持って行ったが、大半の蔵書はどこかに消えてしまった。


万葉の旅

2008-10-20 22:17:54 | 万葉


最近、万葉故地に行く時は犬養孝の”万葉の旅”を携行することにしている。”万葉の旅”は万葉歌ゆかりの土地を写真とともに紹介したもので、昭和30年代に本著編纂時に撮影した写真が掲載されている。上、中、下の3巻から成るが、西日本の下巻だけを持っている。本棚の片隅で見つけたのだが、いつどこで手に入れたのか記憶がない。昭和の終わりから平成の初めにかけての一時期、万葉集、特に犬養孝の本をよく読んでいたので、そのころのものには違いない。犬養孝の本は他に”万葉の人々”を持っているが、娘に預けた本も何冊かある。

上の写真は”万葉の旅”にある熊毛の浦(上関)の写真で、先週(10月15日)ほぼ同じ場所から撮った写真と比べてみた。万葉の旅の写真では、左手遠くにうっすらと灯台の影が見えるが、今は白い橋脚の影にみえる。無骨なコンクリート橋がこちら側の上関(長島)と灯台のある対岸の室津(本土)を結ぶ。古い写真の手前の船の屋根に「上関-室津」とあるのは連絡船だろう。電柱の向こうに見えるタンクはなかった。
”都辺(みやこへ)に行かむ船もが刈薦(かりこも)の 乱れて思ふ言告げやらむ
                     --羽栗(はくれ)--巻15-3640”
「都のほうに行く船があればいいなあ、思い乱れる慕情を伝言してやろうに」というのが犬養孝の訳文である。作者は遣新羅使一行の一員である。

下の写真は、上関から西に1時間ほど走った周防大島”大島の鳴門”で撮った写真の比較である。大島の北端から昔とほぼ同じ場所から撮ったが、瀬戸の真ん中の灯台は健在で、写真では何も変わっていないように見える。しかし、ここも上関と同じで、本の右下の地図にはない鉄橋が島と本土を結んでいる。



犬養孝の万葉の旅の写真を今と比較し、309ヵ所すべてを踏破した人のWeb-siteを見つけた。犬養孝の弟子と称しテレビにも出ている有名な方のようなので、了承はないが貼っておく。
http://blog.goo.ne.jp/manyou-kikou/

隠岐

2008-10-18 15:59:58 | 

9月の秋分の日の連休に、台湾あたりで猛威をふるっていた台風13号が心配だったが、母、妻、娘二人が隠岐旅行に行った。妻が計画し、旅行のしおりをつくった。上の絵手紙はしおりを描いた母の作品である。父が旧日本軍の恩給として10万円の旅行券をもらったのを、母が譲り受けて孫たちに旅行を呼び掛けたのである。

隠岐には太平記の後醍醐天皇や承久の乱で有名な後鳥羽上皇が流され、平安時代には小野妹子の祖父である小野篁(たかむら)が流されている。梅原猛によると柿本人麻呂の長男が流されたという伝承もあるらしいが、旅行ガイドや事典には載っていないし、ネットでも見当たらなかった。後醍醐天皇と小野篁は隠岐から出ることができたが、後鳥羽上皇は配流先で崩御し顕徳院と諡(おくりな)されている。流されたり非業の死を遂げた天皇には皆”徳”の字をつけて怨霊になって災いを及ぼさないようにしたことは以前、崇徳院の巻で書いた。もしかしたら、天皇家は今も怨霊を信じ鎮魂の儀式を行っているかもしれない。

小野篁は遣唐副使に任ぜられたが正使と諍いを起こし朝廷の命に従わなかったため嵯峨天皇により配流せられた。

わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟

百人一首にある小野篁のこの歌は、隠岐に配流されるときに詠んだもので、「海原に浮かぶ島々に向かって漕ぎだしたことを都の人々に伝えておくれ海人の釣り船」が現代語訳である。小野篁は1年半で罪を許され都に帰っている。
後鳥羽上皇は幕府追討を目指した承久の乱に敗れたため1221年に隠岐に遠流せられた。上皇はそのまま隠岐で1239年に崩御したので19年間隠岐にいたことになる。
後醍醐天皇は、倒幕軍を挙げたが敗れ、1332年に隠岐に流された。翌年、隠岐を脱出し足利尊氏や楠正成の助けを借りて鎌倉幕府を倒し親政を敷いた。その後、足利尊氏は離反し別の天皇を擁立(北朝)して室町幕府を開く。後醍醐天皇は吉野に南朝を開き幕府に対抗した。

4人を松江まで送って行き、松江城堀端の八雲庵で名物の鴨南蛮そばを昼食に食べた。これは絶品である。鴨の脂が浮いている透明のスープは、あっさり風に見えるがコクがある。そばはもちろん出雲そばでこしがある。これにトビウオのかまぼこの野焼きを添えると最高で、さらに贅沢にも割子そばがつく。昼食後、足立美術館まで足を延ばした。夕方、私は広島にとんぼ返りして、Fuku(ダックスフント8歳)と留守番であった。4人は隠岐で、あわびのしゃぶしゃぶを食べたらしい。


三国志

2008-10-18 00:19:43 | 中国
KOEIの三国志VIIに嵌りマウスを握ったまま眠てしまうの図。
今まで、劉備、曹操、孫堅はもとより、司馬朗、太史慈、陸遜、諸葛孔明、周瑜で中国を制覇した。今は、息子や娘の名を付けた登録武将で、建業を根拠地として始め、4都市を傘下に収めたところである。楽浪から海路・曹操軍が攻めてくるのを呉で防いでいるが、関羽、許褚、呂布など武力が100に近い将軍が多くて苦戦している。

吉川栄治の”三国志”は学生時代に読んだ。10年ほど前には、陳舜臣の”秘本三国志”を読んだ。横山光輝の漫画は残念ながら読んでいない。以前このブログの鄭和の巻でインドネシアの田舎町で見た関帝廟のことや華佗の巻で関羽が腕の手術を受ける壁画がシンガポールの病院にあることを書いたが、遠く離れた異国の地でも神として祭られるくらい関羽は人気がある。心ならずも曹操に仕えなければならなくなり、官渡の戦いで戦功をあげて恩返しをした後に曹操のもとを去るところが好きだ。諸葛孔明の「出師の表」は涙なくして読めないと言われているが、そのとおりである。趙雲、周瑜もかっこいい。
テレビでは連日、中国映画”赤壁”の宣伝をしている。三国志ファン(中国史ファン)としては観るしかない。
正史”三国志”陳寿著は、吉川栄治の種本の三国志演義ほど華々しくはないようだが、その中の魏志倭人伝(正式には魏書東夷伝倭人条)が有名である。邪馬台国については、書きたいことが山ほどあるので、いずれまた。

Bloom where you are planted

2008-10-17 23:00:08 | 話の種
Hillary Clintonがテレビのインタビューで、次の大統領選に出るかと聞かれた時、”恐らくゼロに近い”に続けて、”Bloom where you are planted(植えられた所で花を咲かせよ)”と答え、自分の置かれた状況で精いっぱい努力する姿勢を強調した(朝日新聞2008.10.16)。ネットで探してきたSourceは以下のとおり。
Clinton then said that her chances of running for president again are "probably close to zero."
"There's an old saying: Bloom where you're planted," she added.
The former Democratic presidential candidate said she looked forward to working in her role as senator with a Barack Obama administration.
(Fox and Friends)

”Bloom where you are planted”で思い出すのが、司馬遼太郎の”峠”の主人公・河井継之助だ。学生時代、新潟出身の友人がいいと言うので読んだ。河井継之助は幕末の小藩である長岡藩を近代兵器で武装し幕府にも薩長にも属さない中立国を目指した。開明的な河井は形勢が不利であることを知りながら、家老である立場に固執し藩に殉じた。藩内での身分が違うので単純には比較できないが、司馬は藩から飛び出した坂本竜馬とは対照的に描いていた。同じ長岡出身の山本五十六は、郷里の先達である河井継之助と上杉謙信を尊敬しており、太平洋戦争で敗戦が見えていたのに連合艦隊司令官という立場に殉じた点が河井に通じると言ったのも司馬遼太郎だったように記憶している。

私も”Bloom where I am planted”を心がけている-------つもり。




歎異抄

2008-10-13 13:58:05 | 仏教

「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」(悪人正機説)で有名な歎異抄を梅原猛が解説した”誤解された歎異抄”を読んだ。歎異抄は親鸞の言葉を親鸞の曽孫であり弟子である唯円が書き留めたものである。親鸞の始めた浄土真宗はその後、日本最大の宗教となる。梅原猛の解釈によると親鸞の根本思想は二種廻向と二種の浄土であり、悪人正機説は付属的なものである。

1.往相廻向と還相廻向

極楽浄土へ行って還ってくる。大乗仏教の考え方に拠れば、一度極楽浄土へ行って悟りを得、菩薩となって後、この世へ戻ってきて苦しんでいる人を救済しなければならない。

2.真仏土と化身土

極楽には二種類あり、他力念仏の行者は真仏土へ行けるが、自力の徒は化身土で500年間留まったのちに真仏土へ行くことができる。自力の善行を積んで自分で作った善によって極楽往生しようとする人は阿弥陀様にすがる心が欠けており、すべてを阿弥陀様におすがりする他力本願の人だけが正真正銘の極楽浄土(真仏土)へ行くことができる。

3.真宗に地獄はなく、現世が地獄のようなもの

親鸞の説いた”教行信証”には地獄がない。キリスト教や往生要集には地獄があり、天国へ行ける人と地獄へ行く人が区別されるが、浄土真宗では念仏さえ唱えればすべての人が極楽浄土へ行ける。

4.親鸞は聖徳太子の生まれ変わり

親鸞の作った和讃のうち「皇太子聖徳奉讃」で、聖徳太子は衆生を救済するためにインドの勝鬘夫人、中国の南岳慧思(えし)、百済の聖明王など次々と生まれ変わり、救世観音が太子の化身であるとする。救世観音は親鸞に法然のもとへ行けと命ずることから親鸞は聖徳太子の生まれ変わりと考えていたと結論づける。

ここからは梅原猛の考え。
人間は永劫の流転を続ける。人間に子孫がある限り遺伝子は次々に結合を繰り返し永遠に生き続ける。すなわちDNAレベルでは不死となり、これによって梅原猛は無神論を克服したという。

雑学として、司馬遼太郎がどこかで言っていたが、占領時GHQは悪人でも天国に行けるという悪人正機説を唱える浄土真宗を危険思想とみたらしい。

うちは四国なので真言宗だと思うけど、違うかもしれない。いわゆる葬式のときだけ宗派で、基本的には無宗教という一般的な日本人である。また、自分は基本的に無神論者である。神、超常現象、占い、スピリチュアル、前世など非科学的なものはファンタジー小説などと同等のEntertainmentの一種として信じていない。にもかかわらず、最近、死についてよく考える。身近に思いがけず他界する人がいたことや聖徳太子、人麻呂、宗教本、神社関係の本、”おくりびと”や”最高の人生の見つけ方”などの所為だと思う。

このごろ近所の掲示板に報恩講という張り紙をよく見かけるが、これは親鸞の命日10月28日の法要の連絡とのことらしい。張り紙には浄土真宗とは書かれていなかったので、何の宗派かわからなかったが、今回の歎異抄でネットサーフィンをしているうちにわかった。


刹那

2008-10-12 00:17:48 | 古代
学生時代、覚えたての”刹那(せつな)”や”刹那的”という言葉を友人との議論やレポートなどで好んで使った。刹那とは仏教の時間の最小単位で、瞬間のことである。当時は井上陽水の”傘がない”などの厭世的な歌や柴田翔の”されど我らが日々”などの虚無、虚脱をテーマにした小説が流行っていた時代だった。悠久の宇宙や地球の歴史に比べ人間は卑小でその一生は刹那であり、そこに虚無や厭世感を感じていた。人生を生きることにどんな意味があるのかなどと悩み考えていた。井上靖の”天平の甍”や”敦煌”は、そんな時に読んだ。

学生時代に買った井上靖”天平の甍”が東京の娘の本棚に有ったので帰りの新幹線の中で読み直した。
青春の理想と挫折、人生の意味を留学僧の普照、栄叡、戒融、業行、玄朗を通してみることができる。
普照:栄叡の熱意に動かされ終には鑑真を日本へ連れて行くことに成功する。
栄叡:鑑真の招来を目的に死力を尽くすが、最後の渡航を前にして唐土で死ぬ。
戒融:日本や遣唐僧の使命にとらわれず托鉢をしながら唐をめぐり、最後は天竺をめざす。 
業行:在唐数十年で写経した膨大な経典を執念で日本へ持ち帰ろうとしたが、嵐に会い経典もろとも海の藻屑となる。
玄朗:留学僧の使命を放棄し唐で妻子をつくり望郷の念により普照に帰国の斡旋を頼むが結局あきらめる。
18歳で理想に燃えて故郷を離れた当時の自分自身や周囲の友人たちと重なる。業行の人生に意味があったのだろうか。

栄叡による日本渡航の要請に対し、鑑真の高弟たちは次々に否定的な意見を並べたが、鑑真の”おまえたちが行かないなら私が行くことにしよう”という一言で、”鑑真と十七名の高弟が日本へ渡ることが須臾(しゅゆ)の間に決まった。”須臾は刹那と同じ仏教の時間の単位で刹那よりは長く、しばらくの間を意味する。
”天平の甍”の山本健吉の解説がいい。トロイヤ幻想によると上原和は山本健吉に”斑鳩の白い道のうえに”の解説を頼んでいる。

シュリーマン

2008-10-11 21:56:00 | 西洋史
上原和の”トロイア幻想”に刺激され、シュリーマンの自伝”古代への情熱”を買ってきて読んだ。ホメロスの”イリアス”や”オデッセイア”を朗読できるほどに読み、その記述を徹底的に信じることでトロイの遺跡を発見したこと、語学の天才、商人として成功したあと結婚を申し込もうとした幼馴染が数日前に嫁いでいた悲劇などは改めて確認できた。以下は自伝とトロイア幻想から得た新しい知識。

1.最初の発掘地は、オデュッセウスの故郷であるイタカ(イタキ、イタケ)島であること。上原和はイタキ島を訪れ、オデッセイアの居館であったとされるアエトス山頂に登っている。オデュッセウスはトロイ戦争を木馬の詭計で勝利したあと帰路に就くが、ポセイドンの怒りにふれたためイタケに帰れない。放浪中にカリュプソ、セイレーン、ナウシカなど馴染みの名前がでてくる。二十年の放浪の後やっとイタケに帰ってきたオデュッセウスと老いた愛犬のアルゴスが出会い、アルゴスが喜びの中で死ぬ話は感動的だ。
2.トロイのヒッサリクの丘から、サモトラケ島やイダ山が眺められると記しているが、上原和はサモトラケはヒッサリクの丘からは前方の島影に隠れて見えないと言っている。サモトラケのニケの女神は現地から持ち出されパリのルーブル美術館にあるが、上原和はサモトラケに返してほしいと言っている(トロイア幻想)。ニケの女神は軍船上で羽ばたいている。これは映画”タイタニック”でセリーヌ・ディオンの”My Heart will go on”にのせて船首でデカプリオとケイト・ウィンスレットの二人が手を広げるのはニケの女神を真似ているらしい(情報源は不明、忘れた)。

ルーブル美術館にあるサモトラケのニケ女神像(誰かのウェブから拝借)
靴のナイキ(Nike)は、このニケからの命名らしい。ロゴは女神の翼らしい。

3.語学習得は、大変な努力の賜物であり、音読、暗唱、作文、添削(先生を雇う)を毎日繰り返した。
4.世界一周旅行をし、シンガポール、ジャワ、インドシナのサイゴン、中国や、日本を訪れ、”シナと日本”という著書がある。
5.ドイツ人であるが、アメリカの市民権をもち、アテネ市南部のギリシャ風霊廟に眠っている。
6.長女にアンドロマケ(トロイのヘクトルの妻)、息子にアガメムノン(ギリシャの総大将、上の写真wikiの黄金のマスクをシュリーマンはアガメムノンだと信じた)と名付けている。アンドロマケは、夫がアキレスに殺され、戦後はヘクトルとの息子を殺したアキレスの息子ネオプトレウスの妾とされる。アガメムノンはトロイ戦争に勝って自国に凱旋したその日に妻のクリュタイムネーストラーとその情夫アイギストスに暗殺される。悲劇の運命をたどった人の名前を自分の子供につけるかな?





鑑真

2008-10-07 23:47:00 | 古代
シンガポールのチキンライスは、茹でた鶏肉とそのゆで汁で炊いたごはんがセットになった食べ物で、Hawker CentreとかCanteenと呼ばれるフードコートには必ずひとつやふたつのチキンライスの店がある。正式名称は、Hainanese Chicken Riceといい、訳すと海南風チキンライスである。Hainaneseとは、中国の最南端にある海南島のことである。シンガポールの華僑は、中国各地から来ており、中でも福建省、潮州、海南島出身者が多い。少数ではあるが、首相のリー一族のような客家出身者もいる。海南島出身者が持ち込んだか、売り出したチキンライスということである。他にも、Hokkien Mee(福建麺)、Chaozhou Porridge(潮州粥)などというものがあり、いずれも美味で、よく食べていた。いまでも、タイ米を手に入れて、チキンライス、バクテー(肉骨茶)、インドカレーなどのシンガポール料理を、妻が作ってくれる。

おっと、鑑真の話をするのだった。
上原和の”トロイア幻想”の続きである。上原和は1984年に海南島を訪れている。そのころ私はシンガポールにいて、海南島にリゾートホテルを作る話に参加していた。海南島のさらに最南端の三亜の近くに世界涯(はて)というところがあり、そこにホテルを建てるというものだったが、何度か打ち合わせをした後、その話は消えてしまった。世界涯とは、まさに中華思想的な命名だと思う。上原和は最南端の三亜を訪れ、鑑真一行の漂着に思いを馳せている。三亜の街の真ん中に河口が大きく口をあけ、そこに無数の漁船がつながれているのを見て、淡海三船の著した”唐大和上東征伝”の記述そのままであることに感動するのである。そして、鑑真の漂流がなかったとする松本清張や仏教史家の辻善之助の説に疑問を投げかける。当地の市場でトビウオやうみへびを見て、東征伝にいう「三日蛇海を往く。その蛇の長さは1丈余り、小なるは五尺余りなり。色皆斑班(まだら)にして海上に満ち浮ぶ。三日飛魚の海を往く。白色の飛魚、えいとして空中に満つ。長さ一尺ばかり。五日飛鳥の海を往く。」その地であることを確信する。ホメロスの”イリアス”や”オデッセイ”が虚構であり、だからトロイという都市も虚構であるとする説にも関わらず、イリアスの記述を信じ、トロイの場所を特定発見したシュリーマンを思い出す。上原和のように、一次資料による確認、現地での確認を大切にするものが、真の学者であり探究者だと思う。ただ、そこに斎藤茂吉が人麻呂の終焉の地を自己の感性だけで特定したような思い込みや頑なな執着があってはならない。研究者は事実に素直であるべきである。

鑑真が海南島へ漂流したのは五回目の渡航時であり、海南島から故郷の揚州に帰る途上で失明したり随行の弟子が亡くなったりするが、日本へ渡航する意思は固く、六回目にして終に日本の地を踏む。東征伝の内容を追うだけで十分感動的なのだが、井上靖”天平の甍”は、東征伝を下敷きにして、鑑真を招来する命を受けた留学僧が、使命と自己の人生の狭間で運命に翻弄される苦悩をえがき、また別の感動があった。史実や研究書ばかりを読むこの頃だが、学生時代は井上靖、司馬遼太郎、海音寺潮五郎、陳舜臣らの時代小説を読み耽ったものだ。




敦煌

2008-10-06 22:55:05 | 中国
私の西域憧憬は、幼い頃、”月のさばくを~、はぁるぅ~ばぁるとぅ~”のソノシートの付いた歌の絵本で、夜の砂漠をゆく駱駝の隊商の絵を見てからだったように思う。敦煌、楼蘭、崑崙山脈、甘粛、ゴビ砂漠、さまよえるロブノール湖などの地名、匈奴と戦った霍去病と衛青、大宛に匈奴挟撃を申し入れに行った張騫、李陵と司馬遷、スウェーデンの探検家ヘディンや大谷探検隊など、その後馴染みになったキーワードは多い。
月の砂漠ののち、井上靖の”敦煌”や”楼蘭”、陳舜臣の”中国の歴史”、中島敦の”李陵”、NHKのシルクロードなどがさらに私の西域憧憬を増してくれた。

”トロイア幻想”の敦煌の項で、上原和が長男の名に敦煌の敦を使っていることを知ったとき、私も息子に泰山の泰をつけていることから「同じ発想だ」と狂喜した。しかし、私と上原和が決定的に違うのは、上原和が敦をそのままトンと読ませているのに対し、私は軟弱にも泰をタイとは読ませずヤスと日本読みにしたところで、ここが著名な学者と凡人の根本的な差なのだろうと思ったりする。
ところで敦煌の莫高窟には捨身飼虎図が7つもあるそうだ。

聖徳太子著とされる”勝鬘義疏”と敦煌の莫高窟の文書に見つかった”勝鬘義疏本義”が7割方同じである(藤枝晃)から、聖徳太子作ではないとする説がある。しかし、日本をはじめ東洋では、正しい教えはずっと古くからの教えであるとする考え方が主流であり、多くの引用の中にも自分の考えを述べることがごく普通に行われてきた。親鸞の”教行信証”の約8割は引用であるが、はっきり自分の思想を述べている(梅原猛”誤解された歎異抄”)。少なくとも、梅原猛は”勝鬘義疏”を読み、そこには太子が勝鬘義疏を講義した必然性と憲法十七条にも共通する思想があるとしている。
別項で大川誠一著”聖徳太子の誕生”(聖徳太子は後世に作られたもので、ほとんどの業績は彼のものではないとする。)を私なりに批判したいと思っている。

井上靖の”敦煌”を読んだのは大学1年の夏だったが、読んだ時期とその時の感想が、「異国(西夏)の美女にあこがれた男の末路」というものだったことを、なぜか今も鮮明に覚えている。



アクロティリ遺跡

2008-10-05 19:05:32 | 西洋史
最近読んだ上原和”トロイア幻想”講談社学術文庫からは多くのブログネタをもらった。ギリシャ神話、トロイア戦争、インドの釈迦、敦煌、鑑真と来て、最後はやはり聖徳太子で締めくくる旅の本である。写真はサントリーニ島の崖に立つ白壁と青い屋根の街(Wikiより)
以前、高松塚古墳の回で、上原和は発掘当時より壁画をはがして保存するよう主張していたことを紹介したが、”トロイア幻想”の中で、上原が1974年にサントリーニ島アクロティリ遺跡の発掘現場にマリナトス教授を訪ねたときに、「これまで機会があるたびに、私は高松塚古墳の壁画を一刻も早く剥離して、抜本的な保存対策を講ずるべきだ、と主張してきたが、返ってくるのは、壁が薄すぎて剥離が極めて困難であるという答えばかりであった」ため、教授に「剥離は困難ですかと問うてみた」ところ、「ここではわずか1mmの厚さのフレスコでも剥離し、修復して、アテネに運び、すべての人々の前に公開している」という答えであった。そして最後に「お招きがあればいつでも日本に行きますよ。そして実際に剥いで見せましょう」と言われた。
下のフレスコ画(漆喰の上に描かれた絵)はアクロティリの現場から発掘され、アテネの考古学博物館に保存されている船団図である(Wikiより)。

船団図(部分) 全体はhttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/d4/98ab138beb7a4e87120aaf6101457526.jpg
上原和はこれを国立考古学博物館の研究室で見ていて、
”横の長さが390cmで縦が44cmの帯のように長いフレスコで、左の陸地の港を出港して右の陸地の港に入る船団による船旅を、見る者が絵巻物のように楽しむことができる。右の船団が入港してしているのは、おそらくサントリーニ島であり、出港の地については、マリナトス教授はアフリカ北岸リビアに擬しておられる。ライオンが描かれているのでやはりアフリカか西アジアであろうか。海洋には船団を追うイルカの群れが描かれ、船には、イルミネーションのように、船首も帆柱も(ひまわりやランタンで)飾り立てられ、船尾には、きらびやかな船長のキャビンがあった。また帰帆する港には、胸ゆたかな婦人たちが描かれていた。エーゲ海に騎りゆく、平和な海洋民の船旅の図であった。”

同じフレスコ画のことは、以前読んだ川島重成”ギリシャ紀行”岩波現代文庫でも触れられている。
”特に注目するのは、海戦、兵士の出陣と牧畜、船団、ナイル川(?)の風景、とでも称すべき主題が描かれた絵巻物で、特に船団図は長さ6mにも達する帯状壁画である。船は美しく飾られ、漕ぎ手はもちろん、くつろぐ貴人たちの姿も見える。これは冬が過ぎて航海の季節を迎えたのを喜び祝う海の祭りであろうか。イルカが船と並んで楽しげに遊泳している。-----(以下省略)”

フレスコ画のサイズが上原和の記す長さ(3.9m)と川島の長さ(6m)が異なっているのは、上原が研究室の一隅で細切れ?(私の想像)に絵を見たのに対し、川島は展示場で全体を一度に見たことが原因かもしれない。

マリナトス教授はアクロティリやクレタ島の遺跡で火山灰や津波の跡を確認したことから、BC1600頃のサントリアーニ火山の爆発がプラトンのいうアトランティスが一夜にして沈没した話の下敷きになっているのではという説を提唱している。この船団図をアトランティスから逃げる状況を表しているとする説もある(ネットサーフィン中に英語サイトで出くわしたが、かなりあやしい)。

いずれにしても、高松塚壁画のその後の惨憺たる状況と、ギリシャでは色鮮やかな船団図が誰でも博物館で見られる彼我の違いに愕然とする。

不幸にも、上原が会った2ヶ月後にマリナトス教授は遺跡で事故死し、終に高松塚を訪れることはなかった。後に、上原和はアクロティリの遺跡に葬られたマリナトス教授の墓を訪れている。