備忘録として

タイトルのまま

阿育王事蹟

2014-08-31 01:35:32 | 仏教

『阿育王事蹟』は、森林太郎(鴎外)と大村西崖がアショカ王の事跡をまとめたものである。国会図書館のホームページからダウンロードした。書体は古い(明治時代?)ので読みにくいが何とか理解できる。本はアショカ王の残した摩崖、石柱、石窟に刻まれた銘文(法誥)をすべて訳出している。

【壱 前紀】 紀元前2000年ごろインドに進行したアーリア人種から出た釈迦族、アレキサンダー大王による征服、カースト制の最下層民スードラ階級から出たチャンドラグプタがマウリア朝を開き、その子ビンビサーラを継いだ3代目アショカ王(阿育王)までのインドの歴史を概説する。

【弐 摩崖】 インド各地7か所で発見されているアショカ王が遺した摩崖(大石の表面を磨いて文章を彫ったもの)の翻訳を示す。各地の摩崖にはほぼ同じ内容の14章からなる法誥文が刻まれている。右から読む古い梵字で書かれている。

  • 第1章 ”この法誥(ダルマ)は天愛善見王(アショカ王が自称した名)の命に依りて刻せらる。”から始まり、生き物を殺すなと記す。
  • 第2章 領土内いたるところに薬草を植え、道路に植樹し泉を設けた。
  • 第3章 我が諸侯や役人は通常の政務に加え、ダルマの実践を命じる。父母に従い、友人、親族、バラモン、仏教徒に仁であることは善である。生命を重んじることは善、ぜいたくや暴言を避けることは善である。
  • 第4章 天愛善見王は即位12年に不殺生、法(ダルマ)の実行を宣する。アショカ王の宣したダルマとは有情残害(感情があるもの、すなわち生きとし生けるものを殺害すること)の禁止、親族に礼儀正しくつつしみ深く、バラモンや仏教徒を敬う、父母に従う、目上のものに従順であること。
  • 第5章 善を行うのは難しいのでダルマを守る役人ダルマ大官を置く。ダルマ大官は庶民の幸福を守る。
  • 第6章 役人は庶民にかかわる政務を速やかに自分に報告すること。報告を受けた天愛善見王はいかなる時でも速やかに指揮命令する。これを刻む理由は自分の子孫も同様にダルマを実行してほしいからである。
  • 第7章 天愛善見王は様々な宗派の人々がいっしょに住まうことを願う。十分の仁を為しえずとも、欲を伏する徳、心の清浄、知恩と真実は常に賞すべきである。(この章の意味をあまりよく理解できなかった。察するに、信仰度合いは人それぞれ異なるが、その志は賞されるべきということか)
  • 第8章 天愛善見王は即位10年に菩提に入り、ダルマを実行することになった。
  • 第9章 ダルマの作法は不朽であり、現世で成就できなくても他生(あの世)で功徳を得ることができる。
  • 第10章 天愛善見王はダルマの実践のために名誉と声望を求める。解脱は貴賤を問わず無上の精進と完全な捨離(我執を去ること)で達成できる。
  • 第11章 ダルマを実践するものは現世と後世に無窮の功徳を得ることができる。
  • 第12章 他の宗派を尊重すること。
  • 第13章 天愛善見王は即位8年インド東部カリンガ国を征服したとき、15万人を奴隷とし、10万人を殺害し、その数倍の民衆が死んだ。自分はこれについて深い悲痛と悔恨を感じている。
  • 第14章 この法勅文は天愛善見王の命により各地に刻まれた。国土は広大なので各地の文は必ずしも同じではない。

【参 石柱】 インド各地で9基の石柱が確認されている。それぞれの場所、大きさ、形状、柱頭、保存摩耗状態、刻文(法誥)の内容が写真や図とともに詳しく述べられる。釈迦生誕の地ルンビニーに阿育王が建てたルミンデイの石柱は雷のため上部は地に倒れ(下の絵)柱頭は鈴形部のみ残るが、石柱表面に彫られた刻文は完全に残っている。玄奘三蔵はこれを見て、「四天王太子を捧げたるストゥーパの側、遠からずして大石柱あり、上に馬象を作る、無憂王の建つるところなり、後、悪龍の霹靂のためにその柱中折により地に仆(たお)る。」と『西域記』に記録している。『西域記』には他に7つほどの石柱について記述がある。法顕も『仏国記』に石柱を見た場所と高さや柱頭や文様のあらましを伝えている。ところが、二人とも刻文についての記述がない。筆者(森鴎外ら)は梵字が古体であったため二人が読めなかったからではないかと推測する。また、二人の記録から、現存する石柱以外にも寺院、伽藍やストゥーパの由来を刻した石柱が数多くあったことを知ることができる。高さは20~70尺(6~20m)で柱頭には現存の獅子、象、馬のほか牛や法輪があったこともわかる。下図は鼻の欠けた象の柱頭と獅子の柱頭。

【肆 灌頂】 阿育王の即位時のことが書かれている。阿育王は世嗣でなかったため長兄のスーマナを始め兄弟99人を殺害して即位したという伝説があるが、摩崖文に即位13年の時点で兄弟がいることが記されているので、伝説は必ずしも正しくないとしている。また、即位年は、他国との交渉記録から紀元前269年と推定する。年代が判明しているエジプト王プトレマイオス、シリア王、マケドニア王らとの交渉が摩崖文に残り、それをもとに年代を類推したものである。即位年齢は在位年数などから、20歳という伝説を採用せず、25.6歳から30歳のころであったろうと推定している。また、仏教に帰依するまでは、無理難題に随えなかった諸臣500人を自ら殺したとか、自分の好んだ無憂樹の枝を折ったとして女官500人を虐殺したとか、城外に地獄をつくって人々を幽閉したことや、愛欲に溺れKamashoka (Kama Sutora+Ashokaの造語)と呼ばれたなどが伝えられている。しかし、これは後世仏教の功徳を誇張するための作為だろうとする。阿育王が仏教に帰依したのは、カリンガ征服の惨状を見たからであることは摩崖文第13章に書かれたように明らかである。

【伍 帰仏】 阿育王が仏教に帰依した理由は、仏の教えを愛したか、仏教徒の性行を喜んだか、法に名を借りて人心を収攬しようとしたか、審らかにはできない。しかし、カントも言うように、「人の行為の動因は不可知なり」とすれば、王がまさに法を愛したということを否定する理由はないと筆者は書いている。(ここで筆者の言を自分なりに解釈すると、”人の行為の動因”=カントの言う”物自体”=本質であるから不可知である、さらに不可知を経験で正当化できるとすれば、経験から類推した王の心の中を否定する理由はないということになる。阿育王が仏教に帰依した理由にカントを引き合いに出す必然性はないと思うのだが、おそらく森鴎外の時代、カント哲学が相当流行っていたのだろう。) 阿育王は仏教に帰依したが他の宗教に寛容であることは前述の摩崖文に見える。

【陸 建塔】 阿育王は仏教に帰依してのち、ブッダの骨を納めた8塔のうちラーマ国のストゥーパを除く7塔を開き、8万4千に分骨し各地に新しくストゥーパを建立した。筆者は8万4千塔は誇張だろうとする。

【質 区域】 阿育王が統治する地域は石柱などの分布から全インドに及ぶことは明白だが、記録に残る阿育王の征服戦は前述のカリンガとの戦いのみである。王の威光により全インドが服属したものであり、1回の兵勝と多年の法勝によるものと言える。服属していないのはセイロンのみであった。

【捌 治績】 阿育王は仏法をもって国を治めた。民をしてダルマを行わしめ善行により現世と後世に功徳を得る。民を子と思いその幸福を願い、自分を父と思わしめ、一切の有情の生を重んじてその安固を願う。このような真実の至情による高尚な治道の理想は他に類をみないと筆者は絶賛する。

【玖 所信】 仏教が民の教育そのものであった。

【拾 結集】 阿育王が結集を行ったことは南伝にあり刻文にも北伝にもない。仏教の興隆に反しその他の宗教の信徒は困窮したため仏教徒を装うものが出て仏法が乱れる。その後、阿育王の処置で仏法の乱れが正され結集が行われる。(結集=経、論、律の三蔵をまとめた編集会議、ブッダ入滅後五百羅漢が集まり結集したのが第1回、仏滅後100年ごろ第2回結集、アショカ王の時が第3回)

【拾壱 布教】 ブッダの頃の仏教は中インド地方に広まるに過ぎなかったが、アショカ王によってアジア全域に広がった。筆者は「阿育王の広宣久住の功は教祖仏陀のこれを開ける徳と並べ称するも復た殆ど過褒に非ずと言いつべし」と絶賛している。

【拾弐 巡礼】 阿育王は在位中、インド各地にある仏跡を巡り塔や石柱を建立する。

【拾参 眷属】 妃や世子の伝説が主体で特筆すべきものはなかった。

【拾肆 晩年】 阿育王の刻文は即位27年で終わるので晩年のことは阿育王経と阿育王伝に依るしかない。晩年は最後の布施の話が中心となる。

【拾伍 芸術】 阿育王の石柱やその時代の建造物を豊富な写真を使い解説しているので森鴎外と大村西崖のどちらかはインドを歩いたに違いない。アショカ王の遺物・遺跡の芸術について202ページから233ページまで約30ページを割いている。

【拾陸 後紀】 マウリア王朝は紀元前183年または178年に滅ぶ。その後、大乗仏教のナーガールジュナ、玄奘や義浄のインド訪問などの仏教関連事跡を中心に解説し、19世紀まで下りビクトリア女王がインド帝の称号を兼ねるところで終わる。

巻末には阿育王年表、和英両方の参考文献、索引、正誤表、法誥文の原文(梵語?)を載せる。

森鴎外は『渋江抽斎』で抽斎の周辺を細大漏らさず調べ書き留めているように、本書でも阿育王の事蹟を細大漏らさず収集し記録している。森鴎外は小説家だが森林太郎は学者だということがわかる。学術論文ともいえる本書を読むのに時間はかかったが、アショカ王の遺跡はインド各所にあるのでインド旅行に持参する価値はある。


セイロン

2014-08-25 03:49:04 | 仏教

Hatred ceases not by hatred but by love (憎しみは憎しみによって止むのではなく慈愛によって止む)

これはセイロン(現スリランカ)のジャヤワルダナ首相が、1951年サンフランシスコで開かれた対日講和会議で各国に呼びかけた演説中のことばで、セイロンはこの講和会議で日本に対し賠償請求権を放棄し、他の会議参加国の多くが同調する。サンフランシスコ条約によって連合国と日本の戦争状態(第2次世界大戦)が終結し、日本は国際社会に復帰する。当時の吉田茂首相はジャヤワルダナ首相には感謝の言葉もないと言い遺しているらしい。鎌倉大仏内に元首相の顕彰碑が立っているらしい。このジャヤワルダナ元首相(のちに大統領)の話は、スリランカ人で日本国籍を取得した社会学者でタレントの”にしゃんた”さんのYahoo Newsで知った。

上のことばは下のブッダのことばに由来する。ジャヤワルダナ首相は敬虔な仏教徒であった。

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。  『ダンマパダ』(中村元訳『原始仏典』より)

中村元『古代インド』第11章にセイロンの歴史がまとめられている。

セイロンに仏教が本格的に渡ったのはやはりアショカ王の時だったようである。紀元前3世紀にアショカ王の子マヒンダがセイロンに派遣されたとき、修行僧を伴い仏教を確立した。この仏教はもっとも保守的な上座部仏教であった。セイロン王はミヒンタレーに石窟寺院を建て、ブッダガヤーの菩提樹の枝をもってきてアヌラーダプラ霊場に植えた。この菩提樹は現在世界最古とされている。同じころ、アショカ王からブッダの骨をもらいうけたセイロン王はトゥーパーラーマ塔を建て中に骨を納めた。伝説によるとブッダはセイロンを3度訪れ、その3回目にケーラニア河畔にあるケーラニア(Kelaniya)寺院に留まったとされる。ジャワルダナ元首相は2006年94歳で死去し、コロンボ郊外の聖地ケーラニア河畔で火葬にふされ本人の希望により遺灰は川に流された。ブッダは、死に臨み弟子のアーナンダに”私の遺骨にかかずらうな”と遺言する。ジャワルダナ元首相はブッダの遺言を知っていて散骨を選んだのではないかと思う。アーナンダらブッダの弟子たちはブッダの意に反し、遺骨を分配しストゥーパを建てて安置し長く供養する。

その後、セイロンの仏教はマハーヴィハーラ(大寺)において保守的な上座部仏教が、それから分派した進歩的な諸派はアバヤギリ・ビハーラ(無畏山寺)において発展した。紀元前1世紀のセイロン王はアヌラーダプラに大塔と九層の布薩堂を建て、その式典に諸外国の使節を招いた。5月の満月の日の祭りであるVesak祭りはこのときに始まる。4世紀のマハーセーナ王はこれら仏教を保護するとともにその頃セイロンに伝わった大乗仏教を大寺内に建てた祇園寺において保護する。410年から412年までセイロンに滞在した法顕は僧徒5000人が無畏山寺で行う仏歯祭りのことを仏国記に記している。7世紀、玄奘三蔵はシンハリ国で仏教が盛んだと聞き、海を渡って行こうとするが、ちょうど国が乱れ仏教徒がインドに逃れてくるのに出会い、シンハリ国へ行くことを断念する。南インドの金剛智(671~741)と不空(705~774)の両人は同じく7世紀に無畏山寺を訪れ国王の歓待を受ける。その後両人は中国に真言密教を伝える。中国に伝えられた真言密教は空海によって日本に伝えられる。

スリランカの住人の多くは今も仏教徒であるが、インドでは仏教が滅んでしまった。中村元が書いているインドで仏教が滅んだ理由は以下のとおりである。

  1. 仏教はもともと合理主義的で哲学的な宗教であり、一般に受け入れられにくい傾向があった。
  2. 仏教は呪術・魔法のようなものだけでなく、古くからインドに根付く民族宗教であるバラモン教の祭祀も排斥した。
  3. 伝統的なカースト制度に反対し、人間は平等であると唱えた
  4. バラモン教に帰依している一般大衆から離れ、独善的・高踏的(お高くとまる)ようになった。
  5. 僧侶は民衆から離れ、寺院の奥で瞑想するか学問するだけになり、民衆の苦しみに寄り添い救済する精神に乏しかった。伝道精神に欠けていた。
  6. 仏教教団は王侯貴族の寄進で運営され、大衆に働きかけることをしなかった。
  7. 320年成立のグプタ朝では、仏教を弾圧し、仏教教団への支援がなくなり仏教は急速に衰えた。
  8. 王侯からの支援がなくなり、仏教は大衆に迎合するようになり、呪術などの当時の民間信仰を取り入れ経典読誦の霊験・功徳を称揚する密教が興った。
  9. 飲酒や姦淫を認めるタントラのような変容が仏教を堕落させた。
  10. 在俗信者と密接な関係を構築しなかった。すなわち、日本のように家庭生活の内部に宗教的儀礼を持ち込まず、民衆を積極的・組織的に指導しなかった。
  11. イスラムによる徹底的な破壊を受けた。

左より、スリランカの国旗、インドの国旗、インドの国章

不思議なことに、スリランカにはライオンは生息していないが国旗に獅子が描かれる。さらに不思議なことに、仏教が衰退したインドの国旗に、アショカ王石柱に刻まれた転法輪(説法)が描かれる。初めて説法したサールナートが初転法輪であり、仏足石にも法輪が描かれている。インドの国章はアショカ王がサールナートに建てた石柱の獅子柱頭であり、この台座にも転法輪がある。


ダイバーシティー

2014-08-23 09:58:40 | 話の種

生物多様性(Biodiversity)は、種の多様性を指すだけでなく、生物が生息する環境である空気、水、大地が相互に深く影響しあっていることから、生態系すなわち環境の多様性をも含む。環境が破壊されると新しい環境に順応できない多くの生物は死滅し単一化が進む。そのため、生物多様性は地球環境が保全されているかどうかの指標と言われている。クローン技術は生物多様性に対立する技術であるということは以前書いた。

人間社会で進むグローバリゼーションでは、貿易の発展、資本の流動化、ネットワークや交流の促進、制度や基準の均一化による効率化など主に経済分野での効用が言われる。しかし、グローバリゼーションは地球規模で文化の画一化や思考の単一化をもたらす負の側面をもち、多様性(Diversity)と対立する。生態学のバイオダイバーシティーを人間社会に持ち込むなら、グローバリゼーションは各地域に住む人々に育まれた精神、文化、習慣の破壊である。食文化のマクドナルド化、スタバ化である。世界中で個性がなくなるということである。教育現場なら、授業を進める先生にとって生徒が皆従順ならこれほどたやすいことはない。しかし、それではエジソンやアインシュタインは生まれないと言われる。

企業統治は統制的であることがもっともたやすい。法家の韓非子のように規則で社員をしばり、多様な意見を封じ込め、営利活動にまい進させることが最も効率的である。反対意見をもつ社員は、効率化を阻害する異端者として排除する。しかし、企業内の多様性が失われると、個人の自由な発想になる新しい技術や企画は生まれにくくなり、結局、企業内停滞がおこり時代の変化に適応できなくなる。そんな企業は社会から退場を余儀なくされる。NASAは外的環境の変化に柔軟に対応するため、集中的・集権的管理から分散型・分権型に変わってきていることは以前書いた。

中世のカソリック教会に異端審問という制度があった。カソリックの教義に反する意見を異端として審査し、地動説を異端とした迫害は有名だ。政治が戦前の大政翼賛会のような状態になると、異端意見は排除される。政府による思想統制が強まり、反対意見を言うものは反体制派、反社会派の烙印を押され、警察や憲兵によって逮捕され投獄され社会から抹殺される。反対意見を持つ政治家や思想家はテロが怖くて反対意見が述べられなくなる。統治者にとって、非統治者は単純なバカであることがもっとも御しやすい。一方で、単純なバカが統治者側になると怖い。ダイバーシティーを認めなくなるからだ。異端意見をもつものを排除することを魔女狩りというが、ネット上での異端意見への極端な攻撃や言論の封圧も魔女狩りのようなものである。意見の多様性を認め、自由な発言を許す環境を大切にしたいものだ。

個人のダイバーシティーがもっとも必要とされない組織が軍隊である。兵隊は意思を持たない将棋の駒として扱われる。

小選挙区では選挙で公認されるかどうかという生殺与奪を党に握られた議員は身動きが取れず、党に反対意見を言えなくなり保守派ばかりになりリベラルな議論ができなくなると、どこかの新聞記事にあった。シンガポールの選挙制度は小さな国土をさらに細分化した極端な小選挙区制で、得票率が6割の与党が議席の9割を占める。野党得票の3割近くが死に票になっているということである。シンガポールの与党議員は皆同じ意見を述べ、政府に反対する意見は出てこない。日本の与党も同じ状況になっている。集団的自衛権に賛成した連立する党は党是を変えてまで連立維持を優先した。現在の選挙制度で、選挙区の有権者数で定員を決めることにも反対である。それだと、都市選出議員ばかりが増え、都市に有利な政策ばかりが推進され地方が顧みられなくなる。ふるさと納税は素晴らしいが、日本全国で東京化が進んでいるような気がする。最高裁判所は何を根拠に定員較差を2倍以内とするのかわからない。1票の重みというが、なぜ3倍でなく2倍なのか、科学的な根拠があるのだろうか。地方の村(コミュニティー)に住む住民の1票は、都会のマンションの住人よりも重いに違いないのである。象1頭とアリ1匹を比べているようなものだ。だから、選挙区定数は面積比でもいいと思う。今、政治と社会のダイバーシティーを目指すなら中選挙区に戻すべきである。

結局、何が言いたいかというと、管理統制はきらいだということである。


アショカ王

2014-08-16 15:52:52 | 仏教

終戦の日前後は、毎年、戦争特番や関連記事が多くなる。NHKの『狂気の戦場ペリリュー』はあまりに悲惨だった。ペリリュー島をフィリピン進行の重要拠点と考え島を確保しようとするアメリカは最強と言われる第1海兵隊を、そこを絶対防衛線と位置づける日本軍はこれも最強の関東軍を送り込み、両者は激しい肉弾戦を繰り広げた。日本軍は飛行場奥の石灰岩の岩山内に地下陣地を築き持久戦、ゲリラ戦を仕掛けた。戦闘は1か月以上続き、アメリカの別働隊がフィリピン上陸を果たしたため、島には戦略的な価値はなくなった。しかし、大きな犠牲者を出し島から退去することもできたアメリカ軍は、戦略的価値がなくなった時点でも病的な執拗さで無益な戦闘を継続した。日本軍もまた持久戦を命令され投降も玉砕も禁じられていたため戦闘をやめようとはしなかった。日米双方の戦死者は増え、闘いを続ける兵士たちは周囲に累々と放置され悪臭を発する死者の山にも無関心になり、恐怖と憎悪で徐々に人間性を失い精神錯乱する者が多数出てくる。日本兵は1万人以上が戦死し残り数十人となり食料も尽きた中で大将が自決、米軍も日本軍並の死傷者を出し戦闘は終了する。ペリリュー島で生き残った日米双方の兵士たちは、70年経った今も島での悪夢にうなされると証言した。番組の中の映像はあまりにもショッキングで地獄そのものだった。これが戦場であり戦争なのだ。

以下はブッダのことば『スッタニパータ』中村元訳の一節である。上原和が『世界史の中の聖徳太子』で引用している。

水の少ないところにいる魚のように、慄(ふる)えている人々を見て、また相互に反目している人々を見て、私に恐怖が起こった。

まさに、ペリリュー島にいる日本とアメリカの兵士たちのことである。そしてブッダはこんなことも宣言している。

言い争う人々を見よ。杖を執ったことから恐怖が生じたのである。わたくしがどのようにしてそれを厭(いと)い離れたか、厭い離れることを宣(の)べよう。

杖(武器)を持った瞬間から人々に恐怖が生じる。恐怖は暴力に向かう。ペリリュー島の日本軍に持久戦を指示したかもしれない大本営の瀬島隆三は、後日『大東亜戦争の実相』の中で、”軍備増強は戦争抑止には向かわず戦争促進に直結する”と、はっきりと述べている。最近の政府与党の一連の動きに不安がいっぱいになる。

紀元前3世紀のインドに現れたアショカ王(紀元前268-232)は仏教を篤く保護したことで知られる。アショカ王は長兄を殺してマウリア朝3代目の王として即位し、即位した当初は悪逆非道の君主で征服と殺戮を繰り返す。ところが、インド東部の国カリンガとの戦い以降、深く仏教に帰依するようになる。カリンガの戦いでは10万人を殺害し、15万人が捕虜として他の地方に移送された。戦闘員ばかりでなくその数倍の人々が死に、そこには多くの仏教の僧侶やバラモン(バラモン教のちのヒンズー教の司祭階級)が含まれていた。アショカ王は自身の詔勅文でそのときのことを書き残している。植村清二『アジアの帝王たち』に訳文が載っているが文語調で格調高すぎて意味がよくとらえられないので以下それを要約した。

アショカ王は即位8年にカリンガを征服した。15万人が捕虜となり、10万人が殺戮され、その数倍の衆が死んだ。カリンガ征服以来、自分は熱心に法(ダルマ)を護持、帰依し広めた。自分はカリンガ征服に痛恨を感じる。征服戦争で避けられない人民の殺戮、死傷、捕虜に自分は深い悲痛と悔恨を感じる。今このような国に住む善良な人々は惨虐、殺戮、離別に会い苦しみ、その悲しみは消えない。自分はこのような災禍をもたらしたことを後悔する。カリンガで殺戮され死んだ人民の百分の一あるいは千分の一の損失も今の自分には耐えがたい。

”以降王は正法の使徒をもって任じ、道路に樹を植え、井泉を掘って旅客に利便を与え、灌漑施設を完備し、医療設備を普及して人民の安寧幸福を計った。治民行政にはとくに意を用い、特別の管理を任命して領内の政治を巡察監督させ、その施政方針を示した勅命を領内いたるところの岩石石柱に刻銘して、王の趣旨を徹底させた”宮崎市定『アジア史概観』より。石柱や岩石に刻まれた詔勅文には以下が記載されている(佐藤圭四郎『古代インド』より)。

  • 生類の生命を重んじること(不殺生)
  • 法(ダルマ)の実践に励むこと
  • 官吏の義務と辺境人への教え
  • アショカ王が布施や供養を行ったこと
  • 自己反省が重要であること
  • 刑罰が公正でなければならないこと
  • サンガ(僧団)のおきてを破ったものを追放すること
  • 外道(他の宗教)に寄進したこと

臣下に宛てた以下のような指示が残っている。

すべての人民は自分の子であり、現世も後世も幸福と栄誉を享けることをねがう。

仏法僧の三宝に帰依することや、官吏の心構え、刑罰の公正など、十七条の憲法”便(すなわ)ち財在るものの訴は、石をもて水に投ぐるが如し。乏(とも)しき者の訴は、水をもて石に投ぐるに似たり。”すなわち、金持ちの訴えは100%受け入れられるが、貧乏人の訴えは100%退けられると言う裁判の公平と法の平等の重要性を説く聖徳太子のことばに似ていることは驚くばかりである。当然のことながら、上原和は『世界史上の聖徳太子』でアショカ王と聖徳太子を重ねる。アショカ王の悔恨と若き日の権力闘争での”血塗られた手”を後悔する聖徳太子と、その後の二人の生き方である。

仏教に帰依したアショカ王は、八つの仏舎利に治められたブッダの骨を八万四千に分骨しインド各地に仏舎利塔を建てた。玄奘三蔵法顕は、アショカ王が建てた石柱やストゥーパ(仏舎利)、摩崖刻文を祇園精舎(シュラーヴァスティー)、クシナガラ、サルナート、パータリプトラ(マウリア朝の首都)、カピラヴァストゥ、ルンビニーなどブッダゆかりの地で見て記録している。


玄奘三蔵

2014-08-10 01:07:52 | 仏教

西遊記の三蔵法師のモデルである玄奘三蔵は602年河南省陳留に生まれ、幼くして出家し多くの経典を学んだ。その内容に多くの疑義があり、法顕のようにインド(天竺)へ行って仏教経典を学び疑問を正したいと思うようになった。そして628年、26歳の時、インドに向けて一人長安を出発した。隋の煬帝の即位が604年、隋が滅んだのが618年なので、法師は隋末から唐初の動乱期に仏教勉学に励んだのである。帰国後書いた地理書が『大唐西域記』で、それが小説『西遊記』のもとになった。また、弟子の慧立(えりゅう)と彦悰(げんそう)が法師の旅行記『大慈恩寺三蔵法師伝』を書いた。その前半部を長澤和俊が訳した『玄奘三蔵 西域・インド紀行』を読んだ。

三蔵法師は約200年前の法顕と同じように長安を出立し河西回廊を通り西域に入る。法顕が玉門関を通りタクラマカン砂漠の南、天山南路を辿ったのに対し、法師は天山北路を通りサマルカンドとプルシャプラ(ペシャワール)を経由してインドに入る。630年にバーミアンに立ち寄り、高さ150尺の立石像と長さ1000尺の釈尊の涅槃臥像を見ている。当時の1尺が今と同じ30㎝だとすると、立石像は高さが45m、涅槃臥像は長さ300mということになる。タリバンが2001年に破壊した磨崖仏2体の高さは58mと35mなので、法師が見たのはおそらくこのどちらかである。300mの涅槃臥像を見つけたという未確認情報があるが真偽は定かではない。法師は途中の国々で足止めされるなどし、3年の歳月を費やしてインドにたどり着く。

 

『玄奘三蔵』の中にあった上下の地図はスキャンが手元になく、アイフォンで撮ったので、歪んでしまった。 

マガタ国周辺地図

 この本を読んだ最大の理由は、玄奘三蔵がブッダゆかりの地・仏跡をどう見たか、200年前の法顕の時代からどう変貌したかを知ることである。

祇園精舎

シュラーヴァスティーの周囲は6000余里、伽藍数百、僧徒は数千人おり、ともに正量部(しょうりょうぶ=小乗の部派仏教のひとつ)を学んでいる。城内にはスダッタの屋敷跡があり、城の南5~6里にジェータ林(スダッタが金貨を敷き詰めた逸話のある林)がある。すなわち祇園精舎で、むかしは伽藍があったが、今はすっかり崩れている。東門の左右に石柱があり、高さは70余尺でアショカ王が建てたものである。

カピラヴァストゥー

国の周囲は4000余里あり、都城の周囲は10余里、ともにみな荒れ果てている。宮城はまわりが15里あり、煉瓦造りできわめて堅固である。内部にスッドーダナ王(ブッダの父)の御殿の遺跡があり、その上に寺を建て、中に王の像が置かれている。その北の遺跡はマーヤー夫人の寝殿で、ここにも寺を建てて、内部に夫人の像を祀ってある。そのそばにも寺があるが、ここは釈尊菩薩が母胎に降臨された所であり、内部に菩薩降生の像が置かれている。

クシナガラ

この国もきわめて荒れ果てていた。城内の東北隅にストゥーパがあり、アショカ王の建てたものである。ここはチュンダ(彼が給した茸料理でブッダは激しく下痢をする)の邸の跡である。邸内に井戸があり釈尊に食事を作るために掘ったものといい、いまも水は澄み映えている。町の西北3,4里でアジタヴァティー河を渡り、河岸近くに沙羅の林がある。そこには4対のほぼ同じ高さの木があり、ここが如来の涅槃し給うたところである。そこに大きな煉瓦の精舎があり、内部に北枕に横たわる如来の涅槃像があった。かたわらに大ストゥーパがあり、高さ200余尺でアショカ王の造ったものである。また仏涅槃の事跡を記した石柱が立っていたが、年月は記してなかった。

サルナート(鹿野苑)

台観は雲に連なり、四方に長い廊下が連なっている。ここには僧侶1500人が住み、小乗正量部を学んでいる。伽藍内に寺院があり、高さは百余丈(30m強)、石の階段や煉瓦の仏龕(ぶつがん=仏像を安置するための小室)の層数は百数階あり、仏龕にはみな黄金の仏像を浮彫してある。内部には真鍮製の仏像があり、この仏像は大きさは如来の等身大で、初転法輪(ブッダが初めて仏教の教義を説いた)の有様をうつしている。寺院の東南には石のストゥーパがあり、高さ百余丈でアショカ王の作である。その前に高さ七十余尺の石柱があるが、こここそ釈尊が初転法輪された場所である。

ブッダガヤ

(ブッダが下に座り悟りを開いた)菩提樹の囲いは煉瓦を積み重ねたもので、きわめて高く堅固で、東西に長く南北にやや狭い。正門は東方に開いてナイランジャナー河に対し、南門は大花池に接し、西は険しい丘に閉ざされ、北門は大伽藍(大覚寺)に通じており、その中に聖跡が連接し、あるいは寺院、あるいはストゥーパがあり、これらはともに諸王、大臣、富豪、長者が釈尊を慕い、きそって営造したもので、それぞれの名を残している。これらのまん真中に金剛座がある。天地開闢のとき、大地とともにできたものである。これは三千大世界の中央にあり、下は金輪を極め、上は地の果てに等しく、金剛で形造られ周囲は百余歩である。菩提樹は、如来ご在世のときは高さ数百尺であったが、このころはたびたび悪王のために伐採され、いまは高さ五丈あまりにすぎない。

パータリプトラ

アショカ王はすなわちビンビサーラ王のひ孫で、王舎城から遷都してここへ来たのであるが、遠いむかしのことなのでいまはただ遺跡が残っているのみである。かつては伽藍数百といわれたが、いま残っているのは2,3しかない。このもとの宮殿の北方、ガンガー河の岸辺に、千余戸の家々をもつ小城がある。同じ方向に高さ数十尺の石柱があり、ここはアショカ王が地獄を作った所である。法師はこの小城に7日間滞在して仏跡を巡礼した。地獄の南にいわゆるアショカ王の八万四千塔の一大ストゥーパがある。つぎに寺院があり、内部に釈尊が踏んだ石(いわゆる仏足跡)がある。石の上には釈尊の両足の足跡があり、長さ一尺八寸、広さ六寸で、両足の下に千幅輪相(仏の32相のひとつ)があり、10指の端には万字、花文(けもん)、瓶、魚などがいずれもはっきりとみえている。こここそ釈尊がヴァイシャーリーを出発して河の南岸の大きな方形の岩の上に立ち、アーナンダを顧みて、”こここそは私が最後に金剛座と王舎城を望んで留まった跡である”といわれたときのものである。

ナーランダー寺

三蔵法師が5年滞在し学んだナーランダー寺は荘厳で、当時客僧を入れてつねに1万人の僧侶がいて、大乗を学び小乗を兼学している。ヴェーダ、医学、数学なども研究していた。建立以来700年になるという。法師は正法蔵すなわち戒賢法師(シーラバドラ)に師事し、『瑜伽師地論』などの大乗経典を始め、小乗、バラモンを学んだ。

6人の皇帝がつぎつぎに隣り合わせに伽藍を建てたものをすべてに門を建て、庭を別々にして内部を八院に分けた。宝台は星のように並び、玉楼はあちこちにそびえ、高大な建物は煙や霞の上に立ち、風雲は戸や窓に生じ、日月は軒端に輝く。その間を緑水がゆるやかに流れ、青蓮が浮かんでいる。ところどころにカニカーラ樹が花咲き、外にはマンゴーの樹林が点綴(てんてつ)している。諸院・僧房はみな四階建で、これらの建物は棟木や梁は七彩の動物文で飾られ、斗栱は五彩、柱は朱塗りでさまざまの彫刻があり、礎石は玉製で文様が美しく刻まれ、甍は日光に輝き、垂木は彩糸に連なっている。インドの伽藍数は無数であるが、このナーランダー寺ほど壮麗崇高なものはない。(7世紀のナーランダー寺の荘厳で色彩豊かな天国のような様子が眼前に広がる)

丸山勇『ブッダの旅』よりナーランダー寺院跡

ラージギル(王舎城)

 四方はみな山で、険しいことはあたかも削ったようである。西に小道を通じ、北方に大門があり、東西に長く南北に狭く、周囲は百五十里あまりである。その中にさらに周囲三十余里の小城がある。カニカーラ樹がところどころに林をなし、いつも花開いて一年中花のないときはなく、葉は金色のように映えている。宮城から東北へ十四、五里ゆくと霊鷲山(グリドウラクータ山)がある。

法師はインド滞在中、南部を含めインド各地を旅し仏跡を訪ねる。小乗仏教、バラモン教、ジャイナ教の僧侶と論争するもその学識に敵うものはなく法師の学識はインド全土に知れ渡り、法師を失うのを惜しむ戒日王は引き止めようとする。中国に仏教経典をもたらすという法師の強い意志は固く、戒日王も承諾せざるを得なくなる。そして往路と逆方向にインド北西のヒンドゥークシュ山脈を越え、その後は北路ではなく天山南路をたどり、玉門関を抜け、645年長安の地を踏む。628年に長安を出て以来18年目のことであった。帰国後の法師は、『大唐西域記』を記すとともに、『瑜伽師地論』、『摂大乗経』、『金剛般若経』、『大般若経』などの経典翻訳に一生をささげ、664年に63歳の生涯を閉じた。 


NASA

2014-08-02 12:47:19 | 

テキサス・ヒューストンには、NASAのジョンソン宇宙センターがある。先月のヒューストンの旅でNASAに行ったわけではないが、道中の暇つぶしに、佐藤靖著『NASA-宇宙開発の60年』中公新書を読んだ。アメリカの宇宙開発の歴史を知るには最適な書だった。ニュースで知る華やかな宇宙開発の舞台裏が、膨大な現地資料をもとに書かれている。中で最も興味を引いたのは、システム工学を基本とした開発の推進とマネージメント論および組織論だった。

NASAの歴史概観

  • (1932年フォン・ブラウンのミサイル開発)
  • (1952年フォン・ブラウンの宇宙ステーション案)
  • (1957年ソ連人工衛星スプートニク打ち上げ成功)
  • 1958年NASA発足
  • 1958年有人地球周回飛行のマーキュリー計画開始
  • 1959年無人月着陸レンジャー・サーヴェイヤー計画と金星・火星接近のマリナー計画開始(JPL:ジェット推進研究所)
  • (1961年ガガーリンの有人宇宙飛行)
  • 1961年船外活動やドッキング技術のジェミニ計画の開始
  • 1961年有人月面着陸をめざすアポロ計画の開始
  • (1968年スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』)
  • 1969年アポロ8号の月面着陸
  • 1970年アポロ13号事故
  • 1972年アポロ計画終了
  • 1972年人工衛星ランドサット
  • 1972年火星・木星探査機パイオニア10号発射(JPL)
  • 1972年スペースシャトル計画開始
  • 1973年木星・土星探査機パイオニア11号発射(JPL)
  • 1973年スペースラボ計画開始
  • 1975年火星探査機ヴァイキング1・2号発射
  • 1977年天王星・海王星探査機ヴォイジャー1・2号発射(JPL)
  • 1981年スペースシャトル初飛行
  • (1983年SDI戦略防衛構想)
  • 1985年国際宇宙ステーションISS計画開始、日本は1988年より参加
  • 1986年チャレンジャー号事故、打ち上げ後まもなく空中分解し7名が犠牲になる
  • 1989年金星探査機マゼラン発射
  • 1989年木星探査機ガリレオ発射
  • 1990年ハッブル宇宙望遠鏡設置と不具合の発覚、1993年修理成功
  • 1993年ISS計画にロシア参加
  • 1997年土星探査機カッシーニ発射
  • 1998年火星探査の推進
  • 2003年コロンビア号事故、地球帰還で大気圏突入後空中分解し7名が犠牲になる
  • 2006年冥王星探査機ニュー・ホライズンズ発射、15年接近予定
  • 2009年ケプラー宇宙望遠鏡
  • 2011年ISSの建設完了とスペースシャトル終幕
  • 2011年木星探査機ジュノー発射、16年接近予定

フォン・ブラウン

1912年ドイツ生まれ。1932年よりドイツ陸軍の支援でロケットの研究開発開始。V-2ミサイルの開発。ドイツ降伏直前、フォン・ブラウン率いる技術者127名は米軍に投降し、戦後は米国陸軍でミサイル開発を続ける。1950年より弾道ミサイル「レッドストーン」の開発。1956年陸軍弾道ミサイル局開発事業部長に就任し、IRBM「ジュピター」を開発する。1958年人工衛星エクスプローラー1号打ち上げに成功する。1960年NASAマーシャル宇宙飛行センターの初代所長となる。

システム工学

NASAはワシントンの本部を含め全米に11か所のセンターがあり、それぞれ独自の開発目標を持ち独立して運営され、また、ある部分では技術的に密接に補完しあっていた。そのため、月面着陸を目指すアポロ計画のような多くの技術を統合して推進しなければならない巨大プロジェクトでは、統合的に管理しなければ、その実現は難しいと判断された。燃料ロケット、月着陸船、司令船など各部位の開発や宇宙飛行士の訓練、管制システムなどの進捗状況をフォローし、各部門間のインターフェースを調整したものがシステム工学である。システム工学は、コストやスケジュール管理も行い、システム管理を担うシステム技術者は、幅広い技術分野の理解と共に、管理能力や調整能力が要求される。アポロ計画の成功はシステム工学が支えたと言われている。

具体的には、開発する技術を文書化し、技術的な問題点を明確化しフォローする。そのため、システム工学は管理の集中化と簡易化、すなわち官僚化が必然である。ところが、宇宙飛行管制は、飛行時に突発的に発生する事象に対して管制官の経験による判断と実践が重要なのは明白であり、事前に準備されたシステム工学的シナリオによる判断では対応できないのは明白だったため、システム工学的な管理手法と実践経験的な手法の両方を取り入れた管理が必要だった。

ソ連との宇宙開発競争での度重なる方針転換や、アポロ計画からスペースシャトルへの転換、チャレンジャー号の事故処理などのNASAの歴史は、システム工学では対処できない修正と決断の連続であった。我々の日常業務でも技術の専門化と細分化が進んでいるため、プロジェクトすべてのシナリオを文書化することは不可能である。せいぜい各項目で基本的なスケジュール管理表を作成しそれに沿って仕事を進める。プロジェクト推進中には、対外的あるいは内部の突発的な問題によって必ず当初の想定とは異なる事態に遭遇し、絶えず修正が加えられる。プロジェクトの成否は、結局、修正判断を下す指導的立場の個人の分析能力、修正能力や決断力に依存している。

昨今のNASAは、官僚的な集中型・集権型から、分散型・分権型のシステムに変貌している。科学技術は高度に複雑化し、政治的・経済的な外部環境の変化は大きく、統一的管理よりも各開発センターの創造性や独立性を重視したモジュール開発がリスクを分散させる上で有利だということである。

ヒューストンの空港でアイスクリームの宇宙食を買った。乾燥しパサパサでとてもアイスクリームとは思えない代物だった。