備忘録として

タイトルのまま

天平の甍

2011-09-27 22:49:32 | 古代

 昨年の上原和の講演以来ずっと、唐招提寺に行かなければと思っていた。やっと願いが叶い、9月の連休を利用して奈良、京都旅行に駆け足で行ってきた。21日朝、東海道を上ってくる台風15号に突っ込むように京都に向けて旅発った。日頃の行いがいいという証拠に私の乗った新幹線は浜松で5分ほど停車しただけで、ほぼ予定通り昼過ぎには奈良の西ノ京駅に降り立つことができた。あと2時間東京を出るのが遅ければ新幹線は運航休止になっていた。西ノ京駅を降りた時に降っていた小雨も、唐招提寺の南大門をくぐるころには、すっかり上がり青空ものぞきはじめた。南大門から”天平の甍”鴟尾(しび)を頂く金堂の写真を撮った。金堂内には、本尊の盧舎那仏を挟んで、薬師如来像と千手観音像が安置されているが、関心は脇を守る梵天、帝釈天と四天王に向かう。唐招提寺には塔がない。その代りなのかどうか鑑真がある。井上靖の”天平の甍”を顕彰する記念碑は天平の甍がブームになったころに建てられたのだろうが、今は顧みる人も稀なのか案内板もなく鑑真廟内にひっそりと苔に覆われている。

 下の写真は鑑真和上像が納められた御影堂と芭蕉の”御目の雫(しずく)”の句碑である。上原和が御影堂の中で一日中対座し、”御目の雫”を数えたという鑑真和上像を見たかったが、鑑真和上像の開扉は毎年6月の数日に限られる。その日は見物人の長い行列ができ何時間も並んだあげく鑑真像と対面できるのは須臾の間しかないらしい。鑑真和上像写真は唐招提寺のWeb siteより拝借した。

 台風の所為だろうかその日唐招提寺を訪れた人は少なく、寺の奥まで来る人はさらに減って御影堂から鑑真廟までは静寂に包まれていた。鑑真廟には当時中国首相だった趙紫陽が訪れたためか中国風のと花瓶が飾られていた。

 前にも書いたが、松本清張は鑑真の足跡を記した”大唐和上東征傳”の内容は信用できないと言ったらしいが、鑑真渡来から100年後に唐に渡った円仁の日記に鑑真の旅を記録する寺に立ち寄ったことが書かれており、鑑真の苦難の旅は疑うべくもないのである。確か松本清張は、邪馬台国の所在地を探すことに時間を費やすのは無駄だからもうやめようと言ったり、”写楽・考”での写楽は誰かという推理も論理性に欠け、”ハテ?”という印象だった。切れ味鋭い推理をこの著名な推理小説家に期待して、かつて彼の古代もの歴史ものを数多く読んだが、のちに出会った上原和や梅原猛の著書とはほど遠いものだった。


ラーマーヤナ

2011-09-23 00:30:06 | 東南アジア

 写真はバンコク空港のDeparture Hallでにらみを利かす巨人象Phu Yakである。19日アユタヤの目と鼻の先まで行ったが、日本から一泊1日1機中泊の駆け足出張だったので観光はなし。7月の出張はシンガポールから日帰りだったのでこちらも観光なし。バンコクへは1991年の学会で初めて訪れエメラルド寺院で有名な王宮を観光したが、王宮の門番としてPhu Yakが立っていた。そのとき王宮の回廊の壁に延々と描かれたラーマーヤナをみて、仏教国でヒンズー教の叙事詩ラーマーヤナが取り込まれているのに驚いた。王宮には他にもヒンズー寺院のアンコールワットの大きな模型が置いてあったり、キンナリーという鳥人がいたり、Yakがいたりして、タイ仏教はインド文化の影響を色濃く受けている。インドネシアのバリ島は土着宗教とヒンズー教が結びついた独自の宗教を信仰する。東南アジアではベトナムが唯一中国文化の影響を受けている。

 ラーマーヤナは、ヒンズー教のビシュヌ神の生まれ変わりのラーマ王子がランカ島(セイロン島)を支配する魔王トッサカン(ラーヴァナ)にさらわれた夫人のシータ妃を救い出すため、猿の軍団の助けを借りてトッサカンとの大戦争を制し、シータ妃を助け出すという壮大な叙事詩である。タイに渡ったラーマーヤナは、タイ風にアレンジされて、”ラーマキエン”という叙事詩に書き換えられた。王宮の回廊で観た壁画は実はタイ風のラーマキエンだったのである。ラーマーヤナのクライマックスは、ラーマ王子と魔王トッサカンの一騎打ちだが、この場面をとって日本の桃太郎伝説はラーマーヤナ起源だという説があるらしい。写真のPhu Yakは、どうもこのトッサカンらしいのだがネットで確認したが確かな情報が得られず、WikiのPhu Yakはタイ語バージョンしかなく、その素性は定かではない。ラーマ王子が戦った最大の敵がラーマ王の治めるタイ王宮の門番をしているというのが不思議だが、桃太郎が鬼を退治した後、改心した鬼を家来にして家を守らせたと思えばいいのかもしれない。Phu Yakの周辺を整理してみた。

  1. Phu Yakとトッサカンは同一人物。
  2. トッサカン(ラーヴァナ)はラーマーヤナに登場するセイロン島のラークシャサ(羅刹)一族を治める魔王の一人
  3. 羅刹または羅刹天はラークシャサを仏教にとりいれた護法善神である
  4. Yakは夜叉と同じ。夜叉(Yaksa)は、インド神話に登場する鬼神で、仏教にとりいれられ護法善神になる。
  5. 夜叉は毘沙門天の眷属
  6. 羅刹天と夜叉はともに毘沙門天に仕える
  7. 毘沙門天またの名を多聞天(北)といい、持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)と並ぶ仏教の天部である四天王(武神)、4人の守護神のひとり。帝釈天に仕え須弥山の四方を守る。
  8. 帝釈天は梵天と並び釈迦を助ける仏教の2大護法善神。
  9. 帝釈天はバラモン、ヒンズー教の神インドラ
  10. 東大寺など寺門を守る金剛力士像もYakの流れ

助け出されたシータ妃のその後に関し、インドのラーマーヤナは悲劇となるが、タイのラーマキエンはタイの王様が最後を書き換えたのでハッピーエンドである。

 ラーマキエンは、タイ国王のラーマ1世(1782-1809)が戯曲を完成させ、ラーマ2世が上演用の戯曲にし、ラーマ6世がラーマキエンと名付けたとされるように、タイ王室と縁が深い。現在のチャクリー王朝は、1世から現9世まで全員がラーマという名前である。現国王がラーマ9世、映画”王様と私”の王様は、ラーマ4世(1851-1868)がモデルとされる。映画”王様と私”1951、主演:デボラ・カーとユル・ブリンナーのミュージカルはアジア蔑視があるということでタイでは上映禁止だという。”アンナと王様”1999、主演:ジョディー・フォスターとチョウ・ユンファも観ているが、両方とも★★☆☆☆。”王様と私”でデボラ・カーとユル・ブリンナーが踊るミュージカルで使われた曲を題名にした周防正行監督の”Shall We ダンス?”は面白かった。ハリウッド版でリチャード・ギア主演の”Shall We Dance?”は、オリジナル版とほぼ同じ脚本で竹中直人と同じかつらの同僚ダンサーもいて面白かった。こちらは、セットで★★★★☆。

 今、遅い夏休みをとり、奈良・京都の旅の途中である。この記事も京都の宿からUpした。唐招提寺、薬師寺、延暦寺を回り、明日は天智天皇陵や銀閣寺の予定である。旅の記録は近々Up予定。


入唐求法巡礼行記・円仁

2011-09-17 10:58:46 | 古代

 昨年、天台宗・最澄の弟子・円仁の名が刻まれた石版が、中国河南省法王寺で見つかったというニュースが流れた。円仁が遣唐使として中国に滞在した時に記した日記”入唐求法巡礼行記”を研究分析したライシャワーの本「円仁 唐代中国の旅」を読んだ。 ライシャワーは子供のころのアメリカの駐日大使だった懐かしい馴染の名前である。

 円仁は、836年5月難波を出て瀬戸内海を通り、九州に向かう。4隻の遣唐使船が北九州から中国に向けて出港したのは7月(太陽暦で8月)のことだった。出港するとまもなく嵐に遭遇し、大きな犠牲とともにこの渡航は失敗に終わる。翌年837年8月に2回目の渡航が試みられるがこれも嵐に遭遇し失敗する。3回目は翌年838年で、このとき遣唐副使だった小野篁(おののたかむら)は仮病を使って出発を回避しようとしたのがばれて、隠岐に流されるという処分を受けている。逃げ出した留学生は他にも何人もいたように、渡航は命がけだった。小野篁は小野小町の祖父。838年夏の3回目の渡航は成功する。円仁は第1船に乗船し難波出港から日記をつけ始める。6月23日に五島列島を離れ公海に乗り出し、途中荒波に翻弄され、ぼろぼろの状態で揚子江の北の海外に漂着したのは838年7月1日だった。面白いことに海が荒れると、仏教徒の円仁が、土着神である住吉大神や海竜王に祈りをささげるのである。仏様には荒海を鎮める力はなかったらしい。

円仁らはその後揚州を経て運河や沿岸を船で山東へ向かう。山東にいる間に、帰国に失敗し、天台山へいく許可を取ることに失敗した円仁は840年唐の都・長安へ向かう。山東から西に向かい黄河を渡り、五台山に寄り長安に入る。長安には840年から845年まで滞在する。

円仁が唐滞在中に見聞きした話をいくつかあげておく。

  1. 冬至と元旦は季節の行事として同じように重要で三日間にわたり賀詞を交わし、一般人は寺に詣でる。もともと仏教の祭りだった7月15日の精霊祭は唐のこの時代すでに大衆的な祭りになっていた。
  2. 長安の資聖寺に滞在していたとき、一人の中国僧が”阿弥陀仏の浄土の教え、すなわち念仏の教え"を伝えるのを聞いた。法然や親鸞に先立つこと300年のことである。
  3. 揚州の竜興寺で、石碑の碑文に1世紀前に鑑真が日本に渡った旅の模様を幻想的に伝えているのを発見した。その内容は、大唐和上東征傳の内容に符合している。鑑真渡来の記録が1世紀のちの中国に残っている以上、松本清張が主張する鑑真渡来虚構説などありえないのではないか。
  4. 中国の仏教には宗派がなかった。
  5. 唐では大勢の新羅人や渤海人に会った。遣唐使の通訳は新羅人であり、山東には朝鮮系の寺院も多くあった。762年の多賀城碑には渤海からの距離が記されているので、8,9世紀の渤海人は中国や日本と頻繁に交渉をもっていたことがわかる。また、新羅人は白村江の戦いで唐と共同して倭と百済軍を破って以降、唐と深い関係をもったということが円仁の日記からよくわかる。遣唐使は友好的でない朝鮮沿岸を避けていたということも日記に書かれている。しかし、円仁は中国にいる新羅人には大いに助けられている。

唐では道教と仏教が盛んであったが、道教に傾倒した皇帝の武宗による仏教弾圧が始まり、結局、円仁は845年還俗と追放の処分を受ける。仏教弾圧理由は武宗が道教の狂信的な信者だったことに加え、仏教寺が非課税の荘園を多く有し国家財政を圧迫したこと、僧侶が華美な生活に堕落したこと、来世や涅槃などの儒教から見て非合理的な考え方を迷信として否定したこと、外来の思想であるという国粋的な理由などによるものであった。その年、円仁は帰国するために長安を発ち、洛陽、開封を通り揚州へ向かう。円仁の名が記された石碑の見つかった法王寺には、この時に立ち寄ったと思われるが、ライシャワーの本に法王寺の名は見つからなかった。円仁や遣唐使は中国内を主に寺院や官制の宿に泊まって旅しているので、法王寺もそのうちの一つであろうと思われる。そのうちに仏教弾圧を主導した武宗が死んだので、円仁はさらに847年まで唐にとどまる。

838年から9年間唐に滞在した円仁は、847年9月10日に九州に帰り着く。日記は、その年の12月で終わっている。円仁は794年生まれなので、唐に滞在したのは、44歳から53歳までのことであった。その後の円仁は比叡山延暦寺の座主になり、天皇に中国仕込みの受戒を行う。松島瑞巌寺は円仁が唐に渡る前の828年に開山しているが、山寺立石寺は帰国後の860年66歳の時に開いたとされる。円仁は857年には浅草寺にも訪れている。円仁は歳をとってからも精力的に活動し天台宗を日本最大の宗派に発展させる。また、鑑真が日本へ行くことを決意するのは55歳、幾時もの失敗の後、渡海に成功し唐招提寺を開いたのは71歳である。伊能忠敬も隠居後の55歳から日本地図を作り始める。この人たちの事蹟を見ていると、当方56歳、何でもできるような気がしてくる。凡人はそのときだけ盛り上がって、次がないかもしれないけど。

ライシャワーは、この本で円仁をマルコ・ポーロよりも偉大だとするが、ちょっと言い過ぎのような気がした。また、原本は英語でその訳を読んだわけだが、もとの英語が頭に浮かぶほどの直訳で、原著者の本来の主張が良くわかったのはいいのだけれど、日本語としては極めて読みづらいものだった。


裏窓

2011-09-03 20:42:38 | 映画

 ヒッチコックの「裏窓」を観た。主人公のJeff(ジェイムズ・スチュアート)といっしょに裏窓から今では陳腐な隣人の私生活をのぞき見しながら、彼ののぞき見趣味と妄想にあきれ、看護婦Stellaの”のぞきは6か月の禁固だ”という忠告にもっともだと思い、ただJeffを訪ねてくるLisa(グレース・ケリー)を観るためだけにがまんして鑑賞を続けた。(上の写真はいつものIMDbより拝借した。)そのうちセールスマンの妻がいなくなり、犬が殺されるあたりからサスペンスが深まり、映画の終盤は、セールスマンThorwaldの部屋に忍び込んだLisaに向かって”はやく部屋から出て!!!”と叫んでしまいたくなるほど映画に没入した。JeffやLisaと同じ傍観者から当事者のような気持ちにさせられるところが、ヒッチコックが名匠と言われる理由なのだろう。

以下、ネタバレしてるので、このブログを不幸にものぞき見した人はお気の毒様です。

 Jeffの推理から始まった妻殺しをセールスマンが実際に犯したかどうかが最後までよくわからなかった。友達の刑事Doyleが、”逮捕状をとった”とか”The East Riverに(死体を)探しにいく”と言ったので、おそらく犯人だとは思うのだけれど、映画ではきちんと説明されていない。Jeffの推理通りなら結局、何のどんでん返しもないサスペンスになってしまう。ヒッチコックがまさかどんでん返しのない映画を作るはずがないという先入観があるので、自分勝手に悩んでしまっただけかもしれない。それに、セールスマンが妻殺しなら、Jeffが眠てたときにセールスマンが部屋から連れて出た女は誰だったのかもわからない。セールスマンのアリバイ工作かもしれないが。

 ネットでネタバレを探してみたが、それでもよくわからない。そのうち、加藤幹朗という人が書いた「ヒッチコック『裏窓』ミステリーの映画学」なる”殺人が起きたとする証拠はどこにもない”と主張する本もあるというネタにも遭遇した。切羽詰まったので、アメリカのWeb-siteを探したら、映画の筋書きを、台詞ごと解説するサイトに出くわした。http://www.filmsite.org/rear.html ここのThe storyを追っていくと映画の最後近く、

Jeff sarcastically asks Doyle: "You got enough for a search warrant now?" The police yell down that Thorwald has confessed that he distributed his wife's body parts in the East River: "Thorwald's ready to take us on a tour of the East River."With morbid curiosity, Stella whispers a question to Doyle and learns that because the dog got "too inquisitive," Thorwald dug up Mrs. Thorwald's body parts from the flower bed and moved them to a hat box in his apartment. Asked if she wants to take a look, Stella replies: "No thanks, I don't want any part of it."

訳: Jeffは刑事に”捜索に十分な証拠を手に入れたね”とたずねると、刑事はうなずき、セールスマンが妻のBody partsを川にばらまいたと白状したので、”セールスマンを連れてEast Riverに(捜索に)行く予定だ。”と答える。看護婦は、犬が”知りすぎた”ので、セールスマンは花壇から妻のBody partsを掘り出し、部屋の帽子箱に詰めたのねと刑事に問いかけるのに、刑事が見たいかというのに対し、看護婦は”結構です。そんなもの(妻のpart of body)は見たくない”と答える。

という行にあるように、セールスマンが妻殺しであると断定している。” ”内は、映画の中の台詞だが、台詞だけに注目すると、加藤幹朗が言うようにセールスマンが妻殺しだとは断定できないかもしれないし、このサイトが映画の脚本家の認めた公式サイトかどうかも不明なので台詞以外の説明に信憑性があるかどうか保証の限りではない。それでも、セールスマンが犯人でないとするのは懐疑的すぎるように思う。結局、ヒッチコックは大どんでん返しの代わりに不明瞭な結末にして観客を煙に巻いたというのが本当のところだという気がする。「めまい」のキム・ノバックも良かったけど、グレース・ケリーはさらに美しいので、観終わったあとのすっきりしない感覚には目をつぶり、星ひとつおまけして、★★★★☆

 今回の機中映画は、「50 First Dates」のアダム・サンドラーのコメディーを2本観た。

「Just Go with It」2011、監督:デニス・デューガン、出演:アダム・サンドラ―、ジェニファー・アニストン、妻帯者だと偽って後腐れのない関係を求め独身貴族を謳歌する整形外科医が、素晴らしい女性に会い嘘を重ねるうちに、実は自分を一番理解してくれている人は身近にいたということに気づくというコメディー。アダム・サンドラ―の整形外科で働く子持ちのバツ1看護士(ジェニファー・アニストン)の二人の子供たちは、妻帯者と偽る外科医の子供にさせられる。外科医と仲のいい親子を演じる子供たちの演技が抱腹絶倒である。★★★★☆

「Click(邦題:もしも昨日が選べたら)」2006 監督:フランク・コチラ、出演:アダム・サンドラ―、ケイト・ベッキンセール、クリストファー・ウォーケン、この邦題は内容にそぐわず変だ。人生を早送りしたり、飛ばしたり、一時停止したりできるリモコンを手にした男の話。仕事のために都合よく時間を弄んだ末に家族との大事な時間をすっ飛ばしてしまい取り返しのつかない悲惨な結末を迎えるという教訓的なコメディー。★★★☆☆