備忘録として

タイトルのまま

阿国大瀧岳

2013-02-18 23:49:14 | 徳島

空海は「三教指帰」の序で、以下のように記述している。

阿国大瀧岳ニ躋リ攀ヂ、土州室戸ノ崎ニ勤念ス、谷響キヲ惜シマズ、明星来影ス。

空海は阿波の大瀧岳に登り土佐の室戸岬で修行し虚空蔵求聞持法を体得したという。口の中に金星(明星)が入ってきたことが法の体得を表すという。この大瀧岳には2説あって、ひとつは阿南市にある四国八十八カ所22番札所の太龍寺(たいりゅうじ)で、もうひとつは美馬市の北、香川との県境にある大瀧寺(おおたきじ)である。徳島に帰省したついでに後者の標高946mの大滝山山頂近くにある大瀧寺へ行った。

脇町から北に向かいツヅラ折りの山道を登っていくと途中から完全に雪道になった。雪があるとはまったく想定してなかったためスパイクタイヤを装着しておらず大滝寺の1kmほど手前で車はスリップし始め前進不能になった。そのため、同行者を車に残しひとりで雪道を歩き寺まで行った。大瀧寺は八十八か所には含まれず同じ日に行った5番札所地蔵寺や翌日行った1番札所霊山寺とは異なり参拝客はひとりもいなかった。梅が咲き始めた下界とは隔絶された白銀世界だったので、空海がよじ登って虚空蔵求聞持法を修行したというのもうなずけるが、もうひとつの大瀧岳候補である太龍寺に行ったことがないので今のところ何とも言えない。

  虚空蔵求聞持法とは真言(マントラ)を100日で100万回唱えれば抜群の記憶力が備わるという修行である。空海は24歳のときの著作「三教指帰」で室戸で金星が口に入ったと述べているので、、あらゆる経典を記憶することが可能になる虚空蔵求聞持法を若くして体得したことになる。大瀧寺境内に上のサンスクリット文字の掛布が飾られていたが、これが空海の唱えた真言かどうかはわからない。また、虚空蔵菩薩の真言は、”Namo akasa-garbhaya, Om alika mali muli svaha”であるが、これを唱えたのかどうかもわからない。真言宗では発願を真言で直接仏に働きかけることから音が重要であり、サンスクリット語のままに唱える。真言宗は真言を重視することから名付けられた。般若心経の「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅儈掲帝 菩提儈莎訶」も真言である。


2013-02-12 00:11:13 | 映画

シンガポールは中国正月で休日が続くということもあり帰国して3連休をとっている。入院中の愛犬の見舞いに行き、撮りためていた映画やドラマを観て、上野国立博物館に円空展を見に行った。

「夢」1990、監督:黒沢明、出演:寺尾明ら、黒沢明晩年の作品である。高校生の時、文化祭で映画部が上映する「七人の侍」に感激し、黒沢明の作品を見ようと劇場に足を運んで観たのが「どですかでん」だった。「七人の侍」のような活劇を期待していた高校生にとって「どですかでん」は何とも意味不明の映画だった。その後、黒沢映画全30作の大半を観てきたが、「どですかでん」以降のカラー作品には前半の白黒作品にある娯楽性が薄れ、後期の「乱」や「影武者」はストーリーよりも芸術性や映像美を追求しているように感じ好きではなかった。黒沢自身、映画の成否は脚本にかかっていると言っていたのに、後年映像美や心理描写をしつこく映像で見せるようになったことは、老化の所為ではないかと生意気にも思っていた。そのため、黒沢の老人の夢を映像化した「夢」はその最も典型的なものであるはずだという先入観があり観ようという気さえ起きなかった。

だから期待せずに見始めたが、冒頭の”狐の嫁入り”や次の”ひな祭り”はやはりという感じだった。ところが、”トンネル”で全滅した連隊に会うあたりから徐々に夢に引き込まれ、あとは原発事故、環境破壊、スローライフなど今日的なメッセージが込められていて、特に最後の水車の村で笠智衆のおじいさんが語る文明論、人生論は良かった。いい人生を送った人を送るお葬式はお祝いなのである。とはいえ前期白黒作品と比較すると、★★★☆☆

「東京物語」1953、監督:小津安二郎、出演:笠智衆、東山千恵子、原節子、山村総、杉村春子、香川京子、尾道の老夫婦が、それぞれ独立し家庭を持って東京で生活する息子や娘を訪ねる。東京の子供たちには自分の生活があり、長男の家と娘の家に泊まったあと、しばらくすると老夫婦は熱海の安宿に体よく放り出され、東京に戻ると泊まる場所さえなくなってしまう。老母は戦争で死んだ次男の嫁(原節子)の家に泊まり、老父は旧友と飲みつぶれて夜中に娘の家に帰ってくる。老母は旅が身体に障ったのか東京からの帰り道体調を崩し尾道に戻るとすぐあっけなく亡くなってしまう。その死に際してあまりにも義務的な長男と長女の態度に末娘は怒りを露わにするが、ひとり残された老父は怒るわけでもなくその境遇を淡々と受け入れる。老夫婦が何度も広島風アクセントで口にした「ありがと」という言葉に二人の優しさや謙虚な生き方が感じとれ、情のない息子や娘さえも許せる気持ちにさせられた。子を産み育て、年老いていく人生は感謝の気持ちさえ持っていればそれなりに幸せなのかなと思う。それにしても笠智衆は「男はつらいよ」の御前様の印象ばかり強かったが、この俳優はすごい。1953年の「東京物語」から37年後の「夢」でも同じように笑顔の素晴らしい老人を演じている。笠智衆(1904生~1993年没)

この映画は英国映画協会(British Film Institute)の監督が選ぶ世界の映画のトップ100で1位、評論家が選ぶトップ250で3位に選ばれている(http://explore.bfi.org.uk/sightandsoundpolls/2012)。黒沢明の「羅生門」や「七人の侍」よりも上位にランクされている。玄人受けする理由はよくわからないが、登場人物の会話や何気ない態度を見ているうちに各人の性格や価値観や関係性や背後にある人生が自然と見えてくる。物語は淡々と進み、よくある安物のヒューマンドラマのように、出来事をことさらドラマチックに見せるわけではないので、感情が大きく揺さぶられて泣いたり笑ったりする場面はなかった。人間の日常をリアルに切り取ったら東京物語になるのだと思う。それでも映画を観終わると、しみじみと人生、親子、家族、生死を考えさせられるのである。★★★★☆

「ARGO」2012、監督:ベン・アフレック、出演:ベン・アフレック、ブライアン・クランストン、1979年のイラン革命ではアメリカ大使館が占拠され大勢の大使館員が人質にとられた。占拠直前に大使館を抜け出した6人はカナダ大使館に保護される。CIAは、6人をSF映画の撮影班に偽装してイランを脱出させようとする。脱出に際して、素性がばれそうになったり、計画をめぐって上層部と対立したり、この計画に一番懐疑的だった男が活躍したり、既視感いっぱいの危機が連続するだけなのだが、6人の運命にはらはらさせられた。アルジェリアの人質事件があったばかりだった所為かもしれない。★★★☆☆


真言密教

2013-02-03 19:57:05 | 仏教

密教では、龍樹が密教を説いたと考えられていて、別名、龍猛と呼ばれる。しかし、中村元は別人ではないかと疑問を呈している。だから、中村は自著『龍樹』で密教についてまったく触れていない。密教は呪術、祈祷や密儀を行うが、ブッダは明確にこれを否定しているので、密教はブッダの仏教を継ぐとは言えないのではないか。この問いに対し、空海は密教はブッダの仏教を包摂しそれを超える仏教であるという。宇宙の根源に大日仏が存在しあらゆるところにいて、ブッダでさえもその化身に過ぎないというのである。

リトルブッダ」の巻で、チベット仏教と空海の真言密教は似ているのではないかと書いた。空海はこのブログに何度も登場する。四国八十八カ所を回るお遍路、初詣に行った西新井大師宮島の弥山の頂にある消えずの火、阿吽をはじめ梵字一字一字に世界ががあるという密教、それに最澄のことを書いた巻では空海に必ず言及している。南方熊楠は真言宗徒である。

ところが、空海の思想についてはほとんど触れていない。理由は簡単で、空海の思想は難解で理解できる自信がないからである。梅原猛は司馬遼太郎が『空海の風景』で空海を間違って解釈していると公言し司馬と絶交したと言われている。その梅原の空海解釈でさえも間違っていると真言僧は述べている。松岡正剛を読んでも難解である感を強くするだけでその難解さにたじろぐばかりである。でも、そろそろ整理しておかないと前に進めないのでさわりだけをまとめておく。

密教までの仏教の変遷

ブッダはこの世は苦に満ちているので苦を克服するためには欲望を去らなければならない、世は無常でありこだわりを捨てよと説き修行者集団が生まれた(小乗仏教)。龍樹は欲望を否定することでさえこだわりなので、こだわりを捨てる”空”を説き、大乗仏教が生まれた。この時点で般若心経にみられるように真言(マントラ)を重んじることになりブッダの説く透明性の高い仏教を離れ、神秘性が増してくる。その後ブッダの神格化が進むにつれて、ブッダ(シャカ)は仏の仮の姿(応化身)であり、ブッダの教えは方便で真実の仏の教えは別にあるという法華経や華厳経の考えが生まれる。その超人間的な仏が宇宙の中心にいる毘盧遮那であるとする。次にくる密教では、ここまでは仏が仮に否定の教えを説いたもの(顕教)であり、実は否定の先に真の肯定を説く仏の密かな深い智慧があるとし、神秘性はさらに増す。密教では宇宙の中心に常住の大日如来がいるとする。そもそもブッダの説いた仏教は人生論、道徳で人間中心の教えだったのが、密教によって宇宙論、自然中心の教えになった。

大日如来

宇宙の根源には大日仏がいて、世界のあらゆるところに遍在し、人間の心の中にもいる。仏、菩薩、明王、諸天は大日仏の化身とされ、ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)でさえ大日仏の化身である。空海は「十住心論」で、密教はそれまでの仏教の最高位に位置すると説く。

即身成仏

大日如来は人の心の中にも常住しているので大日如来と一体化することができれば、その身そのままで仏になれる。三密とは身体、言葉、心の三種の神秘で、仏にも人間にも同じ三密がある。人間は手に印契(いんぎょう)を結ぶ、声に真言を唱える、心に義を観ずることで仏の三密と一体化できる。通常は厳しい修行によって達する境地だが、加持祈祷により一種の宗教的エクスタシー状態になる神秘体験で即座に成仏できるとする考えもある。宮坂宥勝は梅原猛『最澄と空海』の巻末解説で、最澄から出た栄西や道元の只管打座は身密、法然や日蓮の念仏は口密、親鸞の信心為本は意密であり、三密の分化的展開であるとする。空海の発想が先んじていたことが示される。

声字実相義

声、それを表現する字、その対象である実相の関係を説いた。物質世界はすべて声字を持っていて精神的要素が働いている。物質世界は見る者によっていろいろな様相を呈する。凡夫の見る世界は苦で満たされ無常であるが、それを包む永遠常住の世界が存在する。大日如来と一体になったものは世界は苦ではなく楽に見える。

曼荼羅

世界の秩序を図示したもので、真言密教には金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅がある。 中心に大日如来がいて周りを菩薩、次に明王、さらに天部が取り囲む。南方熊楠も自身の南方曼荼羅(中村元名付ける)を残している。

今までわずかな解説本を読んだだけだが、空海の天才性が垣間見える。密教の教義と空海の成し遂げた業績を見るだけでも際限がないように感じる。梅原が円型人間と称した最澄の同心円的で純粋な行動はわかりやすいが、楕円型人間あるいはマルチタイプの空海は複雑でとらえどころがない分、今後が楽しみである。