備忘録として

タイトルのまま

ウズベキスタン

2016-07-29 23:27:02 | 

 あこがれの西域へ行った。正確にはタシケントのホテルでブログアップしたので、”来ている”である。ウズベキスタンの首都タシケントと地方都市を仕事で駆け抜けただけで、有名なサマルカンドやブハラには行けなかったが、シルクロードの空気を一瞬吸うことができて満足している。サマルカンドの北西にある地方都市に向かいプロペラ機に乗ってタシケントを発つとすぐ眼下には草木一本生えていない荒涼とした岩山が続いた。ところどころ谷沿いに緑のベルトがみえ人の住む気配があった。往古、キャラバンはシルクをラクダに積んでこの緑地に立ち寄りながら東から西へ、アラブの産物を抱えて西から東へ移動したのだろう。張騫の頃、このあたりは大宛(フェルガナ)、康居(ソグディアナ)と呼ばれていた。玄奘三蔵も通った道だ。目的地に着くころには、砂漠と緑がせめぎ合う最前線が観られた。中国などは砂漠化が著しいという話を聞いていたが、タシケントもこの地方都市も緑が豊かで、砂漠を支配するかのように街路樹や下草の手入れが行き届いていた。

左下:荒涼とした山岳地帯 右下:砂漠と緑の最前線

 

左下:タシケントの緑に囲まれたチムール博物館 右下:チムール像近くのスプリンクラーによる手入れ

チムールは14世紀の英雄である。

 ウズベキスタンは果物や野菜が豊富で、街のバザーで山のように売られていた。バザーに並んでいる果物は、スイカ、プラム、ブドウ、リンゴ、メロンなどで、穀物は、数種の米、小麦と豆類だ。レストランのメニューには何十種類ものサラダメニューがある。サラダを添えて、ラムやポークやビーフのシシカバブを食べるのだ。

左下:バザーに並ぶ果物 右下:バザーの穀物

下:炭火の窯で焼くサモサ

 食事はいずれも美味で口に合った。サモサはインドのサモサに比べ大きく中のひき肉にカレー味はついていない。ナンはインドのナンに比べ厚くやや硬めだが肉料理やサラダによくマッチした。シシカバブは塩コショウを使った薄味でラムとポーク肉本来の味を堪能した。ピラフはややオイリーだったが味は抜群だった。炒めたオニオンに植物油やにんにくを入れ米を入れ、肉を入れて炒めるという。減量中ということをすっかり忘れた旅になった。

左下:インドのナンよりも肉厚のナン 中下:ラム肉のシシカバブ 右下:ピラフ(プロフ)

ブログはタシケントのホテルから帰国便を待つ間にアップした。 


隋唐の仏教と国家

2016-07-10 23:20:26 | 仏教

三教指帰』は空海24歳のときの著作で、仏教徒と儒家と道教の道士がそれぞれ他者を批判し、三教の中で仏教が最も優れていることが示される。序文に、空海が阿国大瀧嶽や土佐の室戸で修業中に虚空蔵菩薩の化身である明星が口の中に入ったという、あの『三教指帰』である。空海は30歳で入唐するので、唐へ留学する804年以前の著作である。下は、国会図書館のWebSiteにあった明治15年の森江蔵版である。

空海や最澄の仏教に釣られて『隋唐の仏教と国家』礪波護(となみまもる)という難しい本を古本屋で衝動買いしてしまった。内容を理解する前段で、おそらく中国文献をそのまま引用した部分だろうか、ふり仮名がなく読めない漢字が多く、ほぼ読むのをギブアップしていた。暇にまかせて本をパラパラめくっていると、不拝君親運動という文字が目に飛び込んできた。唐の時代、中国では、空海の『三教指帰』のように仏教、儒教、道教が共存していた。そのような政治情勢のもと、仏教徒は仏法を王法の下におかない運動、すなわち不拝君親運動を行った。目上の者を敬うのは儒教的であり仏教は仏法僧に帰依し、君主や親を敬わないと主張する運動である。唐の皇帝は時代によって、不拝を認めたり、認めなかったりしたのである。この不拝運動から、”君が代歌えない選手は日本代表でない”という政治家のことばや日の丸掲揚の議論を思い出していた。国家は個人の信条や信仰に優先するのかという命題が、7~9世紀の唐の時代から問題になり議論されていたのである。

 

本の表紙絵は室町時代の『真如堂縁起』で遣明船に阿弥陀如来が出現する場面

隋の文帝(煬帝の父親)は自身が仏教を受戒し、中国各地に寺院を建て多くの僧侶を授戒させ仏教を篤く保護した。この本では、聖徳太子が日没するところの天子として文書を送ったのはこの文帝であり、日本には文帝が没し煬帝が即位したことが伝わっていなかったとしている。上原和や梅原猛が言う聖徳太子は煬帝に親近感を持っていたという論の根拠にいささか疑問の生じる話である。

唐初期の高祖と太宗の時代、道士の博奕(ふえき)は排仏論を繰り広げ、これに対し仏教徒の法琳(ほうりん)は『破邪論』で反駁した。唐の高祖(李淵)は人心収攬のために道教と仏教をバランスよく保護し、長安には道教寺院と仏教寺院を建てた。ところが、二代皇帝の太宗(李世民)は李姓であることから一族が老子李耼(りたん)より出ているとし道教を優遇するようになる。法琳は激しく抗議し皇帝の李氏は老子の隴西出身ではなくまったく関係がないと主張したため太宗を激怒させた。他の仏教徒たちは朝廷批判が激しすぎるため廃仏を引き起こしかねないことを憂慮し法琳を攻撃するようになった。法琳は身内からの批判攻撃に立腹し、屈原の心情をうたった詩編を書き綴り、遠地に隔離され悲憤のうちに死ぬ。原則に忠実でありすぎて現実を見ないことによる悲劇である。為政者は原則論だけでは政治をできないのである。

唐中期、高宗と武則天の時代、仏教は大いに保護され、武后は官職を濫造し売官が横行しただけでなく、金で僧侶や道士を濫造することも行われ課役や徴税が免除された。官吏の濫造と仏教道教教団の肥大は国家財政を疲弊させた。武后一族を倒した玄宗の時代には、あまりに肥大した仏教と道教の権利を制限した。その中で、玄宗は儒教道教を仏教よりも優位であるとし、733年僧尼拝君親を断行する。孝を中心とした儒教倫理は中国社会に根強いものだったのである。その80年後に唐に渡った円仁はその著書『入唐求法巡礼行記』(838~842滞在)で僧尼が不拝の儀を守っていたことを書き残している。玄宗の時代の拝君親が円仁の時代には廃止されていたのか、あるいは円仁は廃仏に会い国外追放となり842年に帰国しているので、仏教徒が拝君親に従わなかったために廃仏となったのかもしれない。

儒教道教が根付いていなかった日本での仏教は、その受容過程で不拝君親論は問題にならなかった。日本の中世、王法と仏法は相互に補完しあった。筆者の礪波は日本と中国の違いとして外国文化受容史に言及する。ところが、秀吉や家康は、王を神の下とみなすキリスト教を受容せず禁教令を出しているように、日本の外国文化受容は必ずしも寛容だったわけではないのである。

今、参院選の開票速報が進んでいる。自公が圧勝しそうな勢いである。 唐の時代と同じで、現実主義の前に理想主義は敗北するしかないのだろうか。法琳や屈原のように原則を貫く理想主義の政治家がいてこそバランスがとれ、国家の暴走を抑止することができると思うのである。


泉岳寺

2016-07-03 13:30:56 | 江戸

6月26日(日)泉岳寺脇の紋屋で身内の会食があり、その後皆で境内を散策した。泉岳寺は禅宗の曹洞宗の寺で、忠臣蔵で有名な殿様浅野内匠頭と四十七士の墓がある。正確には泉岳寺に葬られているのは四十六士である。吉良邸討入時は四十七士だったが泉岳寺まで歩く間に寺坂吉右衛門が隊を離れたため墓ではなく供養塔が建てられている。

史実としての忠臣蔵を「Wiki赤穂事件」より簡単に解説すると以下のとおりである。

元禄14年(1701)3月14日に赤穂の殿様・浅野内匠頭が江戸城松之廊下で吉良上野介に切りつける。江戸城での刃傷沙汰は禁止されていたため、浅野内匠頭は十分な吟味もなく切腹させられ藩は取り潰しになる。赤穂藩家老の大石内蔵助はお家再興が叶わないことが判明したのち主君の仇討ちを画策する。元禄15年12月14日、内蔵助ら四十七士は本所の吉良邸に討入り、上野介の首を討ち取る。一行は吉良邸から泉岳寺まで歩き首を内匠頭の墓前に供える。内蔵助らは仇討を報告したのち幕臣に預けられ幕府の指示により切腹する。なぜ内匠頭が吉良上野介に切りつけたか、なぜ寺坂吉右衛門が隊を離れたかはわかっていない。

討入の盟約をしながら脱落していった親族や家臣が多い中、父といっしょに討入をし本懐を遂げた後に切腹した内蔵助の長男・大石主税(ちから)は弱冠16歳だった。憐れである。この事件は100年近く続く太平の世に武士道を体現したため民衆の共感を生み歌舞伎や浄瑠璃の演目となる。有名な『仮名手本忠臣蔵』で大石主税は大星力弥として許嫁の小浪との一夜限りの悲恋が語られる。『仮名手本忠臣蔵』は舞台を室町時代に移し登場人物の名前を変えて赤穂事件を脚色したもので北斎や広重の挿絵が残っている。

下は北斎の別名である可侯と春朗の作品である。

左:可侯画:仮名手本忠臣蔵11段、右:春朗画:五代目市川團十郎の忠臣蔵

5代目市川團十郎(市川蝦蔵)は写楽も描いているので下に比較のために載せた。大きな鷲鼻と大きな口が特徴だ。田中英道は下左の團十郎が手に持った鬼の描き方も北斎の鬼とそっくりだという。浮世絵はいずれもUkiyo-e.org databaseよりダウンロードした。このサイトには223,000以上の作品が収められ検索が可能になっている。


家族はつらいよ

2016-07-01 22:35:00 | 映画

 小津安二郎の『東京物語』をベースにした『東京家族』をつくった山田洋次監督が今度は同じキャストで喜劇『家族はつらいよ』をつくった。老年の橋爪功が老妻の吉行和子から離婚を迫られる。「大きな音をたててうがいするし、何度言っても脱いだ靴下やパンツは裏返しのままだし、昔は男らしいと思っていたのよーーー」、一度気になりだすと嫌悪感が増幅しがまんできなくなる。自分を振り返ってみると、牛丼屋で隣に座った男がどんぶりご飯を掻き込む大きな音や、電車の中でイヤホンから洩れてくるシャカシャカ音や、ジョギング中に出くわす歩道いっぱいに広がって歩く中高生などに悪態をつきたくなることがある。シンガポールでも、ウィンカーも出さずに車列に割り込むマナー違反の車や、混雑などお構いなくスーパーのレジで財布からゆっくりクレジットを出しそれが認証されなくて別のカードを何度も繰り出す白人の客や、自分が悪くても謝らずに言い訳ばかりするウェイターにいらっとする。人のマナーの悪さにはすぐに反応するのだが、家では自分が家族に不快感を与えていることなど気にもせず、時に注意されても大抵は聞き流すだけである。それがまずいのだということをこの映画が教えてくれた。上の写真は映画のオフィシャルサイトより。

男はつらいよ』の寅さんは、好き勝手に生き惚れて失恋するを何度も繰り返すことで”男はつらいよ”状態だったが、この映画でつらかったのはお父さん(橋爪)や長男(西村)ではなく、お母さん(吉行和子)とお嫁さん(夏川結衣)だった。”会社で苦労している”や家族の為に汗水働いてきた”という自分の都合だけを主張し勝手気ままに暮らすお父さんや長男に文句をいいたくなるのもよくわかる。対照的に、次男(妻夫木)とその嫁になる看護師(蒼井優)の二人がお互いを思いやる姿をみてほっとするのは、『東京家族』と同じだった。映画の最後、お父さんは『東京物語』のビデオを見ながら、これまでの騒動がなかったかのように幸せそうにソファで寝てしまう。画面にはひとり残された笠智衆が背中を丸めて座っている。この映画を観る前に、たまたまNHK「美の壺」で小津安二郎の美の世界の巻を見ていた。『東京物語』の最初、笠智衆と東山千恵子が尾道の家で同じ方を向いて並んでいた(浮世絵の構図と同じ)のが、東山が亡くなり最後、笠智衆がひとり座り、東山千恵子のいた場所にはぽっかりと空間ができている。笠智衆の心理を映像で描写しているのである。「欲をいっちゃきりがない。うちはええほうですよ。そうですともええ方ですよ。」という老夫婦の会話が心の中に響く。家族にはそれぞれの歴史があり幸せがある。「お父さんといるのが私のストレスなの」と熟年離婚をきりだされるのは勘弁してほしい。死ぬ前に背中を丸めて笠智衆夫婦のような控えめなセリフが言えたらいいのかもしれない。

『家族はつらいよ』2016、監督:山田洋次、出演:橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、妻夫木聡、蒼井優、中嶋朋子、林家正蔵、家族会議の場面では、とらやの茶の間で寅さんやおいちゃんやひろしやタコ社長たちが掛け合いをするにぎやかな場面を思い出した。こんな映画は楽しい。★★★★☆

IMDbより

『Gotham』2014、5月6月の機中では『家族はつらいよ』を除き面白くない映画が続いていたので何気なく見始めた。シーズン1の22作を2か月(3往復)かけて観通した。バットマンのゴッサムシティーを舞台にし、若き日の市警ゴードン刑事を主人公に、バットマンになる前の子供のブルース・ウェイン、アルフレッド、キャット・ウーマン、ペンギン、Dr.ニグマなどバットマン馴染みの人物が出てくる。右上のポスターは、『Batman Returns』1992昔のバットマンシリーズ2作目で、バットマン(マイケル・キートン)、キャット・ウーマン(ミシェール・ファイファー)、ペンギン(ダニー・デビート)だった。このシリーズはすべて観ている。比較の楽しみがあるのでこのテレビシリーズにはまったのだと思う。テレビシリーズのバイオレンスは過激だけれどブルースの両親を誰が殺害したかなど謎は深く、ウェインの成長や後年の悪役たちがどのように悪者になったのかなどが興味深く描かれ、第2シリーズの上映が待ち遠しい。★★★★☆