備忘録として

タイトルのまま

深発地震

2015-05-31 12:48:32 | 話の種

昨晩、父島の東南東190㎞で大きな地震が発生し、900㎞近く離れた東京でも大きく揺れた。シンガポールでNHK衛星放送の地震速報をみてすぐに東京の自宅に電話した。揺れは大きく時間も長く、1度目は横揺れ、2度目は縦揺れだったという。ニュースでは3分程度揺れが継続したと言っていた。

USGS(上左図)によると、震央は太平洋プレートとフィリピン海プレートの境界から西に250㎞ほどの地点で、東京から南に870㎞も離れている。USGS発表の震源深度は660㎞である。一方、気象庁は震源深度を590㎞としていた。いずれにしても、通常の地震は60km以浅で発生するので相当深かった。震源が深い分、地震波は広域に伝搬し、気象庁の発表(上右図)では日本全国で揺れが観測されている。東京の震度は4から5強である。マグニチュードはUSGSがMw7.8、気象庁がMj8.5とし、両者に大きな差がある。

深度が100㎞を超すような地震で津波が発生することはないらしい。

USGSの下図によると、この付近で太平洋プレートは西に年間39㎜のスピードでフィリピン海プレートに沈み込んでいる。プレート境界から移動方向に200~500キロの範囲では、震源を示すたくさんの灰色の丸があり、大規模な地震が発生していることがわかる。

震源が深度300㎞を超える地震は、深発地震(Deep Focus Earthquake)と呼ばれる。発生場所は、プレートがぶつかり沈み込む境界の延長線上のずっと深部で、深発地震を発見した人の名にちなんで和達ーベニオフゾーンと名付けられている。深発地震のメカニズムはまだよくわからず、以下の仮説が提唱されている。

  • プレート境界から海洋型プレートは沈み続けるが、下部マントルは密度が高くプレートはそれ以上沈めなくなり停滞し圧力を受け、反り返りなどのひずみが発生する。
  • 高圧高温での脱水により、地下でひずみが発生する
  • カンラン岩が高密度なスピネルに相転移することで体積が減少し、そのひずみが地震を起こす

昨年2013年5月24日にもマグニチュードMw=Mj8.3の深発地震がカムチャッカ半島の南、オホーツク海の深度600㎞で発生し、日本やアジア全域で揺れが観測されたらしいがシンガポールにいたので記憶にない。そのときの揺れは遠く離れたモスクワにまで伝わったという。

数日前、口永良部島が噴火し噴火警戒レベル5が出て全島避難になった。御嶽山と桜島がレベル3、箱根山や阿蘇山や蔵王も活動を活発化させている。2011.3.11の東北地方太平洋沖地震以降、地震が火山活動を誘発するという話が現実味を帯びてきた。過去に日本で発生した最大級VEI=7相当の火山噴火は、阿蘇カルデラ、桜島の姶良カルデラ、口永良部島薩摩硫黄島を中心とした鬼界カルデラの3箇所で、いずれも南九州の火山である。また、上のUSGSの地図には、1900年から2014年までに発生したM6.5以上の地震震央が示されているが、九州南部でM7.5以上の震央マークが重なっている。川内原発の安全は本当に確保されているのだろうか。


とくしま動物園

2015-05-30 20:01:10 | 徳島

孫を連れて徳島に帰省し両親と、とくしま動物園へ行った。活動的な象やキリンや白熊を間近に見ることができ孫は嬉々としていた。

むかしの徳島の動物園は城山の東側、城東高校の裏にあった。小学校の遠足や写生大会で行った記憶はあるが、以来足を運ぶことはなかった。長女が2歳の頃、妻は私の両親と行ったらしいが、そのとき私は仕事でシンガポールにいた。孫はその長女の娘で1歳と1か月、動物園は初体験である。むかしの動物園で覚えているのは、コンクリートの壁で囲まれた窪地の中央にそびえるサル山を見下ろしてニホンザルをみたこと、堀で隔てられたところで鼻を左右に振る象の皮膚がはがれて痛々しかったこと、ペンギンにやるための皿に盛った魚の餌を売っていたことくらいである。となりに遊園地があった。新しい動物園のとなりにも遊園地があったがそちらには行かなかった。Wikiによると、昔の動物園が閉園したのは1997年のことで、翌年今の場所に移転している。

今回は妻、長女と孫、二女、長男がそろって帰省した。残念ながら長女の夫は来られなかった。彼らと行ったことのある動物園を列挙しておく。年次には記憶違いがあるかもしれない。

  • 広島安佐動物園、1990年頃
  • 白浜アドベンチャーランド(パンダがいた) 1993年頃
  • シンガポールZoo 1981年~2000年頃までナイトサファリを含め断続的に。年間パスを持っていた。
  • シドニーとメルボルンZoo 1985年
  • パースWildlife Park 1991年
  • パースZoo 1991年と2002年
  • サンディエゴZoo 1995年アナハイムのディズニーランドのあと行くはずが長男が熱を出しキャンセルした。 

 

 

 これはおまけ。孫の家の天井裏に家族で住み着いたアライグマ(Raccoon)

 こちらもおまけ。1歳の孫と90歳になった親父(ひいお爺ちゃん)がグッピーに餌をやるところ


伝馬町牢獄

2015-05-30 13:45:57 | 江戸

5月中旬、仕事で小伝馬町へ行く用事があり、松陰が最期をむかえた伝馬町の牢屋跡地へ行った。牢屋跡は地下鉄小伝馬町駅からほど近い十思公園という公園になっていて、写真の案内板が立ち、公園内には吉田松陰の辞世を刻んだ句碑が立っていた。

 案内板に伝馬町牢の様子が記されている。牢屋敷の敷地は2618坪とあるので92mx92m程度の広さである。牢屋は囚人の身分に応じて、旗本の揚座敷、御家人の揚屋、浪人や町人の大牢、百姓牢、女牢に別けられていた。伝馬町牢獄は、江戸を題材にした時代劇や時代小説には必ず出てくる。藤沢周平の『獄医立花登手控え』は伝馬町牢獄が舞台だった。そこでは、積み上げた畳に座る牢名主というボスが出てくるが、牢内では牢役人の権限の及ばない囚人たちによる自治が行われ、身分制度が敷かれていたという。

安政の大獄では、吉田松陰に加え、高野長英、橋本佐内、頼三樹三郎らが収容された。大獄以前、平賀源内は殺傷事件を起こし伝馬町牢に収容され、破傷風にかかり牢内で死んだという。

2012年に牢屋敷遺構が発掘された(下の写真・2014年6月24日朝日新聞デジタル版より)。上水道の木で組んだ樋が縦横に走り、井戸があり、石垣の前には砂利が敷き詰められていた。また、発掘では古伊万里も出現し牢を管理していた石出帯刀の豪華な暮らしぶりがわかるという。


2015-05-10 13:34:10 | 中国

写真は数年前の誕生日プレゼントに長女が贈ってくれた『Confucius Analects』論語の英語訳である。もらったときに数ページを読んだあとは放り出し、学生時代に買った『論語』金谷治訳のとなりでほこりを被っていたのを本棚から引っ張り出してきた。論語はこのブログで断片的に引用していたが全体を通して読んでみようと思ったからだ。この四書(論語、大学、中庸、孟子)筆頭の書は松下村塾の塾生たちの必読書だからだ。ここでは、『Analects』と『論語』を比較しながら、松陰や孔子が命を懸けるに値すると言った仁について述べた箇所を拾った。

吉田松陰の『留魂録』に、「成仁の一死、区々一言の得失に非ず」という一節が出てくる。命を捨てて仁を成し遂げようとしているときに、些末な一言にこだわる必要などないのだと自分を戒めるこの松陰のことばは、以下の「論語 衛霊公第十五 九」に由来するという。

子曰 志士仁人 無求生以害仁 有殺身以成仁

志のある人や仁の人は、命惜しさに仁を害するようなことはしない、時には命を捨てても仁を成し遂げるという意味である。松陰や孔子が命を懸けてでも成し遂げる価値があるとする仁とはいったい何なのだろうか。国語辞典を引くと、仁は、”他者へのおもいやり、情け”などと説明されている。

前出の論語の一節の英語訳をみると、以下のように仁は”Goodness"、すなわち”親切”や”やさしさ”と訳されていた。

Tha Master said, "No scolar-official of noble intention(志士) or Good person(仁人) would ever pursue life at the expense of Goodness(仁), and in fact some may be called upon to give up their lives in order to fulfill Goodness"

この英語本には主要な用語の索引があり、”Goodness(仁)"の項では、”benevolence”という単語を使っている。この和訳は”慈悲”で、国語辞典の”他者への思いやり、情け”と似てはいるが微妙に違うような気もする。孔子の頃の仁は、慈悲だけでなく、もっと広い意味があったが、孟子の頃に”慈悲”と意味が狭まった、あるいはより具体的になったと『Analects』に書かれている。

巻第一 学而第一 三

「子曰 巧言令色 鮮矣仁」 先生は、ことば上手の顔よしでは、仁の徳はほとんどないものだと言われた。(巻第九 陽貨第十七 十七に重複する。) 『Analects』によると、巧言令色を弄する者は佞人(ねいじん)として、孔子はよほど嫌っていた。仁の反対語として佞を置き、仁が真実で内面の美徳とすると、佞は外面の虚飾とする。

巻第二 里仁第四 十五

「子曰 参乎 吾道一以貫之哉 参子曰 唯 子出 門人問曰 何謂也 曾子曰 夫子之道 忠恕而巳矣」  孔子が我が道はひとつのことだけで貫かれていると言ったことを聞いた門人が、どういう意味ですかと曾子に尋ねると、先生の道は忠恕のまごころだけだと答える。忠はうちなるまごころにそむかぬこと、恕(じょ)はまごころによる他人への思いやりで、忠恕は仁そのものと言われる。 『Analects』によると、忠はRoyalty(忠誠)よりもDutifulness(忠実)と訳すべきだとする。なぜなら、君主に背いても原則に忠実であることが忠だと論語にあるからである。恕はunderstanding理解と訳す。他者を理解することである。

巻第三 公冶長第五 十九

「未知 焉得仁」 誠実であっても清潔であっても、智者でなければ仁とは言えない。

巻第三 雍也第六 三十

「子貢曰 如能博施於民 而能済衆者 何如 可謂仁乎 子曰 何事於仁 必也聖乎 (中略) 夫仁者己欲立而立人 己欲達而達人 能近取譬 可謂仁之方也巳」 子貢が先生に、人民にひろく施しができて多くの人が救えるというのなら仁といえますかと尋ねたところ、仁どころかそれは聖だと答えた。そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分が行き着きたいと思えば人を行き着かせてやる、他人のことでも自分の身近に引き比べることができる、それが仁の手立てだといえる。孔子は、子貢にどうすれば仁の徳を持てるかを説明している。『Analects』は、この一節が仁をより具体的に"benevolence"慈悲に近い徳のように述べている点において、後年の孟子での完成形に近いと解説する。

巻第六 顔淵第十二 一

「顔淵問仁 子曰 克己復禮為仁 一日克己復禮 天下帰仁焉 為仁由己」 顔淵の問に先生が答えて、わが身をつつしんで礼にたちもどるのが仁というものだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界中が仁になつくようになる。仁を行うのは自分しだいだ。顔淵がその要点をさらに問うのに対し、先生は、「非禮勿視 非禮勿聴 非禮勿言 非禮勿動」と答える。礼にはずれたことはするなと言うのである。『Analects』によると、これは、後年の猿の彫刻”見ざる言わざる聞かざる”のもとになったという。

巻第六 顔淵第十二 二

「仲弓問仁 子曰 出門如見大賓 使民如承大祭 己所不欲 勿施於人 在邦無恕 在家無恕」 仲弓が先生に仁について尋ねると、先生は、家の外で人に会うときは大切な客にあうかのようにし、人民を使うときは大切な祭りを行うかのようにし、自分の望まないことは人にしむけないようにすれば、国にいても怨まれることがなく 家にいても怨まれることがないと答えた。

巻第六 顔淵第十二 二十二

「樊遅問仁 子曰愛人」、樊遅が先生に仁について尋ねと、孔子は人を愛することだと答えた。『Analects』では、この”愛人”の部分を「Care for others」と訳している。他人を慈しむこととでも訳せばいいだろうか。正しい人を人の上につければ、「不仁者遠矣」不仁の者はいなくなる。

巻第七 子路第十三 二十七

「子曰 剛毅木訥近仁」 先生は、剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)は、仁に近いと言われた。金谷治は、剛毅朴訥を、正直、勇敢、質実、寡黙と訳す。『Analects』では、resolute(丁寧)、decisive(果断)、straightforward(率直)、reticent(寡黙)と訳す。

巻第七 雍問第十四 五 

「子曰 有徳者必有言 有言者不必有徳 仁者必有勇 勇者不必有仁」 先生は、徳のある人は必ずよいことばがあるが、よいことばのある人に徳があるとは限らない。仁の人にはきっと勇気があるが、勇敢な人に仁があるとは限らないと言われた。『Analects』では、本編の番号は14.4で、雍問第十四の二が抜けている。金谷が参照した原本と異なっているのだろう。本節は学而第一の三の「巧言令色 鮮矣仁」に通じる。

巻第七 雍問第十四 三十

「子曰 君子道者三 我無能焉 仁者不憂 知者不惑 勇者不懼」 先生は、君子の道に三つあるが、わたしにはできない。仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者はおそれないと言われた。『Analects』14.28で、本節は、孔子が門人に徳の習得には限りがないことを示したのだと解説する。

巻第九 陽貨第十七 二十二

親が死んで3年間喪に服さないのは、「不仁」だと孔子は言う。 『Analects』17.21 では「不仁」をbenevolence(慈悲)に欠けると解釈しているが、喪に服し親の恩に報いることは明らかなので、「不仁」は孝や忠に欠ける行為を指している。だから、仁の徳は、孝、悌、忠をも含むと思われる。三年喪に服すことは実務的ではないため孔子の弟子たちの間でも議論されてきたという。後年、孟子はこれをさらに発展させたらしい。

巻第十 子張第十九 六

「子夏曰 博学而篤志 切問而近思 仁在其中矣」 子夏がいった、広く学んで志望を固くし、迫った質問をして身近かに考えるなら、仁はそこにおのずから生まれるものだ。仁の習得方法が示されているのだが、この金谷治の訳ではよくわからない。『Analects』の次の説明の方がよくわかる。仁を身に着けるためには、広く学問し、学んだことを確実に自分のものとし、人の質問への答えが的を射て身近な出来事に反映できることである。

Explanation of ”Goodness (ren 仁)” in 『Confucius Analects』

Goodness refers to the highest of confucian virtue.(中略) One of Confucius' renovations was to transform this aristocratic, martial ideal into an ethical one. Ren仁 in the Analects refers to a moral, rather than physical or martial ideal. In post-Anallects texts, it has the more specific sense of empathy or kindness between human beings---especially for a ruler toward his subjects---and in such contexts is therefore usually translated as "benevolence". (中略) it is more commonly used there in the more general sense of "Goodness", the overarching virtue of being a perfected human being, which includes such qualities as empathetic understanding (shu 恕) or benevolence (hui恵).

仁は儒家の最高の徳とされる。孔子は、仁が貴族や戦士の物質的な理想であったものを、道徳と解釈した。論語以降、仁はより具体的に人間どうしの共感や親切とされた。それは特に支配者が被支配者に対してのものであり、その意味では慈悲(benevolance)とも訳される。通常、もっと一般的な感覚としては、親切(Goodness)という意味で使われ、完璧な人間の徳を包含し、その徳は共感や慈悲のような特質を含んでいる。

これまでの文節から、『論語』の設立時点で、仁をひとことで言うと、他者への”思いやり”だと思う。それは、他の徳である忠、孝、悌、恕、恵をも含むため、最高の徳だとされている。仁は、智で支えられ、礼で実践する。智と礼を学ぶには学問が大切なので、だから後年、大学や中庸の重要性が言われた。しかし、仁が思いやりや慈悲だとしても、孔子や松陰が言うように、それに命を懸けるだけの価値があるのかどうか、まだよくわからない。後年、孟子が仁を具体化したと『Analects』に書いてあったので『孟子』を読めばわかるかもしれない。以前、貝塚茂樹の解説本『孟子』を読んだが、孟子をかなり批判的に書いていたので、そればかりに着目してしまったため、仁や至誠に注意が回らなかった。松陰をはじめ幕末の志士たちは論語よりも孟子をより引用しているように見えるので、別の孟子本を読んでみたいと思っている。


留魂録

2015-05-03 12:42:13 | 近代史

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』吉田松陰の最期は心に響いた。

親思ふ こころにまさる親こころ けふの音づれ 何ときくらん 

伝馬町牢に幽閉された松陰が、死罪と決まったときに家族に宛てた『永訣の書』の中の歌で、子が先に逝くことを聞く親の悲しみを思いやり自責と謝罪の気持ちが伝わってくる。しかし、同じく獄中で同志に宛てた遺書『留魂録』では、自分が死んでも志を継いでくれることを願っている。死に臨んでも、猛々しい志を貫く”公”と、家族を思いやる優しい”私”を明白にわけていた人間松陰の生き方に深く共感できる。『留魂録』は松陰.comなどネットで全文を読むことができる。

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

十月念五日  二十一回猛士

『留魂録』はこの有名な辞世の句で始まる。旧暦安政6年10月25日(1859年11月21日)に書き始める。二十一回猛士は松陰が好んで使った号で、21回猛を奮う意味がある。松陰は最初に野山獄から出たとき、脱藩、藩主に意見書、密航と3回猛を奮ったので、あと18回だと兄の梅太郎に告げる。『留魂録』は以下につづく。

第一章 

「趙貫高を希ひ、屈平を仰ぐ」、松陰は、自分が漢の高祖・劉邦の圧力にも屈せず趙の君主に忠実であろうとして死んだ貫高や国の施政を批判して死んだ楚の屈平(屈原)の生き方を手本にしていたことは皆が知っていたとおりであると書く。貫高は趙王・張耳の息子・趙傲に仕えた大臣で『史記列伝 張耳・陳余列伝 第29』に出てくる。秦末の動乱時、張耳は漢の高祖に助力したので趙王となり、息子の趙傲は高祖の娘婿となっていた。高祖が趙を訪れたとき、乱暴で傲慢な態度をとった。主君・趙傲が侮辱されたことを恨んだ貫高は高祖を殺害する計画を立てた。しかし、密謀は露見し貫高は捕えられ拷問を受ける。主君の趙傲もその計画に加担したことを疑われたが、貫高は自分が計画したもので趙傲は関与していないことを訴えた。貫高が高潔な人物であることがわかり、趙傲の嫌疑は晴れた。同時に貫高も赦免されることになったが、貫高は「主君殺害の嫌疑をうけたものが、何の面目があって再び主君に仕えられようか」と言って自害する。屈原は楚の主君に忠を持って仕え、国を思うが故に王を諌言したが聞き入られず失脚し悲嘆のあまり汨羅に身を投げる。至誠をもってすれば幕府の役人をも動かせると思っていたが、自分の徳が至らず至誠が通じなかったことを悔いる。

第二章 取り調べの様子

第三章 

『新唐書』に出てくる唐の段秀実は人並み外れた正義感の持ち主で、反乱者である朱(しゅせい)に会いに行くが説得が聞き入れられなかったため、朱の額を笏で叩き割りその場で殺された。文天祥の『正気の歌』の第2段にある「或いは賊を撃つ笏と為り、反逆者の頭は破裂する」は、この段秀実のことを述べたものである。第1章と同様、松陰が中国史の人物の中でも特に秋霜烈日の義人を尊崇していたことがわかる。秋霜烈日は日本の検察官バッジのデザインとして有名。「要は内に省みてやましからざるなり」、すなわち、自分をかえりみてやましいことがないことが肝要で、人の価値は死んでから評価される。

第四章 取り調べの様子

第五章 自分一人が罪をかぶるので、心して今後の行動をとるようにと、同志に語りかける。

第六章 

取り調べ供述書に、自分が述べていない事実と違うことが書かれているが、「成仁の一死、区々一言の特質に非ず。今日義卿奸権の為めに死す。天地神明照鑑上にあり、何惜しむことかあらん」、すなわち、仁を成すのに言葉はどうでもよい。今日、奸権によって殺されるが、(自分の誠志は)天地神明が明らかにしてくれる(お天道さまが知っている)ので、何を惜しむことがあろうか。

第七章 

「継盛唯 當甘市戮 倉公寧 復望生還」、継盛と倉公という中国史上の人物に触れ、自分は元より死を覚悟していたと述べる。明の楊継盛は権力者を諌言したのち死を甘んじて受けた。手元の『史記列伝 扁鵠倉公列伝 第45』はなぜか省略され、倉公の事績がわからなかったが、ネット情報によると倉公・淳于意は漢初の医者で、罪を着て投獄されたとき生きて帰ることを望まなかったという。松陰は当初、生死については考えていなかったが、取り調べの過程で一度は死を覚悟し、次に、「天下の形勢を考察し、神国のこと猶為すべきものあるを悟り、初めて生を幸とするの念勃々たり」、すなわち、天下の形勢を見ると、まだ自分がすべきことがあることがわかり、生きたいと思うようになった。しかし、今は幕府が自分を死罪にしたがっていることがわかり、生を願う心はなくなった。これも平生学問をしていたおかげである。

第八章 

人間の人生には四季があり、「春種まきし、夏苗うえし、秋刈り、冬蔵する」。10歳には10歳の、20歳には20歳の、30歳には30歳の、50歳には50歳の、100歳には100歳の四季がある。一事も成すことなく死ねば悔いが残るが、自分は30歳でもすでに四季が備わり、今まさに秀実(花が咲き実り)のときを迎えている。私の志を継ぐ人があるなら、自分の蒔いた種が絶えることはない。

第九章 同志に伝馬町の牢屋にいた水戸藩士や医者の山口某と交わりをもつとともに、尊皇攘夷で大功を立てるようにと言い残す。

第十章 尊皇攘夷の思想を継承するために京に大学をつくれ

第十一章 京都で事を起こすときは小林民部と連絡をとれ

第十二章 獄中で会った高松藩士長谷川宗右衛門の言葉「むしろ玉となりて砕くるとも、瓦となりて全かるなかれ」を意に感じる。

第十三章 天下のことを成し遂げるには天下有志の士と志を通じなければならない。一度敗れたぐらいで挫折するな。「切に嘱す、切に嘱す」と松陰は繰り返し頼んでいる。

第十四章 橋本佐内は26歳で死罪になった。獄中で資治通観を読み注を作り、漢紀を読み終わった。佐内と議論したかった。

第十五章 清狂(僧月照)の護国論と吟稿、口羽(毛利藩の重臣)の詩稿を水戸藩士鮎沢に贈ることを約束したので私の代わりに誰か約束を果たしてくれ

第十六章 

同志諸友のうち、小田村(伊之助)、中谷、久保、久坂(玄瑞)、子遠(入江杉蔵)とその兄弟(野村和作)のことは、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野らに話しておいた。(松下)村塾のこと、須佐、阿月のことも告げておいた。飯田(正伯)、尾寺(新之丞)、高杉(晋作)と(伊藤)利輔のことも告げて置いた。

かきつけ終わりて後

心なることの種々かき置きぬ思いのこせることなかりけり
呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友どもとめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや

十月二十六日黄昏書す  二十一回猛士

松陰は『留魂録』を二日がかりで書き上げ、斬首されたのはその翌日二十七日のことだった。 松陰は同じものを2部用意し、一通は死後同志の飯田正伯から萩に伝わる。別の一通は牢名主の沼崎吉五郎に託す。こちらは、沼崎がその後島流しとなり明治7年に赦免後、明治9年に神奈川県令になっていた野村靖(和作)に手渡された。原本は萩の松陰神社に残されているという。

史記、漢書、唐書などの中国の史書は儒家、老荘、国学などの書と並び幕末の人々の必読書で、「共有された知」だったことがわかる。