備忘録として

タイトルのまま

病床六尺

2009-11-30 21:13:45 | 近代史
待ちに待った「坂の上の雲」が始まった。第1話は、松山を出た主人公の3人が東京で暮らし始めるまでだった。
「坂の上の雲」原本を読みなおす気力がないので、子規の「病床六尺」を読むことにした。

明治35年5月5日、一”病床六尺、これが我世界である。”で始まり、同年9月17日、百二十七”俳病の夢みるならんほととぎす拷問などに誰がかけたか”までほぼ毎日記した子規のブログだ。俳句ひねりと俳句評はもちろんのこと、画評、演劇論、時事評、自身の病気のこと、訪問者のこと、教育論、宗教論、食物評など多岐にわたる。

七 
訪問者二人が、柿本人麻呂が太っていたか痩せていたかを言い争うのを聞き、”人間はどこまでも自己を標準として他に及ぼすものか。”と感想する。(私は梅原猛の流罪説に賛成するので柿本人麻呂は痩せていたと思う。)


一度も行ったことのない吉野を想像して俳句をひねる。

十六
同病相憐れむ越後の無事庵の話。一度も会ったことがないが自分と容態が似ていたことに驚く。

二十一
禅宗の悟りというのは、如何なる場合にも平気で死ぬことかと思っていたのは間違いで、悟りということは如何なる場合にも平気で生きていることであった。

二十四
殺生石の空や遥かに帰る雁(鳥は殺生石のはるか上を飛ばないと死んでしまうという話を踏まえた俳句)

二十六
その中に目立ちたる毛繻子(けじゅす)のはでなる毛蒲団一枚、これは軍艦に居る友達から贈られたのである。(軍艦にいる友達とはもちろん秋山真之のことである。)

三十一
高等女学校の教科書に両国の四ツ目屋のことを書いた文が載ったことへの文部省批判。(四ツ目屋は江戸時代のアダルトショップ)

三十五
鳥づくし(鳥に関わることを書き連ねたお遊び)

三十九
病気の苦しみと痛みによる絶叫、号泣、逆上。(度々あったらしく、看病の母八重や妹律にあたった。)

四十八
近眼の人はどうかすると物のさとりのわるいことがある。(これには賛成しかねる。なぜなら私は近眼だから。)

四十九
脾肉の嘆に匹敵する”錐錆(きりさび)を生ず”という嘆を起こす。(俳句分類の編纂を3年前から放棄したので、半紙綴じ込み用の錐に錆が出てしまったことを嘆くという子規の造語、三国志の劉備が平穏な日々が続き馬に乗らなくなったため内腿の肉がつき太ってしまったことを嘆いたという故事”脾肉の嘆”に倣って作った。)

以上、ほぼ半分の五十八までの記述から抜粋した。残りはまた後日。
子規は絶筆の二日後、34歳で亡くなった。辞世の句は、

糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな
をとといのへちまの水も取らざらき

香川照之は体重を20kgも落して病床六尺の子規を演じたそうだ。

昭和史が面白い

2009-11-28 06:36:58 | 近代史
 半藤一利の「昭和史が面白い」を読んだ。1991~1996年の5年間に雑誌「ノーサイド」(廃刊)に連載された座談会が本になったもので、毎回二人のゲスト(歴史の生き証人、当事者)と半藤が昭和のその時、その出来事を語っている。以下、拾いもの。( )は私の感想。

”昭和史の化け物統帥権”杉森久英・村上兵衛
大正末期は軍縮時代で、左翼思想が幅を利かせ軍人の発言権利が奪われていく。その反動で昭和初年に満州事変が起こり一気に軍国主義になった。今平成3~8年はその状況に良く似ている。(以前、統帥権に触れて「国家の品格」を批判した。)

”少年倶楽部の懐かしの子供時代”加太こうじ・赤瀬川準
昭和初期は大仏次郎、江戸川乱歩や吉川栄治ら大作家が少年ものに全力投球し、児童文学者などいなかった。大人が読んで面白くなければ子供が面白いはずが無い。

”桃太郎の履歴書”鳥越信・俵万智
昔は、キビ団子を「やりましょう。やりましょう。」という歌詞だったのが、後に、「あげましょう。あげましょう。」に変わったころから日本語が乱れた。「花に水をあげる。」、「ネコに餌をあげる。」 (皇太子が幼いころ読んだというフレーベル館のキンダーブックは読んでいた。)

”世界史から見た日米開戦”土門周平・池田清
陸軍は昭和16年3月に対米英戦はできないという結論を出した。それが5、6月に強硬論に変わった。海軍軍令部総長の伏見宮をバックにした海軍が対米英強硬論を強力に推進し、7月に南部仏印に進行した。(以前、NHKで見た海軍軍令部の証言では陸軍の強硬論に海軍大臣が反対できなかったと言っていた。どちらが正しいのだろう。)

”出陣学徒の真実”田英夫・野原一夫
特攻隊の生き残り世代、学徒出陣を経験した世代は反戦、護憲が多い。(この回を読んだ日に田英夫が亡くなったというニュースが飛び込んできて驚いた。)

”「日本のいちばん長い日」の証人”岩田正孝・高木俊朗
日本が焼土と化してもなお、「本土決戦をやってこそ民族のほこりが保てた。」という岩田正孝(の意見には驚いた。映画「日本のいちばん長い日」は小学生のときに観たことは道後温泉の回で書いた。)

”『昭和天皇独白録』の空白部分”阿川弘之・大井篤
昭和16年夏の段階で、開戦の決定に反対したら、「国内は必ず内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証されない」と天皇は言っている。海軍軍令部永野総長は、開戦に「同意しないとクーデターの恐れがある」と言った。(これはNHKの軍令部の証言と一致する。)緒戦の戦果からシンガポール陥落(17年2月)までは、斎藤茂吉や高村光太郎はもちろん、平和主義者の武者小路実篤、里見じゅんら文士が感激興奮している。
石原完爾は田中智学の日蓮教義に心酔し、田中智学と理念が同じであるニーチェのいるドイツへ行き、その後、「世界最終戦争論」と「現代における国防論」において、日米衝突を予言し、日本は勝利すると書いた。日本勝利とする根拠は、日本が天皇制の国、神の国だからという。陸軍はドイツがイギリスに勝つのでアメリカは日本に向かってこないという理由で戦争に勝つと確信していた。
昭和18年4月に山本五十六は死ぬ覚悟で飛び立った。彼は戦争は終結させるべきだと思っていたがはっきり言わずに死んだ。その後の政府指導者たちも19年には終結すべきだと思っていたが決断しなかった。これは、老化して事態に敏速に対応できなかったからだ。(山本五十六が死んだというニュースが流れたとき満州にいた親父は、「日本は戦争に負けると思った。」そうだ。)

”「東京裁判」を裁判する”三好徹・袖井林二郎
日本側弁護団は連合国側の非をつくが、裁判官は「彼が泥棒したということは、おまえが泥棒したことの弁解にならない。ここは日本を裁く法廷であり、連合国を裁く法廷ではない。」といって却下した。
731細菌部隊と天皇は裁かれなかった。

”「引き揚げ」修羅の記憶”藤原てい・なかにし礼
満州に渡った民間の日本人の数は約160万人、そのうち開拓団は27万人。そして17万人以上の人が日本へ帰ってこなかった。8月15日以降、国家はこの人たちを何の保護もせず放り出した。今、何百万人もの在外邦人を引き揚げ者にしないためにも日本は加害者になってはいけない。(半藤)

”世界を魅惑した「グランド・カブキ」”河竹登志夫・永山武臣
外国人に評判の良かったのは、近松の「俊寛」と「隅田川」。あと忠臣蔵の4段目まで。(俊寛は、鬼界ケ島(Iwogashima)に流されているので気になっている。)

”東京五輪マラソン代表の日々”寺沢徹・君原健二
円谷選手は結婚指輪を買うような人がいたが、メキシコオリンピック前で自衛隊体育学校の校長に結婚を反対された。メキシコでメダルをという約束に縛られていた。真面目な男だった。(アベベに続き国立競技場に2位で入ってきた円谷がコーナーでイギリスの選手に抜かれる場面を応援していた自分を覚えているので、東京オリンピックのマラソンはリアルタイムで観ていた。と思う。「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、餅も美味しゅうございました----」の遺書は痛々しく衝撃だった。成績が残せないことへの焦りだと思っていたが、婚約者との結婚も思い通りにならなかったことを知り割り切れない思いがする。)

”三島由紀夫 善意の素顔”徳岡孝夫・美輪明宏
アイヴァン・モリスに遺書を残し、「古き良き伝統のために我が身を捧げようという気になっている。」という。(三島が割腹自殺したのは高校1年の時だった。当時の首相佐藤栄作の「気が狂ったとしか思えない」という談話に対し、翌日の授業で国語の先生が三島事件を取り上げ「首相はばかだからな」と発言したことが忘れられない。その時点で三島作品は「潮騒」しか読んでいなかったし、映画で肉体美を見せた作家で盾の会を主催していたという程度の認識しかなかったので、国語の先生より佐藤首相のコメントのほうにより共感した覚えがある。その後、盾の会の活動内容を知り、「金閣寺」「沈める滝」「音楽」「永すぎた春」「豊穣の海(一巻のみ)」などいくつかの作品を読んだが、美輪明宏と徳岡孝夫の話を聞いても、自殺理由は理解できないままである。結局、事件発生時の自分から成長していないということか。)

姉妹誌の「日本史が楽しい」は必読だな。

Christmas Carol

2009-11-23 12:28:16 | 映画
 昨晩、ロバート・ゼメキス監督、ジム・キャリー主演の「クリスマスキャロル」を観た。3Dとジム・キャリーの怪演を楽しみにしていたのだが、字幕版は3Dではなく、ジム・キャリーもCG処理されていて、”なんだアニメかよ?”と少し引いた気分で見始めた。過去の精霊「The Ghost of Christmas Past」に導かれ過去の自分に会いにいくあたりから引き込まれ、最後にTiny Timが”God Bless Us, Every One”と言ったときには、自分が祝福されているかのように感じた。--とは少し入れ込みすぎか。
 写真は、ネットで見つけたディケンズの1843年初版本”A Christmas Carol in Prose、being A Ghost Story of Christmas”First Editionの再出版にある挿絵(by John Leech)で、主人公Scroogeが現在の精霊「The Ghost of Christmas Present」と会っている場面である。映画の精霊はこれとそっくりに描かれていた。他の挿絵も同じで、特にクリスマスイブのパーティーで踊るMr. & Mrs.Fezziwigは下の挿絵とそっくりだった。



 実は、中学の時、1970年ミュージカル版「クリスマス・キャロル」(原題Scrooge)を観ている。「ビッグ・フィッシュ」や「プロバンスの贈り物」の老人役だったアルバート・フィーニーが演じるScroogeも偏執さがよく出ていて、英単語の”hate”(嫌う、憎む)は、彼が歌う”I hate people!”で覚えた。あと”Thank you very much!”と人々が歌う歌も覚えていた。映画館から帰り、Youtubeで1970年版を見つけたのでクリスマスキャロルのはしごをした。今回のクリスマスキャロルと1970年版の登場人物のセリフや描き方はほとんど同じだった。ミュージカル仕立て以外の相違点は、過去の精霊がおばちゃんだったこと、婚約者とのエピソードが少し多いこと、使用人のクラチットが背が高く痩せて若いこと、映画の最後は”Thank you very much!”の大合唱で終わることぐらいだった。

 最近よく使うOxford Dictionaryによると、主人公の名前の”scrooge”は、
・noun; a person who is mean with money.
— ORIGIN from Ebenezer Scrooge, a miser in Charles Dickens’s story A Christmas Carol (1843).
とあり、”金に汚い人、守銭奴、けち”(miserも”けち”のこと)という意味の普通名詞になってしまっている。これは英国で「Christmas Carol」が生活の一部になっているということか。”It can't take it with you”の回で書いたようにクリスマスキャロルと同じテーマを扱う映画は数多く、こちらが本家本元なのだろう。

「ディズニーのクリスマスキャロル」(原題A Christmas Carol)2009年 監督ロバート・ゼメキス、出演ジム・キャリー、ゲイリー・オールドマン、ロビン・ライト・ペン、コリン・ファース(甥) 3Dで観たかった。ジム・キャリーは実写の方がもっと良さが出たと思う。CGに違和感があったので、★★★☆☆

「クリスマスキャロル」(原題Scrooge)1970年、監督ロナルド・ニーム、出演アルバート・フィーニー、アレック・ギネス(亡霊マーレイ)、ケネス・モア(現在の精霊)、スザンヌ・ニーブ(恋人イザベラ)、エディス・エバンス(過去の精霊)ノスタルジーかもしれないけど、アルバート・フィーニーの演じるスクルージに、★★★★☆

古事記

2009-11-21 12:23:33 | 古代
 東京行きの飛行機の中に、梅原猛訳「古事記」を置き忘れたのは8月のことだった。となりに座った小学生が、羽田に着陸すると同時に飛行機酔いで激しく嘔吐したことに気を取られ、読んでいた古事記を前のポケットに入れ忘れた。
 ちょうど倭建命(ヤマトタケルノミコト)が東国遠征からの途次、都を前にして死んでしまう箇所を読んだところだった。古事記のクライマックスで、命が死んで白鳥となり飛び立つ件だった。
 「鳥は、古代日本人にとって、霊魂の使い、死霊そのものであり、死者の世界と生者の世界とを結びつけるものであった。」ということを柳田國男と折口信夫は実例をあげて示したという。(梅原猛著「赤人の諦観」)
不思議なことに外国でも、白鳥は死と関連して語られる。白鳥が死ぬ間際に歌うという”swan song”という言葉が、人間の最後の作品を指すという。Oxford dictionaryによると、”the final performance or activity of a person’s career. — ORIGIN suggested by German Schwanengesang, denoting a song fabled to be sung by a dying swan.”とあり、もともとはドイツの伝説によっている。辞世の句や歌、遺作なども白鳥の歌ということになる。
 庄司薫の「白鳥の歌なんか聞こえない」を読んだのは高校のことで、莫大な蔵書を持つおじいさんが、その知識とともに死んでいくことに、人生の虚しさを覚える薫くん(虚しさを感じたのは彼女のゆみちゃんの方だったかも?)に(共感?)影響されて、大学に入った直後の一時期、目標を見失い虚無的になったことを思い出す。柴田翔の「されど我らが日々」や、先日亡くなった原田康子の「挽歌」や「殺人者」をその頃読んだのもその延長だったと思う。挽歌とは死者に手向ける歌のことで、万葉集に挽歌が多いことは以前書いた。ような気がする。

 今思えば、虚無的になることと”ぐうたら”は紙一重だった。若いうちはいろいろあるからね。とわかったようなことが言えるのも、生き様、死に様をいっぱい見てきた歳になったということか。だからといって、歳を取っただけで人生がわかるはずもないし、死ぬ瞬間においてもわかるとは思えないけど。

 古事記から脱線してしまった。
ANAに電話して古事記を取り戻すのも面倒だし、もう一度同じ本を買う気にもならず、結局、古事記を中途半端にしてしまった。そのかわり、梅原猛の「天皇家の”ふるさと”日向をゆく」を買った。宮崎と鹿児島の神話の故郷をめぐる紀行だったが、はっきり言って面白くなかった。というより梅原猛の想像力についていけなかった。津田左右吉が古事記の大半をフィクションとしたことに反発するかのように、神話の一部始終に史実を当てはめて考えるのだが、この本での梅原はやりすぎだと思う。梅原猛の本は、彼特有の想像力や発想力に基づく奇抜な解釈が面白いのだが、根拠が明確であるからこそ面白いのであって、根拠の希薄な空想ではただの陳腐な紀行本になってしまう。松本清張や黒岩重吾の古代物のレベルになってしまっていた。同じ紀行本でも以前読んだ東北紀行「日本の深層」は面白かった。これは、私自身の九州と東北に対する愛着度の違いによるものかもしれない。

 ところで、テレビの「不毛地帯」が面白い。親父は戦時中満州に開拓団とし入植し、そこで召集され、二十歳で終戦を迎えシベリアに3年抑留されている。主人公の心の拠り所が戦友会であるように、人づき合いがいいとは言えない親父が満州時代の戦友が集まる会には毎年参加している。ところが、親父から満州やシベリアの話は聞いたことがない。戦争中の話に水を向けたこともあったが、聞いてはいけないことがあるかもしれないという遠慮もあり積極的に話をうながさなかった所為か、無口な親父の口は重かった。それにしても、商社の世界は生き馬の目を抜くというがテレビの商社マンも厳しそうである。東南アジアで会ったことのある商社マンは自信家ばかりであまり付き合いたくない人が多かったが、プライベートで会った商社マンは普通の人ばかりだったので、あたりまえだけど仕事とプライベートはちゃんと使い分けているようだ。

知られざる日本の面影

2009-11-15 20:08:30 | 近代史
小泉八雲の「知られざる日本の面影」に、月照寺の亀が夜な夜な松江の町を徘徊していたという話が書かれているらしいということは以前、亀跌(きふ)の回で書いた。息子が大学の授業の教科書として使っていた「新編日本の面影 ラフカディオ・ハーン 」池田雅之著を息子の部屋で見つけたが、それは全訳でなく、月照寺の亀の話は載っていなかった。そこでGoogle Bookで探したところ、「Glimpses of Unfamiliar Japan」 by Lafcadio Hearnにその話はあった。
”But the most unpleasant customer of all this uncanny faraternity to have encountered after dark was certainly the monster tortoise of Gesshoji temple in Matsue, where the tombs of the Matsudairaa are. This stone colossus is almost seventeen feet in length and lifts its head six feet from the ground. On its now broken back stands a prodigious cubic monolith about nine feet high, bearing a half -obliterated inscription. Fancy--as Izumo folks did--this mortuary incubus staggering abroad at midnight, and its hideous attempts to swim in the neighboring lotus-pond! "(訳:日没後に出会う薄気味悪い連中の中でも最も不快な客は、松平家の菩提寺である月照寺の大亀だったに違いない。この石像は長さが17フィート(5.1m)で、首を地面から6フィート(1.8m)も持ち上げている。その背中に、半分消えかかった碑文が刻まれた高さ9フィート(2.7m)の巨大な長方形の石柱を背負っている。出雲民話にあるように、この死霊のような悪夢が夜中に町を彷徨し、近くの蓮の池を泳ぐ忌まわしい姿を想像してみてくれ!)

日本海からの強い風を利用して山陰では風力発電の建設が盛んで、写真は11月始め山陰の江津の浅利海岸で見た風力発電の風車の異様である。ネットで見つけた事業主体の江津ウィンドパワー(株)が出した事業計画書によると、タワーの高さが80m、羽の直径が86mという巨大なものである。3年前に通ったときにはなかった。山陰では、この2~3年の間に驚くほど風車が増えた。出雲市北部の島根半島に大規模な風力発電が計画されたときには、神話の里の歴史的景観を損なうという意見やオオタカや渡り鳥などの野鳥の生態系が破壊されるなどの反対意見が出たが結局計画を若干変更しただけで建設は強行された。

小泉八雲は「知られざる日本の面影」の中で、朝日に映える宍道湖とその向こうに聳える島根半島の連峰を幻想的に描写している。
”湖は実際より遙かに大きく見えるため、実在のものではなく、夜明けの空と溶け合って空色に色づいた美しい幻の海のようであるし、峰の頂は霧の海に浮かぶ島々のように聳え、長い土手道のように連なる幻想的な尾根の影は見えなくなるまで続いている――細やかな霧のように風雅な混沌、普遍の景色が、ゆっくりと、とてもゆっくりと、立ちのぼる。黄色い日輪が見え出し、暖かく晴れやかな輪郭がぼんやりと現れる頃には――幻想的な薄色と練色は沖の彼方に消え、梢は萌え立ち、鳶色だったあるがままの巨峰の眺めは、爽やかな霞を透かして見える夢のような黄金色へと変わる。”
原本の英語は極めて詩的で自分ではうまく訳せないので、こちらは訳本の訳を使わせていただいた。

巨大な風車が、”夜明けの空に、霧の海に浮かぶ島々のように聳え、長い土手のように連なる幻想的な屋根のような峰が、日が昇るにつれ、梢が萌え立ち鳶色が夢のような黄金色に変わる”島根半島の連峰に立つとき、小泉八雲が見た神の国の風景をどこまで変えてしまうのだろうか。

化石燃料を使わない風力発電はクリーンエネルギーと言われるが、景観だけでなく以下の問題点も指摘されている。
1.貴重種のイヌワシやオオタカなどの鳥やコウモリが衝突し死傷する。
2.人間の聴覚で認識できない低周波音(20Hz以下)が、頭痛、不眠、ストレスなどの健康被害を起こす。
前出の事業計画書では、「調査の結果、環境に与える影響はほとんどない」、「風車によって、そのような低周波が発生した例はない」というものだった。

山月記

2009-11-14 17:34:12 | 中国
 島内景二著”中島敦「山月記伝説」の真実”が東京の本屋に平積みされていたので手にとって表紙をめくると、”敦(あつし)を親しい友人たちは”トン”と呼んだ。”という書き出しに、”おっ!”という感じで衝動買いした。上原和の長男の名が、敦煌の敦(トン)ちゃんであることを思い出したからだ。広島までの新幹線の中で一気呵成に読んだ。

 「山月記」のことは以前、”李陵”の回に書いたが、”自分の才能を頼み、それが受け入れられないのは世間が悪いとし、遂には世間から隔絶してしまう男の話であるが、思い通りにならないことや不遇であることを、いつも他者の所為にする”という感想は、虎になった李徴の境遇だけを見て思ったことだった。島内景二によると山月記には、中島敦の遺書とでもいうべき思いが込められているのだという。
 中島敦は夭折した天才作家という思い込みをしていたが、生まれてすぐに両親が離婚したため生母を知らず二人の継母に育てられ、屈折した少年時代を過ごし、学生時代に女性遍歴が始ったように、正気と狂気、秀才と虎が繰り返しあらわれていたらしい。李徴の人間性を「性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった」と書いているように、中島敦も自身そうであると自認していた。

 虎になった李徴は、かつての親友で高級官僚になっていた袁傪に、
「自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作るところの詩が数十ある。これを我為に伝録していただきたいのだ。一部なりとも後代に伝えないでは死んでも死にきれない。」
続けて、
「妻子が道塗に飢凍する(飢えて凍える)ことのないように計らっていただきたい。」
と後事を託す。

 中島敦は30歳を過ぎ病を得たのちも文壇に出ることもできず焦っていた。山月記は死の前年に書かれ、親友への遺書ともいえるのである。釘本久春は一高と東京帝国大学国文学科で中島敦とともに学んだ親友であり、東大卒業後、文部官僚となった。氷上英廣も同じく一高、東京帝国大学文学部でともに学び、その後、甲南大学や東京大学の教授を歴任する。二人は、山月記を読み、親友を虎にしてしまったことに驚き、彼の遺志を汲み、中島敦の死後、中島敦全集を創刊することに奔走する。さらに、釘本は文部官僚として山月記を国語や漢文の教科書に採用することに尽力したとみられる。
 このように、この本は中島敦の人間や人生、交友関係を明らかにし、山月記の意味を分析したものである。

  「人生は何事をも為さぬにはあまりに長いが、何事かを為すにはあまりに短い」(山月記)

33歳で夭折した中島敦の人生は短いようだが、少なくとも珠玉の小説を遺した。
自分の人生を振り返ると空しくなるので、焦らず前を向いていくしかないと思うのである。

鴨山

2009-11-08 13:50:02 | 万葉

 柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死(みまから)むとする時、自ら傷みて作る歌

鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ (巻2-223)

 柿本人麻呂の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首

今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に交りて ありといはずやも   (巻2-224)
直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ (巻2-225)

 ”鴨山”は人麻呂の死んだ場所と考えられ、古来よりその”所在は諸説紛々定まるところがない”(犬養孝)という。人麻呂の妻である依羅娘子が詠んだ歌にある”石川”は鴨山のそばにあると考えられている。
                            
斎藤茂吉は、江の川上流の邑智郡邑智町大字湯抱小字に鴨山という地名を見つけ、「人麻呂がつひのいのち乎(を)終はりたる 鴨山をしも此処と定めむ」(下の写真の歌碑)として、ここを人麻呂終焉の地と決めたのである。

 左:湯抱の鴨山公園に立つ茂吉の歌碑   右:鴨山公園から撮った鴨山

 犬養孝の鴨山公園から撮った鴨山の写真は、おそらく植林前か直後のものだと思われ禿げ山のように見える。公園からの視界も開けているが、今は公園を取り巻いて杉が林立し鴨山の頂部しか見えない。鴨山の杉もまた、この50年で大きく育っている。ちなみに鴨山公園は訪れる人もないようで車道から登る小道や公園内の木々の手入れはおざなりだった。また、この辺はどこもかしこも似通った山ばかりで、敢えてこの鴨山を歌に詠むには、人麻呂の住居の前に見える山かなにか、相応の理由があったはずだ。”茂吉の説に難点はつけられ確定し難いとしても、人麻呂に寄せる茂吉のひとすじの執念はもう湯抱の山峡から離れることはない。”(犬養孝)

 
 こちらは石川の巻に犬養が「万葉の旅」に掲げた写真である。粕淵周辺の江の川で、茂吉の言う石川に倣った場所である。犬養の写真に合致する場所を探したが、完璧な場所は見つからなかった。江の川河畔にあったカヌー教室の職員にも犬養の写真を見せて尋ねたが、河原の様子や周辺の風景は変化しているようで確実な情報は得られなかった。上の写真も、川の様子が違うのは仕方ないにしても、遠方の山の形が違うのは撮った角度や標高だけの所為ではないような気がして自信がない。

 ”’もう、じかにお会いすることはとうていできないだろう。川の雲が立ち渡っておくれ、その雲を見てあの方をお偲びしよう’の趣にふさわしい景は川の屈折のあちこちで遭遇し、江ノ川が石川であってもいいような気さえしてくる。”と、犬養孝は石川の巻を締めくくり、ここが石川ということに、かなり懐疑的である。

梅原猛「水底の歌」(昭和48年)から拾った斎藤茂吉「柿本人麿」(昭和15年)と梅原猛の考える説の比較は以下のとおり。ただし、両者とも先人の説をそれぞれ踏襲する個所もあり独自説ばかりではない。

1.鴨山

(茂吉)邑智郡邑智町湯抱の鴨山
(梅原)益田の高津川河口近くの沖合の鴨島、平安時代に地震と津波で消滅した

2.石川

(茂吉)江ノ川、粕淵付近
(梅原)高津川、益田

3.”石川の貝に交りて”(依羅娘子の歌)の解釈

(茂吉)石川の峡(かい)の間違い、石川は山の中のなので貝では説明できない
(梅原)人麻呂は水死であり、石川の河口で貝に交っている。

4.人麻呂の身分

(茂吉)都から派遣された従六位以下の下級官吏である。万葉集詞書きに”死”とあり、身分の低い人が死んだときに使われ、身分の高い人の場合は、三位以上”薨”、四位と五位”卒”と定められている。
(梅原)都で従四位下の身分の宮廷歌人であったが、何かの罪を得て石見国に流された。

5.人麻呂の死

(茂吉)湯抱に見回りに来て伝染病による病死
(梅原)鴨山で刑死(水死刑)、怨念を残して死んだ悲劇の人のみ神として祭られる。例、菅原道真、崇徳上皇。人麻呂の命日の3月18日は死んで死霊になった義経や和泉式部らに限られるため、柳田國男は人麻呂がなぜと疑っている。

6.辛之崎

(茂吉)那珂郡唐鐘(浜田市)
(梅原)邇摩郡韓島(大田市)


からの崎

2009-11-07 20:18:05 | 万葉

  つのさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 辛之埼(からのさき)なる 海石(いくり)にぞ 
  深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し児を・・・・
                           柿本人麻呂 (巻2-135)

 辛之埼は、かつて邇摩(にま)郡仁摩町宅野(今は大田市)にある韓島(写真)とされていたが、斎藤茂吉は韓島では国庁から離れ過ぎていると考え国庁のあった那珂郡国府町(今の浜田市)の唐鐘の岬を辛之崎と推定した。唐鐘(とうかね)を古代”からかね”とよんだと推定してのことで証拠はない。梅原猛は自著「水底の歌」で、辛之崎はやはり韓島で、人麻呂はこの島に流人として妻とともにいたとする。梅原は人麻呂が死人を見た讃岐の沙弥島(さみねの島)も流刑地だという。沙弥島は讃岐本土から2.5kmの沖合にあり流刑地に似つかわしいが、韓島は本土から200mと離れておらず流刑地として不向きに見えた。また、沙弥島は周囲2kmで自活のための耕作のできる平地もあるが、韓島は周囲400mほどと小さく、海岸線から急傾斜のずんぐりむっくりの島で耕作地にできる平地は狭い。隣に寄り添う小さな無木島と逢島と昔陸続きだったとしたら沙弥島程度の大きさとなり、流刑地として手ごろな感じになる。

  石見のや 高角山の 木の際(このま)より わが振る袖を 妹見つらむか (巻2-132)
  小竹(ささ)の葉は み山もさやに さやげども われは妹思ふ 別れ来ぬれば (巻2-133)
                                 柿本人麻呂 

 この歌は、多方の人は、人麻呂が国庁の任務を終え、現地妻を残し都へ帰るときのものと解釈する。そのため、韓島から西に向かう行程では都と逆方向になり都合がわるいため、辛之崎や高角山を別の場所に求めるわけである。これに対し、梅原猛は人麻呂は罪人で、流刑地の仁摩の韓島から西の益田の鴨山(処刑地)に送られるときに、妻を思って詠んだものであり、高角山は益田の高津の山だという。この鴨山は、人麻呂終焉の地であるが、梅原は高津川河口の沖合にかつてあった島で、平安時代に地震と津波で沈んだという。

犬養孝の「万葉の旅」では、茂吉説に沿って、”からの崎”の章に唐鐘の写真を掲げている。
 
                        左:2009年11月初旬   右:犬養孝「万葉の旅」昭和30年代の唐鐘浦、大洞窟より猫島を望む。

 写真の日の日本海は大荒れで、大洞窟を強風が吹き抜け、猫島には大波が打ち寄せ砕けていた。犬養孝が見た猫島の上の松の木は消え、島の周囲には防潮堤が築かれている。大洞窟は礫岩を波が浸食した海蝕洞であり、洞窟を奥に抜けると1872年に隆起した石見畳ケ浦(天然記念物)という千畳敷がある。満潮だったため千畳敷は水没し見ることはできなかった。
沢瀉博士は唐鐘から東4kmにある大崎の鼻を辛之崎とするがこちらも根拠はないらしい。犬養孝は、”ここなら位置景情ともに好都合である。両地ともまだ推定を出るわけにはいかないが、人がいないだけに、こわいような自然の景観のなかに思いをめぐらすには格好の処だ。”と書く。位置景情が好都合とは、人麻呂が近くにあった国庁の役人であり、犬養はここで海藻採りの人々やウニ採りの漁夫を見たので歌の”荒磯にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす”の情景にも合うということである。ただし、奈良時代国庁は、仁摩の宅野にあり、平安時代に那珂郡国府に移ったという説がある。宅野に国庁があったなら、韓島を流刑地とした場合に監視は容易い。


浮沼の池

2009-11-04 22:30:33 | 万葉

 昨日11月3日、大山に初冠雪と報じられていた。同じ日、三瓶山頂もうっすらと雪化粧していた。左の山が男三瓶、右が見える山が子三瓶、そのさらに右の低く見える山が孫三瓶。男三瓶の影に女三瓶があるはず。手前の池が浮布池で、火山噴出物による堰き止め湖である。

  
左:2009年11月3日  右:犬養孝の万葉の旅 昭和30年代(1960年前後)

君がため 浮沼の池の 菱採むと わが染めし袖 濡れにけるかも
                    柿本人麻呂歌集(巻7-1249)

”愛するあなたのために池の菱の実をつもうとして、自分で染めた着物の袖をぬらしてしまいましたよ”(犬養孝訳)
犬養孝は、”この歌の浮沼が浮布池だとすれば”と、浮沼が浮布池であるとは断定せず、この歌を”石見の人麻呂と関係づけて考えられなくもない。”と述べ、人麻呂が歌った歌であるとも断定しない。柿本人麻呂歌集の歌のすべてが人麻呂作ではないと犬養孝は考えているようだ。「古代幻視」”人麿・人生とその歌”で、梅原猛は、”信じられないことだが、柿本人麿の歌の数について日本の国文学界はまだ定説を持っていないのである。”とし、自身は歌集の歌の分析から、人麻呂歌集の歌は人麻呂作だとする。以下は、梅原猛の大胆な人麻呂の年齢と作品分類であり、官位まで示している。

 時代      年齢      作品       官位
--------------------ー
   ~670   ~36歳  歌集・略体歌   五位下
680~689 36~45歳 歌集・非略体歌  五位
689~701 45~57歳 作歌・宮廷歌   従四位下か
701~708 57~64歳 作歌・地方歌   流人

漢文表記が略体歌、音訓交りが非略体歌、訓だけが万葉仮名。
”可憐な野趣にみちた田舎乙女の恋情”を詠んだ浮沼の池の歌が、石見に流人として来た人の歌とは到底思えないのだけど、私の印象は間違っているだろうか。

梅原は人麻呂歌集の歌の分析をさらに進め、古事記に先行する原古事記という書があり、その作者が人麻呂であるという説を唱えている。

<出雲風土記によると>

三瓶山は出雲の国引き神話で有名な佐比売山(さひめやま)である。八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い国なので、佐比売山と火神岳(大山)に綱をかけ、新羅から国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。

<気象庁HPからの要約>

三瓶山の中央部には直径約4.5kmのカルデラがあり、その中にはいくつかの溶岩ドームがある。約4500年前、約3600年前、それ以降で時期不詳の少なくとも3回の火山活動があったと推定されている。これらの火山活動の噴出物は主にデイサイトで、降下火山灰、火砕流、溶岩の噴出、火砕丘の形成、火山泥流の発生などが知られている。特に火砕流および火山泥流は遠方にまで到達した実績がある。


志都の石室

2009-11-03 20:49:25 | 万葉

大汝(おおむなち) 少彦名(すくなひこな)の いましけむ 志都の石室(いわや)は 幾代経ぬらむ
                              生石真人 (巻3-355)

大国主命(大汝=大己貴おおむなち)は少彦名とともに国造りをしたと古事記や日本書紀に記されている。二神は志都の石室で国家の経営を論じたのだろうか。志都の石室の伝説地のひとつ大田市静間町垂水の静の窟は、島根県発行の観光地図には載らず、国道9号から、車一台がやっと通れる細い間道に入り、目立たない立札に導かれやっとのことで到達できる場所である。万葉ファン以外に訪れる人はいないと思う。犬養孝も、”誰一人、旅の人の来ないところだから海水も澄明のかぎりだし、砂浜の汀には千鳥が群れ、鳴き声は波音にまじって、やがて岬の山にすいこまれてゆくように思われる。”と、閑静な風景を描写している。



犬養孝の昭和30年代との相違点

  1. 鳥居が立派になった。
  2. 鳥居の右手前の岩礁がなくなった。
  3. 左手前の岩礁の変わりに防潮堤が築かれている。
  4. 犬養孝は洞窟に入っているが、今は”落石危険入るな”と洞窟の入り口にロープが張られているため、入ることはできなかった。洞窟が口を開ける断崖は脆い凝灰角礫岩からなる。暗い洞窟の中を眼を凝らしてみると、小さな鳥居と石碑が立っていた。石碑は犬養の言う、”奥の中央に大正4年に立てた万葉歌碑”と思われる。
  5. 犬養孝の見た閑静な風景とは異なり、小雨混じりの強風で海は荒れ、日本海の厳しさが際立っていた。波が引いた隙をみて波打ち際に踏み出して写真を撮ったが、次の瞬間、大きな波が押し寄せ、膝下まで濡れてしまった。
  6. 今回の訪問者は車のカギを砂浜でなくし、小雨と強風の中、寒さに震えながらY君の援護を2時間半待った。

江戸初期まで洞窟の前に滝の前千軒という集落があったが、明暦二年(一六五六年)四月の大津波で一瞬にして海中に没したと伝えられる。車のカギをなくしたことと集落一つが消えたことを同列にして恐縮だけど、大汝神と少彦名神の祟りかも。

柿本人麻呂終焉の地で益田川の河口近くにあったとされる鴨山(斎藤茂吉の湯抱温泉近くの鴨山とは違う)も、平安時代の大津波で海底に沈んだというから、山陰の海はほんとうに荒々しい。

スペアキーを持って翌日車を取りに再訪したとき、静の窟の岬の上にある静間神社へ行ってみた。社伝によると、”光孝天皇仁和二年(886)二月八日の創祀。もとは、魚津漁港にある「静之窟」の中に祭られていたが、延宝二年(1674年)六月二十七日、洪水により崩壊したため、現社地(垂水山)へ遷座。”とある。静の窟前の集落が消えた1656年から18年後のことである。社殿には出雲大社拝殿と同じような大綱が張られている。面白いことに、神社の向かいにある沼の端にかわいい社があった。こちらの社殿にも、ちゃんと大綱が張られ、屋根には千木(2本のクロスした木)と鰹木(屋根に横に並べた木)がある。