備忘録として

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法隆寺を歩く

2010-01-23 01:44:48 | 古代
 知人(上原和の親戚)から、昨年の夏ごろから、もうすぐ出ると聞いていて待ち遠しかった上原和の最新刊「法隆寺を歩く」が12月に出版されたのでさっそく買って読んだ。
法隆寺を歩きながら、場所場所で上原和の感想や知見を説明してくれる法隆寺解説本である。

 序章では、南大門から南南東明日香の方角を見て、海石榴市(つばきいち)の海石榴は隋の煬帝が日本から送られた椿を詩に詠んだものが逆輸入されたという説を披露する。斑鳩(イカルガ)も明日香にいるイカルという鳥に中国の別の鳥の漢字を借用したそうだ。
厩戸皇子(聖徳太子)が明日香の宮殿から妻である膳菩岐岐美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)の待つ鵤(イカルガ)宮まで黒駒を走らせる姿を思い浮かべながら、膳臣の祖先が朝鮮半島に派遣されていたこと、中国吉林省の広開土王碑を実際に見たことに話が飛ぶ。14歳の聖徳太子が蘇我氏とともに物部氏を滅ぼし、法隆寺の寺領になった物部氏の所領には太子が訪れた伊予の温泉郡の土地が含まれていたことも興味深い。
上原和は聖徳太子撰とされる法華経義疏と勝鬘経義疏を読んだ上で、行間の書き入れや訂正に太子の考え方が現われており、勝鬘経義疏が聖徳太子の自筆ではないとする藤枝晃らの説を明確に否定する。
 第一章では、創建法隆寺である鵤寺が建っていた若草伽藍跡では、太子の子である山背大兄皇子が一族もろともここで自決したことに思いを馳せる。塔の柱の礎石の数奇な運命も語られる。太子の妃のひとりである橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が縫い上げた天寿国繍帳に描かれた鐘楼図は、玉虫厨子宮殿と同じ形をしており、かつての鵤寺の姿をあらわしているという。
 第二章では、玉虫厨子の全体構造、須弥座正面図、宮殿背面図、捨身飼虎図、施身問偈図が詳しく解説される。話は、敦煌、西域、チベット、ロシアのエルミタージュ博物館、バーミヤン、ガンダーラまで及び、最後にパキスタンのラワルピンジ郊外の摩訶薩埵本生の故地マニキュラ村にあるアショーカ王が立てた巨大な塔の前に立つまで続く。
 第三章では、西院伽藍を巡る。金堂、釈迦三尊像の光背銘、薬師如来像、転用材と落書き、玉虫厨子の宮殿を真似た金堂の話、雲形斗栱、金堂壁画、飛天図、次に五重塔と塑像群、藤原不比等と橘三千代、橘夫人厨子の話である。
 第四章では、東院伽藍の夢殿の前に立ち、太子の住居であった鵤宮を偲ぶ。フェノロサが開扉させた救世観音像の有名な話や百済観音像の水瓶の話が語られる。
 最後は、中門に戻り、中門の真ん中に立つ柱に関する例の梅原猛の怨霊封じ説をやんわりと否定する。

 本の中に、法隆寺金堂にある釈迦三尊像の台座に鵤(イカルガ)宮の転用材が使われていたことが書いてあったので、以前から疑問に思っていた
”670年以降に再建された法隆寺の五重塔の心柱の年代が年輪年代法で590年ごろとされていることをどのように解釈すればいいですか?”
という問いを、知人(上原和の親戚)を通して上原和に聞いてもらったところ、
”木というものは切り出してすぐは使わずしばらくねかせる。従って年輪と建物の建立の年代は一致しない。”という答えが返ってきた。

 ねかせる説は以前から知っていたが、伐採から五重塔再建まで80年以上が経過しているのでねかせるにしては長すぎるように思うし、転用材のことを自著で言及しているだけに、上原和の答えは少なからず意外だ? と生意気にもつぶやいてみる。

 ところで、「法隆寺を歩く」は、本文解説と挿入写真を見比べるには写真が小さすぎて判然としなかったので、以前買った「法隆寺写真集」を並べて読んだということも知人に伝えていたら、”本の写真はカラーを望んだそうですが 駄目だった。”ということを上原和から聞いたそうだ。

 いつでも質問していいよと言われたが、法隆寺に行ったことのない人間が、上原和に質問を出すなど何と厚顔であることか。出版本から読み取れる上原和の研究の基本姿勢は実地検証、一次資料主義なので、ばれないうちに早く行かねば!

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