備忘録として

タイトルのまま

写楽と水上飛行機

2017-08-26 15:41:35 | 徳島

 お盆は仙台ののち徳島に行った。もちろん車ではなく飛行機の旅だ。実家で読んだ徳島新聞記事の写楽と空港で再会した吉野川の水上飛行機について書いておきたい。

『徳島の写楽』

 下は鳴門の渦潮と写楽についての8月17日付徳島新聞記事である。記事にある”きのうの本紙”も読んだ。写楽は阿波の能役者・斎藤十郎兵衛を当然のこととして記事は書かれている。江戸時代の考証家・斎藤月岑が補記した『増補浮世絵類考』の短い記事が根拠となっていて、徳島の寺には怪しい写楽の墓もある。写楽について伝えられる人が少ないとし、最後、”調べても調べても分からない写楽の魅力を、つい語りたくなる。”と記事を結んでいるので、筆者は相当の写楽通であることがわかる。

 写楽についてはこのブログで様々な説について書き、当初は写楽=阿波の能役者・斎藤十郎兵衛で決まりと思っていたが、今は写楽北斎説を支持している。自分も田中英道の『写楽は北斎である』を読んでなければ、徳島県人として徳新記事に何の疑問も持たなかっただろう。今は、田中英道以上の証拠を二人の作品の中に見つけられたらと思っている。その目的のため、記事が紹介する『写楽・歌麿とその時代』という展覧会に行きたかったが、徳島滞在時間が短く断念した。

 

『吉野川の水上飛行機』

 東京へ戻る日、徳島阿波踊り空港の待合室で下の写真と水上飛行機についての記事を見つけた。幼いころ、そこで弟が溺れかけたことがあるのでその写真に出会った感慨はひとしおだった。そのとき、自分はおそらく5,6歳、一つ違いの弟は4,5歳だったので、昭和35,6年のことになる。その日、オートバイ(バイク)を運転する父親の背に弟と二人でしがみつき、吉野川橋近くの水上飛行機の発着場まで連れてこられた。そのころ親父が熱中していた釣りのためである。自分と弟は釣りよりも遊びに夢中で、浮き桟橋でできた発着場と岸を結ぶ橋で遊んでいるうちに弟が川に落ちたのである。橋の欄干の外を渡り始めた私を真似て渡るうちに、弟は足を踏み外したか、手すりをつかみ損ねたかして川に落ちたのだ。釣りに熱中していた親父を大声で呼ぶと、親父は駆け寄ってきて着の身着のまま川に飛び込み弟を救い出した。親父が後に語ったところでは、親父が駆け付けたとき弟は頭まで水没し流されていたということだった。弟が水中に沈み流される光景は記憶の中で鮮明なのだが、それが実際に見た光景だったのか、親父が語ったことが心象風景として脳裏に焼き付けられたのかは判然としない。

 写真とともに掲載された記事によると、大阪と徳島を結ぶ飛行便がこの場所に開港したのは、昭和32年6月20日で、当初は5人乗りの水上飛行機が就航し、のち12人乗りの水陸両用飛行機に代わっている。写真の飛行機は12人乗りのように見える。昭和38年にはコンベア社CV-240型40人乗り飛行機が就航しているので、そのころ水上飛行機は廃止されたのだと思う。大阪徳島間で利用したYS-11が初めて導入されたのは昭和40年4月1日のことである。

 写真の発着場背後は吉野川橋で、今も当時のままである。当時、徳島市内から吉野川北岸に車で行くには、対向1車線のこの橋を渡るしかなかった。今は下流にふたつ大きな橋が架かっている。

吉野川南岸の水上飛行機発着場(地図上矢印)、背後は吉野川橋


四國徧禮道指南(しこくへんろみちしるべ)

2016-06-05 13:05:57 | 徳島

四国八十八か所霊場と遍路道」は世界遺産登録を目指していて、以前、四国4県の担当者が世界遺産のスペインサンティアゴ巡礼路を視察したという報道があった。島根県大田市が石見銀山課という準備部署を設置しイコモス意見を取り入れ修正しながら何年もかかって登録を遂げたように相当の準備が必要になる。世界遺産登録の審査は年々厳しくなってきているという。最近ではイコモス(International Council on Monuments and Sites ユネスコの諮問機関)の勧告を受け「武家の古都・鎌倉」が登録を取り下げた。”武家の精神的側面は示されているが、防御的な側面については部分的にのみ示されており、その他の観点(都市計画、経済活動、人々の暮らし)についての証拠が欠けている、(中略)、普遍的価値を証明できていない。”というもので、要するに「武家の古都・鎌倉」のコンセプトが十分に証明されていないという理由である。普遍的価値の証明とイコモスにどうアピールするかの戦略が重要だということである。昨秋、鎌倉に行ったのは武家の古都を見るためではなかった。鎌倉仏教と寺社仏閣を中心としたコンセプトに変える方法もあるように思う。その点、四国遍路は歴史的に庶民の信仰と願いを古刹巡りで支えてきたというコンセプトがはっきりしているので巡礼路を整備すれば合格するのではとひいき目に見ている。

さて、私の遍路は遅々として進まず2年経ってもまだ発心の徳島から抜けられず焼山寺と薬王寺を残す。次回帰省時に一気に徳島を制覇してしまいたい。これまで印象に残った景色を下に掲げる。

 

第八番熊谷寺の風格のある山門

息を切らせて登った第十番切幡寺大塔からの吉野川方向の眺望

自分を水面に写すとご利益があるという第十七番井戸寺の井戸、確かに写真を撮る自分が写っている

第二十番鶴林寺の珍しい鶴の阿吽

第二十番太龍寺本堂前のあじさいとロープウェイからの眺望

一昨年は空海が四国八十八か所開創して1200年目ということだったが、実際に巡礼が盛んになったのは江戸時代からだとされる。伊勢参り富士講などと同じである。江戸時代の僧侶・真念が書いた『四國徧禮道指南』(しこくへんろみちしるべ)という本がある。各札所の解説や道順が記された江戸時代の巡礼者のための指南書(ガイドブック)である。

まず、お遍路さんが用意するもの、札所で「奉納徧禮四國中霊場同行二人」と書いた紙札を奉納すること 札を奉納する順番 「願文では法界平等利益と願いなさい 常にいっしょに歩いてくださる方(弘法大師)の恩徳を感じ 札所では光明真言・弘法大師の宝号を唱えてお祈りしましょう。そしてその札所の御詠歌を三回唱えましょう」とお参り方法をガイドする。旅の必需品(背負子、木の食器、笠、杖、茣蓙、脚絆など)と、大阪から阿波に渡る方法、どこに泊まればいいかを解説する。

「大坂より下って徳島の内町には遍路宿がある。阿波国徳島より霊山寺まで二里半です。徳島佐古九丁目より右に行くと矢三川があります。矢三村、次に鮎喰川があり、高崎村、そして隅瀬川(すみせかわ=現在の吉野川本流)があり、貞方村、勝瑞村、そして吉野川という大河があります。舟渡しがあります。川崎村を通過します。」といった具合に 徳島から一番札所霊山寺までの道案内をしてくれる。江戸時代吉野川本流はもっと北(現在の今切川)だったことがわかる。次に各札所の説明がある。例えば第十七番井戸寺の説明は以下のとおりである。

  • 十七番井土寺 明照寺ともいふ 平地 南むき、名東郡
  • 座五尺 本尊薬師 (弘法大使)御作
  • 詠歌 おもかけの うつしてみれば ゐどの水 むすへはむねの あかやおちなん
  • 是よりおんざんじへ五里 あくい川 とくしままでは家つづき

私のような信心なき参拝者はその日その場の気分で適当なお参りをするが、札所で出会ったお遍路さんは皆、本堂から大師堂を廻り般若心経を唱和している。江戸時代は札所ごとの御詠歌を三回唱和しなさいと指南書に書いてある。上の井戸寺の御詠歌に「井戸の水に自分を映すと自分の罪穢れは消えてしまう」とあるように江戸時代から井戸の御利益があった。

第十三番札所大日寺を訪れたとき、道路を挟んだ向かいの一宮神社が大日寺よりも古式に見えたのでお参りした。一宮神社は大日寺に比べ訪れる人もなくさびれていた。実は、神仏習合の江戸時代には第十三番札所は大日寺ではなく一宮寺と指南書に書かれている。こっちの一宮神社の社殿を人々は訪れていたのである。明治時代に神仏分離され、本尊が向かいの大日寺に移されたという。

かつての第十三番一宮寺、参拝客のいない今の一宮神社と多くの参拝客のいる向かいの大日寺 


2016正月

2016-01-05 12:04:33 | 徳島

高校の同窓会に出席するために当日2日に東京から徳島に飛び、4日にバスと新神戸からの新幹線を乗り継いで東京に戻った。車窓から富士川(?)に映る富士山がうまく撮れた。元日は近所の鷲神社(わしじんじゃ)に家族で初詣をし、3日は徳島の両親と津峯(つのみね)神社に詣でた。どちらの神社でも家族の健康を祈った。

鷲神社の祭神は日本武尊、誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)、田常立命(くにとこたちのみこと)である。これら天つ神を祀る鷲神社の社殿が国つ神を祀る出雲の大社造りであるのに驚いた。鷲神社の所在地が”島根”であることに関係があるのかもしれない。社殿のわきに高さ3mほどの富士塚があったので登頂した。山頂には富士山頂の浅間神社奥院と同じ木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)が祀られている。

津峯神社の祭神は賀志波比売命(かしはひめのみこと)という馴染みのない神様である。賀志波比売命は記紀になくネット情報によると天照大神の幼名だという。神武天皇は奈良に入る前にここ阿南市見能林に立ち寄ったのだという。神社創立は聖武天皇神亀元年(724年)とあった。津峯神社は標高270mほどの独立峰の津峯山頂にあり車で山頂近くまで登り、リフトで社殿まで行くことができる。

左:鷲神社(東京都足立区島根) 右:津峯神社(徳島県阿南市)

鷲神社の富士塚と山頂のお宮

徳島で4年ごと正月に開かれる高校の同窓会に出席するのは初めてである。卒業から40年、正月に徳島にいることはほとんどなかったからだ。40年ぶりに会った級友たちの変貌ぶりに驚きながらも懐かしかった。長い年末年始はあっという間に過ぎ明後日7日にはシンガポールに飛ぶ。


とくしま動物園

2015-05-30 20:01:10 | 徳島

孫を連れて徳島に帰省し両親と、とくしま動物園へ行った。活動的な象やキリンや白熊を間近に見ることができ孫は嬉々としていた。

むかしの徳島の動物園は城山の東側、城東高校の裏にあった。小学校の遠足や写生大会で行った記憶はあるが、以来足を運ぶことはなかった。長女が2歳の頃、妻は私の両親と行ったらしいが、そのとき私は仕事でシンガポールにいた。孫はその長女の娘で1歳と1か月、動物園は初体験である。むかしの動物園で覚えているのは、コンクリートの壁で囲まれた窪地の中央にそびえるサル山を見下ろしてニホンザルをみたこと、堀で隔てられたところで鼻を左右に振る象の皮膚がはがれて痛々しかったこと、ペンギンにやるための皿に盛った魚の餌を売っていたことくらいである。となりに遊園地があった。新しい動物園のとなりにも遊園地があったがそちらには行かなかった。Wikiによると、昔の動物園が閉園したのは1997年のことで、翌年今の場所に移転している。

今回は妻、長女と孫、二女、長男がそろって帰省した。残念ながら長女の夫は来られなかった。彼らと行ったことのある動物園を列挙しておく。年次には記憶違いがあるかもしれない。

  • 広島安佐動物園、1990年頃
  • 白浜アドベンチャーランド(パンダがいた) 1993年頃
  • シンガポールZoo 1981年~2000年頃までナイトサファリを含め断続的に。年間パスを持っていた。
  • シドニーとメルボルンZoo 1985年
  • パースWildlife Park 1991年
  • パースZoo 1991年と2002年
  • サンディエゴZoo 1995年アナハイムのディズニーランドのあと行くはずが長男が熱を出しキャンセルした。 

 

 

 これはおまけ。孫の家の天井裏に家族で住み着いたアライグマ(Raccoon)

 こちらもおまけ。1歳の孫と90歳になった親父(ひいお爺ちゃん)がグッピーに餌をやるところ


野島断層

2014-11-16 17:56:14 | 徳島

先週の帰郷時、両親を連れて鳴門海峡大橋を渡り淡路島の北端まで行った。あいにくの雨模様で、淡路島の岩屋側から明石海峡大橋を霞の中に撮った。その後、野島断層を保存する北淡震災記念公園を見学した。

 

野島断層は淡路島の北端から明石海峡大橋の2本の主塔の間を西南から北東に抜け神戸市に達する約10㎞の活断層である。保存館では野島断層140mほどを写真のようにそのまま保存している。3枚目の写真の一段高くなった南東側がせり上がり右手方向(西)に1.2~1.5mほど動いた右横ずれ逆断層である。横ずれは9kmに及んだという。4枚目の写真にあるように右側が左側に乗り上がり、断層面は一直線でシャープだった。兵庫県南部地震は野島断層が動くことで発生した。地震で断層が発生したのではないのである。下はUSGSに記録されている兵庫県南部地震のShape Mapで、マグニチュードはM6.9となっているが、日本の気象庁の公式記録はM7.3である。

下の表は気象庁震度階級と加速度(Gal)の関係である。1g=981Galなので、USGSの上表と比較するには、USGSのPeak ACC(%g)の数字を10倍すればよい。気象庁の震度7(400Gal)とUSGSのVIII(Peak Acc 40%g)が同規模ということになる。気象庁の震度階級は震度7が最大だが、Wordenでは、さらにIX(750Gal)とX+(1390Gal以上)という2階級を設定している。上図で淡路島北部と神戸周辺は赤く染まっているので、IXからX+だったという判定である。

記念館で神戸の震度7を疑似体験した。下から突き上げてくるような振動で、もちろん立っていることのできないほどの揺れだった。1978年の宮城県沖地震(M=7.4)を仙台で被災(震度5)し、2011年3.11を東京(震度5弱)で遭遇した妻によると、疑似体験した震度7や35年前の震度5よりも3.11の方の横揺れの方が激しい感じがしたという。3.11のとき妻は東京スカイツリー近くの小学校の校庭にいて、建設中のスカイツリー上のクレーンがぐるぐると大きく回るのを見て今にも落ちるのではないかと不安に思ったという。3.11は横揺れの振れ幅が大きく、さらに揺れの時間も2~3分継続し、恐怖心が増幅された所為かもしれない。

震度と加速度の目安
震度加速度(Gal)
0 0.8以下
  1
0.8 - 2.5
  2
2.5 - 8.0
  3
8.0 - 25
  4
25 - 80
  5
80 - 250
  6
250 - 400
  7
400以上

 淡路島では昔花博が行われたという淡路夢舞台という大きな温室にも立ち寄った。外には庭園や階段状の花壇もあったが雨だったのとやたらと広いので温室内だけを見学した。温室内に植えられた花々は素晴らしく癒されたが、足腰の弱い年寄が見学するには広すぎる。もう少しコンパクトでバリアフリーにしてもらえないだろうか。下の写真右は紫式部という花である。小紫式部という花もあり、両者をじっくり見比べたが違いがわからなかった。

 


本四架橋

2014-06-08 23:56:40 | 徳島

韓国のセウォル号沈没事故は痛ましく他人事とは思えなかった。1988年に瀬戸大橋が架かるまで、私たち四国の人間が本州など他の地方に行くには船が頼りだった。小中高の修学旅行は3度ともすべて船を利用したものだった。そのずっと昔、1955年に旧国鉄宇高連絡船の紫雲丸が貨物船と衝突沈没し修学旅行生が100人以上も犠牲になっている。事故は濃霧の中で起こったとはいえ、速度を落とさず航行したことや目視確認が十分でなかったことなど船長や航海士の過失とされた。そんな事故があっても、四国で人が生活している以上、船を手放すことなどできるはずもなかった。幸い当時の国や地方自治体や教育者に修学旅行を廃止するという発想はなく、この事故を教訓として天候による運航停止判断などの安全管理、学校での水泳訓練などの安全教育が強化された。そのおかげで私たちは修学旅行による貴重な体験を享受し続けることができたのである。国は連絡船を継続運航する一方で、台風や濃霧に影響されない本四架橋の建設計画を急ピッチで進めた。修学旅行ではしゃいでいた頃、自分が後日、本四架橋の仕事に関わることになるなどとは夢にも思っていなかった。

左:宇野港にあった宇高連絡船の模型、2008年頃に撮影した 右:歌川広重の阿波鳴門之風景 (https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige226/より拝借)

上の浮世絵は淡路島から鳴門方面をスケッチしたものでここに大鳴門橋が架かっている。先に建設された大鳴門橋は瀬戸大橋同様に鉄道を併設したが、後年建設された明石海峡大橋に鉄道はなく、徳島と神戸を鉄道橋で結ぶ構想は消滅した。今後鉄道が復活するとすれば海底トンネルである。大鳴門橋は1985年に開通、明石海峡大橋の開通は1998年のことである。明石海峡大橋の仕事のために1987年3月10日から7月19日まで5か月ほど神戸にいた。1987年2月にシンガポール赴任を解かれ、約半年間の明石海峡大橋の仕事に従事するため家族を妻の仙台の実家に預け単身赴任した。日付まではっきり覚えている理由は、3月の自分の誕生日を家族で祝ってすぐに現地へ行き、7月20日の長男誕生ぎりぎりまで神戸で仕事をしていたからである。長男は姉二人同様に帝王切開で手術日が決まっていて、出産に間に合うように夜遅くまで残業し仕事の完成を急いだことを思い出す。長男誕生を確認したあと家族をそのまま仙台に残し、8月から今治で来島海峡大橋の仕事に就いた。家族と合流したのはその年の10月になった。

左:2007年夏、しまなみ海道を渡り松山へ行ったときに撮った来島海峡大橋の夕景   右:明石海峡大橋(Wiki)

明石海峡大橋の工事完成(閉合)は1996年9月で、前年の1995年1月に阪神淡路大震災が起こったときは工事真っ最中だった。震災が起こったとき橋桁はまだ架設されてなくて主ケーブルを張り渡したところだった。写真の2本の主塔の中間付近を野島断層が走り、震災のとき断層が1mほど横にずれた。野島断層がそこにあることは建設前の地質調査でわかっていた。断層のずれによって2本の主塔の間の距離が1mほど広くなった。明石海峡大橋の支間長は1990mで計画されていたのが地震で1991mになったのである。この支間長は今も吊り橋として世界最長である。橋とその基礎には耐震設計が施されていたので構造的なダメージはなく、ケーブルを若干補正することで工事は続けられた。(注:野島断層と明石海峡大橋と長男のことは以前”出雲大社”の巻で書いた。) 


遠雷

2014-04-27 15:15:53 | 徳島

今朝、激しい雷鳴に起こされた。時計を見ると6時だった。光と雷鳴が同時で、アパートに落ちたかと思うほど雷は激しく近かった。今は雨も上がり穏やかな青空が広がっている。子供の頃、光って3秒以内に鳴る雷は近いから建物の中に逃げろと教わった。映画「三丁目の夕日」の原作、西岸良平の「三丁目の夕日」に”遠雷”という1編があったことを思い出した。結婚を約束していた彼が破傷風で突然死んでしまい生きる希望をなくし自殺未遂をした女性が、後日結婚し子供を設け平凡で幸せな生活を送る中、ふと昔のことを思い出す。彼女の視線の向うで遠雷が鳴っているという、ちょっとほろ苦い人生を描いた作品だった。30年も昔に読んだので話の内容は違っているかもしれない。はるかな過去の記憶が、ちょっとしたきっかけでふっとよみがえることがある。シンガポールの青い空に重なる真っ白な積乱雲を見ながら、徳島の暑い夏を遠雷のように思い出した。

昭和47年高校3年の夏休みは、クーラーのない暑い家を避け、毎日高校の書道室に通い受験勉強をした。5月か6月の進路指導で希望校への合格確率は2割程度と言われたものだから必死だったのかもしれないし、級友たちが同じように受験勉強まっしぐらだったから刺激を受けてのものだったかもしれない。昼休みには、同じように気ままな場所で勉強していた友人たちが体育館に集まりバスケットやバレーボールでひととき汗を流し、午後からはまた机に向かった。夕方に帰宅し深夜までまた勉強である。飯食って勉強して寝るの繰り返しだった。世界史と化学はわら半紙にポイントを書いて覚える。数学と物理はとにかく問題を解く。不得手な英語は「試験に出る英単語」、「試験に出る英熟語」だけを参考書にしてこれもわら半紙に書いて丸暗記する。わら半紙は机の脇に山積みになった。その頃はプラチナの万年筆を使っていたのでペン先が開き字は極太になっていった。わら半紙の枚数だけ暗記量が増えていくのを実感したように若い脳に限界はなかった。そんな中、気晴らしに山口まで一人旅をし映画も観、ボーリングにも行った。睡眠時間は少なかったが何かを犠牲にしているという感覚はなかった。

ところが、夏が終わり2学期に入っても、力がついてる実感はあるのに模試の順位がなかなか上がらない。周りもみんな勉強しているのだから当たりまえなのである。年末が近づいてくると焦りや受験の重圧がのしかかってくる。それに失恋が重なって精神的には相当追い込まれた。途中、勉強が身に入らないこともあったが、3月初めの受験日は確実にやってきた。当時の国立大学の受験日は3月初旬で、私立は受験してなかったので一発必中しなければ浪人だった。1日がかりで船と電車を乗り継いだ受験場には雪が舞っていた。経験したことのない寒さに震えた。2日間の試験を終え、とにかくやるだけはやったと自分に言い聞かせ汽車を乗り継いで帰路についた。途中、米原周辺は雪のため新幹線の中で一晩明かすことになり、卒業式前日の登校には間に合わなかった。浪人はせずに済んだが、あの高校3年の夏から卒業までの時期は重圧はあったがもっとも充実し全身全霊で生きていた。そのあとしばらくは、大学生活を謳歌するよりもむしろ虚脱感に襲われ、柴田翔の「されど我らが日々」の主人公状態だった。

3月末に帰郷した際、母校の卒業式が地元ケーブルテレビで生中継され、PTA会長になった同級生が壇上で来賓挨拶するのを不思議な思いで見た。昭和47年は、こんな時代だった。

  • 高松塚古墳発見
  • 川端康成自殺
  • 田中角栄の日本列島改造論
  • ニクソン大統領のウォーターゲート事件
  • ミュンヘンオリンピック
  • 日中国交正常化
  • パンダのランラン・カンカン
  • ちあきなおみ「喝采」
  • 山本リンダ「どうにもとまらない」
  • 木枯し紋次郎
  • ゴッドファーザー

遠雷から想起する「遠い崖、アーネスト・サトウ日記抄」という萩原延壽(のぶとし)の本がずっと気になっているのだが14巻という大著に躊躇して手が出せないでいる。本屋で1巻をぱらぱらめくり、1862年19歳のアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow 1843生)が上海を出帆し硫黄島を横にみて横浜に通訳として着任する場面だけは確認している。着任してすぐに生麦事件が起き外国人にとって危険な攘夷一色の日本だったが、その後、この若いイギリス人青年は幕末から明治の日英外交に重要な役割を果たしていく。萩原の「遠い崖」が、外国人が日本と接する上での障壁を暗示しているのか、遥かなドーバーの白い崖に望郷を暗示しているのかは不明である。本を読まないとわからない。


発心

2014-04-05 11:47:25 | 徳島

 3月最後の週末、2番札所極楽寺を散策しているうちに春の陽気に誘われ、にわか発心した。高齢の両親のご機嫌伺いに郷里徳島の実家に戻り、妻と4人で訪れたものである。昨年の帰郷時に、1番霊山寺と5番地蔵寺に行ったので、今回は2番から4番を見てみようと軽い気持ちで出かけた。山門前に横付けされたツアーバスから巡礼の団体さんが降り立ち本堂や大師堂の前で般若心経を唱和していた。赤ちゃん連れの若夫婦が熱心に般若心経を唱えていたのには驚いた。名古屋ナンバーの車に老婆を乗せて札所をまわる母娘らしい二人連れにも会った。私たちのような車巡礼ではなく、笠をかぶり杖をついて巡礼路を歩くお遍路さんを道すがら何人も見かけた。八十八か所巡礼がこれほどまでに人気なのかと驚いた。ただ私の場合、発心といっても信心を発したわけではなく、八十八か所の寺を見てみたいという好奇心を発したのである。真言宗に帰依したのではないことを念のために明記しておく。

徳島市の眉山のふもとで育ったので町を歩くお遍路さんは子供のころから日常の風景だった。ところが、実家の宗旨は母が浄土真宗、父が日蓮宗で真言宗とはまったく無関係である上、両親が異なる宗旨であることからもわかるように両親ともに宗教には基本無関心、そのうえ父は次男坊で家には仏壇がなかったこともあり、宗教には無縁で育った。だから、今も宗教心はない。宗教心はないが宗教に関心はあるということである。

 今年が八十八か所開創1200年にあたることもお遍路人気に拍車をかけているのかもしれない。1200年前814年に八十八か所が開創されたというのだ。空海は774年讃岐に生まれ、793年に驚異的な記憶術である虚空蔵求聞持法を身に着け、797年「三教指帰」を著わし、804年~806年の2年間入唐し密教を持ち帰る。帰国後空海は、嵯峨天皇の庇護のもと異例の出世を遂げる。814年は仏教界で重みを増している頃で、816年には最澄と決別し朝廷より高野山を賜る。八十八か所巡礼がこの年に始まったわけではないようで、巡礼は室町時代から江戸時代にかけて徐々に盛んになっていったという。江戸時代は富士講、大山詣で、伊勢詣でなどの巡礼が盛んだったように、庶民は集団での旅が好きで神でも仏でも特にこだわらず何かにすがっていたかったようだ。今も同じようなものである。

 納経所に行くと奉納経帳に朱印が押され寺名と本尊を表す梵字を、弘法大師相伝かとも思えるような達筆で描いてくれる。極楽寺の本尊は阿弥陀如来である。左のページは1200年記念の特別印ということだった。サンティアゴの道でも宿泊所などでペタペタハンコを押していた。写真左側のお札は納経所で御影袋に入れて渡されたが、このお札をどうするかは聞き忘れた。

極楽寺境内には空海自身が植えたとされる長命杉という大樹が立っている。この老木とは対照的に真新しい仏足石もあった。1番霊山寺や81番白峯寺もそうだったように、巡礼客を喜ばせるためか境内には雑多な物が置かれている。仏像だけでなく神像やマネキンもいる。土産物も充実し、八十八か所巡りは江戸時代の伊勢参りと同じように大衆文化となっている。

今回、2番の極楽寺から、3番金泉寺、4番大日寺とまわり、昨年訪れた5番地蔵寺と1番霊山寺を再訪して朱印をもらい、1番から5番が揃った。徳島県内は帰郷の際にまわればいいので県内は数度の里帰りで回りきれるが、あとは何年かかるか、あるいは興味を持ち続けられるかまったく自信がない。

下は巡礼の前日に行った徳島神山町の明王寺のしだれ桜。明王寺は真言宗だが八十八か所には入らない。


三無主義

2013-10-12 13:08:36 | 徳島

1950年代半ばに生まれ、1970年代前半に高校生だった我々の世代は、しらけ世代と呼ばれた。少し上の団塊の世代や全共闘世代とは異なり、政治に対する関心が薄れ個人主義になり、無気力、無関心、無責任の三無主義世代とも呼ばれた。高校生だった1970年から1973年は、大阪万博が開かれ経済成長まっさかり、沖縄が返還されもう戦後ではないと言われる時代だった。自衛隊員の決起を促す三島由紀夫の演説が世間から浮いて見える時代だった。ヒッピーと呼ばれる若者が世界中にあふれ、男は誰もが長髪でベルボトムのジーパンをはいてムサイ恰好をしていた。

ふとしたことで見つけた森田健作の青春ドラマ「おれは男だ」の吉川操役の早瀬久美のブログに写る姿があまりに若々しいことに驚き、当時大人気の青春ドラマと、それをリアルタイムで観ていた高校生の自分と時代を思い出した。

写真は早瀬久美ブログより転載

しらけ世代と言われたが、当事者たちは、個人主義ではあっても無気力、無関心、無責任とは無縁だったように思う。級友たちはそれぞれがそれぞれの方法で高校生活を謳歌していた。ビートルズの解散はオノ・ヨーコの所為だとまじに思っていたし、ホームルームの時間には差別や愛国心やクラスのあり方をまじめに議論した。文化祭の準備に夜遅くまで熱中した。級友と「おれは男だ」の吉川操と丹下竜子(小川ひろみ)のどちらが好みかを熱く語った。早瀬久美には悪いけど丹下竜子派が圧倒的に多かった。クラスの女子の横顔がオリビア・ハッセイに似ているという級友に、それは恋愛感情が入っているからだと冷やかしたこともあった。庄司薫の「かおるくん」シリーズや柴田翔の「されど我らが日々」の感想を披露しあったり、「ある愛の詩・ラブストーリー」を回し読みした。皆、受験勉強の重圧にあがいてはいたが、若者らしく体力と気力にあふれていた。それでいて精神的には未成熟で繊細で、泣いたり笑ったり、些細なことで激怒したり、劣等感にさいなまれたりした。何かに反発し試験の答案を白紙で出した級友もいた。傷つきやすく登校拒否になった仲間も一人だけじゃなかった。早瀬久美がブログで語っているとおりだったのである。

本当の青春時代って十代の頃?明るくって将来の夢に向かってキラキラしてるってイメージだよね。

でもさ~
実際の青春時代は傷つきやすく、繊細で、それでいて無神経だった。

私もその頃は、こんな写真で表紙飾って・・そりゃ人様には楽しそうに見えるかもしれないけど・・
やっぱり胸に突き刺す事多かったよ。

「おれは男だ」の断片をYoutubeで振り返ると、高校生の自分は丹下竜子派だったけど、今の自分なら吉川操派かもしれない。

おまけの話として、早瀬久美、本名・物集久美子(もづめくみこ)の曽祖父は国学者の物集高見(もづめたかみ)、大伯父は国文学者の物集高量(もづめたかかず)で、他にも物集家は多くの学者や文人を輩出している。物集高量は文学者でありながら博打や女遊びで身を持ち崩し留置所に入ったこともある。106歳まで生きたが100歳のとき「百歳は人生の折り返し点」という本を出している。wikiによると死去する前日、若い看護婦のスカートに手を入れて婦長に叱責されたという逸話が残っている。死ぬまで青春のまま奔放に人生を生きた人だったようだ。60歳になろうかという早瀬久美のブログは、自分の生年を多分わざと書いてないように、大伯父同様に好奇心にあふれ、今、青春を生きているぞっていう様子が満載なのである。そう言う自分はあと1年あまりで還暦を迎える。還暦を文字通り訳すと、「こよみが戻る」、すなわち人生の再出発点である。早瀬久美には負けられない。


阿国大瀧岳

2013-02-18 23:49:14 | 徳島

空海は「三教指帰」の序で、以下のように記述している。

阿国大瀧岳ニ躋リ攀ヂ、土州室戸ノ崎ニ勤念ス、谷響キヲ惜シマズ、明星来影ス。

空海は阿波の大瀧岳に登り土佐の室戸岬で修行し虚空蔵求聞持法を体得したという。口の中に金星(明星)が入ってきたことが法の体得を表すという。この大瀧岳には2説あって、ひとつは阿南市にある四国八十八カ所22番札所の太龍寺(たいりゅうじ)で、もうひとつは美馬市の北、香川との県境にある大瀧寺(おおたきじ)である。徳島に帰省したついでに後者の標高946mの大滝山山頂近くにある大瀧寺へ行った。

脇町から北に向かいツヅラ折りの山道を登っていくと途中から完全に雪道になった。雪があるとはまったく想定してなかったためスパイクタイヤを装着しておらず大滝寺の1kmほど手前で車はスリップし始め前進不能になった。そのため、同行者を車に残しひとりで雪道を歩き寺まで行った。大瀧寺は八十八か所には含まれず同じ日に行った5番札所地蔵寺や翌日行った1番札所霊山寺とは異なり参拝客はひとりもいなかった。梅が咲き始めた下界とは隔絶された白銀世界だったので、空海がよじ登って虚空蔵求聞持法を修行したというのもうなずけるが、もうひとつの大瀧岳候補である太龍寺に行ったことがないので今のところ何とも言えない。

  虚空蔵求聞持法とは真言(マントラ)を100日で100万回唱えれば抜群の記憶力が備わるという修行である。空海は24歳のときの著作「三教指帰」で室戸で金星が口に入ったと述べているので、、あらゆる経典を記憶することが可能になる虚空蔵求聞持法を若くして体得したことになる。大瀧寺境内に上のサンスクリット文字の掛布が飾られていたが、これが空海の唱えた真言かどうかはわからない。また、虚空蔵菩薩の真言は、”Namo akasa-garbhaya, Om alika mali muli svaha”であるが、これを唱えたのかどうかもわからない。真言宗では発願を真言で直接仏に働きかけることから音が重要であり、サンスクリット語のままに唱える。真言宗は真言を重視することから名付けられた。般若心経の「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅儈掲帝 菩提儈莎訶」も真言である。


スナフキン

2012-06-30 10:51:04 | 徳島

 このブログ開設初期のころからプロフィール写真(左)はスナフキンを使っている。人形は娘の部屋にある。

 教科書以外に持った最初の英語の本が、Tove Janssonの”Moomin"だった。中学生には難しく数ページで読むのを断念した。当時、テレビアニメが放映されていて、登場人物の中ではスナフキンが最高だった。たぶん、テレビを見ていたほとんどの人は彼が好きだったと思う。彼は放浪者で、孤独を愛し、群れることを嫌い、権威を嫌う。その点で木枯らし紋次郎や寅さんもスナフキンと同類で、帽子をかぶり、身ひとつで旅をする。しかし、スナフキンはその上に理知的で、基本的に無口なんだけど、時に「うっ!」とうならせるような名言を発する。

http://matome.naver.jp/odai/2127000228523916001

  • 明日も昨日も遠く離れてる
  • そのうちなんてあてにならない。今がその時さ
  • 人間はものに執着せぬようにしなきゃな
  • おだやかな人生なんてあるわけがない
  • 人の涙をもてあそんだり、人の悲しみをかえりみない者が、涙を流すなんておかしいじゃないか
  • 何かを試してみようって時には、どうしたって危険がともなうんだ

哲学的なことを言うのである。

 実は寅さんも時に、「うっ!」と思う名言を言うのである。満男が予備校生か大学生のときだったと思うが、

満男;「おじさん、人間はなんのために生きてるのかな」 寅さん:「あー、生まれてきて良かった。そう思うことが何べんかあるだろ。そのために生きてんじゃねえか。」

満男:「大学に行くのは何のためかな」 寅さん:「人間長い間生きてりゃ、いろいろな面倒なことにあうだろ。そんとき、俺みたいに勉強していない人間はいい加減にサイコロ振ったり、気分で決めたりするしかないんだ。それが勉強した奴はな、自分の頭できちんと筋道立ててどうすればいいかって考えるんだ。そのために大学に入るんじゃないか。」

スナフキンにあこがれても、スナフキン的生き方は簡単じゃない。自分自身が見たものしか信用しないAgnosticな思想を持っていて、現実主義者で、自由で、人や物に拘束されることを嫌う。冨や栄華や名誉には執着しないので、すでに覚者(仏陀)かもしれない。


城南

2011-03-27 11:39:12 | 徳島

 城南高校硬式野球部が甲子園に出場し、しかも甲子園出場常連校で地元の報徳学園に勝ち、懐かしい校歌を2度も聞くことができた。ユニフォームの肩にあしらわれた松柏の校章も懐かしい。試合を見ながら久しぶりに熱くなった。

テレビ中継でアナウンサーが、硬式野球部はサッカー部と同じグラウンドで練習していると紹介していた。私の在学した昭和46年~48年は、サッカーフィールドが2面取れる広さのある運動場を、ラグビー部、サッカー部、硬式野球部が下のGoogle Map(北が上)のようにすみ分けていた。校舎とグラウンドの配置は当時のままで、体育館とプールがなくなっている。体育館は西側(?)の位置に移ったのだろうか。図書館を兼ねた武道館も記憶では正方形の建物だったので当時のままなのかわからない。初めて黒沢映画「七人の侍」を見たのがこの武道館である。写真では野球の内野部分が黒っぽくなっているが、当時は野球部の影が薄くサッカー部のほうが幅を利かせていたので内野はないし、ましてピッチャーマウンドもなかった。

 当時の硬式野球部には素質のある選手が多く、プロゴルファー尾崎3兄弟の次兄で剛速球投手と評判だった健夫の海南高校から10点近く点を取るほど打線はよかった。しかし、ピッチャーがノーコンでその倍ぐらいの点を取られて早々と負けていたことを記憶している。徳島は野球王国で、徳島商業、鳴門高校、鳴門商業、海南高校など甲子園で有名な学校が目白押しであり、練習量の少ない城南高校は素質だけではどうにもならない状況だった。池田高校が有名になるのは卒業後のことである。徳島県の甲子園出場校は、すべて公立高校で野球留学とは無縁である。そもそも徳島には私立高校があまりないのである。

 野球部が肩身狭くグラウンドを使っていたのに比べ、ラグビー部は西のフィールド全面を我が物顔に使っていた。私の頃のラグビー部は、県の第2代表として四国大会に出場し、ひとつ下は花園の全国大会に出場した。ラグビーは徳島ではマイナースポーツで、鬼のK監督のもとで結構ハードな練習をしていたので、県でも上位にいることが可能だったのである。徳島商業や徳島工業のラグビー部には硬式クズレという硬式野球でレギュラーになれなかった身体能力の高い選手が必ずいたように、徳島のラグビーは野球のお下がり的なスポーツだった。二学年下の弟はサッカー部だったが戦績に語るほどのものはないはずだ。また、陸上部は人数も少なく運動場の隅で細々と練習をしていた。

 城南は30日(水)に鹿児島実業と2回戦を戦うが、仕事に身が入るか心配だ。


眉の如

2011-03-05 12:25:04 | 徳島

城南高校硬式野球部が21世紀枠で甲子園に出場することになった。母が徳新(徳島新聞)のOB投稿記事を送ってくれた。

 

正直、OBの微妙な気持ちを代弁している。硬式野球部の同級生には悪いが私のころの硬式野球部も同じで甲子園など夢の夢だった。徳島では、昭和48年頃から総合選抜という徳島市内の普通科高校の平準化制度が導入され、旧徳島中学から城南高校へ引き継がれた1校エリート主義が廃止される。

眉の如 雲居に見ゆる阿波の山かけて漕ぐ船 泊知らずも     (巻6-998)

は、阿波の沖を船で通ったときに船王が詠んだ万葉歌である。眉山は周辺の学校の校歌には必ず盛り込まれていて、城南高校の校歌にも謡われている。でも、城南からの眉山は近すぎて”眉の如”くは見えない。城南からは尾根の一つが孤峰に見え、そこから右手に向かって長く裾野を伸ばすので城南生は”城南富士”と呼んでいる。

紀伊水道から見た眉山がほんとうに”眉の如”見えるかどうかGoogle Earthで側面から立体視してみた。
紀伊水道よりGoogle眉山 
吉野川北岸よりGoogle眉山

紀伊水道から見る眉山は、眉に見えないこともないが、自分としては見慣れた吉野川からの眉山のほうが眉に見える。Googleは、これ以上、地面すれすれに立体視はできなかったが、吉野川からの眉山の形状は下の実写とほとんど同じなのがわかる。撮影場所は四国三郎橋のすこし東の吉野川北岸である。高松から高徳線で帰省すると吉野川にさしかかるあたりで、車窓から”眉の如 雲居”に眉山が見え始めると、”ああ、故郷だ!”という実感がわいてくる。眉の左端にロープウェイがかかり、城南はその陰にある。

吉野川北岸より実写眉山、すぐ右手が四国三郎橋

徳島ラーメンなるものが名物になっているが、そもそも10年あるいはそれ以前に徳島ラーメンなどというものはなかった。子供のころ食べた南新町の”上海”のラーメンや高校時代よく行った大道の”夜明け”の支那そばや東新町の”一福”のラーメンはおいしかった。高校のとき同級の猛者は”夜明け”からこっそり教室までラーメンの出前をとっていた。”上海”ははるか昔に閉店し、代替わりした”夜明け”は味がかわった。”一福”は最近行ってないのでどうなったかわからない。”山京”のラーメン(下の写真)は濃厚でうまいが、かつて食べた徳島のラーメンはトンコツかトリガラダシで今ほど濃くてしょっぱくはなく生卵もなかったがもっとうまかった。


菜の花

2010-03-16 22:19:34 | 徳島
 通勤路に菜の花が咲いた。もくれんも、梅も、桜も咲いている。

春、菜の花を見ると、小学3年生の時に事故で死んだ同級生のA君を思い出す。A君は徳島の東新町のパチンコ屋の立体駐車場で遊んでいて床とエレベーターに挟まれて死んでしまった。その日の僕は同級生と小学校で野球をしていた。そこに新聞記者を名乗る男が現われA君の写真を持っているかと聞いてきたのだ。記者にA君が死んだと聞いた僕たちは急いでA君の家に向かった。そこには目を真っ赤にしたA君のお母さんがいた。事故の前日は参観日で、理科の授業のために先生から草花を持ち寄るように言われ、ほとんどの同級生が1、2本の草花を持ってきたのに、A君は両手で抱えきれないほどの菜の花を持ってきていた。彼が持ってきた菜の花は花瓶に生けられ、座る人のいなくなった机の上に置かれた。A君が抱えた大束の菜の花と机の上にポツンと置かれた菜の花の鮮やかな黄色を思い出す。

 同級生の死は、中学3年の時、夏休みに川で泳いでいて溺れて死んだAH君、大学4年の時、松の植生の卒業研究に冬山の蔵王に入ったT君の遭難、風の便りで知った中学高校の同級生M女史が40歳そこそこで二人の娘を残して乳癌で亡くなったことまでだが、僕ら世代は老境に足を踏み入れ、これから同級生の死は増えてくるのだろうか。

ウェルかめ

2010-03-08 23:14:42 | 徳島
 朝ドラ「ウェルかめ」の放映が後1カ月を切った。ウミガメは故郷の浜で産卵するので、勝之新と美波町に帰ったカメ子(浜ちゃん)もまもなく産卵すると予想している。
 毎回欠かさず見ているけど、徳島県人でなければドラマ開始早々に見なくなったかもしれない。ほのぼのとしたいいドラマで嫌いじゃないのだけれど、盛り上がりに欠ける。NHK朝ドラ史上最高傑作と密かに評価している「ちりとてちん」までとは言わないけれど、もっと泣いたり笑ったり、ハラハラドキドキさせてくれ。と言いたい。
 写真は日和佐うみがめ博物館のある日和佐湾の方角を薬王寺から撮ったものである。テレビでよく使われる日和佐湾の小島も小さく見える。

 美波町(昔は日和佐)へは何度も行った。小学校の時は、日和佐から船で南の千羽海岸(リアス式海岸)の浜にあがり、海水浴を楽しんだ。透明度の高い海で、ハワイの潜水艦やオーストラリアのグラスボートで見た海でさえ、その時に見た日和佐海岸の海には及ばない。薬王寺のコインを置きながら登るあの急傾斜の階段も登った。ウミガメは、眉山の麓にあった旧徳島博物館に大きな剥製があり、幼いころから馴染みだったことは以前書いた。日和佐のうみがめ博物館には行った記憶がないが、ただ機会がなかっただけかもしれないし、まだ博物館が出来てなかったのかもしれない。ウミガメはメキシコまで回遊しているとテレビで言っていたが、南はマレーシアの東海岸まで行くのだろうか。マレーシアの東海岸で仕事をしていたころ、ウミガメの産卵するトレンガヌの浜へは何度か行った。きれいな砂浜だった。
 
 先日書評を載せた「昭和の名将・愚将」は、帰省した時、徳島駅前の小山助学館で買ったもので、店内には浜チャン(倉科カナ)と店員さんの写真が飾ってあった。浜チャンが“ぞめきときめき出版”に入ってすぐのころ、ホッシンの雑誌を納めにきた本屋が小山助学館だということはテレビを見ていて、すぐにわかった。何しろ中学、高校と小山には入り浸りだったから。当時、小山の並びにはあと2軒本屋があり、休日には本屋のはしごをするのが常だった。その2軒は閉店したのか別の場所に移ったのか今はもうない。