備忘録として

タイトルのまま

屈原

2010-06-12 00:19:42 | 中国
 札幌から帰って二日後、気温差20℃のシンガポールに3泊で行ってきた。ダウンタウンのブギスを歩いていると大きな屈原(写真)がくるくる回っていた。シンガポールは旧暦5月5日の端午の節句を祝う祭の真っ最中で、屈原像の周辺にはチマキを売る露店がたくさん出ていた。
 

 露店で買って食べたチマキはDark Soya Sauceで味付けをしたもち米の中に豚肉と卵の黄身を入れて竹の葉で包んだ豪華版でS$3.00(約200円)だった。店の前で立ち食いしたが大変美味だった。シンガポール時代に料理法を学んだ妻の作るチマキは、もち米の中にシイタケや干しエビやニンジンや挽肉などをまぶしたもので、豚肉も竹の葉も使わないが店のチマキに負けないほど美味である。大量に作って冷凍庫に保存し好きな時に解凍して食べるのが習慣である。
 
 端午節的由来(The Story of Rice Dumpling and Dragon Boat)を中国語と英語で書いた看板が像の下に掲げられていた。写真で”節 → 节”と簡略漢字になっているようにシンガポールの漢字は中国本土と同じように簡略化が進んでいる。シンガポールで働く台湾人の知人は、自分の子供が簡略漢字で教育されるのを嫌い妻子を台湾に送り帰した。台湾は古い字体を日本以上に残している。例えば、發(台湾) 発(日本) 发(中国・シンガポール)、 樂 楽 乐 、廣 広 广 、といった具合である。

 屈原とチマキの由来には思い出がある。1991年バンコクでの国際会議に参加したとき、九州大学の有名な教授夫妻と令嬢、長崎大学准教授、会社の上司数名とバンコク・シャングリラホテルのShan Palaceという中華飯店で会食をした。バンコクの中華街でチマキが売られていたのを見てきた教授令嬢が間違ったチマキの由来を話したのに反論し、「楚の屈原が汨羅(べきら)に身を投げたとき漁民がチマキを投げて屈原が魚に食べられないようにしたことに由来する」と知ったかぶりをした。その時私は30歳半ばで、その席では最も若輩者だったが陳舜臣の「中国の歴史」や「小説十八史略」を読んでいたころだったので立場をわきまえずに令嬢(当時確か出戻りで40歳前後)をやり込めてしまった。幸い中国の大学の客員教授でもあり中国通の父親の教授が、「そのとおり」とすぐに話を引き取ってくれたので場が気まずくならずに済んだ。この辺が世渡り下手なのだが、議論に熱くなると相手の立場を考えない性分は50歳半ばになった今も治らない。

 ちょうど今読んでいる史記の楚世家には屈原が”どうして張儀を処刑しなかったのか”と王を諌めたという一事しか出ていなかったが、おそらく列伝のほうに詳しく書かれているのだろう。
(注:秦の宰相である張儀は連衡策により秦と楚を結ぼうとし、楚の重臣であった屈原は斉と結び秦に対抗すべきと主張した。)

 屈原は政争に敗れ左遷され、「楚辞」に「離騒」や「招魂」などの熱い愛国詩を残し、最後は楚の首都が秦に占領されたことから楚の将来に絶望して自殺する。以前、赤壁の回でも書いたが、屈原、陶淵明、蘇軾、西行、人麻呂らは皆、失意の中で歴史に残る詩歌を残している。宮刑を受けた司馬遷が史記を残したのも同じである。彼ら加え、有馬皇子、大津皇子、弓削皇子、軽皇子ら古代の悲劇の皇子たちにも同情し魅かれのは、判官贔屓の日本人の性癖を色濃く持っているだけのことかもしれない。

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