備忘録として

タイトルのまま

世界の終末

2012-12-23 21:56:51 | 話の種

一昨日2012年12月21日はマヤ暦によるとDoomsday(最後の審判の日)だったらしいが、何事もなく過ぎ、世界が滅びなくて良かった。

終末論には、仏教の末法思想、キリスト教の千年王国、ノストラダムスの大予言、野馬台詩などがあり下に列挙した。映画、SFや漫画にも終末論は多数あるがそれらには言及しない。

  • 末法思想は、シャカ立教から2000年で仏法が行われない日が来ることをいう。この世の終わりではないのだが、平安時代の末期には終焉に結びつける思想が流行した。仏教の空の論理では断滅はない(不断)ので仏教に終末はありえない。
  • キリスト教の千年王国にも異説はあるが、主たるものはキリストが再臨しハルマゲドン(Armageddon)が起こりサタンを滅ぼしたあと神が直接統治する至福の1000年が始まるとするものである。ハルマゲドンは戦争を終わらせる最後の戦争である。ハルマゲドンとは全く違うが関東軍参謀だった石原莞爾は1940年ころの世界情勢から日本を中心とする東亜連盟とアメリカ中心の西洋の間の世界最終戦論を考えた。
  • 16世紀の預言者ノストラダムスの1999年7月に”空から大王が来る”という予言が、世紀末だったので終末論に結び付けられた。1999年はシンガポールにいた。関連本は相当売れたようだったけど、コンピューターの2000年問題のほうが重大だった。オーム真理教は1999年に世界の終末が来るのでハルマゲドンを始めたらしい。オームは基本チベット仏教だと思っていたがキリスト教も取り入れていたのだろうか。
  • 吉備真備が解読した野馬台詩は、”東海姫氏国”(日本のこと)から始まり、最後は”百王が尽きて、ーーー、大地は荒れ果て世界は無に帰す”となり、天皇は100代で尽き世界は終わるとする。第100代は14世紀の後小松天皇である。今日は天皇誕生日で今上天皇は第125代となる。野馬台詩は江戸時代には面白おかしく取り上げられパロディー本なども書かれたが、基本的に偽書とされている。
  • マヤ暦の終末論は、マヤの長期暦が2012年12月21日で終ることをもって終末論とするものである。原因は、Nibiruという3600年周期で太陽を回る惑星(?)が衝突するというものと、地球がフォトンベルトに突入し天変地異が起きるというものが主なものである。NASAは早くからそれを否定している。Nibiruは古代バビロンやシュメールの神話に出てくるらしい。フォトンベルトは科学的な裏付けのない”光子の束”でキリスト教のニューエイジを唱える人々が提唱する。ニューエイジは千年王国の次に来る時代をさす。
  • 宇宙物理学での宇宙の終焉にはいくつか説があり、宇宙はこのまま膨張を続け熱的死を迎えるというもの、宇宙はやがて収縮が始まりビッグバンとは逆の究極的収縮ビッグクランチを迎えるというもの、ビッグバンとビッグクランチが繰り返され終焉はないという説もある。
  • 地球の終焉でもっともよく語られるのが小惑星の衝突で、1910年のハレーすい星の接近時には彗星の有毒ガスに包まれて地球上の生物は死滅するという噂が流れたらしい。6500万年前の隕石の衝突(偶然だがマヤ文明のユカタン半島に落ちた)で恐竜が絶滅したように小惑星衝突の可能性は否定できない。それがなくても数十億年後のことだが、いずれプレート運動が停止して海水が無くなり火星のようになるか、膨張する太陽にのみ込まれて終焉を迎える。
  • 人為的な世界の終焉には、世界戦争、放射能汚染、環境破壊、宇宙人の襲撃、ウィルスなどがあり地球は終焉リスクを数多く抱えている。宇宙人の襲撃はSFやマンガの話ではなくNASAが発表したという記事を読んだが、NASAのWeb-siteでは確認できなかった。宇宙人の襲撃理由は地球の環境破壊が宇宙の環境に影響することを看過できなくなることにあるという。そういえば映画”地球の静止する日”の宇宙人の襲撃理由は好戦的な人類に宇宙の平和を乱すなと警告することだった。

中国の杞の国の人は空が落ちてくるのではないかと心配したが列子は起きるかどうかわからないことを心配しても仕方がないとたしなめた。ブッダは現実主義者で、議論しても結論のでないこのような問題には答えなかった。同じく現実主義者の孔子も同様だったと思われる。ただし世界戦争や放射能汚染を含む地球環境は人類の対処次第なので、これが原因で地球の終焉を迎えるような愚かなことにならなければと思う。

下(wikiより)はマヤ暦の始まりである紀元前3114年8月11日を示すマヤ文字(数字)。映画”2012”はテレビで放映していたのを見始めたが特撮CGばかりで疲れたので途中で放棄した。(IMDbより)

参考:マヤ暦

  • 1 Kin=1日
  • 1 Winal=20 Kin=20日
  • 1 Tun=18 Winal=360日=1年
  • 1 Katun=20 Tun=7,200日=20年
  • 1 Baktun=20 Katun=144,000日=394年
  • 1 Piktun=20 Baktun=2,880,000日=7,885年
  • 1 Kalabtun=20 Piktun=57,600,000日=157,704年
  • 1 Kinchiltun=20 Kalabtun=約316万年
  • 1 Alautun=20 Kinchiltun=約6,300万年

紀元前3114年に始まったマヤ暦ではまだ1Piktunにさえ達していない。2012年12月21日は単に394年ごとに廻ってくるBaktunの節目に相当するだけで特別な意味は認められない。マヤ暦のスケールの大きさは6300万年サイクルまでも記す。不思議なことにマヤ暦の最大サイクル1Alautunは6,500万年前の恐竜絶滅とほぼ一致している。やはり、マヤ暦は何かの終焉を予告しているのか。マヤ文明の研究者であるSandra Nobleさんは、終末説はまったくの作り話で金儲けのネタに使われていると批判している(wikiMayaCalendar)。 CNNニュースはマヤの人々は誰も終末説を信じてはおらず暦の1サイクルが終わり新しいサイクルが始まることを祝っていると伝える。


龍樹

2012-12-22 23:09:53 | 仏教

 2~3世紀インドのナーガールジュナ(中国名「龍樹」)は、般若経で述べられ大乗仏教の基本的教説である空の思想を哲学的・理論的に基礎づけた。それゆえに、大乗仏教は彼から始まったと言われ、ブッダ以降もっとも重要な仏教者のひとりとされる。龍樹は、「中論」など多くの著作を残している。

 空の思想をもう一度考えてみようと思い、ナーガールジュナの「中論」を中心に彼の生涯と思想を解説した中村元著「龍樹」をひととおり読んだ。しかし、中村元が噛み砕いた解説でさえ難解だった。否定の否定が繰り返され西洋には詭弁だとする研究者もいるらしいが、中村元は古くからある多くの注釈や研究、サンスクリット原本、その中国語訳を駆使し、ナーガールジュナが中論で言いたかった中身に正面から迫るのである。

中論の中心問題は縁起である

ものは相互依存(相因待)、すなわち縁起でなりたつ。有⇔無、大⇔小、長⇔短など、有は無があってはじめて存在する。ものには自然に存在するものだけでなく、形而上学的な”かた”としてのものである概念(法=ダルマ)も含む。自然に存在するものが有で、”かた”として存在するものは実有とされる。下の否定の論理は、縁起を明らかにするために用いられている。

<不滅>宇宙においては何ものも消滅することなく、<不生>何ものもあらたに生ずることなく、<不断>何ものも終末あることなく、<不常>何ものも常恒(じょうごう)であることなく、<不一義>何ものもそれ自身と同一であることなく、<不異議>何ものもそれ自身において分かれた別のものであることはなく、<不来>何ものも(われらにむかって)来ることもなく、<不出>(われらから)去ることもない

縁起は時間的な因果関係をあらわすものではなく、論理的相関関係をあらわす。すなわち、短があるから長があり、浄があるから不浄がある。双方は独立しては存在しえず、片方がなければ片方は成立しない。このことから、一を知れば一切を知る。微小を知れば全宇宙を知る。という考えさえも導かれる。

中論の説く空の論理は虚無論ではない

空と無は同じではない。だから、中論の説く空は老子の説く無とは異なり虚無論ではない。縁起は有や無から離れた中道であり、これが空である。では空に対抗するものは何かというと、不空である。すなわち縁起しないものが不空である。ところが空を不空と対立してみることはできない。なぜなら空そのものが対立から超越したものであるからであり、不空は存在しないと言える。不空がないなら空もないのであり、それがニルヴァーナである。(注:金谷治「老子」を読む限りでは老子の思想は必ずしも虚無主義とは言えない。)

仏教当初の思想と中論の関係

ブッダは諸行無常を説いた。すべてのものが無常であるということは、概念である法(ダルマ)でさえ無常ということか。さらに、諸行無常という命題さえ確かなもの(常住)でない、すなわち無常だとなれば、ブッダの教える根拠がなくなってしまうことになる。だから、概念や命題は実有であるとするのが小乗仏教である。しかし、中論は概念や命題も無常であるとする。

ブッダは不断不常を説いた。いかなるものも常住でなく(無常)、断滅しない(不断)。ブッダは苦楽は自から作られたものではなく、他のものによって作られたものでもなく、自他の両方からつくられたのでもなく、自作でなく他作でもない無因生(因無くして作られた)ものでもなく、実に縁起せるものと説いたという。原始仏典では、諸事物は自作、他作、自他作、無因作のいずれでもないと述べられている。すなわち、原始仏典ですでに空の思想が語られているのである。

西洋哲学の問題

西洋哲学は突き詰めれば主観と客観の対立であったが、仏教は最初から主観と客観の対立を排除したものである。我思うゆえに我あり(主観)は、無我を説く仏教では排除される。仏教の根底は有と無の対立であり、有でもなく無でもないものが空である。それがニルヴァーナに至る道であるとする。

中論から学べること

原始仏教は、われわれは生存に執着して妄執によりあくせくしてはならない。しかしまた非生存(断滅)にとらわれて、人生を捨てて虚無主義になってはいけない。と説いた。生存=有、死=無と考えると、中論の説くニルヴァーナとは、非有非無、すなわち空そのものである。

人間は迷いながら生きている。そこでニルヴァーナの境地に達したらいいなと思って憧れる。しかし、ニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。ニルヴァーナにあこがれるということ自体が迷いなのである。では何に頼ればいいのか。ここで以前紹介した”眠ろう眠ろうと努めると、なかなか眠れないが、眠れなくてもいいのだと覚悟を決めると、あっさり眠れるようなものである。”という中村元の解釈でやっとニルヴァーナとは何かがうっすらと理解できるのである。


ホビット

2012-12-16 18:04:50 | 映画

 

”ホビット 思いがけない冒険(The Hobbit、An Unexpected Journey)”2012、監督:ピーター・ジャクソン、出演:マーティン・フリーマン、リチャード・アーミテッジ、イアン・マッケラン、アンディ・サーキス 帰国中の昨日土曜日に近所の映画館で観た。もちろん3Dで。LOTRは3作ともシンガポールの劇場で公開と同時に観たし、その後マレーシアで購入したDirectorカット版DVDを何度も繰り返し観ている。若いころ「ホビットの冒険」原作を読んでいる。だから、ビルボ・バギンズと13人のドワーフとガンダルフの冒険の公開を待ちかねていた。公開2日目の土曜日だから混んでるだろうなと心配していたが、妻が外国人カップルは2組だったと観客すべてを確認できるほどがらがらだった。ひとつ席をあけた隣の白人女性がこちらが字幕で確認するより早くくすくす笑うのが気になるほどだった。ホビットにはLOTRのフロド(イライジャ・ウッド)、エルフのガラドリエル(ケイト・ブランシェット)とエルロンド(ヒューゴ・ビービング)も出てくる。白い魔法使いサルマン役のクリストファー・リーはLOTRでサルマンの最後が気に入らず劇場版ではその重要な場面がカットされていたので、今作に再登場したのには驚いた。狼に乗ったオークが襲ってくる場面、洞窟の中でのトロールとの戦い、ガンダルフが呼んだイーグルが危ない所で救ってくれるところなど、LOTRで見慣れた場面がいくつか出てきた。繰り返しDVDを観ているのでLOTRは細部まで記憶しているが、前3部作にない新しい趣向はホビット第1作では見られず驚きもなかった。それでも3時間弱、LOTRの世界にどっぷり浸ることができた。来年の第2部が待ち遠しく期待値を込めて★★★★☆ 写真はいつものIMDbより

後は機中映画

”オーロラの彼方へ(Frequency)”2000、監督:グレゴリー・ホブリット、出演:デニス・クウェイド(The Day after Tomorrow,)、ジム・カビーゼル、ショーン・ドイル、ニューヨークでオーロラが観測された1999年のある夜、同じようにオーロラが観測された30年前の1969年と無線がつながり、父子が会話する。数日後に火事現場で死亡するはずだった消防士の父親は、30年後の息子のアドバイスで生き残る。ここまでは父子の絆を語る熱いHeartful Movieだと思っていた。ところが過去が変わったことでその後の歴史が変わり、刑事になった息子が追いかけていた殺人事件が家族に深く関わることになる。息子が過去の父親にアドバイスを送るたびに歴史が変わり新しい危険が発生するため、またそれに対処しなければならなくなるというSuspense Movieになる。過去が変わるたびに手元にある写真の人間が消えたり現れたりする手法はBack To the Futureで使われていた。過去のある場所、ある時間が再生できるモニターで過去を変えようとするデンゼル・ワシントン主演の”デジャブ”2006、死ぬ寸前に過去の他人の意識に入り込み鉄道爆破を阻止する”Source Code”2011なども同系列だが、この2作品では主人公は過去の女性に魅せられてタイムトラベルしてしまう。今作では主人公も過去の人間もタイムトラベルはなく、現在と30年前が同時進行する。最後は過去に救われる。★★★★☆

”ボーンレガシー”2012、監督:トニー・ギルロイ、出演:ジェレミー・ルナー、レイチェル・ワイズ、マット・デイモンのボーンシリーズは全作観ている。今作はボーン(マット・デイモン)ではなく別の工作員アーロン・クロスが主人公である。ボーン事件の所為で工作員たちが抹殺される展開はめまぐるしく前半はストーリーを追うのに苦労した。後半は主人公と関わった女性科学者との逃避行になってストーリー展開がスムースになりわかりやすくなった。でも前作は越えられなかった。★★☆☆☆

”天地明察”2012、監督:滝田洋二郎、出演:岡田准一、宮崎あおい、江戸時代、使用する唐の暦に誤差が生じていたため新しく国産暦を作った天文学者・渋川春海(安井算哲)のことを描いた映画である。春海(岡田)が笹野高史と岸辺一徳扮する幕府の天文方といっしょに北極星を計測しながら日本全国を廻るところは精密で地味な仕事に生涯を掛ける生き方に日本人の伝統的美徳を見るようであり、また市川猿之助(もと亀治郎)扮する関孝和と算術の知恵を競う場面も江戸時代の算術レベルが世界的にも高かったと聞いていたので楽しく、映画に対する期待が高まった。ところが後半は、新暦導入の反対派が送りこんだ忍者に襲われ師匠が殺されたり、日食予報に切腹を賭けるなど史実にも原作にもない話が増え展開が派手になり話が嘘っぽくなったのは残念だ。関孝和が憤慨する理由も不明だった。妻は原作の方が良かったと言う。★★☆☆☆

 今日は、衆議院と都知事のダブル選挙投票日だった。昼前に行った近くの小学校の投票所は混んでいて、ぞろぞろと並んで投票したのは初体験だった。これまでの投票は、学生時代の仙台、広島、シンガポール大使館でいずれもガラガラだったため少し驚いた。前回は広島から転勤したばかりの2010年参院選で、広島選挙区を事前に不在者投票したので混んでなかった。今回は自民党が圧倒的に優勢らしいが、郵政選挙以降、右に左に大きく振れ過ぎる有権者の意志とそれに右往左往する政治家両者の政治的な未成熟が気になる。


最澄の志

2012-12-09 15:12:48 | 古代

昨年9月に比叡山延暦寺を旅した巻でこんなことを書いた。

最澄、天台宗、比叡山延暦寺と空海、真言宗、高野山金剛峰寺は歴史の試験勉強の中でセットで覚えたが、もちろん天台宗や真言宗がどんな仏教で、最澄と空海のことも何も知らなかったし、知らないことに何の疑問も持たなかった。試験でいい点数を取るにはそんなことは蛇足で、ひたすら試験に出る事柄を頭に詰め込むのみだった。これが詰め込み教育の弊害だとは思うが、機械的に覚えたからこそ、今になって比叡山に行ってみようとか、空海の密教仏教展に行ってみようとか思えるのかもしれない。

今、手にする「最澄と空海 日本人の心のふるさと」で梅原猛が、嵯峨天皇に提出した「山家学生式」で最澄の提案する叡山の学生の教育理念を解説している。要約すると、

叡山で修行する学生は、12年間、山を出ず、始めの6年間は聞慧(もんえ)すなわち学問を学び聞くのを主とし、思修(ししゅう)すなわち自分の頭で考え修行するのを副とする。次の6年間は逆に思修を主とし、聞慧を副とする。1日の3分の2は仏教を学び、残りの3分の1は他の学問をする。

すなわち、6年間は詰め込みを中心にして、次の6年は思索を中心にしろ。また視野の広い僧となるためには仏教だけを学ぶのでなく他の学問もしろという。中学高校の6年間は聞慧を中心にして大学では思修を中心にするようなものである。

最澄は、当時の奈良の東大寺や薬師寺などの大寺で学ぶという通常の僧のコースから逸れ、満18歳の延暦4年、比叡山に籠りひとり学問を始める。このときに、”自分は狂った人間のうちでももっとも狂った人間、愚かな人間で、何をすることもできない人間だ”として、以下の誓いを立てる。

  • 六根相似の位を得ないうちは、世間に出ない
  • 仏教の理を悟らないうちは、俗学俗芸に関わらない
  • 真の戒律をもたないうちは、施主の法会にあずからない
  • 般若の心を得ないうちは、俗事に関わらない
  • 身に受けた功徳はひとりじめせず、すべての心あるものに授けたい

”六根相似の位”すなわちブッダと同じ感覚を持つこと、”般若の心”すなわち空を悟り、無我の境地に達すること、これらが備わらないうちは山を下りないという誓いである。18歳でこの誓いを立てた最澄は比叡山で修行と学問に明け暮れる。最澄の純粋な向学心と誓いは生涯継続し、天台の教えをもっと知りたいと延暦21年35歳のときに遣唐僧として唐に渡り天台宗を学ぶ。帰国してからは、学問や自分の信じる教義に純粋な最澄は、密教の本を借りる貸さないで空海と絶縁したり、南都法相宗の徳一と激しい論争を繰り広げる。

ブッダと同じ感覚を目指すという志を18歳でもった最澄が弟子たちに残したことば”我が志を述べよ”と、ブッダが弟子に残した最後のことば”怠ることなく修行を完成しなさい”は、当然同義だと思う。最澄の志は、円仁、円珍、源信、法然、親鸞、道元、日蓮らに受け継がれ日本の仏教は最澄から派生したといっても過言でないまでになった。また、ブッダの教えは時代と空間を超えて、さらに新しい教義を加えて発展したことも周知のことである。


長い旅の途上

2012-12-01 12:51:12 | 賢治

上の写真は、成田空港の出発ロビーで買った星野道夫「長い旅の途上」の中の、”クマの母子”という随筆に添えられていた。写真をみてすぐに宮澤賢治の「なめとこ山の熊」を思い浮かべた。

 星野道夫のことを知ったのは、当時家族で観ていた「どうぶつ奇想天外」のカムチャッカロケでクマに襲われて死んだというニュースが流れた時だった。その時は、なんて無謀なロケをするんだろうという印象を持ったように記憶している。それはこの写真家とテレビ局の双方に向けて持った印象だった。事故は1996年のことで、その顛末はwiki星野道夫に詳しく書かれている。

 星野道夫のことはそれっきり記憶の彼方に消えていたが、2~3年ほど前から、宮沢賢治に興味を持つようになって、いろいろなところで星野道夫の名前を見るようになった。山折哲雄も「デクノボウになりたい」で星野のことを取り上げていた。賢治の自然観と星野の自然観は同じだったのかということが知りたくて、テレビで取り上げられた彼の生き方を見たり、随筆「旅をする木」を読んだりした。NHKだったと思うがその番組では、星野は賢治と同じ自然観を持っていたと解説していたように記憶している。ただ、彼の随筆「旅をする木」、「長い旅の途上」には賢治に直接言及する部分はなかった。

 星野は、氷に閉じ込められたクジラを救出した話が美談として世界中に流れたときに、クジラが氷に閉じ込められることは昔からあったことで、クジラが周辺を徘徊するホッキョクグマなどの多くの野生動物の生命を支えるとともに、エスキモーにとっても自然の贈り物だとエスキモーの古老が嘆いたという話を伝えている。

 「長い旅の途上」の中の「狩人の墓」という章で、エスキモーといっしょに伝統的なクジラ猟に出かけた星野は、小さな舟でクジラを追い、氷上に引き上げたクジラを囲んで祈りをささげ、解体後に残されたあご骨を海へ返しながら、「来年もまた戻って来いよ!」と叫ぶエスキモーの姿を語る。自然保護や動物愛護という言葉に魅かれたことがなく、狩猟民のもつ自然観の中に大切ななにかがあると気づいていた星野自身の自然観は以下のことばに集約されているように思う。

  • 私たちが生きていくことは、だれを犠牲にして自分が生き延びるか、という日々の選択である。
  • 極北の風に吹かれていると、有機物と無機物、いや生と死の境さえぼんやりとしてきて、あらゆるものが生まれ変わりながら終わりのない旅をしているような気がしてくる。

「なめとこ山の熊」で猟師の小十郎は、生活のためにクマを殺し、クマに殺されることを泰然として受け入れる。賢治やエスキモーや星野にとっての自然との共生は、生だけでなく死をも共有することなのである。アラスカで多くの生と死をずっと見続け撮り続けていた星野は小十郎と同じ最後を辿るのである。