備忘録として

タイトルのまま

彼岸花

2009-09-26 23:59:14 | 話の種
Fuku(我が家のダックス)の散歩で行く近くの土手の斜面に彼岸花が咲いていた。彼岸花は、幅5mm長さ5cmほどの縮れた赤い数枚の花弁の周りを、先端に小さな黄色の豆粒をつけた糸状の茎が放射状に張り出している。この糸状の茎を数えたところ、ほとんどの彼岸花が42本か49本だった。

家に帰って彼岸花のことを調べてみると、
高さ約 30~50cmの花茎の頂に赤色の花を一〇個内外つける。花被片は六個で強くそり返り、雄しべは長く目立つ。(大辞林)
花ひとつに雄しべ6本、雌しべ1本とあったので、放射状に広がる糸状の茎の本数が7の倍数だったのはそういうことだったのかと納得した。それと、茎の先に黄色の豆粒(花粉)のないものがあり、何かの拍子に落ちたのかと思っていたが、花粉のないのは雌しべだったのだろう。

彼岸花をお墓のまわりや田んぼの畦によく見かけるのは、彼岸花に毒性があり、もぐらや野ネズミを寄せ付けないために植えたというようなことを、テレビのクイズ番組で言っていた。妻が、白い彼岸花もあると言っていたが、ネットに載った写真を見ると、白も黄色もあった。

花を見るたびに、山口百恵が「マンジュシャカ~」と歌ったのを思い出す。何で「マンジュシャゲ」じゃないのかと疑問に思ったまま、確認せずに何十年も経ってしまった。

”d’Ivogasima”と二つの硫黄島

2009-09-22 17:16:26 | 
Google Bookで、フランス語原本の”LA CHINE ET LE JAPON AU TEMPS PRESENT”を見つけた。フランス語はさっぱりだけど83ページに、”d'Ivogasima”という語句を見つけた。”d'Ivogasima”は、訳者が言う沖縄に近い硫黄鳥島(下図2)ではなく、屋久島と薩摩半島の間の(薩摩)硫黄島(下図1)ではないかと前回、問題提起した。フランス語原本には、訳本のP75の航路図はなく、この航路図はおそらく訳者が航路を想像して挿入したものだと思う。訳者が何を根拠に”d'Ivogasima”を硫黄鳥島と考え、大きく南に迂回する航路としたのかはよくわからない。



あらためて、訳本のP73を読むと、
”6月1日朝6時に、日本で最初の小さな岩ばかりの島が見える地点に到達した。”に続いて、”朝10時、標高833メートル、しかもさかんに活動している、ポツンと孤立した”d'Ivogasima”のすぐ近くを通った。”
とあり、前回は気がつかなかったが、シュリーマンは、”d'Ivogasima”の近くを通った4時間前に、”小さな岩ばかりの島”を見ているのである。
薩摩硫黄島の上海寄りには、草垣諸島(西に80km程度)や黒島(西に30km程度)などいくつか島が存在するが、硫黄鳥島の方は、上海から硫黄鳥島まで、島は見当たらないので、このことからも、硫黄鳥島が”d'Ivogasima”である可能性はさらに低くなったといえる。しかし、薩摩硫黄島とする説にも弱点がある。それは、薩摩硫黄島には、1934年以前に噴火や溶岩流出記録がないのである。薩摩半島から、わずか40kmの距離なので、活発な火山活動があれば当然記録されていると思うのだが、それがないのである。また、”ポツンと孤立した”島としては、硫黄鳥島のほうが似つかわしい。

Ernest Satowの書いた「A diplomat in Japan」(1921年出版)に、1861年9月2日に上海を出港し、途中”Iwo Shima, a volcanic island to the south of Kiu-shiu”(九州の南の火山島である硫黄島)の近くを通過し、9月7日に伊豆半島に到達したとある。シュリーマンが”d'Ivogasima”を見た1865年の4年前のことである。ただし、”d'Ivogasima”と”Iwo Shima”が同じ火山島であるという証拠はない。

イギリスのペニンシュラー・アンド・オリエンタル汽船会社が、横浜・上海間に定期航路を開設したのは、1864年のことである。シュリーマンが1865年上海から横浜に渡ったときに使ったのは、訳では”東洋蒸気船会社”とあるので、これはペニンシュラー・アンド・オリエンタル汽船会社のことではなかろうか。

その7年後の1872年に、ジュール・ヴェルヌの「80日間世界一周」(1872年出版)の主人公Mr. Fogsが、上海から横浜に向けて大型船に乗っっている。シュリーマンの書いた上海定期便、アヘン、日本の曲芸、太平洋上で日付変更線を越える時に日付を戻したエピソードなどから、フランス人のジュール・ヴェルヌがフランス語で書かれたシュリーマンの「シナと日本」(1867年出版)を読んでいた可能性は非常に高いと思う。

ところで、(薩摩)硫黄島は、伊能忠敬の日本地図(1821年作成)や勝海舟の大日本沿海略図(1867年作成)に”硫黄島”と明記されており、シュリーマンやアーネスト・サトウの時代に、”イオウジマ”または”イオウシマ”と呼ばれていたことは確実である。勝海舟の大日本沿海略図”硫黄シマ”の横に記された”二千三百五十一フィート”は705mに相当し、現在の測量による硫黄岳の標高704mとほとんど同じであり、当時の測量技術の高さに驚く。硫黄鳥島は伊能忠敬や勝海舟の地図の範囲外である。1875年ト部精一作成の新撰日本全図には、両島ともに同じ”硫黄島”と表記されている。これらの古地図は、国土地理院のホームページで見つけた。
ちなみに、太平洋戦争で有名な硫黄島は、小笠原のはるか南に位置し、名前は、キャプテン・クックの名付けた”Sulfur Islands”に由来する。

亀戸天神

2009-09-21 23:51:53 | 江戸
先週、東京へ行った時、藤で有名な亀戸天神へ行った。菅原道真を祀っている。境内の太鼓橋を描いた広重の浮世絵(江戸末期1856~58年)、英国人ポンティングの写真(明治末年、1901~1902年、または1906年)と今回の写真(2009年9月19日)を比べてみよう。


広重、江戸末期1856~58年
浮世絵 名所江戸百景、亀戸天神境内(浅草仲見世で買った絵葉書)


ポンティング、明治末期1901~6年
In Lotus-Land Japan by Herbert George Ponting 1910
(英国人写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本 ハーバート・G・ポンティング 長岡祥三訳)

今、2009年9月

広重とポンティングの写真では、橋は木製で橋脚で支えられている。広重の橋脚は4本だが、ポンティングは2本に見える。また、ポンティングでは太鼓橋の脇に橋高の低い渡りが設けられている。今の橋はコンクリート製で橋脚はない。ポンティングに比べ桁の曲率(太鼓の曲がり)がゆるくなっているように見える。今は橋の向こうにビルが林立しているが、広重もポンティングも橋の背後には何もない。

江戸末期の広重の時代から、50年経った明治末期までの変化にくらべ、明治末期から現代までの100年間の変化は著しい。これを科学の進歩というのである。

亀戸天神を見物したあと、やはり広重の浮世絵”亀戸梅屋舗”の臥龍梅跡にも行った。屋敷はなく碑と若そうな梅だけが立っていた。その後、本所や吾妻橋を通り浅草まで歩いたが結構な距離だった。

ポンティングの本は、シュリーマンがどんな風景を見たのか知りたくて明治日本というタイトルに飛びついて買ったのだが、シュリーマンが日本へ来た1865年からは40年が経過している。今回、亀戸と浅草へ行った同じ日に神田の古本屋で江戸末期の写真集”甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより”という古本を見つけたので即座に買った。この写真集にはシュリーマンが訪問した場所の同時代写真がいくつも掲載されており、その紹介はまた後日としたい。

シュリーマン旅行記 清国・日本 ”日本の巻” その2

2009-09-21 08:43:49 | 
シュリーマンは、蒸気船に乗って上海を出航し、
”快適な旅のあと、われわれは6月1日朝6時、日本で最初の、小さな岩ばかりの島が見える地点に到達した。(中略)
朝10時、標高833メートル、しかもさかんに活動している、ポツンと孤立した硫黄島(イボガシマ)火山(現在の鳥島)のすぐ近くを通った。円錐型の大きな上部火口からさかんに噴煙がたちのぼっていた。また東側の山腹にできた第二火口からは、煮えたぎった溶岩が幅広く流れだし、4キロメートルほど先の海に注ぎ込み、はるか彼方まで海を煮えたぎらせていた。噴火は遠雷に似た地鳴りを伴っていた。(中略)
正午から午後7時にかけて、船は美しい景観を見せる九州本島にそって進んだ。”
以上はP73~74の記述で、P75には上海から硫黄鳥島を経由し九州へ向かう航路図がある。

このくだりを読んだとき、硫黄鳥島は1865年当時、ハワイ島のように溶岩が海に流れ込み海が煮えたぎっていたのに、今は溶岩が流れ込むような話は聞かないなと思った。そこで、硫黄鳥島のことを調べたところ、今の硫黄鳥島とシュリーマンが見た火山島とは微妙に違うことに気がついた。
1.硫黄鳥島の最高標高は212mであり、シュリーマンの記す標高833mとはかけ離れている。(国土地理院の二万五千分の一の地形図などによる)
2.硫黄鳥島は、溶岩を流したことがない。気象庁ホームページ(http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/601_Io-Torishima/601_index.html)からの抜粋
”安山岩質の2火山が接合した長径(南東-北西)2.7km、幅2kmの島。南東側の火山は三重式で中央火口丘は溶岩ドーム。北西側にある島内最高の硫黄岳は砕屑丘で、直径約300mの山頂火口の壁には、数ケ所に硫気孔がある。有史後の噴火はすべて爆発型で溶岩を流出したことはない。(高木ほか,2004)。
3.シュリーマンは、朝10時に鳥島を見て、2時間後の正午には九州本島沖を通っているが、硫黄鳥島と九州本島の直線距離は400kmもあり、蒸気船が2時間で進める距離ではない。
シュリーマンの乗った蒸気船は、九州本島を6月1日正午に見て、6月3日午後10時に横浜に投錨するまでの48時間で約1000kmを航海しており、平均スピードは約11ノットになる。また、ペリー艦隊の蒸気船サスケハナ号のスピードは、10ノットだったという記録(http://en.wikipedia.org/wiki/USS_Susquehanna_(1850))がある。仮に11ノット(約20km/hr)で硫黄鳥島と九州本島までの400kmを進むには、20時間を要する。高さ800mの山を水平線に遠望する距離は100kmなので、鳥島と九州本島をそれぞれ遠望する距離を合算した200kmを差し引いてもまだ200kmを残し、これを2時間で航海することは不可能である。シュリーマンは火山島のすぐ近くを通ったと述べており、実際100km先から溶岩が海に流れ込み煮えたぎっている様子や九州本島に繁茂する木々の様子はわからないので、遠望距離は考慮しなくてもいいと思う。
4.訳本のP75にある航路図によると、シュリーマンの乗った蒸気船は上海から九州本島へ真東に向かう最短距離を取らず、南に大きく迂回しているが、東シナ海の潮流を見ても、この遠回りは不可解である。前出の気象庁ホームページの東シナ海海流図(例えば今年6月の海流http://www.data.kishou.go.jp/kaiyou/db/nagasaki/jun/current_n1.html)によると、上海の少し南の沖合いに真東へ向かう潮流があり、その潮流に乗ってしばらく東進すると北へ向かう対馬海流に合流する。

では、シュリーマンが見た火山島が硫黄鳥島でないとしたら、実際に見た火山島はどこなのか?

シュリーマンの見た火山島であるべき条件は、火山標高が800m級で、円錐型ドームの火口を有し、1865年頃に激しく活動し溶岩が島の東4km海上まで流れ込む、九州まで蒸気船で2時間の距離(距離にして40km程度)にある火山島である。

前出の気象庁ホームページから、奄美大島と鹿児島間の火山島を北から並べると、
1.薩摩硫黄島 標高704m 500~600年前にマグマ噴火の記録あり 島の東に海底噴火による岩礁 九州南端まで40km
2.口永良部島 標高657m 1841年噴火 溶岩流あり 九州南端まで70km
3.口之島 標高628m 噴火記録なし
4.中之島 標高979m 溶岩流記録なし
5.諏訪之瀬島 標高799m 江戸末期大噴火と溶岩が海に達した記録あり 九州南端まで170km


赤:特に活動度の高い活火山、黄:活動度の高い活火山、水色:活動度の低い活火山、青:データ不足の火山 

火山標高はいずれも誤差の範囲にあるが、噴火記録から口之島と中之島は除外される。諏訪之瀬島は江戸末期に活発に活動し溶岩も海に流れ込み可能性は高いが、九州まで170kmの距離があり、シュリーマンの記す火山島から九州本島までの2時間を考えると除外せざるを得ない。残るは、1.薩摩硫黄島と2.口永良部島で、もう少し詳しく見てみると、

薩摩硫黄島(上の写真、気象庁ホームページより拝借)
主峰の硫黄岳は鋭い円錐形の流紋岩の火山で硫気活動が盛ん。稲村岳は玄武岩の火砕丘と溶岩流。有史後の噴火は付近海底で起こり、新島(昭和硫黄島)が形成され、現存する。ただし、江戸末期の記録がない。

口永良部島
最近の1 万年間の噴火は古岳・新岳で発生している。古岳南西~ 南東山麓には複数の安山岩質溶岩流が確認できるが、その噴出年代ははっきりしていない。古岳火口では数百年前まで火砕流を伴う噴火が発生していたと考えられる。古岳あるいは新岳で過去1000 年以内に複数回の爆発的なマグマ噴火があったと考えられる。

口永良部島は江戸末期の噴火記録はあるがその時に溶岩が流れたという記録はないシュリーマンが島の東4kmに溶岩が煮えたぎっているのを見たことを考えると薩摩硫黄島のほうがシュリーマンの火山島である可能性が高いような気がする。訳者が硫黄鳥島とした理由が、フランス語の原本に表記?された”イボガシマ”から”イオウガシマ”を想起したとすると、(薩摩)硫黄島の可能性はさらに高まる。1885年の日本噴火志に”鹿児島懸南海ノ鳴動ハ初硫黄島近海噴火破裂スベキ響ナリトノ風説ニ付其実否及島地ノ情況視察ノ為メ曩ニ同懸ヨリ派遣セシ官吏ハ先硫黄島迄渡航セシガ右鳴動ハ該島近海に非ズシテ”とあり、明治時代に硫黄島と呼ばれていたことを確認した。

これ以上の証拠は今のところないし、シュリーマン本の原本での確認も必要なので今回は問題提起に留めたい。

シュリーマン旅行記 清国・日本 ”日本の巻”

2009-09-20 16:05:28 | 
1865年6月4日にシュリーマンは横浜に上陸した。7月4日にサンフランシスコへ向かって出立するまでの1か月で、横浜、原町田、八王子、江戸、王子など精力的に見て歩き、当時の日本の風俗を細かく記録している。シュリーマンは浅草がたいそう気に入り、2度も訪問し、警護の幕府役人の反対を押し切って芝居小屋にも入っている。

浅草の描写
”ようやくわれわれは浅草観音寺の山門に着いた。門から長く美しい道が一本、寺の入り口の扉までのびている。大通りの両側に店が立ち並び、一種のバザール形式をとっていて、主に子供の玩具、仏像、婦人の装身具、とりわけ金色の簪(かんざし)が売られている。(中略)通りは女、子供、風来坊、買い物客でごった返している。
浅草観音寺の規模は大きい。本堂中央に須弥壇が設けられ、黒漆塗りの大祭壇が置かれている。祭壇の上には家の形をした金色の天蓋が下がり、この天蓋の両側に高さ66cmほどの金の仏像、また正面には高さ1mの金メッキされたブロンズの蓮の華が並んでいる。
左右にも天蓋があり、そこには金の小さな女神像20体くらい収められている。”

浅草には何度も行ったが、今回(昨日)は、本書を片手に再訪した。本堂は修繕中で、寺全体がキャンバスで覆われていた。

堂内は暗くややピンボケの写真になってしまったが、本堂中央には、金色の四角い天蓋があり、その向こう側に屋根型の天蓋がある。左右には1m程度の黒っぽい仏像が立ちその前に金色の蓮の華が立っている。中央には梵語が貼ってあった。
浅草寺公式ホームページで詳細が見られる。http://www.senso-ji.jp/guide/img/sub_photo_hondou05b.jpg
梵語は”サ”で、真言で”オン・アロリキャ・ソワカ”といい、本尊の観聖音菩薩を表すらしい。秘仏なので赤い緞帳の裏に居るのだろう。
シュリーマンは、須弥壇中央に蓮の華があったと残しているので、やはり本尊はその後ろに隠されていたのだと思う。左右の仏像は、シュリーマンの時と同じものかもしれない。シュリーマンが力説していた本堂脇のお堂にあったという”おいらん”の肖像画は見当たらなかった。

上の浮世絵の作者である広重は1858年に死去しているので、シュリーマンの訪問から程遠くないときの浅草寺である。本堂と五重塔の位置は今と逆である。
今回、大ちょうちんの山門の写真も撮ったけど、ちょうちんの下になんとか電気の名前が写り風流が台無しになるので広重の浮世絵を載せておく。


浮世絵は、仲見世で1枚100円で買った絵葉書である。秋の連休初日ということでめちゃくちゃ混雑していて、とにかく”外人”が多かった。懐かしい東南アジア訛りの英語も何度か耳にした。シュリーマンは、日本人から”唐人(とうじん)、唐人(とうじん)”と呼ばれたそうだ。

シュリーマンは浅草寺の日本人を見て、
”民衆(日本人)の生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級はむしろ懐疑的であるという確信を得た。ここでは宗教儀式と娯楽とが奇妙な具合に混じり合っているのである。”
今も変わらず、浅草寺周辺には遊園地、演芸場、遊技場などの様々な娯楽施設が立ち、寺を訪れた人々がおみくじに興じ、洒落たお守りやお寺グッズを買うのも宗教心からはほど遠い。

シュリーマン旅行記 清国・日本 ”清国の巻”

2009-09-12 23:38:06 | 
あのトロイを発掘したシュリーマンが幕末の日本へ来ていたということは、彼の「古代への情熱」に書いてあった。ロシアとの貿易で大金持ちになっていた彼は、トロイ発掘を始める前に世界を見ておこうと、1864年4月にチュニジアのカルタゴ見物を皮切りに、エジプト、インド、セイロン、マドラス、デリー、ヒマラヤ、シンガポール、ジャワ、サイゴンを廻り、中国に2か月滞在し、香港、上海、北京、万里の長城などを訪問した。それから、横浜と江戸へ行き、その後、太平洋を越えてサンフランシスコへ行った。太平洋渡航の50日間に、シュリーマン最初の著書「シナと日本」(フランス語)を書いたという。その訳本を本屋で見つけた。

今日は”清国の巻”として、彼がシナで見聞したことをまとめる。
1.北京の巨大な壁を前に、”マルコポーロが、ガンバリの豪華さや大ハーンの都のついて熱を込めて語った”ことに思いを馳せた。”ガンバリ”は北京のこと思われ、訳者がフランス語読みをしたものと思われる。マルコポーロや西欧諸国は北京を”カンバルクCambaluc”と呼んだそうで、私の読んだ東方見聞録ではモンゴル語の”ハンバリク”と訳していた。シュリーマンは東方見聞録を読んでいた。
2.ヨーロッパからアフリカ、インド、東南アジアを経てきたシュリーマンが、”私はこれまで世界のあちこちで不潔な町を見てきたが、とりわけ清国の町は汚れている。しかも天津は確実にその筆頭”と描写している。シュリーマンは、この後訪れた日本に対しては、”日本人が世界でいちばん清潔な国民であることに異論の余地がない。日に一度は公衆浴場に通っている。”と記す。私の不潔ナンバーワンは、インドネシアのパレンバンのムシ川河畔の町で、大勢の人が川に食住を依存しているため、食事の準備、後片付け、排泄、水浴びなど生活のすべてが水際で隣合わせで行われていた。仕事でその町の波止場をひと月ほど毎日使ったがゴミによる異臭がひどかった。
3.纏足を詳しく描写し、貧富の差を述べ、貧者のみじめな暮らしに同情し、シナの寺院建築やヨーロッパ最高の建築家も一目おくほどであるが、今は、無秩序と頽廃と汚れしかない。皇帝の宮殿である紫禁城でさえ荒廃していると書いている。
4.燕の巣のスープを、味がなく魚のネバネバしたものに似ているとするが、以前眼にした砂糖煮にして食べたほうが美味しいだろうと感想する。シンガポールでスープも砂糖煮のデザートも食べたことがあるが、燕の巣そのものには味がなく寒天の筋のようなものである。でも料理の仕方によって美味に仕上がっていた。燕の巣はフカヒレ同様に極めて高価なので、接待でしか食べたことがない。
5.シナ人は偏執的なまでに賭け事が好きと述べる。シンガポールの同僚が、”インド人は3人集まれば議論し、中国人は3人集まれば賭け事をする。”という格言があると言っていたことを思い出した。
6.万里の頂上に案内人が疲れて同行しなくなってからも一人で五時間を上り続け目的地にたどりついているシュリーマンの好奇心と執念はすごい。長城はかつて人間の手が築き上げたもっとも偉大な創造物であるが、今や過去の栄華の墓石だと嘆じる。頂上近くの山岳民族には、アヘンも纏足もなく健康で清潔で親切であると好意を寄せる。
7.アヘンはシナの南方ほど蔓延し、北のほうが少ないという。上海大劇場の公設の場所にもアヘン吸引席があるほどだ。1840年のアヘン戦争は、シュリーマン訪問のわずか15年前のことであり、彼はアヘンを、シナ人を堕落させた原因(私注)として”麻薬の災禍”と表現する。
8.芝居の質が高く、特に滑稽劇は”日本人を除けば、シナ人は滑稽劇を演ずる技術にもっとも長けた民族である。”と、日本人と比較して記している。
9.ビブー(リンゴに似た小さい黄色い果物)とかバジー(南京豆の一種で皮が黒く実は雪のように白い)という食べ物が出てくる。訳者は、ビブーをビワ、バジーはライチと思ったが南京豆の一種というので違うようだと述べている。蒸したピーナッツは中華料理で普通にテーブルに並び、皮が黒で中の実はまっ白なので、バジーはピーナッツだと思うけど、中国語で何と言うのかわからない。ビブーはビンロウかもしれないが、中華料理でテーブルには並ばない。

シュリーマンはシナ見物の後、蒸気船で上海を離れ、1865年6月初めに横浜に上陸する。シュリーマンの描く日本は、”日本の巻”で紹介することにする。

円空

2009-09-12 08:01:40 | 江戸
円空は、江戸時代初期の天台宗の修験者で仏像を数多く残している。「歓喜する円空」で梅原猛は、人麻呂聖徳太子と同じように、これまでの円空研究を詳細に評価批評し、自身の円空論を繰り広げている。「水底の歌」で激しく茂吉批判を繰り広げたが、ここでも円空研究の第一人者と言われる学者の五来重や劇作家の飯田匡の根拠薄弱で我田引水的な説を批判する言葉は辛辣(”詐欺師”)で、梅原らしさが満載だった。ただ、この本には、これまで私が読んだ梅原の本ではあまり触れていない部分があった。それは梅原自身の生い立ちに何度も言及したことである。

当初、梅原は、円空にそれほど興味を示さなかったが、円空大賞(岐阜県が制定した独創的土着的な芸術家に授与する賞)の選考委員長になり、円空仏や円空の人生に触れるにつれ、どんどん円空にのめり込み、
”梅原生きるにあらず、円空わが内にありて生きるなり”、円空は芸術家にすぎない存在ではなく、円空は自分に、”神仏習合思想の深い秘密を教える哲学者なのである”
とまで心酔するようになった。円空・梅原とも私生児であったという境遇や、梅原の西洋哲学から仏教への思想変遷を円空の芸術や魂の変遷に重ね合わせたからの心酔だと思う。自分の生い立ちをこれまでになく披瀝した理由も円空への深い共感があるからこそだが、もうひとつ理由をあげるとすれば、時間(余生)が限られているという認識があったのではないかと思う。梅原は、本の冒頭で、”円空について本を書くのはまだ早い。もう十年、せめて五年ほど延ばしてはどうかという心の声があった”にもかかわらず上梓したのは、創作意欲の高まりよりも、焦りが勝っていたのではないかと思う。ただ、本を読んだ感想として、円空絵画の解釈は本人も未完だと言っているが、他はほぼ言い尽くされているように感じた。

「歓喜する円空」から学んだこと。
1.木彫り仏は神仏習合思想を表し進めるものであり、円空は八世紀の行基、泰澄の流れをくむ修験者である。
2.18世紀菅江真澄は北海道で円空仏を発見している。
3.松島瑞巌寺にある円空仏については以前書いた。
4.棟方志功は、円空仏に抱きつき、”ここに俺の親父がいる。”と言ったそうだ。円空絵画は棟方志功を思わせる。
5.円空は人麻呂像を数体彫っているが、梅原は円空が和歌を作り始めたことが関係していると解釈する。聖徳太子像もある。
6.円空が残した”白山神、託申曰、是在廟即世尊”(白山の神が申されるには、ここ(千多羅の滝)に釈迦がいる廟がある。すなわち滝が釈迦そのものである。)は、哲学者ヘーゲルの”ここがロードス島だ。ここで飛べ。”と同じように絶対精神の国は理想郷にあるのではなく現実にあるという、現実肯定の言葉であるとする。円空は白山神から神託を受け仏になった。
7.前節を受けて、仏教とは、つまるところ仏になること(即身成仏)である。
8.円空は、後期、抽象的な仏像を作るようになったが、前期に作っていたような写実的な仏像も並行して遺している。
9.梅原は西行の歌より円空の歌の方が雄大で、より強く感銘を受けたという。円空は想像の世界に遊ぶ古今集以来の歌人とは違い、しっかりと現実を見る鋭い目を持っていたと評価する。梅原は、白洲正子は円空仏をあまり好まなかったとも述べているので、白洲正子の芸術眼(審美眼)と自分の眼が違うことを明確にする。白洲正子の「西行」や「明恵上人」をなんか違うと思いながら読んだ自分が、梅原に傾倒する理由はこのあたりにあるのかもしれない。
10.円空の笑いの精神は空海の笑いに通じる。
11.山川草木悉皆成仏は円空の円空仏制作の精神そのものである。
12.作者が無心になって遊んでいるいるような学問や芸術でなくしてどうして人を喜ばせることができようか。
13.ソクラテスは、真理はすでに人間の中に存在していて、彼はそれを外に出す産婆役をしていたに過ぎないという。円空も木の中にもともといる仏を彫り出していた。円空は1日加持をし、次の1日に仏像を彫り出し、また次の1日に仏像を開眼した。

マニラ

2009-09-06 05:24:40 | 東南アジア
先々週2泊3日でマニラへ行った。自身4度目のマニラだが仕事で行ったのは初めてで、前3回は息子の野球遠征に同行したものである。そのうち2001年の野球大会は、かつて米軍基地のあったスービックでの開催だった。
マニラは、相変わらず活気にあふれ雑然混沌としていた。市民の購買力が追いついているのかと心配してしまうほどの巨大ショッピングセンターが目立ち、マカティー地区には近代ビルが林立するなど市内のいたるところで高層ビルが建設されていた。通りにはジプニー(写真)があふれ、仕事先からホテルまで普段なら10分なのに夕方の渋滞に巻き込まれ1時間以上を要した。ホテルではマニラ湾に沈む夕陽を見ながらのんびりする予定だったが、曇りのため結局見ることができなかった。
現地では、マニラ滞在18年という日本人にお世話になった。現地のフィリピン人と再婚して生まれた自分の子供を含め日比混血の支援に尽力されている。

機中で、”ナイトミュージアム2”と”ターミネーター4”を観た。日本語字幕版がなかったので吹き替えで観た。
”ナイトミュージアム2”2009年を観て、スミソニアン博物館には絶対に行かなければならないと思った。ワシントンに半年住んでいた知人が、”スミソニアンは、半年かけても見尽くせない。”と言っていた。映画はどたばただったけれど、大西洋横断飛行をした女性冒険家アメリア・イアハート役のエイミー・アダムスが良かった。以前観た”魔法にかけられて”の主人公だが、アメリア役の方が数倍魅力的だった。監督:ショーン・レビ、主演:ベン・スティラー、エイミー・アダムス 彼女に、★★★★☆

”ターミネーター4”2009年は、前3作を観ているので観るしかなかった。人間と機械(ロボット)の狭間で揺れ動く改造人間を描く意欲作だが、結末がわかってしまうので、★★☆☆☆


松島

2009-09-05 19:47:31 | 仙台

梅原猛の「歓喜する円空」に円空仏が瑞巌寺にあるとあったので、仙台に来たついでに何年ぶりかで松島へ行った。瑞巌寺の宝仏殿の地下へ降りた階段脇のガラスケースの中に円空仏はあった。像は欅の根っこの部分で作られたもので、岩座の上に座った像である(梅原猛)。写真撮影が禁止されていたので、梅原本が引用していた辻惟雄氏の描写を再引用する。
”像は禅定印を結び結跏趺坐(けっかふざ)するかたちで、印相から見て、釈迦如来像と考えられる。頭には羅髪(らはつ)がちょうどパイナップルの表皮を思わせるような特徴あるきざみであらわされ、顔はふっくらと大きな丸顔で、(頭長23.3cm、面長14.2cm、面奥17.6cm)刀の痕を残さず磨き上げられ、眉の上下瞼が美しい弧線をなして刻み込まれている。口許にはかすかに微笑が浮かび、そのあたりから頬・顎にかけてのモデリングは可愛らしく捨てがたい。ただ、このお顔は、痛ましいことに、眉間から鼻、口にかけて削がれ傷ついている。”

像の頭や顔は辻の描写のとおりだった。眉間に左から右下にかけて長さ数cmの切り傷が2条あり、鼻と唇がそぎ落とされ、横から見た顔は額から顎までのっぺりとしていて、何とも痛々しかった。朽ちかけているのか元から朽ちた木を使ったのか、胸や背、肩の何箇所かで木の繊維が筋となって浮き出ていて、岩座の裏は大きく窪んでいる。円空は生々しさを残した素木にたくさんの仏像を彫っているので、もとから朽ちていた木を使ったのだろう。円空仏の背によく見られる梵字は見当たらなかった。
宝物殿の説明書には、寛文7年頃に北海道からの途次にここに立ち寄って彫ったとあった。

松島への初訪問は、1973年大学に入ってすぐの4月、仙台から松島までの30km余りを夜通し歩く新歓イベントで、写真の五大堂で缶ビールを片手に朝陽を拝んだ。帰りは松島海岸駅から電車で帰った。その後は、ルートマップと層序の地質踏査の初歩を学ぶフィールド授業で訪れ、結婚前の妻と松島湾で手漕ぎボートに乗り、結婚後は子供たちと松島水族館でラッコやオットセイの曲芸を見、友人と精進料理を食べに行くなど、その他何回となく訪れている。瑞巌寺は学生のとき一人で原付バイクに乗って訪ねたが、政宗が甲冑を着た両目を開いた像と岩窟を見た記憶しかない。今回。松島湾に手漕ぎボートは見当たらなかった。



この岩窟で僧侶が修行をしたという。岩窟は第三紀の凝灰岩に穿たれたもので、この凝灰岩は五大堂の下の崖を始め松島湾に浮かぶ奇岩や島々を構成し、学生時代に層序の勉強をした地層でもある。

松島の瑞巌寺は、828年の円仁による開山で天台宗延福寺であったのが、1259年に臨済宗円福寺に改宗、その後妙心寺派となり、1609年政宗により瑞巌寺と改名し竣工、以後伊達家の菩提寺となる。本尊は聖観音菩薩。
徳島の瑞巌寺は初代藩主蜂須賀至鎮が弟義英の菩提のため1614年に臨済宗妙心寺派の一顎禅師による開山であるが、本尊はなぜか切支丹灯篭(Wiki)。
同じ宗派で同じころに開かれた同名の2寺が無関係ということがあるのだろうか。三重県松阪市には空海が開山した浄土真宗の瑞巌寺もあるので、めでたい(瑞)名をつけたら、たまたま同じになったと見るべきか。