備忘録として

タイトルのまま

ルネッサンスの女たち

2017-07-23 18:42:27 | 西洋史

 田中英道がモナ・リザのモデルとしたイザベラ・デステのことがもっと知りたくて、彼女のことを描いた塩野七生『ルネッサンスの女たち』を古本屋で探してきた。彼女の生きた時代を理解するために、本から拾ったルネッサンス時代の略年表と1494年の勢力図(Wiki英語版)を掲げる。

  • 1474 イザベラ・デステはフェラーラ(フェラーリの発祥地)の公爵エステ家に生まれる。
  • 1490 イザベラは16歳で隣国マントヴァ公国のフランチェスコ・ゴンザーガ侯爵と結婚する。
  • 1491 イザベラの妹ベアトリーチェがミラノ公国の摂政ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)と結婚する。
  • 1495 ナポリがフランス軍に征服される。イル・モーロがミラノの公爵となる。
  • 同年 イザベラの夫フランチェスコが反フランス同盟軍の総司令官として、タローの戦いでフランスに勝利する。
  • 1497 妹ベアトリーチェ死去
  • 1499 アレッサンドロ6世の息子チェーザレ・ボルジアはフランス軍とともにミラノに侵攻する。カテリーナ・スフォルツァが守るフォルリを落とす。
  • 同年 レオナルド・ダ・ビンチがマントヴァに立ち寄りイザベラのデッサンを描く。
  • 1500 フランス軍・チェーザレ軍がミラノを占領。。
  • 1501 チェーザレがウルビーノ征服。フェラーラのアルフォンソ1世・デステ(イザベラの弟)とチェーザレの妹ルクレチア・ボルジアの結婚。ルクレチア・ボルジアはイザベラの夫フランチェスカと不倫関係になる。
  • 1502 レオナルド・ダ・ビンチがチェーザレの軍事技術者となる。フィレンツェの外交官マキャベリがチェーザレに会う。
  • 1503 法王アレッサンドラ6世死去。チェーザレ没落。ジュリオ2世が法王となる。
  • 1509 マントヴァを始めイタリア諸国はフランスと結び対ヴェネチアと戦争を始める。フランチェスコがヴェネチアに捕虜となる。
  • 1510 イザベラはマントヴァを防衛しつつ、ヴェネチア、法王、フランス、ドイツと交渉し夫の釈放に成功する。
  • 1511 法王がフランチェスコを指揮官としイザベラの実家フェラーラを攻めるが、イザベラは巧みに夫を指揮官から降ろし法王の野望を断つ。
  • 1513 法王ジュリオ2世死去
  • 1519 フランチェスコ死去
  • 1527 ドイツ・スペイン連合軍はイタリアに進行し、イザベラの居たローマではヴァティカンを守るスイス傭兵が全滅する。(ルネッサンスの終焉)
  • 1539 イザベラ死去

PAPAL STATESとは法王領である。法王はコンクラーベで選ばれるので世襲ではない。

塩野七生が「ルネッサンスの女たち」でイザベラ・デステ以外に取り上げた女性は、

  1. ルクレツィア・ボルジア(1480-1519) 法王アレクサンドル6世の娘でチェーザレ・ボルジアの妹で、イザベラ・デステの弟アルフォンソ1世と結婚した
  2. カテリーナ・スフォルツァ(1463-1509) 夫が殺され子供が人質になったとき「何人でも子供はつくれる」とスカートをめくって反乱者を挑発した女傑で、後年チェーザレ・ボルジアに敗れフォルリ国を明け渡した彼女もモナ・リザのモデルの一人として名前が挙がっている。
  3. カテリーナ・コルネール(1454-1510) ヴェネチアの貴族でキプロス王妃になり夫に代わり自身で統治しようとしたがヴェネチアに割譲する。ヴェネチアは当時東地中海の制海権を握っていた。シェークスピアの悲劇「オセロ」はその頃のヴェネチアの軍人の話。

『ルネッサンスの女たち』の挿絵で使われていた肖像画(白黒)をWikiからコピーした。左からルクレツィア・ボルジア、カテリーナ・スフォルツァ、カテリーナ・コルネール


ビザンティン帝国

2017-05-01 00:13:37 | 西洋史

1453年にビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルがオスマントルコによって陥落した話は、塩野七生の『コンスタンチノープルの陥落』などに詳しい。イスタンブールの考古学博物館でみた金角湾を封鎖する鎖、鎖を回避し軍船を陸送し金角湾に入れた話、21歳のメフメト2世の決断、コンスタンティヌス11世の最期などドラマチックだ。陥落までのコンスタンティノープル、東ローマ帝国、ビザンティン帝国の歴史を、井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』で辿った。

ローマ帝国の分裂

ローマ帝国は紀元395年に東西に分裂し、東ローマ帝国はコンスタンティノープル(今のイスタンブール)を都とした。人種的にはギリシャ人であり、ギリシャ語を用いながら、ローマ人・ローマ帝国と自称しつづけた。

コンスタンティヌス帝

コンスタンティヌスは、まだローマが分裂する前、多くのライバルとの戦いに勝ち抜きローマ皇帝となった。最後の戦場となったボスポラス海峡に臨む町の戦略的重要性を認識したコンスタンティヌス帝は330年に遷都し、コンスタンティノープルと自分の名を冠した。帝はキリスト教に改宗し、キリスト教を国教とした。皇帝が神となったのである。井上浩一は、ここで戦前の天皇制を例えとして以下のように語る。

「天皇制イデオロギーに基づく第二次世界大戦・戦中の超国家主義、侵略戦争に対して、キリスト教徒は強く抵抗した。戦後における天皇制に対しても、靖国神社や「建国記念の日」の問題をめぐって、同様の立場を貫いている。そこに宗教者の良心をみることができるだろう。しかし、----もし天皇がキリスト教に改宗したならば、キリスト教者の反天皇制運動はどうなるのだろうか、と、コンスタンティヌスの時代に生じたのはまさにそれであった。ーーーー皇帝や天皇が神になったとしたら、神を相手に批判はできまい。ーーーーマルクスはビザンティン帝国を最悪の帝国と呼び、キリスト教を現実を肯定する宗教として批判したが、マルクス主義が体制を擁護するイデオロギーになったとき、同じ悲喜劇を繰り返すであろう。」

左下の写真は3月の旅で撮影した「コンスタンティヌス帝の柱」で、イスタンブールの丘の上に建っていた。かつて塔の上には帝の像があり、イスタンブールのどこからでも見えたという。右下の写真はブルーモスクとアヤソフィア聖堂近くにあったオベリスクで、競技場跡地に建つ。オベリスクはエジプトから運んで来たもので、塔の表面には象形文字ヒエログリフが刻まれていた。台座には競技場で観戦するコンスタンティヌス帝のレリーフがある。競技場では映画「ベンハー」の戦車競走などが行われ市民は熱狂したという。

文明批判としての宗教

井上浩一はさらに脱線し、行き過ぎた文明批判としての宗教の役割について懐疑を示し、以下の法学者ケルゼン(オーストリア生1881~1973)のことばを引用する。

「宗教の歴史を顧みるならば、ただ神とともにあることに満足した信者は一人もいない。自ら神に服従しようとする者は、常に他人をもこの神に服従させようとするものである。自らを卑下することのはなはだしく、我が宗教的献身の狂信的であればあるだけ、神はいよいよ高められ、この神のための闘争は情熱的となり、神の名において他人を支配しようとする衝動は限りないものとなり、この神の勝利は高らかに謳われる。(H・ケルゼン「神と国家」長尾龍一訳)」

このような行動は、ISやオウムやその他諸々の宗教に多かれ少なかれ見受けられるように思う。

ビザンティン帝国の繁栄

6世紀のユスティニアヌス1世のとき、486年に滅びた西ローマ帝国の領地も含め地中海沿岸をほぼ網羅する最大版図を回復する。聖ソフィア教会は彼の治世中の6世紀に建てられた。8世紀から10世紀にかけてビザンティン帝国は繁栄し11世紀に黄金時代を迎える。その後は縮小し続け、15世紀に滅亡したときにはコンスタンティノープル周辺のわずかな領土を残すのみとなっていた。皇帝専制体制の帝国を支えたのが有能な少人数の官僚だった。教育レベルの高い官僚が税収などを担当した。これは、科挙を合格した優秀な官僚が国を支えた唐などの中国王朝と似ている。帝国末期、彼らが腐敗していったことも同じだ。帝国の教育レベルは高く、履修科目として古代ギリシャ語、算術、幾何、天文学、音楽、哲学、法学があり、ホメロスは教養人の常識だった。一方、宮廷内では妻や側近が皇帝を暗殺するなどの陰謀が繰り返された。それでも帝国は繁栄をつづけたのは呂后や則天武后時代の中国王朝に似ている。

イスラム教の勃興

622年はイスラム紀元元年で、マホメット(ムハンマド)がメッカからメジナへ移った年である。彼の死後2年目の634年からイスラムのビザンティン領土への侵攻が始まった。以降、1453年の滅亡まで、イスラムとの戦いが延々と続く。

キリスト教

キリスト教はモーゼの十戒にあるようにそもそも偶像崇拝を禁じていた。ところがギリシャ文明とそれを継承したローマ文明の神々は人間の姿をもち、人間と同じような感情をもち、不死を除けば人間と変わらない存在だった。キリストや神の偶像化はギリシャ型への傾斜によって肯定されていく。これは、ブッダの偶像化が、アレキサンダー大王の遠征後にガンダーラやマトゥーラで始まったことと符合する。ビザンティン帝国の国教はギリシャ正教である。10世紀に勃興したロシアは、コンスタンティノープルに送った使節が壮麗な聖ソフィア教会に感動し正教会を導入することを決めている。 

イタリア諸都市

11世紀の地中海の制海権はイタリア諸都市に握られていた。海軍を持たないビザンティン帝国はアドリア海から侵入してきたノルマン人との戦いにヴェネチアの援助を受けた。その対価として関税なしでの商業特権を与えた。その後も、有力都市であるジェノヴァ、ピサなどにも商業特権を与え、経済的にはこれらイタリア諸都市に従属した。

十字軍

トルコとの戦いでは西ヨーロッパに援助を求め、これに呼応してきたのが十字軍だった。1204年の第4回十字軍はビザンティン帝国の宮廷陰謀に加担しコンスタンティノープルを攻め落としラテン帝国(1204~1261年)を樹立する。ビザンティン側はトルコ各地に亡命政権が生まれ、そのうちニカイアの亡命政権が有力となり、1261年ヴェネチアやラテン帝国の軍隊が遠征に出ている隙をついてコンスタンティノープルを奪還する。

コンスタンチノープルの陥落

 オスマントルコは1299年に小アジアのアナトリアで建国する。徐々にビザンティン帝国の領土を蚕食し、14世紀末には周辺の小アジアとバルカン半島のほぼ全域を支配し、コンスタンティノープルの征服を残すのみとなった。1402年いざコンスタンティノープル攻略に取り掛かろうというとき、中央アジアから遠征してきたチムールに大敗し、スルタンのバヤズッドは捕えられ帝国は解体した。これでビザンティン帝国は一息つくことができた。オスマントルコは、チムールの死、ビザンチン帝国の弱体、西ヨーロッパ諸国の傍観などに救われ10年後に再興する。そして1453年、若きスルタンのメフメト2世(1432~1481)によりコンスタンチノープルは陥落する。彼のコンスタンティノープルでの業績は、下のイスタンブール考古学博物館のパネルに書いてあった。防衛設備の修復、ハギヤソフィア教会をアヤソフィアモスクに変え建物を保護したことを始め教会を少しづつモスクに変えていったこと、非モスリム信者の保護、水道施設の整備などである。

井上浩一は、まとめで、「ビザンティン帝国一千年の歴史のかなめは、状況に応じて生まれ変わっていったところにある。すなわち、強固な(政教一致の)イデオロギーや伝統だけで国家を一千年も存続させることはできず、建前を残しながら、現実と妥協し、危機に対応し、生まれ変わること、いいかえれば革新こそが帝国存続の真の条件だった。」と結ぶ。すべての組織運営に通じる示唆的な言葉だ。


Hermaphroditus

2017-04-08 15:17:45 | 西洋史

イスタンブールの考古学博物館を散策しているとき両性具有のヘルマプロディートス(Hermaphroditus)の大理石像(BC3世紀頃)があったので思わず下の写真を撮った。ギリシャ神話で、彼はヘルメスを父、アフロディテを母とする美少年だったが、nymphと合体し両性具有になった。これが両性具有(hermaphrodite)の語源である。ヘルマプロディートスとは形態が少し違うが、プラトン(BC427~347)の著した『饗宴』でアリストパネスが語った二重人物がいる。

人間はもともと背中合わせの一体(下の絵)であったが、神によって2体に切り離された。このため人間は互いに失われた半身を求め、男らしい男は男を求め、女らしい女は女を求め、多くの中途半端な人間は互いに異性を求める。

これがプラトンのいう男女の愛と同性愛の起源である。上の説明を信じるなら、同性愛の方が異性間の愛よりも優れていることになる。古代ギリシャはLGBTに肯定的な社会だったことがわかる。田中英道は著書『レオナルド・ダ・ビンチ』と『ミケランジェロ』の中で、彼らの作品に二重人物が描かれているという説を提唱している。

上左:イスタンブール考古学博物館のHermaphroditus、上右:田中弘道『レオナルド・ダ・ビンチ』から二重人物

レオナルドやミケランジェロらが活躍したルネサンスは、古代ギリシャやローマの文学、芸術、音楽、建築を復興しようという運動で、イタリアでは14世紀のダンテらに始まり、1453年のコンスタンチノープルの陥落で多くのギリシャ人がイタリアに亡命したことで運動は一気に加速された。プラトニズム(プラトン主義)もその時に持ち込まれたもののひとつで、フィレンツェのフィチーノ(1433~1499)はメディチ家の後援でプラトンの著作をラテン語翻訳し、集まった彼の友人たちは、愛や美を語り合った。フィチーノの集まりはプラトンが設立したアカデメイア学園にちなみプラトンアカデミーと呼ばれた。フィチーノの集まりで朗読されたプラトンの『饗宴』は、ソクラテス、アリストデモス、パウサニアスらが集まり“愛(エロース)”について語り合った様子を描いたもので、その中のひとりであるアリストパネスが二重人物について語った。

下の絵に示すように、レオナルドの『三王礼拝』には3対、『岩窟の聖母』では2対の二重人物が描かれている。ミケランジェロは『ドー二家の聖家族』で背景に二重人物を配している。

上左:レオナルドの『三王礼拝』と二重人物、上中:レオナルドの『岩窟の聖母』(Wiki)上右:ミケランジェロの『ドーニ家の聖家族』(Wiki)

レオナルドもミケランジェロも同性愛者だったことが知られている。厳格なキリスト教が支配する中世のイタリアでは同性愛は罪悪だとされ、レオナルドも同性愛者の嫌疑を受け訴追されている。そのため、プラトンの愛はキリスト教と折衷しなければならなかった。プラトンの二重人物は対等であったものを、フィチーノは二重人物の一方を魂とし神と同じ立場に置き、一方を肉体的な存在とした。肉体は神を愛そうとする存在と解したのである。すなわち、愛を神への愛に限定した。ミケランジェロの『ドーニ家の聖家族』はフィチーノのこの解釈を踏襲したと田中は解説している。この構図はミケランジェロのレオナルドに対する挑戦であり、プラトン・レオナルド的な人間の至福を否定し、キリストを強調することで神による愛のみが人間の救済となることを示したのだとする。

『饗宴』で肉体的な愛よりも優れているとされた精神的な愛(プラトニック・ラブ)は今や死語だそうである。 


モナ・リザ

2017-03-06 01:24:15 | 西洋史

田中英道『レオナルド・ダ・ビンチ』を読んだ。『写楽北斎説』が面白かったので、彼の他の著作に興味がわき『レオナルド・ダ・ビンチ』と『ミケランジェロ』を手に入れていた。映画ダビンチ・コードシリーズの『Inferno』を観たのはたまたまである。田中英道はイタリアに留学しルネッサンス時代の作品を身近に研究している。この本はレオナルドの生涯、性癖、技能、絵画や彫刻など芸術に対する思想と彼の生きた時代背景を解説してくれる。美術史家なので代表作品の解説が最も濃密で、彼の内面や思想がどのような形で作品に表現されているか個々の作品で詳細に語られる。同時代の作家たち、特にミケランジェロと芸術に対する考え方の相違も示される。

その中で『モナ・リザ』は誰かという自説を展開する章が、『写楽北斎説』と同じように、レオナルド周辺の人々、残された書簡、作品の分析などをもとに詳しく検討され面白かった。モナリザのモデルは長い間、フィレンツェの商人ジョコンドの夫人エリザベッタ(Wikiリザ・デル・ジョコンド)とされてきた。このエリザベッタの名前から『モナ・リザ』と呼ばれた。レオナルドの死後20年ごろにこの説を提唱したヴァザーリは、夫の肖像をレオナルドが作成したことから推定したもので他に根拠はなく、この絵をべた褒めしているにも関わらず原作を見たことさえなかったという。

田中英道は『モナ・リザ』のモデルは、フィレンツェに近い小国マントヴァ侯夫人のイザベラ・デステ(1474-1539)だとする。理由は以下のとおりである。

  1. イザベラ・デステと判明しているレオナルドの習作や同時代の他の画家が描いたイザベラ・デステの肖像画と『モナ・リザ』を比較し強い類似性があること
  2. レオナルドとイザベラ・デステの間に10通以上の書簡があり、イザベラはレオナルドに肖像画を依頼し、レオナルドは今の仕事が終わり次第取り掛かるとか、必ず描くと返信している
  3. 必ず描くという最後の手紙は1506年のことで、そのときイザベラ・デステは32歳で、『モナ・リザ』の年齢に合致しているようにみえる
  4. イザベラ・デステに肖像画が引き渡された形跡がないことは、描かなかったのではなく、作品の完成度をあげるのに時間がかかり引き渡す時期を逸してしまったのではないかと思われる
  5. イザベラ・デステは自分の肖像画を他の画家にも描かせていたが気に入らないと突き返していた。引き渡す時期を逸したのは、レオナルドが彼女の肖像画の完成に念を入れたことが一因ではなかったか
  6. レオナルドは、『モナ・リザ』を生涯手元に置いておいた。それは、ひとりの貴婦人の肖像画にとどまらず女性というものの本質、人間というものの本性を表すことに成功した作品だったとすれば納得できるとする。すなわち、レオナルドは完成度が高い作品であることを自覚していた
  7. イザベラ・デステは、マントヴァ侯国が戦争でひっ迫した折りに「私はまったく宝石なしになってしまいます。そして黒い着物を着なくてはなりません。と言うのも宝石なしで、色ものの絹や綿織りを着ることはおかしいことだからです。」と話しており、『モナ・リザ』で黒服・宝石なしを実践している
  8. レオナルドの友人がイザベラ・デステへの手紙の中で、ヴェネチアでレオナルドに会い肖像画を見せてもらったこと、それがイザベラに生き写しで、非常な出来栄えだったと伝えている

本ではレオナルドが習作として描いたイザベラ・デステの横顔とモナリザを比較し、広い額、深くくぼんだ眼窩や小さな口が特徴でその配置も一致すると指摘する。本の中でも上のような比較をしているがWikiにあった両絵を並べて自分なりに線を入れてみた。上は写真のスケールを調整したものだが、原画では顔の大きさが共に21㎝で正確に一致するという。レオナルドがイザベラ・デステの肖像画習作を何枚も描いていることは確認されているのに、本編の肖像画がないのは不可解である。レオナルドは肖像画を描くに際し正面・斜め・真横などの習作を描いたのち本編を仕上げている。

イザベラ・デステは魅力的な女性だったようで、Wikiイザベラ・デステには、同時代人が「自由闊達で高潔なイザベラ」、「最高の女性」、「世界一のファーストレディ」と称賛していることが書かれている。下はそのWikiにあるティチアーノが描いた肖像画で、制作時に初老だったイザベラが40歳若く描き直させ、広い額、すっと通った鼻筋、小さな口元、ふっくらした頬は『モナ・リザ』に通じるような気がする(専門家じゃないので控えめな感想にしておく)。

 Wikiモナ・リザによると、2005年にドイツで、1503年にフィレンツェの役人が「レオナルドがジョコンド夫人の肖像画を描いている最中だ」とラテン語で書いた文書が見つかり、ジョコンド夫人が『モナ・リザ』のモデルであることが決定的になったとする。これは、レオナルドが1503年にジョコンド夫人の肖像画を描いていたことの証明にはなるが、『モナ・リザ』がそれだという証拠にはならないと田中英道は言っているに違いないと、おこがましいが推測しておく。また、1479年生まれのジョコンド夫人は、肖像画が描かれたとされる1503年時点で24歳であり、『モナリザ』はもう少し年齢が上のような気がする。イザベラ・デステはジョコンド夫人よりも5歳年上になる。それよりも何よりも、当時第1級の女性であったイザベラ・デステが『モナリザ』のモデルであって欲しいという個人的な願望もある。


Art and Religion in Thera

2016-12-30 18:03:59 | 西洋史

ギリシャ・サントリーニ島のアクロティリ遺跡を訪れた友人から土産にもらった『Art and Religion in Thera』の筆者は、遺跡を発掘調査した故マリナトス教授の娘Dr. Nanno Marinatosである。Theraとはサントリーニのこと。アテネで生まれアメリカのコロラド大学で考古学を学んだDr. Marinatosは、遺跡研究の方法論(Methodology)として、背景(Context)、類推(Analogy)、文化的意味(Cultural elements as meaningful signs)の3つのポイントをあげたのち本題に入る。以下概要。

街の神殿

紀元前1500年頃、火山灰に埋もれたアクロティリは、これまで10,000m2ほどが発掘されているが、それはまだ半分にも満たない。発掘された7つの神殿(Shrine)では、Adytonというギリシャの神殿にあり神父が神託を告げる小空間、宗教儀式を表すフレスコ画(モルタルを塗った壁に描いた水彩画)、人々が集まる広い部屋、通りに面した大きな窓、儀式用のカップなどが発見された。街の規模に比べ神殿の数が多く、専任聖職者ではなく、おそらく町の支配者や上流階級の人々が神父を兼任し、経済、行政、貿易も担ったと推定される。

クレタとの関係

アクロティリは、100㎞ほど南に位置するクレタの植民地だったという説と、クレタを中心としたミノア文明の影響を受けただけという説がある。筆者は双方の中間説を支持する。アクロティリはミノア文明に先立つキクラデス文明の影響をより多く受け、住民は少なくとも中期キクラデス文明の栄えた紀元前1800年頃よりサントリーニ島に住み着いたと考えられる。宗教儀式はミノア様式だけでなく明らかにキクラデスの特徴がある。宗教儀式は強制か先進的な場合によってしか変更されないので、住人はミノア文明に属するクレタの植民者とは考えにくい。別の見方をすれば、ミノア文明は、宗教儀式を介してアクロティリを含むエーゲ海を効果的に支配していたと考えられる。

アクロティリの崩壊

アクロティリは紀元前1500年の地震によって損傷し、その後火山灰で覆われた。火山灰の下に草の痕があり、地震と火山の噴火の間には少なくとも1回雨季を経験している。遺跡で被災した人骨と貴重品が見つかっていないことから、住人は貴重品を持って街を放棄したと考えられる。地震のとき火山噴火の兆候があったか、水源が枯渇したことが街を放棄した理由だと考えられている。

1930年にマリナトス教授は、紀元前1500年のサントリーニ島の大噴火によりアクロティリは埋まり、100㎞南のクレタ島の海岸はそのとき津波によって破壊されたとし、これはプラトンのアトランティス大陸伝説の下敷きになっているというマリナトス説(Marinatos Theory)を提唱した。当初、このマリナトス説は省みられなかったが、彼が行ったアクロティリ発掘と発見により広く受け入れられることになった。しかし、クレタ島の被災は紀元前1450年のことであり、サントリーニの噴火から50年が経ち時間差があることや、火山学者によってサントリーニ島噴火は考えられたほど大規模ではなかったことが証明されたため、マリナトス説は修正を余儀なくされている。

West Houseのフレスコ画

下の遺跡写真は街の辻に建つWest Houseと名付けられた2階建て家屋である。どこにでもある街角のように見え、今から3500年も前の廃墟とは思えないほど現実感がある。間取り図に示す2階の北西に位置する部屋番号5に船団図や魚を持った裸体の若者などの有名なフレスコ画がある。

フレスコ画

下のイメージ図は部屋番号5を南から見たもので、壁に描かれた魚を持った裸体の若者はFishermenと名付けられたが、単なるFishermenではなく、髪を刈上げた裸体の若者が宗教儀式のための供え物の魚を奉納する場面を描いている。 二人が歩いて出会う部屋の北西隅の窓に供え物をのせるテーブル(Offering Table=写真では鼎のように見える)が見つかっている。また、南側の部屋番号4から5に通じるドアには、下の袈裟を着た女性が描かれている。女性は魚を持つ若者同様に髪を刈上げ、刈上げた頭部は青く唇と耳を赤く化粧し、宗教者だけが着る袈裟を着て、バーナーを手に持っている。バーナーはおそらく香炉だろう。この女性の髪型や服装は明らかに他のフレスコ画の街の女性と異なり、聖職に関わる人物である。

窓の上、天井下の空間はFriezeと呼ばれる建築空間で、ギリシャ・ローマ建築ではそこにレリーフや絵画が施される。下のイメージ図正面(北壁Frieze)には、部分的に下のフレスコ画が残り、敵から町を守るエーゲ海の人々(Aegeans)と勝利を喜ぶ人々が描かれている。右側の東壁Friezeのフレスコ画は川と植物と動物で、左の西壁Friezeには何も描かれていない。

船団図

船団図は部屋番号5の南壁Friezeにある。船団図の長さを上原和が3.9m、川島重成が6mとそれぞれの著書に書いているが、部屋の見取り図にある縮尺からは、部屋5の南壁の1辺の長さは4mほどなので、上原和の3.9mに軍配をあげておく。

船団図 Naval Festival(Wikiより、図の下の説明文は本書の解釈とはまったく関係がないので無視すること)

マリナトス教授は船団図を、左端のアフリカ(リビア)への遠征から右端のアクロティリへ凱旋する様子を描くと解釈した。左端の町の上部にシカを追うライオンが描かれ、船には凱旋する戦士たちが乗っていることを根拠とする。しかし、娘のマリナトス博士は、右端の街はアクロティリでほぼ間違いないが、左端の町はアクロティリ近隣だとする。その理由として、アフリカからの長旅に櫂を使うとは考えにくいこと、船体に描かれた装飾が花や蝶や鳥という宗教的祭礼の装飾であり遠征から帰還する場面とは思われないことをあげる。左端の町に住む人々の服装は質素でどこか田舎風であり、アクロティリに属するサントリーニ島の別の町か、近隣の島の町ではないかという。町の絵の上でシカを追うライオンは実際の地理的風景ではなく、単なるシンボルだとする。

本ではこの船団図の説明に1章(Chapter V)を割り当て、各場面を詳細に分析し、海洋と軍事の祭を描くと結論付ける。

船団は大小様々の船より成り、乗っている人間の服装も様々であり、各階層の人々を描いている。船体は祭礼用に装飾されている。アクロティリの街のバルコニーには角笛を持った聖職の婦人が立っている。港には舟を迎えるため居並ぶ若者と生贄の動物を引く男がいる。West Houseのフレスコ画全体が軍事的勝利とそれを祝う宗教的な祭りや儀式を表している。男の若者が主人公の祭は成人式のようなものかもしれない。フレスコ画に描かれた動植物(蝶、ゆり、燕など)は春を表すので、祭りは春に行われたと思われる。

ここまで、West Houseのうち部屋番号5で発見されたフレスコ画の概要を抽出した。本のP.60まで約半分に相当する。残り半分は、他の神殿であるXeste3、Shrine of Ladies、Shrine of the Lilies、Shrine of Antelopes and the Boxing Childrenで発見されたフレスコ画や遺物を解説するがざっと目を通しただけで、まだ熟読できていない。

中表紙に、”To the memory of my father who died as a result of a fatal accident while excavating Akrotiri"とあり、本書は筆者の父親でありアクロティリ発掘中になくなったマリナトス教授に捧げられる。


アレキサンダー大王

2015-08-30 15:23:15 | 西洋史

左上写真はシンガポールのオーチャードロードのカフェで飲んだConquerer Caoと名付けられたお茶のセットである。Conquerer Caoとは三国志の曹操(Cao Cao)のことである。曹操は中国であまり人気がないと聞いていたのに、右上のメニューにあるように、Great Alexander(アレキサンダー大王)やBeauty Yang(楊貴妃)と並んでいる。楊貴妃のアイスクリームには彼女が愛したライチ(茘枝)が添えられている。値段のわりにお茶もアイスクリームも大したものではなかったが話の種に飲食した。

4月に上野博物館の「インドの仏」展に行ってもう4ケ月が経つ。2世紀のカニシカ王の頃のガンダーラやマトゥーラで出土した仏像展である。狭い展示場にひしめく参観者の列に押されながら展示物の解説を斜め読みして足早に観て回った。写真撮影も禁止で、私のような素人には常設館の方がよほど良かった。展示されていた仏像は皆、ギリシャ風、ヘレニズム風の顔付をしていた。これがアレキサンダー大王の遠征に由来することは周知のことである。

マケドニアのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)が西北インドに侵攻したのは紀元前327年のことである。当時の西北インドは統一国家がなく小国家が乱立していたため、大王はさしたる抵抗もなくその地を征服した。下の地図はWikiの大王の版図と遠征経路で、インダス川を東には渡らず引き返している。インド側連合軍の抗戦に遠征軍が厭戦的になったことに加え、ガンジス川周辺の国々が象や騎兵からなる大軍で待ち構えているといううわさに恐れをなして、インダス川から東への遠征をあきらめる。大王は大艦隊を組織し、インダス川を下り海に出てメソポタミアに帰還し、紀元前323年7月、バビロンにおいて熱病で客死する。アレキサンダー大王の一次資料として、自身が書いた「アレキサンダー大王伝」や、部下の将軍たちが残した従軍記があった。それらはアレキサンドリアの古代図書館に所蔵されていたが火事で消失したと言われる。

大王の遠征は各地に大きな足跡を残したが、インドの史書に彼の名は残されていないという。『古代インド』中村元によると「アレクサンドロスの侵入も、インド社会の実態を変革することができなかった。民衆を直接に統治する人々の組織は旧態のままであり、ただ最高主権者の地位と、それに付随する利益とを、ギリシャ人が得ただけである。政治的支配機構にも変革は起こらなかったらしいし、人民の生活の実態には、ほとんどなんの影響もおよばさなかった。---西洋人にとっては、アレクサンドロスのインド遠征は重大な歴史的事実であって多数の記録が残されているが、インド人にとってはじつはどうでもよいことなのであった。---(侵入者)は、インド社会の実態を変えることはできなかった。」ということである。

とはいうものの、アレキサンダー大王は遠征の途上、アレキサンドリアというギリシャ風の都市を各地に建設し、ヘレニズム文化やガンダーラ美術を生み出した。アレキサンダー大王の死後、強いものが統治するという遺言により部下の将校たちが争い征服地は大きく3つに分裂した、バビロンを中心にアフガニスタンやインド西北を領有したセレウコス、エジプトのプトレマイオス、マケドニアのアンティゴノスである。セレウコス朝の東部は紀元前3世紀にバクトリアやパルチアなどの王国に分裂し、紀元1世紀にインドのクシャーン朝に統一される。クシャーン朝3代目は、仏教を保護しガンダーラ美術を花開かせたカニシカ王(紀元2世紀)である。エジプトのプトレマイオス朝は、クレオパトラ(紀元前30年頃)のときにローマに征服されるまで約300年間続いた。マケドニアのアンティゴノス朝もそれ以前にローマ帝国によって滅ぼされる。一方、インダス川以東は、アレキサンダー大王に従ったチャンドラグプタがマウリア王朝を創始する。その3代目がアショカ王(紀元前3世紀)である。

ところで蛇足だが、日本では楊貴妃、クレオパトラと並び小野小町が世界三大美女とされているが、小野小町にはかなり無理があると思う。楊貴妃とクレオパトラは、大帝国を傾けた傾国の美女だったが小野小町は単なる女流歌人で出身地とされる秋田県人には申し訳ないがスケールが違いすぎる。外国では、トロイのヘレンを含めるという説があるらしいが三大美女というようなランキングが実際に存在し認知されているかどうかは定かでない。中国四大美女はWikiにあった。周春秋戦国時代の西施、漢の匈奴に下賜された王昭君、三国志の呂布が虜になった貂蝉、唐の玄宗の寵姫である楊貴妃である。ついでに中国三大悪女は、漢の高祖の妃である呂后、唐の高祖の則天武后、清の西太后である。これに殷の酒池肉林で有名な妲己が加わる場合もあるらしい。妲己は九尾の狐となって日本にも来ている。

「Iskandar」は、ペルシャ語によるアレキサンダーのことで、シンガポールのとなりのマレーシア・ジョホールで開発中の商業地区は「Iskandar Malaysia」と名付けられている。Iskandarはアレキサンダー大王を直接指すものではなく、かつてのジョホール州のサルタンの名前である。モスリムの王でこのアレキサンダーにちなんだ名をつける人は多いらしい。Iskandar Malaysiaは、マレーシアとシンガポール政府の肝いりで、中国の深圳と香港の関係を目指して開発が進められているが、最近の原油安、中国経済の後退、株価暴落などによって暗雲が立ち込めている。ジョホール・バルでは過去にも複数の大型の商業、住宅、リゾート、アミューズメント施設、カジノの開発が進められた。いくつかは計画段階で消え、いくつかは開発途中で破たんし、いずれも成功したものはない。今回のIskandarもこの先どうなるのだろうか。 


ディオゲネス

2015-01-16 11:25:34 | 西洋史

アレキサンダー大王がまだマケドニアの将軍だったころ、ギリシャのコリントスに住む有名な哲学者に会いに行った。アレキサンダーは日向ぼっこをしている哲学者の前に立ち「何かのぞみはあるか?」と聞くと、「あなたがそこに立つと日陰になるのでどいてほしい」とその哲学者は答えた。はるか昔に購読していた月刊少年雑誌の読み物の記憶だ。この哲学者はディオゲネスなのだが、後にアレキサンダー大王の家庭教師となるアリストテレスと初めて会ったたときの話だとずっと記憶違いをしていた。いつのまにか記憶の中でディオゲネスがアリストテレスにすり替わり、ディオゲネスの名さえ忘れ去っていた。だから、シャーロック・ホームズの兄マイクロフトが所属するディオゲネス・クラブにも反応できなかった。ディオゲネスを知ることになったのは、ギリシャ文化の影響を受けたガンダーラ美術が花開くきかっけになったアレキサンダー大王の遠征を調べる中でのことである。

上の絵と写真はWiki英語版より。左はアレキサンダーとディオゲネス、中はトルコにある犬を連れたディオゲネス像、右は昼にランプを灯して正直な人間を捜しているところ。

ディオゲネスの略歴と思想

ギリシャ植民地の黒海に面するシノペでBC412年に生まれたディオゲネスは、アテネに出てきてソクラテスの弟子アンティステネスの弟子になる。著作が残っていないのでディオゲネスの思想は、彼の生き方や彼が言ったとされる断片的な言葉などから推定するしかない。基本的には師匠アンティステネスのCynicism(キュニコス派)と呼ばれる思想を受け継ぐ。人生の目的は徳に生きることであり、禁欲と無為自然を重視し、富、名声、権力を否定し、肉体と精神を鍛錬し実践する。孔子の徳と中庸、荘老の無為、仏教の無私無欲を併せたような思想である。上の写真で犬を連れているのは、ディオゲネスが大樽の中で暮らすなど犬のような生活をしたことと、CynicismのCynicは古代ギリシャ語で犬を指すことによる。そのころのギリシャ人はそれぞれの都市国家に所属することで自己のアイデンティティーとしていたが、彼は自分を世界市民(コスモポリタン)と称した。ディオゲネスを有名にしたのは思想よりも、アレキサンダー大王との出会いに代表されるような風変わりな逸話である。逸話はwikiに詳しい。日本語版Wikiディオゲネス(犬儒学派)にも書いてあるが、英語版がより詳しいので、その中でも痛快な話を下に訳出した。

    • プラトンが”人間の定義は羽のない二足動物”と言ったところ、ディオゲネスは羽をむしった鶏を持ってきて”人間を連れてきた”とプラトンに言った。その後、プラトンは人間を”平たい広い爪を持つ羽のない二足動物”と言うようになった。
    • ディオゲネスが海賊に捕まり奴隷として売られようとしたとき、買い手が何が得意か聞いたところ、”自分は人を支配することが得意だから、ご主人を必要とする人に売ってくれ。”と言った。買い手のクセニアデスはこの答えが気に入りディオゲネスを自分の子供たちの家庭教師にした。
    • アレキサンダーが、”自分がアレキサンダーでなかったらディオゲネスになりたかった”と言うのに対し、ディオゲネスは、”自分がディオゲネスでなかったならば、ディオゲネスになることを望む”と答えた。

シニカル(Cynical=皮肉)という言葉は、Cynicismからできた言葉で、上のような皮肉ばかり言っていたからだろう。とにかくディオゲネスは筋金入りの奇人変人である。

植村清二とディオゲネス

植村清二の『アジアの帝王たち』に、息子の鞆音が”父の遺したもの”というあとがきを書いている。若くして妻を亡くし幼子3人を育てる清二が、子供たちを連れて銭湯へ出かけ、道すがら星座や森鴎外の『寒山拾得』などの話を聞かせてくれた思い出である。その中にディオゲネスの話もあったという。風変わりな哲学者の話を幼子に聞かせながら銭湯へ行ったというところが私のような常人とは違う。植村清二は軍国主義に反対し新潟に左遷される。物に執着せず分相応と倹約を心掛け、死後遺されたものは夥しい数の蔵書だけだったという。清貧で権威に屈しない生き方は、ディオゲネスに似ているので、植村清二はディオゲネスに共感していたのかもしれない。

ディオゲネス・クラブ

シャーロック・ホームズ「The Greek Interpreter(ギリシャ語通訳)」で、作者アーサー・コナン・ドイルが描写するディオゲネス・クラブが下の英文である。英文中のカッコ内で示したような人間でも、座り心地のよい椅子と最新の定期刊行物は好むので、そんな人間のためのクラブである。会員はクラブで”Stranger Room”(見知らぬ人間の部屋)という個室を使う。クラブのルールは、他者に関心を示さないことと、”しゃべらないこと”で、3回違反すると退会させられる。兄のマイクロフトは創立者の一人でシャーロックもクラブの雰囲気を気に入っている。英文中unclubableという単語の意味は辞書ではnot socialとなっているが、それだとすぐ前のunsociableとかぶってしまうので、”最もクラブに適さない”と訳した。”最もクラブに適さない人間たちのクラブ”というところが、まさに、cynical(皮肉)のディオゲネスっぽく、ドイルの洒落が効いたところだと思う。察するに、植村清二と同じようにアーサー・コナン・ドイルもディオゲネスの生き方が相当気に入っていたのだと思う。

"There are many men in London, you know, who, some from shyness(内気), some from misanthropy(人間嫌い), have no wish for the company of their fellows(群れることを望まない). Yet they are not averse to comfortable chairs and the latest periodicals. It is for the convenience of these that the Diogenes Club was started, and it now contains the most unsociable(最も社会性のない) and unclubable(最もクラブに適さない) men in town. No member is permitted to take the least notice of any other one. Save in the Stranger's Room, no talking is, under any circumstances, allowed, and three offences, if brought to the notice of the committee, render the talker liable to expulsion. My brother was one of the founders, and I have myself found it a very soothing atmosphere."

「シャーロック・ホームズ」に記述はないが、ディオゲネス・クラブはイギリス情報局と関係があると推測されている。マイクロフトが政府の機密を扱う重要な役職にあると「ブルースパーディントン設計書」に書かれていることが推測の理由である。この推測は、ビリー・ワイルダー監督の映画「The Private Life of Sharlock Holmes」によって一般的になったといわれる(Wiki英語版)。テレビ映画Sherlockの「The Reichenbach Fall」の回では、マイクロフトを訪ねたワトソンがクラブ内で大声を出したため、クラブの執事に手荒く扱われる。
 
「アテナイの学堂」のディオゲネス
 
下はラファエロの描いた有名な「アテナイの学堂」で、ギリシャの哲学者が一堂に会している。真ん中で天を指さすのがプラトンで地を指すのがアリストテレスである。ディオゲネスは二人の下、階段に座り足を投げ出している白髪の老人とされている。この絵からも変人ぶりがうかがえる。20年ほど前のイタリア旅行の時、広大なバチカン美術館の中を「アテナイの学堂」を探して歩き回ったが結局発見できず見逃してしまった。

 

今回はチャンギ空港の待合室からアップした。


ロンドン塔

2013-06-18 19:01:42 | 西洋史

バンクーバーから戻ったあと、1か月ほどの間、日本→シンガポール→日本→ウラジウォストク→日本→シンガポール→日本→シンガポールと、4~5日単位で動いたのでブログに手をつけられなかった。これからしばらくはゆっくりできそうである。

 前回「ワタリガラス」の回で読んだ「倫敦塔」の末尾に、漱石はエーンズワースが獄門役に歌わせた不気味な歌を英語のまま載せていた。

The axe was sharp, and heavy as lead,
As it touched the neck, off went the head!
          Whir―whir―whir―whir!
Queen Anne laid her white throat upon the block,
Quietly waiting the fatal shock;
The axe it severed it right in twain,
And so quick―so true―that she felt no pain.
          Whir―whir―whir―whir!
Salisbury's countess, she would not die
As a proud dame should―decorously.
Lifting my axe, I split her skull,
And the edge since then has been notched and dull.
          Whir―whir―whir―whir!
Queen Catherine Howard gave me a fee, ―
A chain of gold―to die easily:
And her costly present she did not rue,
For I touched her head, and away it flew!
          Whir―whir―whir―whir!

(意訳)”斧は鋭く鉛のように重い、首に触れるや否や頭を切断する、ハッハッハー。女王アンはその真っ白なのどを断頭台に乗せ静かに確実な打撃を待っている、斧は正確に二広で速く確実なので痛みは感じないだろうハッハッハー。ソールズベリー伯爵夫人は誇り高き貴婦人として優雅には死ねないだろう、斧を上げ彼女の頭蓋を切断すると刃はへこみ鈍くなるだろうハッハッハー。女王キャサリン・ハワードは私に金の鎖をくれたけど、死ぬのは簡単だ、高くついたプレゼントを後悔する間もなく、私が触れた首は離れて飛んだハッハッハー”

 歌の中の人物(黄色)は、ヘンリー8世の2番目の妃Queen Anne (アン・ブーリン、エリザベス1世の生母)、Salisbury's countessはマーガレット・ポールでヘンリー8世の娘アン・メアリーの養育係、Queen Catherine Howardはヘンリー8世の5番目の妃である。皆、ロンドン塔でヘンリー8世によって処刑されている。ヘンリー8世は、次から次に妃を殺しては新しい妃を迎えている。ヘンリー8世は有名なトーマス・モアをもロンドン塔で斬首している。エリザベス1世の巻で、王位の相関図を書いたが、ヘンリー8世の后や愛人の相関図はもっと複雑怪奇なようなので、相関図を作る気力がわかない。

 「倫敦塔」で漱石は、わずか17歳(漱石は”18年の春秋”と書く)で断頭台に散ったジェーン・グレー(1537~1554)の幻想を見る。漱石は読者が当然ジェーン・グレーのことを知っているはずという前提で話を進めるのだが、ジェーン・グレーを知らない読者だっているのでネット情報をもとに少し解説すると、ヘンリー7世の曾孫であるジェーン・グレーは義父のウォリック伯の陰謀により1553年7月10日にイングランド女王として即位する。しかし、対抗馬のヘンリー8世の子メアリーが別に即位したため、わずか9日後の7月19日に夫とともに逮捕される。二人はロンドン塔に幽閉されたのち、翌年処刑される。ジェーン・グレー処刑の場面を描いたドラロッシの絵画が幻想を助けていると漱石は小説の巻末で感謝の意を表している。その絵画はおそらく下の絵画だと思う。確かに、若くして斬首される純白無垢のジェーン・グレーは哀れで見る者に強い印象を残す。

 Wikiより

 6月のシンガポール便機内でたまたま観た映画”Jack the Giant Slayer"2013に、ロンドン塔が出てきた。この映画は童話「ジャックと豆の木」を脚色したもので、ジャックとお姫様が豆の木を登った雲の上には人を食う獰猛な巨人たちがいて、命からがら地上に戻った二人を追って巨人たちも地上に降りて来る。巨人がお城を攻め落とす寸前に、ジャックは巨人を従わせることのできる王冠を手に入れて巨人を雲の上に追い払う。豆の木を伐り倒し、やっと地上には平和が戻る。この王冠がロンドン塔に伝わる英国王の王冠だというのが映画の落ちだったのである。

”Jack the Giant Slayer"2013、監督:ブライアン・シンガー、出演:ニコラス・ホールト、エレノア・トムリンソン、イワン・マクレガー ジャックと豆の木に出てくる金の卵を産む鶏や歌うハーブは出てこないが、画面に金のハーブが一瞬だけ登場した。ジャックと豆の木がイギリスの童話だとは知らなかった。映画は時間つぶしにしかならなかったが、王冠がロンドン塔に結びついたことを嘉して、★★★☆☆


サラディン

2013-04-27 12:25:35 | 西洋史

就活中の息子が面接担当者の「歴史上で好きな人物は?」という問いに、「サラディン」と答え怪訝な顔をされたといって帰ってきた。超人気会社の面接だったが、次の面接に進んだという話を息子から聞かないので落選した模様である。「サラディン」が落選の理由かどうかわからないが、「せめてアラビアのロレンスにすれば良かったのに!」と呆れ顔で言ったことを反省している。第一次世界大戦でアラブがトルコから独立するのを支援したイギリス将校を描いた映画「アラビアのロレンス」1963を息子が好きだということを知っていたからだが、そもそもサラディンもアラビアのロレンスもマイナーであることにおいては五十歩百歩(孟子)なので、自分の感性も息子と大差ないのだと思う。

息子も私もサラディンのことを知ったのは、映画「Kingdom of Heaven」で、サラディンは異教徒であるキリスト教徒に対して寛容に描かれていた。その後、彼の簡単な事蹟を知の再発見双書「十字軍」や「テンプル騎士団の謎」で読んだ。そして今回息子の就活面接事件をきっかけに、もう少しサラディンのことを知りたくなり、佐藤次高「イスラームの『英雄』サラディン 十字軍と戦った男」を手にしたのである。

サラディンの簡単な年表は以下のとおり。

  • 1137  イラク北部のタリクートで生まれる。父はクルド人アイユーブ。1138年説もある。
  • 1146  家族はダマスクスに移住
  • 1152  アレッポへ行き、ザンギー朝2代目ヌール・アッディーンに仕える
  • 1164  ヌール・アッディーンの命令で叔父シールクーフとエジプトへ遠征する。
  • 1169  エジプト・ファーティマ朝の宰相となりヌール・アッディーンからほぼ独立する。
  • 1174 ヌールアッディーン没しサラディンがダマスカスに入り実質アイユーブ朝を開始する。
  • 1177 アスカラーンへ遠征するもボードワン4世に敗れる
  • 1187 ハッティンの戦い。ギー率いる十字軍を破る。エルサレムを奪還。その後も地中海の諸都市を次々と十字軍より開放する。
  • 1191 アッカーの救援に失敗
  • 1192 獅子心王リチャードと和平
  • 1193 没

分裂していたイスラム勢力を統一しエルサレム解放によってイスラム世界の英雄になったサラディンが実際、異教徒に寛容だったのかどうかが知りたかったが、それに関して「イスラームの英雄サラディン」の歯切れは悪かった。

サラディンは、個人的な権威と人望でイスラム勢力をひとつにまとめ十字軍と闘い地中海海岸都市を開放していった。戦闘に終始したためか、あるいは寛容さゆえか、サラディンは強権的な中央集権国家を建てることはできなかった。サラディンは質素で無欲で、彼の死後残ったのは金貨1枚と銀貨47枚だけだったという。また、サラディンはクルド人だったが、アラブ人やトルコ人にも公平で、軍団内に人種による対立や差別はなかった。 一方、エルサレムで降伏した敵に安全保障を与えたのはサラディンの寛大さゆえではなく、身代金を要求し捕虜を解放したのは単にイスラムの慣習に従っただけという考え方もあるらしい。エルサレム奪還後の十字軍との戦いでは、十字軍に包囲されたアッカーの救出に失敗するなど一進一退が続き、配下の武将がサラディンの指導力に疑念を抱くようになる。長年の戦闘で疲弊するムスリム騎士の間で厭戦気分が広がったこともあり1192年にはサラディンはリチャード王率いる十字軍と和平条約を締結する。

エルサレム

エルサレムはユダヤ教徒にとってはソロモンがエホバの神殿を建設した故地であり、キリスト教徒にとってはイエスの死と再生の舞台として重要であった。ムスリムにとってもエルサレムは、メッカ、メディナにつぐ第3の聖地とされた。それは、預言者ムハンマドが天馬ブラークに乗ってメッカからエルサレムまで夜の旅をし、ここの岩から天に昇って神にまみえたとするコーランの伝承による。7世紀後半には灰白色の岩を覆って「岩のドーム」が建設され、エルサレムは聖なる家と呼ばれるようになる。1099年エルサレムは第1回十字軍によって占拠される。88年後の1187年になってやっとサラディンがエルサレム奪還に成功する。写真中央の金色のドームは「岩のドーム」(wikiより)

ムスリム騎士の理想

ムスリムの騎士はイクターという封土を与えられるかわりにスルタンへの絶対的な服従を要求される。異教徒との戦い(ジハード)で奮迅の活躍をし、戦闘で死んでも「神の道」において戦った者は殉教者となり、天国に入ることができると信じられた。一方、十字軍あるいはヨーロッパの騎士は封土の授受が王との契約を前提とする。キリストの墓を異教徒の支配から解放する(エルサレムの解放)ことで免罪符が与えられることになったため十字軍に参加する騎士が増えた。ムスリム騎士もヨーロッパ騎士も勇気と誠実さを重視することに変わりはないが、ムスリム騎士が学問や教養を奨励することに対し、ヨーロッパ騎士はそれらが武勇の妨げになるとみなした。

ダンテの神曲のサラディン

地獄篇は、イスラム預言者ムハンマドが頭を切り裂かれ呻き苦しむ姿を描くのに、サラディンは”ただひとり離れて哲人の中に座す智者の師”と描く。十字軍を通してヨーロッパに伝えられたサラディン像がここに現れている。

ムスリムの教育

通常のムスリム初等教育は、アラビア語の読み書きと数学、およびコーランの暗記が中心だった。さらに学問を志す青少年は各地の都市に建てられたマドンサ(学院)に入学し、法学、神学、コーランの解釈、歴史学や、医学、天文学、化学、数学、地理学、哲学を学んだ。イスラム世界は中国と並ぶ書の世界であり、サラディンに関するアラビア語史料も豊富だと言う。 

サラディンの死後、息子たちが版図を分割統治した。サラディンから5代目サルタンのカーミールは1229年に、岩のドームへの自由な立ち入りを認めさせることを条件にエルサレムを十字軍に譲り渡す。エルサレムを手に入れた十字軍はその統治を維持できず10年後にはムスリムに奪回される。エルサレムをめぐるキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の確執は現在まで続くのである。


ペルセウス

2010-05-09 16:32:15 | 西洋史
 先週、映画”タイタンの戦い”2010年を観た。暗い戦闘場面の連続とアバターと同じく場面転換が早く疲れた。3Dについていけないのは歳の所為か? 映画館から帰ってすぐに昔シンガポールで買った1981年英語版”タイタンの戦い”を観た。こちらはリメイク元で、モンスターが一コマ毎にカクカク動きリアルさやスピード感には欠けるのだが、ひとつひとつのエピソードが丁寧に語られ判り易い。1981年版の製作者で特撮監督のハリーハウゼンのファンタジー映画は大好きだったので、”シンドバッド”シリーズ、”アルゴ探検隊の冒険”、”恐竜100万年”を観ている。”タイタンの戦い”と同じでモンスターや恐竜がコマ送りでカクカク動くが、中でも”アルゴ探検隊~”の遺跡で骸骨と戦うシーンの不思議な迫力と”恐竜100万年”のラクウェル・ウェルチ(これは生身の女性)の無言の演技(艶技?)は当時の中学生には眩しかった。ハリーハウゼンの映画はファンタジー映画に分類できるが、リメイクの2010年版は完全にアクション映画である。写真はメデゥーサの生首を持つペルセウスの星座(Wiki英語版より)である。北の夜空には、ペルセウス座の周りをカシオペア、アンドロメダ、ペガサスなど映画に登場する主人公たちの星座が取り囲んでいる。
 
 手元にあるT.ブルフィンチ著「ギリシャ神話と英雄伝説(上下)」によるペルセウスの冒険は映画のストーリーとは少し違う。本のペルセウスは、
 1.アンドロメダに出会う前にメドゥーサを退治する
 2.海の怪物退治はメドゥーサの生首を使うのではなく剣による
 3.ペガサスではなく翼のついた靴で空を駆ける
さらに、
 4.アトラスをメドゥーサの生首で石に変えたことで、アトラス(地図)は大地を支えることになる。
 5.醜いカリボスは神話には出てこない
 6.カシオペアは娘アンドロメダの美貌ではなく自分の美貌を自慢する
 
 1981年版で機械仕掛けのフクロウのブーボーが一役買い可愛い動きを見せるが、2010年版ではちらっと姿を見せただけで何もせずに消えてしまう。下の写真はネットで見つけた通販のブーボーのフィギュアーで、マニアがいるらしい。

 ブーボーは炎と鍛冶の神ヘーパイストスが作ったことになっていたが、神話のヘーパイストスは他にゼウスの雷、アポロンの矢、アキレウスの武具を作り、さらにあのパンドラの箱のパンドラ(人間の女)を作ったのもヘーパイストスである。

 ”タイタンの戦い”1981年 監督:デズモンド・デイヴィス、製作:チャールズ・H・シニア、レイ・ハリーハウゼン、脚本:ビバーリー・クロス、出演:ハリー・ハムリン、ジュディ・バウカー、ローレンス・オリビエ ハリーポッターのホグワーツ魔法学校のマクゴナガル先生のマギー・スミスが女神テティス役だった。現在の感覚では稚拙な特撮だが、丁寧なストーリー展開とファンタジー性に加え、昔観た時の感動を嘉して、★★★★☆
注:今読んでる司馬遷の史記世家各章の太史公自序の”~を嘉して”からパクッた。太史公は司馬遷のことで、このように人物評や歴史評をしている。

 ”タイタンの戦い”2010年 監督:ルイ・レテリエ、出演:サム・ワーシントン、リーアム・ニーソン、レイフ・ファインズ ギリシャ神話を題材にした作品なのにファンタジー性を失い前作の良さが出せなかったことと3Dに疲れたので、★★☆☆☆

トロイア戦争全史

2010-03-06 22:07:59 | 西洋史
 松田治の「トロイア戦争全史」を読むまでトロイア戦争を通して読んだことがなかった。1955年の映画「トロイのヘレン」や2004年の「トロイ」以外では、木馬の話やアキレスの話を断片的に読んだり観たりしたのがすべてで、上原和の「トロイア幻想」やテレビドラマの「タイムトンネル」もそんな断片情報である。シュリーマンが諳んじるほど読んだというホメロスの「イリアス」や「オデュッセイア」は本屋でパラパラとめくっただけで断念してきた。
 「トロイア戦争全史」を読み始めは、登場人物一人一人の系図や神との関係や出身地などに気を配っていたが、そのうち登場人物が増えるにつれて面倒くさくなり、話の先を早く知りたいという期待が優り、結局訳のわからないまま読み飛ばしてしまった。とにかく神と英雄と美女が入り乱れた壮大な戦争叙事詩なのである。

<物語の始まり> ゼウスは、ヘーレー(ヘラ)、アテネー、アフロディーテの3女神のうち誰が一番美しいかをトロイア王プレアデスの王子パリスに選ばせることになった。彼は絶世の美女ヘレネーを与えることを約束したアフロディーテを選び、他の二人の女神に憎悪された。
<ヘレネー(ヘレン)の掠奪> パリスは約束に従い、ミュケナイ王アガメムノーンの弟メネラーオスの妻だったヘレネーをスパルタから掠奪する。しかし、大勢いたヘレネーの求婚者たちは、誰が夫に選ばれようとヘレネーが奪われるようなことがあれば一致団結して奪い返すことを約束していた。
<カッサンドレー(カサンドラ)の予言> トロイア王の娘カッサンドレーはアポロン神に見初められ予言の力を与えられるが、アポロンの言うことを聞かなかったためカッサンドレーの予言は誰も信じないことにされてしまう。
写真はギリシャ旅行に行った知り合いからもらった壺で、竪琴を弾く若者と鳥を手にした乙女が描かれている。二人は双子のアポロンとアルテミスだと想像するのだが、壺には何も書かれていない。
<20年戦争> アガメムノンを総大将としたアカイヤ軍(ギリシャ)とヘクトールを大将とするトロイア軍は一進一退を繰り返す。半神半人のアキレウス(アキレス)を中心に、アキレウスの友人パトロクロスの戦死、ヘクトールの戦死、アマゾネスとエチオピア王メムノーンのトロイア援軍、アキレウスの死、アキレウスの息子ネオプトレモスの参戦、パリスの死が語られる。
<トロイアの木馬> ギリシャ軍の知恵者オデュッセイア(オデッセイ)は偽りの贈り物である木馬をトロイアに贈ることを考え出す。
<トロイア陥落> 木馬に潜んだギリシャの英雄たちは隠れていた味方をトロイア城中に導きいれると、城はまもなく陥落し、戦争は終結する。トロイア側の男は殺され、女は戦利品としてギリシャ軍に掠奪される。ヘレネーは夫メネラーオスのもとへ帰る。
<帰還> 帰路につくギリシャの船団は嵐に遭遇し、英雄の何人かは遭難死する。ポセイドンの怒りを買ったオデュッセイアは遭難を繰り返し故郷のイタカ島に帰るのは何年も後のことになる。オデュッセイアの漂泊と冒険はこの本では語られない。それは、フランシス・コッポラ監督による1997年の映画「オデッセイ」で観た。

登場人物の名前の呼び方は本に依った。
この本を読んだあとで、「トロイア幻想」を読むと上原和の古代への憧憬に、より共感できるはずである。現地に立った上原和の眼を通して英雄と美女たちの運命に思いを馳せるのである。

<話のタネ1> アキレスと亀
ゼノンのパラドックスと呼ばれ、アキレスは永久に亀に追いつけないというパラドックス
 アキレスと亀が競争をすることになり、ハンディーとして足の遅い亀は前方の地点Aからスタートする。アキレスが地点 A に達した時には亀はアキレスがそこに来る時間分だけ先のB地点まで進んでいる。アキレスが B地点に来たときには亀はまたその先に進んでいる。これを何度も繰り返すと、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。
 繰り返す回数は無限に分割できるが時間と距離は有限で、追いつく時間と場所はあらかじめ提供されているのである。追いつく時間と地点の前を無限に切り取っているだけなのである。

<話のタネ2> アキレス腱
半神半人のアキレスは母親の女神テティスによって火にあぶられ不死身の体を与えられたが、女神が握っていたアキレスの踵は弱点として残ってしまった話は有名。

<話のタネ3> シーシュポス
オデュッセイアは、シーシュポスの息子だという説がある。カミュの「シーシュポスの神話」によると、シーシュポスはゼウスに逆らったため、やっとの思いで山頂に運び上げた岩が頂上まであとすこしのところで谷底に転げ落ち、それをまた運び上げなければならないという永遠の罰を与えられる。
 単調な苦役に救いはない。似たような罰が往生要集にあり、地獄の役人に切られた足がまた生えるので永遠に痛みが続くというものだったと記憶している。シーシュポスは少なくとも岩を運びあげる作業の中に希望を持てる。あるいは一瞬の達成感も味わっているかもしれない。もっとも瞬時に絶望を味わうのだが。ただ、これは往生要集の永遠に続く肉体的な痛みに比べるとまだしも耐えられるような気がする。人間の人生なんてシーシュポスが背負っている業苦とあまり違いはない・・とカミュは言いたいのだろうか。

<話のタネ4>カサンドラ・クロス(The Cassandra Crossing)
ソフィア・ローレンとリチャード・ハリス主演の映画(1976年)で高校時代に観た。列車の衝突地点の橋梁がカサンドラクロスだったので、トロイアの予言者カサンドラから名付けたと思う。他に好きな俳優のバート・ランカスターとエヴァ・ガードナーが出ていた。映画の内容をあまり覚えていないのでB級だったのだと思う。

オーパーツ

2010-02-21 15:08:04 | 西洋史
 1年ほど前、中国明代400年前の棺の中からスイス製時計を模した指輪が出てきたというニュースが話題になった。このような、その時代にはあり得ない物をオーパーツという。
 オーパーツは、Out of Place Artifactを省略した呼び名で、その時代の技術では製造できないはずの物やその時代でその場所にはあり得ない人工物のことである。インディ・ジョーンズに出てきたクリスタル・スカルや、古代ギリシャの沈没船で発見されたアンティキティラの歯車(写真Wikiより)や15世紀ピリー・レイスの南極の地図などがある。このアンティキティラの歯車は、Wikiによると”太陽や月や天体の位置を計算する機械で、ギリシャの天文学者らにより進められた天文学と数学の理論に基づいて紀元前150-100年に製作されたとされる。ひとつの仮説として、ロードス島に設立された当時の天文学と数学の中心のアカデミーでこの機械は製作されたと考えられている。月の運行の計算技術に天文学者ヒッパルコスの理論が用いられている。”日本では与那国島の海底遺跡がオーパーツとされる。(http://www.ocvb.or.jp/html/yonaguni/)
 
 グラハム・ハンコックの「神々の指紋」はオーパーツを題材に失われた超古代文明のことを書いた読み物だったが、取り上げているオーパーツとされる物にはかなり胡散臭いものが多かったので、本そのものの信憑性には疑問が残った。ピリー・レイスの地図は1512年というコロンブスがアメリカ大陸を発見して20年後に、当時残存する様々な古代地図を参考にして描かれた地図で、氷に覆われているはずの南極大陸の海岸線が描かれているとされるオーパーツである。南極がまだ氷に覆われていない時代、ハンコックによると12000年以上前の超古代文明時代の情報が伝えられたものというのだが、海岸線は南アメリカ大陸のものだとする説が有力である。また、エジプトのスフィンクスの体の表面に降雨による浸食の痕があることから、想定されている時代よりもはるか昔の雨が豊富な時代に作られたはずだとする。
 コロンブス以前にバイキングのアメリカ大陸発見を記す石碑、南米にある日本の縄文土器とそっくりの土器、人間が恐竜時代に生存した証である恐竜の土偶、沖縄の海底遺跡、マチュピチュの階段などもオーパーツに含められる。UFOも同じようなものである。世界の七不思議のうちロードス島の巨人像は痕跡がないこととあまりの大きさから信憑性が疑われているらしいが、他の七不思議は、すべて遺構があるので、巨人像も存在したと考えるほうが合理的だ。理性や現在の科学で理解できないものを簡単に否定したくはないが、眉唾ものが多い。子供のころ読んでいた少年雑誌はオーパーツ話が満載で、好奇心が掻き立てられたものだ。世界の七不思議も少年雑誌で知った。UFOやムー大陸やアトランティス大陸も同じ類だ。

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バンクーバーオリンピックも半分が過ぎた。日本選手が勝っても負けても楽しませてくれる。カーリングは手に汗握る戦いが続き特に面白い。アメリカ戦はミリの差で勝ったが、カナダ戦も中国戦も技術に差はなく勝てた試合だっただけに惜しかった。昨日のイギリス戦も高い技術の応酬による手に汗握る激戦で目黒の最終投は圧巻だったため、また歓声をあげてしまった。イギリスチームのスキップのミアヘッドという選手は19才だというから驚きだ。
 昨日、電車の隣に座ったおばちゃん3人組が、”オリンピック観戦は楽しいけど、祭りが終わったら、また面白くない政治や事件のニュースばかりになるかと思うとうんざりする。”と話していたけど、まったく同感である。

ロードス島

2010-02-20 23:41:24 | 西洋史

 娘が村上春樹の「遠い太鼓」を読んでいるのに便乗して、本をパラパラとめくっている。村上春樹のギリシャ・イタリア滞在中の随筆で、昔から気になっているロードス島(薔薇の咲く島)の回があったので真っ先に読んだ。世界の七不思議のひとつであるロードス島の巨像(写真Wikiより)、塩野七生の「ロードス島攻防記」などで馴染みなので、どんな風に島を語るのか興味があったのだが、案の上、村上春樹は島の歴史や風俗には全く触れず、島にいる孔雀のことや、タベルナ(レストラン)のことや、ホテルの支配人との会話やらを書いている。観光ガイド本ではないのだから、歴史や観光名所の解説を期待するほうが悪いのだろうけど、ロードス、ローマ、アテネ、ミコノス、シシリー、クレタなどの有名な史跡を眼前にして、まったくそれらに触れないのは見事としかいいようがない。ギリシャの歴史や風俗が知りたければ、手元にある川島重成の「ギリシャ紀行」を読めばいいのだけれど、残念ながら”紙幅の関係で”ロードス島が省略されているのである。

 塩野七生の「ロードス島攻防記」は、ロードス島を根城とする聖ヨハネ騎士団がスレイマン大帝が率いるオスマントルコの大軍に攻撃された1522年の攻防戦を書いた小説で、攻防戦前後の聖ヨハネ騎士団の歴史、島の歴史、当時の国際情勢などにかなりの紙幅を割いているため、歴史好きにはたまらない作品である。「コンスタンティノープルの陥落」、「レパントの海戦」との3部作のひとつである。

 「ロードス島攻防記」によると、聖ヨハネ騎士団は宗教と軍事と医療活動を行う目的で組織され、映画「Kingdom of Heaven」で白地に赤の十字架の衣装を着るテンプル騎士団と並び称される騎士団で、当初は十字軍とともにエルサレムをイスラム教徒から奪い返すためにパレスチナにいたが、イスラム勢力に追われ1300年初頭にロードス島を根拠地とするようになる。ロードス島の攻防戦でオスマントルコに敗れた後は、マルタ島に本拠地を移し、マルタ騎士団と呼ばれるようになる。聖ヨハネ騎士団の本部は今もローマにあり、8000人の騎士が所属し、世界中で医療活動を続けているという。小説では騎士団の歴史に加え砦の防御法や攻城法にも多くの紙面が割かれているので、主人公である眉目秀麗な騎士たちの活躍が取ってつけたように思えるほどだ。攻城場面は、カタパルトが大砲に変わっただけで、「Kingdom of Heaven」や「ロード・オブ・ザ・リング」を想像した。本に出てくる捕虜の首を撃ち返すという話は、「ロード・オブ・ザ・リング」に出てきた。

 世界の七不思議であるロードス島の巨像についても言及している。銅製の巨像はロードスの港の入り口をまたいだ形で作られたが、BC227年の地震で崩壊したという。WikiによるとBC284年に像は完成したとあるのでわずか58年間だけ立っていたことになる。世界の七不思議はBC2世紀にビザンチウム(今のイスタンブール)のフィロンが書き残した当時の巨大建造物を指す。

  •   ギザの大ピラミッド 
  •   バビロンの空中庭園 
  •   エフェソスのアルテミス神殿 
  •   オリンピアのゼウス像 
  •   ハリカルナッソスのマウソロス霊廟 
  •   ロードス島の巨像 
  •   アレクサンドリアの大灯台 (フィロンが選んだのはバビロンの城壁)

ピラミッドのみが現存し、アレクサンドリアの大灯台は海底で遺構が発見されるなど、ロードス島の巨像以外はほぼ遺構が見つかっている。


ロゼッタストーン

2009-12-13 17:58:52 | 西洋史
 エジプトがイギリスにロゼッタストーンを返還するよう要求したというニュースが流れていた。
 ロゼッタストーンは、ナポレオンのフランス軍がエジプト遠征をした1799年、ナイル川沿岸の町ロゼッタで見つけ、すぐイギリスに引き渡され、今は大英博物館が所蔵している。ロゼッタストーンは、高さ114cm、幅72cm、厚さ28cmで総重量が762kgもある巨大な花崗閃緑岩である。ロゼッタストーンにはプトレマイオス5世の布告がヒエログリフ(古代エジプト語)14行、デモティック(ヒエログリフの崩し文字)32行、古代ギリシャ語54行で書かれていたため、ヒエログリフの解読が一気に進んだ。解読したのは、フランス人のシャンポリオンと言われているが、シャンポリオンより早く、英国人のトーマス・ヤングが解読の一歩手前まで迫っていて、シャンポリオンはヤングの発見をさらに進めたものだったらしい。トーマス・ヤングは言語学者であるだけでなく、多彩な分野の天才で、材料工学や地盤工学で馴染みの”Young's Modulus”(変形係数)もヤングの定義したものである。

 シャンポリオンやトーマスヤングのことは以前、近藤二郎著「ヒエログリフを愉しむ」や創元社の「知の再発見」双書である「ヒエログリフの謎をとく」で読んだ。この双書は、挿絵をフンダンに使っているので視覚的な情報が欲しいテーマである「マヤ文明」、「インカ帝国」、「アーサー王伝説」、「テンプル騎士団」、「ポンペイ」、「イエズス会」などを持っている。
 本によると、当初ヒエログリフはその形から表意文字と考えられていて、ロゼッタストーンの発見によって、やっとヤングがヒエログリフが表音文字であることに気づき、ヒエログリフとアルファベットの不完全な対比表を作った。しかし、ヒエログリフが完全な表音文字とすると、ロゼッタストーンのヒエログリフとギリシャ語の文字数が合わないことが難点だった。シャンポリオンは、ヒエログリフの中に発音しない文字(限定符または決定詞)があることに気づき、さらにヤングの対比表の間違いを発見し修正した。シャンポリオンは、ヒエログリフに表意文字と表音文字があることを明らかにすると同時にヒエログリフの体系化を成し遂げた。

 中学か高校の社会科の教科書に下のヒエログリフが載っていた記憶がある。

 楕円で囲まれたヒエログリフはカルトゥーシュと呼ばれ王の名が記される。ヤングは、クレオパトラと思われるこのカルトゥーシュとロゼッタストーンにあったプトレマイオスのカルトゥーシュを比べることで表音文字のいくつかを解読した。カルトゥーシュの三角(Κ)、ライオン(Λ)、刀(Ε)、なまず(Ο)、四角(Π)、鷲(Α)、手(Τ)、目(Ρ)で、すなわち”ΚΛΕΟΠΑΤΡΑ”(クレオパトラ)である。ヒエログリフは上からも左右どちらからも書かれているが、左右の読む方向は鷲やライオンなどの動物の頭から尻尾の方向に読む。ただし、”死者の書”や”冥界の書”などの宗教的文書は逆に尻尾から顔に向かって読むという。
 
 中国も海外に流出した文化財の返還を求めている。幕末のシーボルトや明治期の外国人によって海外に流出した日本の文化財は多いので返還要求を出したらどうかと思うが、逆に戦前西域に行った大谷探検隊や中国侵攻中の軍部などが海外から持ち込んだ文化財も多いと思われる。ロゼッタストーンを所有する大英博物館は、エジプトの返還要求に対し、”ロゼッタストーンはエジプトだけの遺産ではなく世界の遺産だ”として返還を拒否しているという。一度返還に応じるとすべて返さなければならなくなり収拾がつかなくなるので、ごく最近不法に海外に持ち出されたなど余程の理由がある場合を除き、昔持ち出された文化財の返還が進むことはないだろう。

ソクラテス

2009-10-25 22:04:15 | 西洋史
ソクラテスといえば、悪妻、考え事をしていて溝に落ちたという放心癖、プラトンの師匠、野坂昭如の歌う「ソ、ソ、ソクラテスか、プラトンか」という歌、ソクラテスの弁明、刑死、などが思い出される。だが、その哲学について何も知らない。高校の倫理社会の授業で、まっさきに登場したはずだが、ほとんど覚えていない。

梅原猛はエッセー「戦争と仏教」(2002~2004年東京新聞・中日新聞連載)の中で、ソクラテスの無知の知とは逆の知の無知にある、イラク戦争を始めたブッシュ大統領とアメリカを危惧する。20世紀初頭のドイツはハイデガー、ヤスパース、フロイト、アインシュタイン、ハイゼンベルクらを輩出し哲学と科学の王国であったにも関わらず偏狭な民族主義的な理論を巧みに宣伝したヒトラーに国を委ねてしまったことと、アメリカの現状(2002年当時)を重ねて憂いている。
ソクラテスの無知の知とは、
”ソクラテスは自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えた。”

梅原猛は、”アメリカの知性は優れているが、自分がどう生きるべきかということについてまったく無知であり、部分において知恵があることがかえって自分が無知であることを自覚することを妨げている。”いわゆる知の無知状態にあるという。
梅原の言うことを言いかえれば、アメリカとアメリカ人は自国の科学、文化、知性が世界最高であるという自負のために、世界の中でどのように生きていくかを冷静に考えることができない。ということか。

同じ本で梅原は、白川静の業績を絶賛していたのでさっそく読まねばと思い、古本屋に並んでいた白川静の本の中から最も読みやすそうな「孔子伝」を買ってきた。パラパラとめくったところ、白川静は孔子をソクラテスと頻繁に比較していた。
・孔子はソクラテスと同じように何の著作も残さなかった。哲人は、新しい思想の宣布者ではなく、むしろ伝統の持つ意味を追及し発見し、今このようにあることの根拠を問う。探究者であり、求道者であることをその本質とする。
・ソクラテスはプラトンの数編の文章によって、孔子は論語によってすべてが伝えられている。
・ソクラテスやキリストの死は死することが生きることであった。「いまだ生を知らず、焉(いずく)んぞ死をしらん。」という孔子の立場からすれば生きることがすべて死への意味付けであった。
・ソクラテスがダイモンのささやきを語るように、孔子は周公の声を聞き幻影を見て生きた。(注;ダイモン=神霊、ソクラテスはダイモンの声を聞いていた。映画ライラの冒険のダイモンはこれから取ったかも)
・古代の思想は、神と人との関係から生まれている。孔子は巫女の子であり、このことは儒教の組織者として必要かつ不可欠の条件である。ここでもソクラテスがデルフォイの神託の意味を問い続けたことに通じる。(デルフォイ=デルフィ;アポロンの神殿のあった場所)
・ソクラテスは、ノモス(法律)の命ずるままに死ぬことでイデア(真理)の存在を証明するしかなかったが、仁によって真理を求めることができるとした孔子に死は必要なかった。

夏目漱石の妻・鏡子が悪妻だったという話は以前述べた。元祖悪妻は、ソクラテスの妻だが、そのクサンティッペを悪妻とするエピソードには、以下のようなものがある。(Wikiなどより ただし出典やその根拠は示されず)
・クサンティッペはソクラテスに激怒して、水を頭から浴びせた。
・ソクラテスが、「セミは幸せだ。なぜなら物を言わない妻がいるから」と言った。
・ソクラテスが、「ぜひ結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」と言った。
・ソクラテスが、「この人とうまくやっていけるようなら、他の誰とでもうまくやっていけるだろうからね」 と言った。
・ソクラテスは妻に、「何が哲学だ!?屁理屈ばかり重ねずに仕事をしろ」と言われた。