備忘録として

タイトルのまま

仏像のこころ

2008-08-13 00:56:37 | 古代

中学1年のときの社会科のテストで、上の仏像の写真の名前を答える問題が出たことを今も覚えている。写真を載せて名前を答えさせる問題が珍しかったこともあるが、何といってもまぐれで正解したことと、友人の家に遊びに行ったときにこの問題の話になって友人の母親が観音像は冠を被っていると教えてくれたことなどが重なり覚えているのだと思う。正解:百済観音像(写真はWikiより拝借)

梅原猛”仏像のこころ”は、仏像の分類、仏教の真髄、梅原の宗教論、人生論、世界観など盛りだくさんで知的好奇心を満足させてくれた一冊であった。曰く、

  1. 仏像は、如来、菩薩、明王、天の四部に分けられる。如来はすでに悟りを得た真の仏であり、菩薩はこれから仏になる候補者であり、明王は如来か菩薩を守る力を持った守護の神であり、天部は仏教以外のバラモン教などから移入された神々である。日本では仏格の高い仏が仏格の低い仏より、より熱い崇拝を受けていたわけではない。
  2. 自然に死んだ釈迦と殺されたキリスト。ヨーロッパ文化圏では不正に殺された人間に対し、正義のために復讐しようという論理がある。そこには憎悪や怒りがあり、人間を激しい行為に駆り立てる。キリスト教は、死-絶望-怒り-復讐-審判という感情の論理であるのに対し、仏教は、死-悲しみ-諦め-微笑という感情の論理を展開する。
  3. 叡山の根本中堂に坐す薬師如来と地方で民衆の尊敬を受けている薬師如来は、あまりにも違う。政治の中心にいる貴族の薬師だけが潤って、地方の薬師が貧困と苦悩に悩む民衆の無理な願いに苦労するようなことがあってはならないのである。
  4. 現世への絶望や死への不安をいやし、美や善へのあくことない憧憬の心をおこさせることが、神や阿弥陀なくしてできるか。
  5. 大乗仏教の仏である観音菩薩が菩薩であるという意味は、観音が仏になろうと修業中の身であるという意味ではなく、むしろ本当は仏でありながら、衆生救済のために、わざと仏の位を放棄して、一段下がって菩薩の位で現世へ下ってくるという意味なのである。
  6. 天台の中心教説は一念三千である。瞬間の中に、全世界が宿るという認識である。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、仏の十界のそれぞれにまた十の世界が属している。この十かける十の世界は十の様相をもち、同時に五陰、衆生、国土という三世界を持つというのである。すなわち、十かける十かける十かける三の三千世界である。この三千世界をあまねく観想する知恵によって、人間のとらわれを脱し静かな悟りに入れというのが天台の教えである。
  7. 阿弥陀浄土を想像する東洋人の粘り強さに驚嘆するが、極楽の想像図よりも地獄についての想像図がはるかに強烈である。源信の”往生要集”はダンテの”神曲”に形而上学的深さにおいて一籌(いっちゅう)を輸する(遅れをとる)とはいえ、その地獄のイメージの強さ、苦悩の分析の深さにおいて、はるかに”往生要集”の方が上であろう。

北京オリンピック6日目現在
金3(柔道男子=内柴正人、競泳平泳ぎ百=北島康介、柔道女子=谷本歩実)、銀1(体操団体)、銅2(柔道女子=谷亮子、中村あゆみ)
北島の決勝は力が入った。



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