備忘録として

タイトルのまま

ミュンヘン

2017-10-07 16:30:36 | 

 トルコからの帰途トランジットのミュンヘンで、東京行き便に登場寸前で機体故障と知らされ、代替機が日本より届く翌日の夜、同時刻まで待機することになった。航空会社が手配してくれたホテルに泊り、翌日、ミュンヘン観光を楽しんだ。ホテルまで乗ったタクシーは、アウトバーンを190km/hですっ飛ばした。未体験のスピードで、カーブでは座席の手すりにしがみついた。途中、瞬間目に入ったドーム状の大きな競技場は、後でバイエルンミュンヘンのホームグラウンドだと知った。

 街の中心にあるマリエン広場(Marienplatz)と、そこからタクシーで20ユーロほどの距離にあったBMW博物館を観光に選んだ。

 写真は、マリエン広場に建つ新市庁舎(Neues Rathaus)で、その前に金の銅像を頂く小さな塔が建っている。それは1638年にスウェーデンの占領から解放されたことを祝って建てられたマリア像で、マリエン広場の名はこのマリア像に由来するという。ドイツはいつも強力で他国に占領されたことがあったとは知らなかった。旧市庁舎の塔の中ほどに、Rathausー Glockenspielというからくり時計があり、時間になると動くらしいが、残念ながら広場に居た午前10時には動かなかった。

写真左:マリエン広場、写真右:からくり時計

 ミュンヘンはちょうど10月祭りに入ったところで、マリエン広場に続く屋台や市場が立ち並ぶ広場には民族衣装の大男や大女が朝からビールを飲んでいた。BMW博物館を見てからまた市場に戻り、ソーセージ尽くしの昼食をとった。

上写真:食卓の並ぶ広場ときのこだけを売る店

写真左:ソーセージなどをセットで売る店、写真右:昼食(酢漬けキャベツは今一だった)

写真上左:BMW博物館、中:初期の車、右:博物館に隣接した展示販売場

 往路の東京からミュンヘン経由トルコは、ミュンヘンでのトランジット3時間を含め15時間を要した。帰りは、40時間ということになったが、初めてのミュンヘン、初めてのドイツを1日ではあったが楽しめた。トルコはアンカラに3泊したがホテルと仕事場の往復で観光はなし。ホテル周辺に見るべきものもなかった。再度チャンスがあるならカッパドキアには行きたいが、アンカラから数時間の車の旅になるらしい。


イスタンブール

2017-03-19 15:26:42 | 

イスタンブールは文化も宗教も街を歩く人々も食べ物でさえ、いずれも混然一体だった。壮大なモスクとかつてのキリスト教会が並び立ち、その教会であるアヤソフィア大聖堂(Hagia Sophia)では天井画の聖母子と大きなアラビア文字のパネルが同じ空間にあった。考古学博物館を歴史と地理があいまいなまま歩くと、最も古いメソポタミアもナイルも、続くペルシャもギリシャもローマも、最新のオスマントルコの遺物もただ雑然と並べられているように見えてしまう。そもそもシュリーマンも勘違いしてトロイの遺跡を発掘していたくらいだ。現在、トロイ遺跡では紀元前3000年から紀元後ローマ時代まで9層が確認され、トロイ戦争時代は下から7層目の紀元前1200年頃とされている。シュリーマンはトロイ戦争時代の層を破壊しながら紀元前2000年頃の第2層を掘っていたのである。

仕事の合間に旧市街の定番観光地を駆け足でまわった。

左上:スルタンアフメトモスク(17世紀オスマントルコ帝国) 右上:アヤソフィア大聖堂(4世紀東ローマ帝国)

左上:アヤソフィア大聖堂ドーム 右上:ヴァレンス水道橋(4世紀東ローマ帝国)

左上:金角湾と対岸のガラタ塔(14世紀) 右上:考古学博物館近くを走るトラム(現代)

左上:地下貯水池(5世紀?東ローマ帝国) 右上:同 柱台座のメドゥーサの首

 左上:古代都市ラガシュの王グデアと胴体の楔形文字(BC2100年古代メソポタミア) 右上:バビロンのイシュタル門レリーフ(BC6世紀ペルシャ帝国)

左上:ヘレニズム彫刻(BC3~2世紀) 右上:コンスタンチノープル陥落のとき金角湾入口に敷設された鎖(1453年オスマントルコ帝国)

 左下の写真グランドバザールの入り口ではテロを警戒してか手荷物の検査をしていた。トルコ菓子店に居合わせたヒジャブを被った女性客が店員と英語でしゃべっていたので、なぜトルコ語をしゃべらないのか不思議に思い尋ねたところ、彼女はアラブ人で、同じイスラムでもアラブ系とトルコ系では言葉が違うという話だった。ネット情報では9割近くがトルコ系で、少数派としてアラブ人、クルド人、ギリシャ人、アルメニア人他が共存しているという。それにしても英語を共通語として使っていることは驚きだった。イスラム教徒が大半だが、街を歩く女性の多くはヒジャブを付けてない。

 喫煙していた学生時代、イスタンブールで売っているという海泡石のパイプ(右下写真)をいつか使ってみたいと思っていた。真っ白な見事な浮彫のパイプが年月を経て琥珀色に変色することにあこがれた。20代後半に喫煙を止めたので、いつのまにか海泡石パイプのことはすっかり忘れていた。最下段写真は、餃子のようなパスタにクリームソースをかけひき肉をまぶした地元でマントゥと呼ぶ料理である。名前は中国風(饅頭マントウ)で餃子のようでもありイタリアのパスタのようでもあり東西折衷である。味は少し物足りない程度にあっさりしている。

左上:グランドバザール入口 右上:海泡石のパイプ

マントゥ

昨日シンガポールに戻り睡眠不足の中、整理しきれず、イスタンブールの街同様、混然としたまま一報をUpしておく。


タシケント

2016-08-09 23:00:35 | 

ウズベキスタンの日中の気温は、35℃ほどになり大変暑いのだけれど、日本の夏やシンガポールよりも過ごしやすいような気がする。それは湿気がなく乾燥していることだけでなく緑が豊かできれいだからだと思う。オアシスとはまさにこのような土地のことを言うのだろう。中央アジアの旅の余韻が抜けず手元にあるシルクロード関係の本を読み漁っている。

シルクロードやインド関係の本を読むとかならず7世紀に玄奘三蔵が歩いた場所に出会う。そんなとき『大唐西域記』を紐解くのである。玄奘三蔵の『大唐西域記』は、大書店のPC検索でも古本屋でも見つからなかったので結局アマゾンで平凡社の中国古典文学大系22の分厚い古本を購入した。本の状態を心配したが新品同様で水谷真正成による訳本は、脚注、写真、地図、参考文献が豊富で単なる訳ではなく大唐西域記の研究書になっている。

今回行ったウズベキスタンの首都タシケントにも玄奘は立ち寄っていて、赭時国(石国)の巻として国の様子を記録している。

赭時国(タシケント)は周囲千余里で、西は葉河に臨んでいる。東西は狭く、南北が長い。産物・気候は笯赤建国(スージカンド=タシケントの東200余里)と同じである。城や邑は数十あるが、それぞれ主君を別にいただいている。全体の君主もなく、突厥に隷属している。これより東南のかた千余里で怖捍国(怖は本当は”りっしんべん”に市=フェルガナ=大宛国)に至る。

産物・気候が同じだとする笯赤建国は、”土地は肥え農業を十分に営み、草木は繁茂し、華や果は非常によくできる。葡萄が多く、これも貴ばれている。”とあり、脚注には”隋書石国伝は粟、麦、良馬を産する”と書かれている。今のタシケントにはチルチク川という川が流れていて、玄奘の言うタシケントが今と同じ場所にあったとすると葉河とはチルチク川ということになる。

タシケントの川

井上靖『遺跡の旅・シルクロード』によると、タシケントはウズベキ語で石の町という意味だという。玄奘が石国と記録したことに符合するので昔から石の国と呼ばれていたことがわかる。昔は石の城壁で囲まれていたらしいが井上靖の訪れたとき城壁はなかった。井上靖はよほどタシケントが気に入ったようで、以下のように絶賛している。

町はこれが中央アジアの町であるかと思うほど、明るく整然と造られた近代的大都市である。いつまでも昏(く)れない夜の町の感じは全く南方的で、出歩いている人の多いところはアテネなみであり、開放的な感じはハワイのようでもあり、広州のようでもある。私たちはホテルで久しぶりでうまい夕食を摂った。大きなどんぶりにはいったスープもうまいし、野菜もソ連へはいってから初めてありついた野菜らしい野菜であった。食後の苺(いちご)の味もいい。私たちはこの散歩でタシケントの町が街路樹で埋まっていることを知った。ちょっとした広場には必ず噴水が造られてあり、花壇が配されてあった。

井上靖が泊まり周辺を散歩したというタシケントホテルは、今回私の泊まったホテルやチムール像からは少し離れているが、50年前に井上靖の見た町の良さは今も変わっていないと感じた。もしかしたら、”土地は肥え農業を十分に営み、草木は繁茂し、華や果は非常によくできる。葡萄が多く、これも貴ばれている。”という7世紀の玄奘が見た町の様子とも変わっていないのではないだろうか。

下は地方都市で昼食を摂ったチャイハナと呼ばれるレストランで、井上靖によると”チャイはお茶、ハナは家の意味で、文字通りお茶を飲む休憩所である。京都の鴨川の床の如きものが木で組まれてあり、絨毯が敷き詰めてあって、その上に細長い座布団様のものが敷かれ、老人たちがそこに上がり込んで茶を飲んでいる。紅茶と緑茶が出た。緑茶は日本の緑茶とまったく同じである。サムサという肉饅頭も出る。”と解説してくれる。私もお茶とサムサを食べたがこれが大変美味なのである。チャイハナの天井は葦簀になっていて冷たい蒸気を出している。座敷に上って昼食をとり、お茶を飲みサムサを食べると、心地よくてそのまま居座り(居眠りをして?)午後の仕事などどうでもよくなる。

井上靖がタシケントに行ったのは昭和40年(1965年)58歳の時だった。それが最初の西域旅行で、その後、井上靖は昭和55年の73歳まで毎年のように西域を訪れる(『遺跡の旅・シルクロード』の巻末情報なので、この本以降も訪れている可能性が高い)。すごい執念である。私は西域を再訪できるだろうか。

今日8月9日は、シンガポールの51回目の建国記念日で休日である。ウズベキスタンの旅で溜まった仕事を片付けながら、リオオリンピックの録画放送を横目で見て日本選手の活躍を応援した。大会4日目で萩野400mメドレー、大野将平の柔道、体操団体の金3つである。 体操団体は予選の出だしが悪かったし、銅メダルをとった重量挙げの三宅宏実は腰痛ではらはらしたが、重圧を跳ね返した勇気と精神力に感動した。しばらくは応援に熱が入る。


チムール

2016-08-06 21:47:31 | 

  

アミール・チムールは14世紀サマルカンドを中心に大帝国を築いたウズベキスタンの英雄で、首都タシケントの中心に大きな銅像(上の写真)があり、お札(100スム=約3円)にも像や博物館が描かれている。チムールについては、長澤和俊『シルクロード』や植村清二『アジアの帝王たち』であらましを読んでいた。50年前に中央アジアを旅した井上靖も『遺跡の旅・シルクロード』でサマルカンドを訪れチムールの生涯を描いている。以下それらを参考にチムールの生涯と業績をまとめた。

チムールは1336年にサマルカンドの南の街ケシュで生まれた。チムールの墓石にはチンギス・カンの曾祖父の兄を祖とすると記されているが、一般にはトルコ系の一支族出身と考えられている。14世紀のアジアはチンギス・ハンの末裔たちによって分割統治された汗国が衰亡分裂し、サマルカンド周辺は西チャガタイ汗国として隣の東チャガタイ汗国から絶えず圧迫を受けていた。チムールは東チャガタイ汗国との戦闘で頭角を現し、1360年頃故郷の太守になり、1369年には西チャガタイ汗国を手中に収める。そのころ激しい戦闘で右腕と右脚を負傷し生涯、跛行することになる。黒田官兵衛と同じだ。1380年に東西チャガタイ汗国を統合し中央アジアの覇者となる。その後も戦いに明け暮れ、西はトルコの小アジアに攻め入りオスマン・トルコと戦いサルタンのバヤーズィード1世を捕虜にする。そのとき十字軍以来スミルナ(イズミット)にいたロードス島騎士団を駆逐している。南はインドのデリーを征服しトゥグルク朝を滅ぼし、北は南ロシアに攻め入る。チムールはイタリアのジェノア共和国、フランス、イギリス、カスチリア(後のイスパニア)に使節を送り、返礼の使節がサマルカンドを訪れている。1404年には中国の明朝征服の旅に上ったが、その途上病を得1405年死去する。明の鄭和の第1回航海は1405年なので、もしチムールが死なずに明と戦争を始め大戦争になっていれば鄭和の航海はなかったかもしれない。

チムールは、イスラム教を信奉しサマルカンドにモスク、王宮、学校、廟を建設し、各地から集めた工匠たちは、絨毯、刺繍、金銀細工、絵画、製紙、ガラス器、陶器、武具などの工芸を発展させた。チムールは都市、道路、バザール、隊商宿を整備し、学者や芸術家を集め、サマルカンドはシルクロードの一大中心地となった。また、トルコ語による文学も発展した。

チムールの死後、チムール帝国は100年あまり存続し、16世紀初頭に滅亡する。

上のチムール遠征概略図は長澤和俊『シルクロード』P373より

チムールはサマルカンドなどの都市の建設者であったと同時に、征服した都市で大虐殺を行っているので、「チムールは大征服者であるとともに、大殺戮者でもあった」(植村清二)や「チムールは中央アジアの遊牧文化とオアシス文化を融合させた」(間野英二)という評価である。

「チムールの姿を描いた肖像画は幾つかあるが、チムール朝時代の古いミニアチュールに描かれた肖像が、彼の壮年期の風貌を伝えるものとされている。日本の武士の甲冑に似た武具に身を固め、まる顔の両頬は黒い髯で覆われており、眼は小さく鋭い。」(井上靖) この井上靖が描写する壮年期のチムールとはおそらく左下の写真(Wiki)のことだろう。モンゴル系の顔をしている。晩年のチムールと対面したアラブシャーは、「背が高く肩幅が広い。大きな頭と濃い眉、あごひげを生やしていた。長い手足を持っていたが、右脚は不自由だった。目は蝋燭のようではあるが、光は無かった」と描写した。カスティリアからの使節クラビフォは晩年のチムールに謁見し、老いたチムールは視力が衰え上瞼が垂れ下がっていたという記録を残している。中下写真はタシケントのチムール像の顔部分で、髭が両頬を覆っているのは同じだが、よりコーカソイド系の風貌をしている。1941年ソ連の調査隊がチムール廟でチムールの遺体を調べ、モンゴロイドをベースにコーカソイドの特徴がいくらか加わった容姿(右下写真Wiki)と分析した。死後500年以上経つのに、特徴がつかめるほどの状態でよく遺体が残っていたものだ。

 

タシケントのチムール像近くのアミール・チムール博物館の外国人入場料は5000スムだった。ホテルで換金できず所持金は2000スムしかなかったので、ローカルの入場料が2000スムという料金表を指さし”これでだめでしょうか”と切符売り場の女性に頼み込んだが、やっぱりだめだった。心残りだが仕方がない。


ウズベキスタン

2016-07-29 23:27:02 | 

 あこがれの西域へ行った。正確にはタシケントのホテルでブログアップしたので、”来ている”である。ウズベキスタンの首都タシケントと地方都市を仕事で駆け抜けただけで、有名なサマルカンドやブハラには行けなかったが、シルクロードの空気を一瞬吸うことができて満足している。サマルカンドの北西にある地方都市に向かいプロペラ機に乗ってタシケントを発つとすぐ眼下には草木一本生えていない荒涼とした岩山が続いた。ところどころ谷沿いに緑のベルトがみえ人の住む気配があった。往古、キャラバンはシルクをラクダに積んでこの緑地に立ち寄りながら東から西へ、アラブの産物を抱えて西から東へ移動したのだろう。張騫の頃、このあたりは大宛(フェルガナ)、康居(ソグディアナ)と呼ばれていた。玄奘三蔵も通った道だ。目的地に着くころには、砂漠と緑がせめぎ合う最前線が観られた。中国などは砂漠化が著しいという話を聞いていたが、タシケントもこの地方都市も緑が豊かで、砂漠を支配するかのように街路樹や下草の手入れが行き届いていた。

左下:荒涼とした山岳地帯 右下:砂漠と緑の最前線

 

左下:タシケントの緑に囲まれたチムール博物館 右下:チムール像近くのスプリンクラーによる手入れ

チムールは14世紀の英雄である。

 ウズベキスタンは果物や野菜が豊富で、街のバザーで山のように売られていた。バザーに並んでいる果物は、スイカ、プラム、ブドウ、リンゴ、メロンなどで、穀物は、数種の米、小麦と豆類だ。レストランのメニューには何十種類ものサラダメニューがある。サラダを添えて、ラムやポークやビーフのシシカバブを食べるのだ。

左下:バザーに並ぶ果物 右下:バザーの穀物

下:炭火の窯で焼くサモサ

 食事はいずれも美味で口に合った。サモサはインドのサモサに比べ大きく中のひき肉にカレー味はついていない。ナンはインドのナンに比べ厚くやや硬めだが肉料理やサラダによくマッチした。シシカバブは塩コショウを使った薄味でラムとポーク肉本来の味を堪能した。ピラフはややオイリーだったが味は抜群だった。炒めたオニオンに植物油やにんにくを入れ米を入れ、肉を入れて炒めるという。減量中ということをすっかり忘れた旅になった。

左下:インドのナンよりも肉厚のナン 中下:ラム肉のシシカバブ 右下:ピラフ(プロフ)

ブログはタシケントのホテルから帰国便を待つ間にアップした。 


ソウル

2015-11-08 11:12:29 | 

USAバトンルージュから帰国してすぐソウルへ行った。ソウルは一昨年6月にウラジウォストクへの途中、トランジットで金浦空港近くのホテルに一泊し翌日すぐに仁川空港から発ったので、街には出なかった。初めてのソウルはバトンルージュと異なり感覚的に親近感を持てた。

上の写真はハングルの祖、世宗大王像、右奥の豪華な2層の建物は光化門、その左奥山麓にかすかに見える建物が大統領府である。写真の中の黄色いベストを着た人は警察官である。日中韓首脳会議が開催されていたので街には多くの警察官がいたが特に不便はなかった。大統領府が見たくて門前をタクシーで通った(下の写真)が意外にも検問をあっさり通してくれた。壁際の植え込みを地雷検知器のようなもので探査している係官を見る程度だった。

光化門は李氏朝鮮(1392~1910)の太祖李成桂が1394年に遷都して建てた王宮を守る正門である。秀吉の文禄の役(1592年)の時に焼失したことを含め何度も火災に会い、2010年に今の位置に移動復元公開されたという。写真銅像の世宗(1397-1450)は李氏朝鮮5代目でハングルを制定した。この銅像の前方に秀吉の文禄慶長の役で活躍し戦死した李舜臣の剣を手にした立像(下の写真)がある。この二人は韓国の国民的英雄だという。有名な南大門や漢江は車の中から走り観光した。

左:大統領府、右:南大門

左:李舜臣 中:南大門市場 右:初日夜の肉

ソウルでは3泊し写真のような焼肉を連日食べたが、さすがに最終日は食傷し、昼食はベトナムのフォー夕食はイタリアンとした。下の写真は左から牛肉たっぷりのプルコギ、骨付きカルビー、冷麺である。このプルコギは煮汁の豊富なすき焼きのような調理で牛肉がたっぷり入っていた。骨付きカルビーはレタスに巻いて玉ねぎスライスが入った薄味のたれで食べた。冷麺は日本でみる冷麺よりも細いが味が浸みて美味しかった。冷麺の左の小椀に入ったのは辛いチゲ、右は白いキムチである。いずれも美味であった。キムチはフォーに合うのでベトナム料理屋でも出てきたが、さすがにイタリアンにはなかった。

中:初日昼の肉 中:二日目夜の肉 右:二日目夜の冷麺

ソウルの街は銀杏の紅葉がきれいで清々しかった。嫌韓とか反日とか憎悪は何も生まない。高校時代の友人は大学に入ってから自分が在日であることを名乗った。高校時代、自分にパスポートが出ず日本人でないことがわかり何も手につかず夜あてもなく彷徨ったこともあったという。クラスも部活もいっしょで最も親しかったはずの自分は、愚かにも彼の悩みにまったく気づかなかった。彼の弟はその後ソウル留学中にスパイの嫌疑を受け刑務所に入り出所後帰国し、うつになり自殺している。庶民はいつも政治や歴史に翻弄されるだけなのだろうか。数年前40年ぶりに会った彼が元気に前向きに生きていたことが救いだった。

11月4日ソウルから東京に戻り、5日にはシンガポールに戻った。ソウルの夜は摂氏4℃と寒かったが、シンガポールでは相変わらずT-シャツ短パンで汗をかきながら、このブログを書いている。


バトンルージュ

2015-11-01 23:38:34 | 

昨日はハロウィーンだった。23年前のハロウィーンに留学生の服部君が射殺された街がルイジアナ州のバトンルージュである。先週そのバトンルージュへ行った。家々の玄関には直径1mもあろうかという大きなかぼちゃが並べられていた。車でさっと通りすぎたので写真を撮り損なった。

下の写真は、ミシシッピー川に架かる橋から走行中に撮った。トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンが冒険をしたミシシッピー川の川幅は思ったほどではなかった。川の狭隘部に橋を架けたのだと思う。写真中央で遠くにそびえる尖塔が州庁舎(Louisiana State Capital)で、バトンルージュはルイジアナ州の州都である。ここからミシシッピー川を120㎞ほど下ったところにあるニューオーリンズの方が有名で人口も多い。バトンルージュ23万人で、ニューオーリンズ36万人である。バトンルージュ(Baton Rouge)は「赤い杖」を意味するフランス語で、有名なムーランルージュ(Moulin Rouge)は「赤い風車」である。1699年からフランスの植民地として発展し、1803年にアメリカ合衆国がフランスより買いとった。

下の写真は10月28日(火)の明け方5時半に宿舎のテレビでみた天気予報である。赤線を引いたところがバトンルージュで、火曜日朝5時半の気温は69℉(21℃)である。右下の湖畔にある71がニューオーリンズである。画面の「DRIZZLE COULD CAUSE A FEW EARLY DRIVING」の意味がよくわからない。”霧雨が所々で早めに降るだろう”的な意味なのだろうか。バトンルージュに着いた10月25日(日)から3日間はDizzleだった。滞在最終日29日にやっと晴れた。こんなに早い時間にテレビを見ていたのは時差ボケの所為ではなく、仕事開始が6時半だったからである。この早い始業時間は自分たちだけではなく、街全体がそうで、仕事場への道路はライトをつけた車で混雑していた。そのかわり終業時間は16時ごろと早い。当方は暗いうちから仕事場に入り、暗くなってから宿舎に帰ったので、ここに載せられる街の写真は上の1枚だけである。

テレビではロイヤルズとメッツのMLBワールドシリーズを連日放映していた。アメリカンフットボールも連日放映され、人気の高さがうかがえた。バトンルージュへはダラス経由で入った。成田ダラス間は約14時間の飛行で、ダラスから南東に約600㎞のバトンルージュへは国内線でさらに2時間の飛行が必要だった。隣のテキサス州ヒューストンは西に約400㎞のところに位置する。車で5時間ほどだという。

ダラス経由の帰路、アメリカン航空はベーリング海上空を飛んだ。以前、日本軍がアリューシャン列島の何もないアッツ島やキスカ島になぜ執着したか疑問だと書いたが、これらの島はアメリカを攻める経由地だったのだ。

このブログはソウルのホテルからupした。バトンルージュから一昨日帰国し、時差ボケが残る中、夜半1時から始まったRWCニュージーランド対オーストラリアの決勝戦を観戦したのち、2時間ほど仮眠し羽田からソウルへ飛んだ。攻撃のスピードで圧倒したニュージーランドが34-17で優勝した。センターNonuの高速ステップとトライは圧巻だった。


ホワイトホース

2015-02-22 22:27:26 | 

カナダのホワイトホースは、バンクーバーから飛行機で北に2時間半ほど直線距離で1500㎞弱、アラスカ国境まで200㎞、、ユーコン川のほとりの小さな街である。シンガポールの中国正月休暇を利用してオーロラ観光に行ったのだが残念ながら予定の2晩でオーロラは観られなかった。空港は雪に覆われ、空港に到着した現地時間2月12日午後3時ころの気温は0℃を少し下回っていた。空港からホテルに向かう出迎えのシャトルの運転手は、このところ温かいので「Swimming trunksを持ってきたかい」とジョークを飛ばした。例年2月の日中の平均気温は零下ー10℃ほどらしいから、0℃は相当温かいということだ。こっちは30℃強の赤道直下シンガポールから来ているので気温差は30℃以上である。ホワイトホースは北緯60度43分でこれが自分の最北到達地点記録になる。白夜の北極圏は66度33分からなので、真北に向かってまだ650㎞ほど行かなければならない。 バンクーバーは北緯49度である。自分の最南到達地点は南緯37度50分のオーストラリアのメルボルンで、1985年4月に妻が3歳直前の長女の手を引き、1歳直前の二女は私が背負って行った。スーツケースの中は紙おむつと粉ミルクで占拠された。

オーロラツアーでは送迎バスが夜10時前にホテルに迎えに来て、そこから約30分の森に囲まれた原野に連れていかれた。そこには小さなキャビン(上の写真)があり、温かい飲み物やスナックが用意されていた。零下ー10℃の戸外でカメラを三脚にセットし北空を眺めながら、夜中の1時半ごろまでオーロラが出るのをじっと待った。その日、ネット情報のオーロラ強度指数は最小の0から最大9の10段階で中位の3だったのでそこそこ期待していたが、一晩目は雲に閉ざされ、二晩目は晴れたがオーロラは現れなかった。それでも、都会暮らしが長いため忘れかけていた満天の星空を観ることができた。緯度が高く、ほぼ真上にくる北極星、北斗七星とカシオペア座を、小学校で習った北極星の見つけ方を思い出しながら眺めた。

日中はホワイトホースのダウンタウンを散策した。上の写真は、ホテル、レストラン、カフェ、様々なショップや銀行や役所が並んでいる小さな小さなメインストリートである。酒場や銀行やホテルや雑貨屋が一列に並んでいる西部劇に出てくる小さな西部のメインストリートを思い出した。馬が車に変わっただけだ。メインストリートに犬を連れシャベルを持った金鉱堀りの像が建つように、ホワイトホースは19世紀のゴールドラッシュのころに交易の中継地として発展した。現在の町の人口は2万人余りである。実際に金鉱があったのはホワイトホースよりさらに北に行ったアラスカとの国境に近いドーソンという街である。

街角で地図を広げていると通りかかったOld Ladyに、「May I Help you?」と声を掛けられた。昼ご飯を食べるレストランを捜していると答えたところ、それなら目の前の通りを渡ったところにある”Gold Rush"が「The Best Restaurant in this town」だと薦めるので行ってみた。妻はベーコンサンドウィッチにピクルスのスープを私はBeef Dipとサラダを注文した。ピクルスのスープ以外は美味しくボリュームたっぷりでお腹がいっぱいになった。 

昼食後、粉雪が舞う中、町はずれまで10分ほど歩きユーコン河畔を散策した。川は凍っているかと思ったがゆっくりと流れていた。時折、流れの中を氷が浮き沈みするのが見えた。ユーコン川は北西に流れアラスカを横断し、ベーリング海峡にそそぐ大河で、星野道夫のエッセイによく出てくる。

旅の拠点としたバンクーバーは桜が満開だった。不思議なことに日本とは逆にもくれんがまだつぼみだった。オーロラは残念だったが、バンクーバーには来年も娘家族がいるので、孫に会うついでの再挑戦ということにする。


インド・デリー

2014-09-14 14:34:21 | 

ブッダに興味を持ってからずっと気になっているインドに先週行った。たまたま仕事が入ったためで、デリーの雑然とした街並みとそこに住む人の多さに圧倒された。それでも郊外は田んぼ、サトウキビ畑、とうもろこし畑や果樹園が延々と続き、写真で見たブッダの世界が実感できた。

残念ながらデリー周辺には仏跡やアショカ王の遺跡はなかったので、仕事の合間に誘われるまま世界遺産だというクトゥブ・ミナール(Qutb Minar)とフマユン廟(Humayun Tomb)を見に行った。いずれもイスラム教の遺跡で、イスラム遺跡はデリー周辺に集中している。予備知識がまったくない状況で遺跡を見て回ったが、Qutb Minarの塔は巨大で圧倒的だった。高さ72.5m、基部直径14.3mの巨大な塔は赤い砂岩でできていた。建設工事は1192年にスルタンのQutb-ud-din Aibakによって開始され、後継者が引き継ぎ、完成したのは1368年である。日本では、鎌倉幕府が始まり、滅び、室町幕府が起こり、足利義満が3代目の征夷大将軍になるまでの期間である。この塔を建てた王朝は奴隷王朝(Slave Dinasty)あるいはマムルーク・イスラム王朝と呼ばれ、デリー周辺、北インドを支配するイスラム王朝である。

 Qutb Minarと鉄柱

 

左:絵やコーランで装飾されたQutb Minar塔の表面 右:敷地内にある建設途中で放棄されたAlai Minar

写真右のAlai Minarは、14世紀初頭のサルタンがQutb Minarの2倍の高さになるように計画し建設を始めたが、サルタンの死によって建設は中止された。Alai Minarの基部の直径はQutb Minarの倍ほどもある。Alai Minarは石積みのQutb Minarとは異なり、石の間を煉瓦のもとになる粘土で埋める練り石積みのように見えた。Qutb Minarは砂岩が十分な強度を持つので高さ72.5mでも十分屹立すると想像できるが、Alai Minarが見たままの練り石積みだとしたら、強度が足りずQutb Minarの2倍の高さ(140m)に耐えることなど到底無理だと思う。何か練り石積みの強度を増す秘密があったのかもしれないが。 

最上写真Qutb Minar塔の手前に見える細い塔は鉄柱で、日本語Wikiでは”アショカ王の柱のひとつ”と断定しているが、英語版Wikiにはそんなことは一言も書いていない。英語版Wikiでは、400年ごろグプタ王朝のチャンドラグプタ2世が建てた塔で、奴隷王朝による周辺地域の征服を記念し他の場所にあったものをここに移したとする。高さは約7mで表面に何やら文字が彫ってあった。1600年以上を経た鉄が雨風にさらされながらも腐食が進んでいないので、オーパーツとされる。

下は、別の世界遺産フマユン廟(Humayun Tomb)で、16~18世紀のムガール帝国2代目皇帝Humayunのお墓であり、赤い砂岩と大理石でできている。この廟は後代に建設されたタージマハールに影響を与えたとされ、屋根のドームなどが修復されればより壮麗になると想像できる。クトゥブ・ミナールもフマユン廟も入場料は同じで外国人は250ルピー(500円弱)だったが、地元民はわずかに10ルピー(20円弱)だった。遺跡には大勢の子供たちが訪れていたので外国人と地元民を区別する価格設定に疑問を持たなかった。

今回のインド訪問で、クシナガラやブッダガヤなどの仏跡に行きたいという気持ちがさらに高まった。

 


NASA

2014-08-02 12:47:19 | 

テキサス・ヒューストンには、NASAのジョンソン宇宙センターがある。先月のヒューストンの旅でNASAに行ったわけではないが、道中の暇つぶしに、佐藤靖著『NASA-宇宙開発の60年』中公新書を読んだ。アメリカの宇宙開発の歴史を知るには最適な書だった。ニュースで知る華やかな宇宙開発の舞台裏が、膨大な現地資料をもとに書かれている。中で最も興味を引いたのは、システム工学を基本とした開発の推進とマネージメント論および組織論だった。

NASAの歴史概観

  • (1932年フォン・ブラウンのミサイル開発)
  • (1952年フォン・ブラウンの宇宙ステーション案)
  • (1957年ソ連人工衛星スプートニク打ち上げ成功)
  • 1958年NASA発足
  • 1958年有人地球周回飛行のマーキュリー計画開始
  • 1959年無人月着陸レンジャー・サーヴェイヤー計画と金星・火星接近のマリナー計画開始(JPL:ジェット推進研究所)
  • (1961年ガガーリンの有人宇宙飛行)
  • 1961年船外活動やドッキング技術のジェミニ計画の開始
  • 1961年有人月面着陸をめざすアポロ計画の開始
  • (1968年スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』)
  • 1969年アポロ8号の月面着陸
  • 1970年アポロ13号事故
  • 1972年アポロ計画終了
  • 1972年人工衛星ランドサット
  • 1972年火星・木星探査機パイオニア10号発射(JPL)
  • 1972年スペースシャトル計画開始
  • 1973年木星・土星探査機パイオニア11号発射(JPL)
  • 1973年スペースラボ計画開始
  • 1975年火星探査機ヴァイキング1・2号発射
  • 1977年天王星・海王星探査機ヴォイジャー1・2号発射(JPL)
  • 1981年スペースシャトル初飛行
  • (1983年SDI戦略防衛構想)
  • 1985年国際宇宙ステーションISS計画開始、日本は1988年より参加
  • 1986年チャレンジャー号事故、打ち上げ後まもなく空中分解し7名が犠牲になる
  • 1989年金星探査機マゼラン発射
  • 1989年木星探査機ガリレオ発射
  • 1990年ハッブル宇宙望遠鏡設置と不具合の発覚、1993年修理成功
  • 1993年ISS計画にロシア参加
  • 1997年土星探査機カッシーニ発射
  • 1998年火星探査の推進
  • 2003年コロンビア号事故、地球帰還で大気圏突入後空中分解し7名が犠牲になる
  • 2006年冥王星探査機ニュー・ホライズンズ発射、15年接近予定
  • 2009年ケプラー宇宙望遠鏡
  • 2011年ISSの建設完了とスペースシャトル終幕
  • 2011年木星探査機ジュノー発射、16年接近予定

フォン・ブラウン

1912年ドイツ生まれ。1932年よりドイツ陸軍の支援でロケットの研究開発開始。V-2ミサイルの開発。ドイツ降伏直前、フォン・ブラウン率いる技術者127名は米軍に投降し、戦後は米国陸軍でミサイル開発を続ける。1950年より弾道ミサイル「レッドストーン」の開発。1956年陸軍弾道ミサイル局開発事業部長に就任し、IRBM「ジュピター」を開発する。1958年人工衛星エクスプローラー1号打ち上げに成功する。1960年NASAマーシャル宇宙飛行センターの初代所長となる。

システム工学

NASAはワシントンの本部を含め全米に11か所のセンターがあり、それぞれ独自の開発目標を持ち独立して運営され、また、ある部分では技術的に密接に補完しあっていた。そのため、月面着陸を目指すアポロ計画のような多くの技術を統合して推進しなければならない巨大プロジェクトでは、統合的に管理しなければ、その実現は難しいと判断された。燃料ロケット、月着陸船、司令船など各部位の開発や宇宙飛行士の訓練、管制システムなどの進捗状況をフォローし、各部門間のインターフェースを調整したものがシステム工学である。システム工学は、コストやスケジュール管理も行い、システム管理を担うシステム技術者は、幅広い技術分野の理解と共に、管理能力や調整能力が要求される。アポロ計画の成功はシステム工学が支えたと言われている。

具体的には、開発する技術を文書化し、技術的な問題点を明確化しフォローする。そのため、システム工学は管理の集中化と簡易化、すなわち官僚化が必然である。ところが、宇宙飛行管制は、飛行時に突発的に発生する事象に対して管制官の経験による判断と実践が重要なのは明白であり、事前に準備されたシステム工学的シナリオによる判断では対応できないのは明白だったため、システム工学的な管理手法と実践経験的な手法の両方を取り入れた管理が必要だった。

ソ連との宇宙開発競争での度重なる方針転換や、アポロ計画からスペースシャトルへの転換、チャレンジャー号の事故処理などのNASAの歴史は、システム工学では対処できない修正と決断の連続であった。我々の日常業務でも技術の専門化と細分化が進んでいるため、プロジェクトすべてのシナリオを文書化することは不可能である。せいぜい各項目で基本的なスケジュール管理表を作成しそれに沿って仕事を進める。プロジェクト推進中には、対外的あるいは内部の突発的な問題によって必ず当初の想定とは異なる事態に遭遇し、絶えず修正が加えられる。プロジェクトの成否は、結局、修正判断を下す指導的立場の個人の分析能力、修正能力や決断力に依存している。

昨今のNASAは、官僚的な集中型・集権型から、分散型・分権型のシステムに変貌している。科学技術は高度に複雑化し、政治的・経済的な外部環境の変化は大きく、統一的管理よりも各開発センターの創造性や独立性を重視したモジュール開発がリスクを分散させる上で有利だということである。

ヒューストンの空港でアイスクリームの宇宙食を買った。乾燥しパサパサでとてもアイスクリームとは思えない代物だった。


テキサス

2014-07-21 15:56:45 | 

西部劇の世界でしか縁のなかったテキサスへ行った。成田からヒューストンまで直行12時間の旅である。シンガポール~東京を含めると片道18時間半、往復37時間である。これを2週間の間に2度やったので、74時間飛行機に乗っていた。時差ボケはひどかったがおかげで映画は10本以上観た。ヒューストンの空港は、当地出身のジョージ・ブッシュ国際空港と名付けられていた。ヒューストンにあるNASAも大統領の名がつけられたジョンソン宇宙センターである。

空港と仕事場とホテルの近辺しか行かなかったので、ホテルからと車の中とレストランで撮った下の写真でテキサス気分が出るだろうか。

ヒューストン中心街から西のWest Sideにビルは少なくホテルや一部のオフィスビルだけで、ほとんどは平屋のゆったりとした街だった。ホテルから撮った写真のように地平線まで四方に山はなく、テキサスは西部劇に出てくるような砂漠とサボテンばかりと思っていたところ、森が限りなく広がっていた。住居は映画に出てくるような大きな1戸建てばかりで芝生はきれいに手入れされている。たぶん一家の長が休日に芝を刈っているのだと思う。街を車で走っても道を歩いている人はまったく見かけず、歩く人を見たのは駐車場で車を降りて店に入るときだけだった。車がないと何もできないことを反映し駐車場がやたらと広い。シンガポールで慣れているオーストラリアビーフもそれなりにおいしいが、テキサスビーフもボリュームだけでなくうまい。焼き方と味付けが絶妙なのだと思う。テキサス訪問時はちょうどMLBのAll Star Gameの日で、レストランの大型スクリーンでダル・ビッシュと上原が投げるところを観た。ダルビッシュのテキサス・レンジャーズはダラスが本拠地で、ヒューストンはアストロズである。陶器製置物のカーボーイブーツはで空港で買ったがよく見るとMade in Chinaだった。

今、日本で時差ボケ修正中である。


中東

2014-06-01 18:36:40 | 

日本は猛暑日が続いているが、先週シンガポールからカタールのドーハ経由で行ったアブダビの日中気温は45℃まで上がった。サウナ並を想像していたが、やや風があったので日中最高気温が35℃のシンガポールよりも少し暑い程度だと感じた。シンガポールの湿度が90%でアブダビは60%程度の所為かもしれない。それでも夕方50mほど外を歩いただけでもすぐ全身が汗びっしょりになったので、やはりシンガポールより暑い。アブダビではタクシーとバスを利用し、街ではショッピングモールやレストランに立ち寄ったがすべて英語が通じた。19世紀からイギリスの保護国だったからだろう。イギリスの保護下から離れたのは1971年で、独立してまだ40年と少しである。バスには出稼ぎだと思わしきフィリピン人やインド人が大勢乗っていた。バスの前方半分はLady Onlyと記された女性専用部で、後方の男性の座る場所と区分されていた。イスラムの戒律によるのだろうか。しかしマレーシアでよく見る黒ずくめのベール(ヒジャブ)で顔と体をすっぽり隠し眼だけを出した女性は空港以外ではまったく見かけなかった。テロ対策としてUAEではヒジャブの着用が禁止されているのだという。現地の男はアラビアのロレンスに出てくるような、ゆったりとした白い衣装をすっぽり身にまとい頭にはヘッドスカーフをかぶっていたが、多くは見かけなかった。現地の人は裕福で街を出歩くようなことはしないのか、現地人の人口より外国人労働者人口が多い所為かもしれない。

中東の国々についてはその位置や首都などの知識があいまいだったので今回の訪問に合わせて少し勉強した。アラブ首長国連邦United Arab Emirates(UAE)はアブダビ、ドバイ、フライジャなど7つの首長国から構成される。アブダビはUAEの首都で、ドバイは隣の首長国になる。エミレーツ航空のEmiratesは首長国の意味である。Emirates航空に乗りたかったのだが、シンガポールからはドバイにしか行かないため、ドーハ経由アブダビ行のカタール航空を使った。

下の地図にあるようにカタールやバーレーンは近隣の別の国である。サッカー日本代表の”ドーハの悲劇”の舞台となったドーハはカタールの首都である。アブダビの暑さを直に体験した後では、ここでサッカーをするのは狂気の沙汰だと思った。選手は称賛に値する。ブラジルの次のワールドカップを本気でカタールでやるつもりなのか。UAEと同様カタールも石油資源によって極めて裕福な国なので、金にまかせてスタジアムを空調の効いたドームにするなどしなければ、まともな試合は望めないように思う。ワールドカップ誘致のためかドーハ空港ターミナルは新築され大きく立派だった。地域のハブ空港として機能しているらしく夜中にも関わらず大勢の旅行客でごったがえし、中でも中国人観光客をさばく中国人職員が大勢働いているのが目についた。シンガポールからドーハまでは7時間で、現地滞在12時間、機中2泊の老体に鞭うつ強行出張だった。

ドーハやアブダビやドバイでは写真のような大規模リゾート開発が進められていて、外国からの投資を呼び込んでいる。基本的にアブダビもドーハも街のまわりは砂漠なので景色が茶色で、炎熱と無味乾燥の地に長期滞在するのは精神的にも過酷だろうと思ったが、シンガポールも季節がなく暑くて住めないという人がいるにも関わらず当方は長く住んでいるので、結局慣れかもしれない。アブダビには日本料理店もあるという。

中東地図とアブダビ郊外の緑化中の地区

ドーハ上空から撮ったリゾート開発とドーハ空港ターミナル

お土産のペルシャ絨毯(コースター)にのるラクダ

 


バウンティ号の反乱

2013-10-06 17:38:09 | 

 旧知のアメリカ人Dr. Sは最近仕事で南太平洋のピトケアン島(Pitcairn Island)に行った。ピトケアン島はバウンティ号の反乱者が隠れ住んだ島として有名である。1789年、イギリス海軍のバウンティ号で反乱を起こした12人のうち8人がタヒチの島民を連れて当時無人島だったピトケアン島に移り住み自給自足の生活をはじめた。島では反乱者であるイギリス人とタヒチ人の混血の子孫たちが今も住んでいる。Dr. Sは反乱の首謀者フレッチャー・クリスチャンの子孫であるMr. Christianに会い話をしたという。古い英語を話したそうだ。Dr. Sはピトケアン島に防波堤を作る仕事で行ったのだが、反乱について書かれた本にあるとおり、島には船が寄港できるような入江はなく断崖に囲まれていたという。先週、彼は防波堤の材料にすると言って島で採取した玄武岩を持ってシンガポールの事務所を訪ねてきた。ピトケアン島は上の地図にあるように、タヒチから西南に2000㎞、さらに2000㎞のところにモアイ像のイースター島がある。タヒチはニュージーランドから4000㎞、ハワイから4000㎞である。

「バウンティ号の反乱」の話は冒険小説に熱中していた頃、「十五少年漂流記」、「神秘の島」や「白鯨」などと共に読んだ。何度も制作された映画は観ていない。一応、反乱の顛末を簡単に書いておく。

艦長ウィリアム・ブライの指揮するバウンティ号は、1787年12月にイギリスのポーツマスを出港し、喜望峰を回って1788年10月にタヒチに到着した。1789年4月までタヒチに滞在しパンノキなどの植物を採集し西インド諸島に向けて出航した。タヒチを出港してまもなく、トンガ付近で航海士フレッチャー・クリスチャンら12人が反乱を起こした。艦長と忠実な船員18人をボートに乗せて追放し、反乱者12人と他の乗員はタヒチに引き返した。反乱者のうち4人と反乱には加わらなかった乗員8人はタヒチに残ったが、クリスチャンら反乱者8人はタヒチ人の男女18人を連れてバウンティ号に乗りタヒチを離れ、隠れ住むに適したピトケアン島を東南海上に探しあてた。クリスチャンらはバウンティ号を解体し島で自給自足の生活を始めた。

ブライ艦長を乗せたボートは、47日間の漂流ののちティムールに漂着し、ブライ艦長は1790年3月にイギリスに戻り反乱を報告した。イギリス海軍は反乱者逮捕のため戦艦パンドラ号を派遣し、1791年3月にタヒチで反乱者を逮捕する。しかし、周辺海域の探索ではクリスチャンらを探し当てることはできなかった。逮捕された反乱者はイギリスへ送られ裁判の上3人が絞首刑に処せられた。

その後の話として、ピトケアン島では内紛やタヒチ人との確執などにより反乱者はほとんど亡くなり、1808年1月にアメリカ船が島に行ったときには水夫のジョン・アダムズだけが生き残り、クリスチャンの息子ら反乱者の子孫たち40名ほどが生活をしていた。1838年にピトケアン島はイギリス領となり現在まで続いている。ブライ艦長は、後オーストラリア・ニューサウスウェールズの総督になるがそこでも反乱(ラム酒の反乱)が発生する。

ピトケアン島では1832年に来たアメリカ人ジョシュア・ヒルが島を独裁支配した。1879年マーク・トウェインはジョシュア・ヒルを題材にした小説「The Great Revolution in Pitcairn=ピトケアンの大革命」を書いている。19世紀中頃には人口増加を解消するため住民の一部をノーフォーク島(オーストラリア領、オーストラリアの東、ニューカレドニアの南)に移住させている。2004年ピトケアン島での女児に対する性的虐待がイギリスの女性警官により報告され大きな話題になった。

反乱の原因は、反乱者がタヒチでの享楽的な生活に慣れ艦上生活に耐えられなくなったために起こったか、ブライ艦長の部下の扱いが過酷だったかのどちらかが有力である。1879年ジュール・ヴェルヌはバウンティ号を追放されボートでの漂流47日ののちティムールに到着したブライ艦長一行の話を短編「Les révoltés de la Bounty=バウンティ号の反乱」(上の絵はこの小説の挿絵)に書いているが、ブライ艦長は一人の死者も出さずに漂流を指揮したように、指揮官としての能力に疑いはないと言われる。また、部下の扱いも当時の他の士官や艦長と比べ特に過酷だったとか性格に問題があったということもなかったらしい。しかし、何度も制作された映画の多くは、ブライ艦長の部下の扱いに問題があったように描かれているという。


ロシア正教会

2013-06-19 20:37:09 | 

 6月初めに行ったウラジウォストクには街の至る所にロシア正教会が建っていた。ドラクエのスライムのような屋根に十字架を頂く塔を特徴とする。2本がクロスする十字架と異なり、上に水平な短棒と下に傾いた短棒を有する八端十字架である。ウラジウォストクの教会は、モスクワの大聖堂のような派手さや大きさはなく、いずれもシンプルでこじんまりとしているが趣があった。シンガポールや教会の多いフィリピンにも正教会はなく、日本では函館のハリストス正教会と東京のニコライ堂を知るのみである。カソリックやプロテスタントが西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、正教会はギリシャ、東ヨーロッパ、ロシアに広がったので、東方正教会とも呼ばれる。地域ごとに国名を冠し、ギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会などと呼ぶ。

 ロシア正教会は、英語で”Russian Orthodox Church”と記し、Orthodoxが正教会の”正”である。日本でオーソドックスは奇抜の対語とし、”まともな考え”とか”正統的”という意味で使われる。正教会は、キリストの十字架刑による死と三日間の復活を直接体験したハリストス(キリスト)の弟子(使徒)たちの信仰を正しく受け継いできたとする正統性を主張している。カソリックがキリスト以降に付け加えた煉獄、マリア信仰、ローマ教皇の権威や、プロテスタントのルターやカルヴァンの改革を認めず、頑なに古代の教会が確認した教義を順守している。

ネットで読んだ正教会の教義は抽象的で理解することは難しかった。正教の教えは、”どんなにことばを重ねても、正教を説明し尽くすことはできない。信徒ひとりひとりを生かしているのは、ハリストスの命そのものであり、命は言葉ではなく、信徒ひとりひとりの体験でしか伝わらない。”というのである。信仰を自分のものにするのは、その人自身の自覚と努力する意志次第だという。これは”怠ることなく修行を完成しなさい”というブッダ最後のことばに通ずるものがあるように思う。正教では、神の啓示が信仰の中心で、それを伝えてきたものを聖伝と呼ぶ。聖伝には、聖書、伝えられる書物、教会の規定などがある。上の写真の教会内に飾られる聖像(イコン)も教会にかかわる人々の生きた体験の表れであり、聖伝のひとつとされる。

 ウラジウォストクは札幌とほぼ同じ緯度で広島とほぼ同じ経度にある。今回訪れた6月初めは日中の気温が15℃程度で夜は5℃まで冷え込んだが街は花盛りだった。その2週間前に行ったバンクーバーも花盛りだったがこちらのほうが若干暖かく感じた。バンクーバーは北緯49度でウラジウォストクと札幌が北緯43度である。ウラジウォストクは日本とほぼ同じ経度にあるのに、時差が2時間早いため夜9時ごろまで明るかった。

 ウラジウォストクは函館や長崎のような坂の多い港町で、「坂の上の雲」の時代からの軍港でもある。ロシア帝国が不凍港を求めて南下して手に入れた悲願の街で、シベリア鉄道の東の始発駅である。街には19世紀から20世紀初頭に建てられたと思われる5,6階建ての洋館が立ち並び、街を歩く人々が白系ロシア人ということもあり、ヨーロッパに来たような感覚がした。東京から2時間のヨーロッパである。マックもスタバもなく、英語の表記もほとんどなく、立ち寄った街の書店やレストランでは英語はまったく通じなかった。英語が通じたのはホテルと空港のみやげもの店だけで米国文化が浸透していないことは新鮮だった。

街のレストランで食べたボルシチ、生鮭とチーズは最高に美味だった。雰囲気のある街やロシア料理は素晴らしいので、あとひとつふたつ観光名所や見所を付け加えれば観光地として十分魅力的だと思うのだが、4日間の滞在中、街ではまったく観光客を見かけなかった。成田へ戻る飛行機は、仕事で行った私たちのグループ以外は、観光目的かなにかで日本を訪れるロシア人の小グループと個人しか乗り合わせていなかった。貴重な観光地が未開拓のままに残されているようでうれしかった。

 


ワタリガラス

2013-05-24 13:17:00 | 

 先日カナダのブリティッシュ・コロンビア州バンクーバーへ行った。空港に着くといきなり先住民のトーテムポールが目に飛び込んできた。

カナダでは先住民を意味するAboriginal Peopleは、First Nationsと呼ぶのが一般的で、馴染のインディアンという言葉はインド系移民が多くなったこともあり今では使われなくなっているという。観光地や博物館で様々なトーテムポール(Totem Pole)を見た。北米先住民は、動物を守護霊とした部族(clan=氏族)に分かれている。守護霊がトーテム(totem)で、ソクラテスや映画「ライラの冒険」に出てきたダイモンの部族版のようなものである。トーテムポールに宗教的な意味はなく、所有者の属する氏族の守護動物と先祖に関わる伝説などを表現しているという。

左:UBCのMuseum of Anthropology(MOA=人類学博物館)に再現されたFirst Nationsの村 右:Victoriaの博物館

どちらの博物館も日本と違い館内での写真撮影は自由だった。

トーテムポールの守護動物の中に日本ではあまり馴染のないワタリガラス(Raven)がいる。ワタリガラスはカラスの中の大型種で日本の小型種Crowとは区別される。

左:MOAにあったワタリガラスを頂くトーテムポール    右:First nationsの神話でワタリガラスが貝殻から人間を生み出す場面を表現した彫刻

ワタリガラスを霊的、神秘的な存在としてとらえるのは、カナダ先住民だけでなく、西洋人も同じようで、映画「ホビット思いがけない冒険」では、ドワーフたちが故郷を取り戻す旅に出ることを決めた理由に、”Ravenが戻った(?)”という予兆を述べる場面があった。また、イギリスのロンドン塔はワタリガラスを守り神として飼っているという。”ワタリガラスがロンドン塔からいなくなると英国は滅びる”と言い伝えられているからだという。以下に、夏目漱石の「倫敦塔」(青空文庫)から漱石が塔に巣食うワタリガラスを見た個所を抜き出した。

烏が一疋いっぴき下りている。翼つばさをすくめて黒い嘴くちばしをとがらせて人を見る。百年碧血へきけつの恨うらみが凝こって化鳥けちょうの姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。吹く風に楡にれの木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来たか分らぬ。傍そばに七つばかりの男の子を連れた若い女が立って烏を眺ながめている。希臘風ギリシャふうの鼻と、珠たま溶といたようにうるわしい目と、真白な頸筋くびすじを形づくる曲線のうねりとが少からず余の心を動かした。小供は女を見上げて「鴉からすが、鴉が」と珍らしそうに云う。それから「鴉が寒さむそうだから、麺麭パンをやりたい」とねだる。女は静かに「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」と云う。小供は「なぜ」と聞く。女は長い睫まつげの奥に漾ただようているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何か独ひとりで考えているかと思わるるくらい澄すましている。余はこの女とこの鴉の間に何か不思議の因縁いんねんでもありはせぬかと疑った。彼は鴉の気分をわが事のごとくに云い、三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する。あやしき女を見捨てて余は独りボーシャン塔に入いる。(中略)

主人に今日は塔を見物して来たと話したら、主人が鴉からすが五羽いたでしょうと云う。おやこの主人もあの女の親類かなと内心大おおいに驚ろくと主人は笑いながら「あれは奉納の鴉です。昔しからあすこに飼っているので、一羽でも数が不足すると、すぐあとをこしらえます、それだからあの鴉はいつでも五羽に限っています」と手もなく説明する

漱石が”百年碧血の恨みが凝って化鳥の姿となって長くこの不吉な地を守る”と記すように、日本ではカラスを不吉で狡猾とするイメージがある。ところが、ずっと古には神武天皇が大和へ攻め入るときに先導となった八咫烏(ヤタガラス)に代表されるようにカラスは幸運の鳥だったのである。 徳島の眉山の神武天皇像に止まっているのは黄金の鳶(トビ)で八咫烏と同一視または混同されるらしい。八咫烏は拡げた手のひら幅(咫)の八つ分だから相当大きいのでワタリガラスだったかもしれない。アメリカNFLにはRavensというチームがあるように、西洋のカラスは強く賢いというイメージがあるのだが、日本のカラスはいつ頃から嫌われる鳥になったのだろうか。

 星野道夫はエッセー「長い旅の途上」で夕暮れのUBC人類学博物館にたたずみ、”アサバスカンインディアン(アラスカに分布)からエスキモーにまでワタリガラスの神話があるのはなぜだろうか。人々はワタリガラスの神話を抱きながら、アジアから新大陸へ渡って来たのではないか。”と、モンゴロイドのGreat Journeyに思いを馳せた。星野はその後、ワタリガラスをクランとするボブという先住民とワタリガラスを捜す旅をするのである。しかし、その顛末を星野が書き残したかどうかは定かでない。ビクトリア博物館には地元のマンモスの剥製が展示されていてマンモスもシベリアからベーリング海峡を渡りGreat Journeyをしたのかもしれない。

 今日5月24日、シンガポールはVesak Dayの休日である。現在シンガポールは雨模様のため気温は26度と幾分控えめである。バンクーバーは寒く日中の気温は15度前後で夜は5度近くまで冷え込んだためシャツを幾重にも着重ねていた。バンクーバーの町は緑が多く、八重桜、つつじ(さつき?)、椿、あじさいなど不思議なことに初春から初夏の花が一斉に花開いていた。北海道の6月がこんな感じだと聞いた。シンガポールがGarden Cityと呼ばれるなら、バンクーバーもGarden Cityと呼ぶ値打ちがある。シンガポールにはない四季があるため、春は花、秋は紅葉、冬は雪景色が街を彩ることを想像すると、世界で最も住みやすい街という評価にも納得できる。

上2枚はUBCキャンパス内、下はビクトリア州議事堂前と街中の花飾り