備忘録として

タイトルのまま

華佗

2007-10-28 16:19:54 | 中国
シンガポールのマウント・エリザベス・ホスピタルのホールに、華佗(かだ)が関羽の腕に短刀を突き立てて手術をしている大きな壁画(銅版)がある。場面の説明文が中国語と英語でされていて、そのうち英語では
”Picture of Surgery on Kuan Kong's Arm----During BC 106~235 Hua Tuo cure Kuan Kong for his wound arm by a poisonous arrow"(華佗が毒矢で傷ついた関羽の腕を治療する図)
と書かれている。
三国志にある”華佗伝”では、すでに名医として有名だった華佗は曹操に召し出され曹操の持病である頭痛を治したが彼の侍医になることを断ったため殺されたとあり、また”後漢書”には麻酔を発明したことが記録されているということだ。麻薬の発明は日本の華岡青洲だと思い込んでいた。関羽の腕を治したことは正史には記されていないらしい。
以前にも書いたかもしれないがインドネシアのスラバヤから車で数時間のトゥバンという小さな町にも関帝廟があった。また、シンガポールの街角の仮設舞台で行われる京劇でも関羽の出る劇は人気が高いということだ。

マウント・エリザベス・ホスピタルには家族全員がよくお世話になったが日本の総合病院とはかなりシステムが異なる。息子が外科手術を受けた例で説明すると、まず一般の診療所で診察を受け病状に応じた専門医を紹介してもらい、専門医の診立てで手術を行うことになる。手術は同じビルにある共有の手術室を借りて別途麻酔医を雇い、レントゲンも別途営業している部所で撮り、入院施設も別の施設になる。いわゆるそれぞれの専門医専門施設の集合体である。診療費の支払は各個行うので領収書がやたら多くなる。



イブン・バトゥータ

2007-10-21 19:59:54 | 中国
マルコ・ポーロから半世紀ほど後、1331年21歳の時にイスラム教徒イブン・バットゥータは故郷モロッコを出発し、中東、メッカ、イスタンブール、キプチャク、インド、モルジブ、スリランカ、東南アジア、中国を旅し、1349年46歳で再び故郷の地を踏んだ。バットゥータは1352年再びサハラ砂漠を縦断する旅に出かけている。彼の旅行記が残されていて、家島彦一がまとめた旅の概要”イブン・バットゥータの世界大旅行”を読んだ。14世紀はチンギス・ハンが樹立したモンゴル世界帝国が4つの汗国に分かれた頃で、イスラム教国はモロッコを最西地としてインドネシアを最東端とする広大な地域を占めるとともに、中国にも鄭和の先祖など宗徒が大勢いた。家島によると、このイスラム教国の広がりがバットゥータの旅を可能にしたということだ。

以下はバットゥータが旅先で見たものである。
1.バットゥータは1327年旅の往路で世界の七不思議で有名なアレキサンドリアの灯台を見ているが24年後帰路立ち寄った時には灯台は完全に破壊されていた。
2.アラビア半島の南、現在のオマーンに産する乳香は当時すでにインドや中国に輸出されていた。その土地の人間に檳榔子(ビンロウ)を噛んで嗜好品とする習慣があることを記録している。20年ほど前、台湾に行ったときに道端で売っている檳榔を買って噛んだことがあるがただ苦いだけだった。
3.鄭和は第1回目の航海を1405年に出発しているからバットゥータの旅は鄭和より半世紀以上前のことになる。バットゥータはインドの港で数多くの中国のジャンク船を見ており、鄭和以前に中国はインドやアラビア諸国と頻繁に交易をしていたことがわかる。
4.バットゥータはモルジブに1年半滞在し、彼が書き残した島名は現在の島名とほとんど比定できる。
5.バングラデッシュを出た後のスマトラ、タイ、ベトナム付近で語られる話のうち例えば巨鳥の話はアラビアンナイトのシンドバッドの航海の巨鳥とそっくりであったり、他の逸話も当時の書物の中の話とそっくりであるため信憑性が疑問視され、東南アジアと中国までは足を運んでいないというのが定説となっている。


著者家島彦一の言う旅の原点は、
”旅による他者の発見は、同時に自己の発見であって、自己のアイデンティティーを確立するための旅と言える。相手の異なる価値を認め、相手から学ぶ受身の柔軟な姿勢である。”とし、
”西ヨーロッパ・キリスト教国家による十字軍の遠征や大航海はつねに他者を排除することで自己の強烈なアイデンティティーを主張しようとする旅であった。自世界・文化の優越性を主張し、他者を支配した。現在のグローバリゼーションの展開による市場主義、石油戦略、自然破壊などは同じ原理の中で起こってきた。”
と批判している。

最澄

2007-10-20 18:22:14 | 古代
804年、最澄は遣唐使に随行する還学生として空海とともに唐に派遣され、翌年帰国し比叡山延暦寺に天台宗を開いた。教科書的知識はここまでだが、天台宗の教学、空海との確執、会津の徳一との論争のことを末木文美士著”日本仏教史”で仕入れた。
そのうち徳一との三乗一乗論争は、最澄の人は誰でも修行をつめば悟りを開けるという一乗論に対し、徳一は人は生まれながらの能力によって誰もが悟れるとは限らないという三乗論で論争を挑んだもので、この論争は最澄の死の直前まで6年間も続くのである。最澄の論点は、三乗の”誰もが悟りを開けるわけではない”は仏が仮に説いた方便であり、最終的には真理はひとつ(一乗)であるというものである。徳一は、一乗の”誰でも悟りを開ける”というのは間違っており、この一乗論こそ方便であり悟れない人もいると教えるのが真実だとする。一乗の天台宗は理想主義、徳一の三乗(法相宗)は現実主義であり、どちらが正しいという結論がでるような論争ではなかった。最澄は、徳一との論争だけでなく南都の法相宗との大乗戒論争や空海との絶交などに晩年のエネルギーを使い果たすのである。
空海も徳一から論争を挑まれるが、真言宗の教学(他の教えをすべて抱合するスケールの大きい体系をもつ)同様、相手をうまく丸めこんでしまう。また、南都の法相宗ともうまく付き合い、最後は仏教界の最高位である大僧都にまで上り詰める。
しかし、その後の日本の仏教は天台宗・一乗論の立場で発展し、念仏を唱えれば誰でも極楽浄土へ行ける浄土宗などに見られるように多くの著名僧を輩出し発展するのである。一方、空海の真言宗は空海で完結し、以後停滞してしまう。
折しも、比叡山では星野某が千日回峰行のうち最大の荒行である九日間 断食、断水、不眠、不臥で不動真言を 唱え続ける”堂入”を終えたところである。

”日本仏教史”には、最澄と徳一の論争以降も、明恵の法然(浄土宗)批判、江戸時代の日蓮宗における不受不施論争(法華経を信じない人からの布施を受けることや信じない人への布施を禁じていたが時の権力者から布施の要求があった時に内部対立が生じた)、天台宗における安楽律論争(本覚思想を批判し経典に戻る)、浄土真宗における三業惑乱(同じく本覚思想批判)などの論争や対立があり、仏教を深化発展させたとしている。仏教が停滞したと言われる江戸時代には、異教のキリスト教や儒教からの仏教批判や神道による廃仏毀釈、山片蟠桃や富永仲基による科学からの仏教批判があったが、仏教側からの反論はあまり活発ではなかったようだ。
注:本覚思想とは”衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは元から具わっている(悟っている)”という思想であり、だから修行する必要も、戒律も守る必要もなく、人はあるがままでよいといった極端な解釈がされるようになった。

論争を契機に新たな思想・研究が発展することは、梅原猛も言っていた。

太平記

2007-10-08 14:53:23 | 中世
鎌倉末の南北朝動乱期のことは歴史の教科書程度の知識しかなかったが、永井路子の”太平記”を読んで、後醍醐天皇、護良親王、足利尊氏・直義兄弟、新田義貞、楠正成らの生き方や人物像が概観できた。
楠正成は皇国史観で忠臣の鑑とされているが、その虚飾部分を割り引いたなら、前述した他の登場人物の個性のほうが断然強烈で魅力的だ。太平記の中の楠正成は戦国期の真田幸村と被る程度なのだが、皇国史観では悪役の尊氏は、後醍醐天皇との確執、弟直義の離反、高兄弟の増長、壊滅的な敗戦と逃亡など幾多の困難を克服したのち再起し最終的には征夷大将軍となるなどその生涯は波乱に富んでいて、その間の尊氏の心理状態や対処法を見るだけでも面白い。確かにその時代の人間たちの絶え間ない裏切り、謀略と打算の中にあって楠一族の天皇家への忠誠は一貫しており、南宋末の文天祥同様に称賛されていいのかもしれない。
歴史人物に善悪を持ち込んだのは、江戸時代の大義名分論と尊王思想による水戸学で、幕末の尊皇攘夷論から明治以降の皇国史観へと続き、正成が死を覚悟したときに言った”七生まで同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさん”(七生報国の誓)は喧伝されて、靖国神社の成立にも影響している。
太平記では、多くの登場人物が絶え間なく合流と離反を繰り返し、そこに亡霊も加わって、最後は読み疲れてしまった。

孫子

2007-10-06 12:57:40 | 中国
孫子とは春秋時代の孫武と戦国時代の孫臏(ソンピン)の二人を指す。
以前読んだ海音寺潮五郎の”孫子”は孫武と孫臏(ソンピン)の物語を書いた小説であるが、今回読んだ浅野裕一著”孫子を読む”は孫武が書いたと言われる孫子の兵法十三編を湾岸戦争や太平洋戦争などを例に解説したものである。

春秋時代、呉越同舟や臥薪嘗胆で有名な呉越の戦いで登場するのが孫武で、呉王闔閭(コウロ)に謁見したとき軍隊を指揮するところを見せろと請われ、女官を2隊に分け、王の2人の寵姫をそれぞれ隊長にして十分に訓練したのち、軍令を発したが女官たちは笑って従おうとしなかった。そこでもう一度指令を徹底したのち、軍令を発したが、またしても女官たちは命令に従わなかった。そこで孫武は”指令が行き届かないのは将軍(孫武)の罪だが、中身が分かっているのに指令に従わないのは隊長の罪だ。”と言って、王の懇願を退けて二人の寵姫を切り殺したのち、新しい隊長を任命し再び命令を発したところ、今度は全員一糸乱れず軍令に従った。これによって呉の将軍になった孫武は楚への復讐に燃える死体に鞭打つで有名な伍子胥とともに呉の勢力拡大に貢献した。
一方、孫臏は兵法の同門であった友人である龐涓(ホウケン)に裏切られ膝から下を切断された。龐涓が将軍となっていた魏の敵国である斉の軍師となって戦場で復讐を果たす。
これらの話は司馬遷の史記にあるのだが、後世に残された”孫子の兵法十三篇”を誰が書いたのかは長い間論争になっていた。孫武自筆説、孫臏作、さらに後人偽作説などがあった。しかし、1972年に山東省の前漢時代の墓から孫氏の兵法と孫臏の兵法の双方が発掘されたことで十三篇が孫武によるものであることが判明したのである。

さて、以下は”孫子を読む”からの銘記すべき箇所。
1.指揮官の資質に関して
事前に周到な準備をしてシナリオ通りに行動するするのでなければ不安でしかたないという人物は指揮官には向かない。指示されないと動けない、型どおりにしか動けない、小心翼々(気が小さい)として生真面目な人間は指揮官には向かない。指揮官は刻々と変化する戦況に臨機応変に対処しなければならない。
2.山本五十六の”一年は暴れてみせる”は大勢に迎合した言である。
勝算がないとわかっていたのなら最後まで開戦反対を貫きとおすべきだった。孫子は勝てない戦はするべきではないということが大前提となっている。日本では、目上の者に対する慎み深い態度や周囲との協調性が美徳とされ、逆に相手かまわず自己の信念を執拗に主張したり、あからさまに人の意見の欠陥を指摘するような人間は狭量だと排斥される。自分の確信なしに周囲の雰囲気に同調する和をもって貴しとなす的な協調性を否定しない限り、何度でも敗北する。
3.孫子は拙速を肯定する。
日本人は拙速嫌いだが、用兵でスピードを失すれば勝機を失うし、長引いて泥沼化した戦争は、今のイラク戦争、10年に及んだベトナム戦争、15年続いた日中戦争など枚挙に事欠かない。
4.指揮官は兵を選ばない。
部下の意欲や能力の低さを嘆くのではなく、かれらの心理を操作し勢いをつける。
5.風林火山
風林火山とは孫子による変幻自在の進撃を指すもの。武田信玄も山本勘介も孫子を読んでいたが、日本では適用しがたいと思っていたようだ。
6.孫子好きの日本人は孫子の教えに背いている。
孫子は戦意のない農民を戦わせることを前提として兵学理論を組立ており、精鋭部隊の勇戦奮闘ではなく、素人集団によってどうやって敵をだまして勝つかを考える兵法である。日本人の好きな”正々堂々と戦う”や””寡兵よく大敵を制す”という発想はない。武士道、倫理観、職人気質、凝り性などの日本人としての美徳が臨機応変であるべき思考を阻害している。

結論は、日本人は気質として、戦争、特に国と国との総力戦には向いていないので戦争はしないほうがいいということだ。