古田武彦も聖徳太子虚構論者である。伊予湯岡碑や法隆寺金堂釈迦像銘文の金石文についても太子を示すものではなく九州王朝の法王のものだとという説である。古田武彦の説は斬新で面白く出版されている著書のほとんどを読んでいる。その説とは白村江で唐と新羅の連合軍と戦い大敗を喫したのは九州王朝で、奈良の大和王朝とは別の政権だったというものだが、検証は、記紀に留まらず、風土記、中国史書、朝鮮史、考古学、万葉集など上原和同様多岐にわたる。中国側史書と日本側との矛盾、記紀の中の九州王朝の痕跡、九州年代の存在などが代表的なものだが、弱点は福岡における考古学的な発見が、大和王朝に比べ少ないことであり、卑弥呼から7世紀にかけて日本を代表する王朝だったとするにはもっと考古学的物証が必要だと思う。
上原和も古田武彦もいわゆる日本史学会では傍流に位置している。科学的なアプローチとは、物証をできるだけ集め、それらを最も合理的に説明できる仮説を立てることであり、上原和と古田武彦の物証の量と客観性、仮説の整合性は他の主流の歴史学者に比べても遜色ないと思う。
ただ、古田の場合、自分を日本史学会の異端児として自虐的な物言いが多く、科学的であるにも関わらず感情が入りすぎるところがあり、客観性を損なって見えてしまうのが残念である。その一面、人間臭くて面白い。
今、シンガポールは中国正月で4連休。読書三昧の予定。まずは、陳瞬臣の小説十八史略の再読だ。