備忘録として

タイトルのまま

聖徳太子その2

2006-01-29 14:02:42 | 古代
古田武彦も聖徳太子虚構論者である。伊予湯岡碑や法隆寺金堂釈迦像銘文の金石文についても太子を示すものではなく九州王朝の法王のものだとという説である。古田武彦の説は斬新で面白く出版されている著書のほとんどを読んでいる。その説とは白村江で唐と新羅の連合軍と戦い大敗を喫したのは九州王朝で、奈良の大和王朝とは別の政権だったというものだが、検証は、記紀に留まらず、風土記、中国史書、朝鮮史、考古学、万葉集など上原和同様多岐にわたる。中国側史書と日本側との矛盾、記紀の中の九州王朝の痕跡、九州年代の存在などが代表的なものだが、弱点は福岡における考古学的な発見が、大和王朝に比べ少ないことであり、卑弥呼から7世紀にかけて日本を代表する王朝だったとするにはもっと考古学的物証が必要だと思う。
上原和も古田武彦もいわゆる日本史学会では傍流に位置している。科学的なアプローチとは、物証をできるだけ集め、それらを最も合理的に説明できる仮説を立てることであり、上原和と古田武彦の物証の量と客観性、仮説の整合性は他の主流の歴史学者に比べても遜色ないと思う。
ただ、古田の場合、自分を日本史学会の異端児として自虐的な物言いが多く、科学的であるにも関わらず感情が入りすぎるところがあり、客観性を損なって見えてしまうのが残念である。その一面、人間臭くて面白い。

今、シンガポールは中国正月で4連休。読書三昧の予定。まずは、陳瞬臣の小説十八史略の再読だ。

世界史上の聖徳太子

2006-01-28 12:20:10 | 古代

教科書に載っていた聖徳太子像や旧一万円札の聖徳太子像は、聖徳太子ではないらしい。さらに聖徳太子は実在しないと言う虚構論や十七条の憲法は太子の作ではないといった論が盛んである。
しかし、上原和はその存在を微塵も疑っていない。もともと美術史家だった上原和が、聖徳太子の生涯に深く関わるようになったのは、玉虫の厨子の捨身飼虎図を見、そこに聖徳太子やその子である山背大兄皇子の死を重ねたことからだという。
そのため上原和の研究は、通常の文献史家が拠り所とする金石文、史料だけでなく法隆寺そのものや仏教美術品など多岐にわたる上、精緻である。これに比べ、私が読んだ虚構論者の研究は質、量ともに遠く及ばず虚構論の根拠は極めて浅いと言わざるを得ない。推理小説家まがいの論や津田左右吉など先人の虚構論を追従するものが多いように思う。
このように上原和に肩入れするのは、奇縁があってその著書を贈られたことにもよるのだが、何よりもその科学的な検証手法に技術者として同意できたことである。また、上原和のヒューマニズムに共感できることも大きい。上原和のヒューマニズムは聖徳太子のヒューマニズムでもあるのだ。十七条の憲法・第十条を自分自身もう一度噛み締めてみたい。
”人皆心あり。心各々執(と)ること有り。彼(あ)れ是(ぜ)なれば、則ち我は非なり。我れ必ずしも聖(ひじり)に非ず。彼れ必ずしも愚(おろか)に非ず。共に是れ凡夫(ただひと)のみ。是非(ぜひ)の理(ことはり)を誰かよく定むべき。相共に賢愚(かしこきおろか)なること、鐶(みみがね)の端(はし)なきが如し。是(これ)を以て彼の人は瞋(しん)いと雖も、還(かへ)つて我が失(あやまち)を恐れよ。我獨(ひと)り得たりと雖(いえど)も、衆(もろもろ)に従ひて同く挙(おこな)へ。是(これ)を以て彼の人は瞋(しん)いと雖も、還(かへ)つて我が失(あやまち)を恐れよ。我獨(ひと)り得たりと雖(いえど)も、衆(もろもろ)に従ひて同く挙(おこな)へ。”


鄭和

2006-01-14 13:17:47 | 中国
明の時代に大航海をした鄭和は、シンガポール沖を通過しており、ゆかりの岩礁があったのだが、イギリス植民地時代に、航行の邪魔だということで爆破されて今はない。シンガポールには鄭和という名をつけたジャンク船風の観光船があり、マリナベイ周辺でクルーズを楽しむことができる。
10年ほど前、仕事でインドネシア中部ジャワのSemarangに行ったとき、この鄭和を祀った三宝廟があった。600年も前に訪れた人間を祀っているのだが、当時殖民した中国人の子孫がまだいるのだろうか。インドネシアの中国系は、人口の5%以下だが、私の知り合いは皆、父親か祖父の代に中国から渡ってきた華僑で、それより古い中国系にはまだ会ったことがない。マレーシアのマラッカにはザビエルの頃のポルトガル人の子孫の村があるので、鄭和のころの中国人がいたとしても不思議ではない。
やはり10年ほど前に行ったスラバヤから車で2時間程のトゥバンという田舎町には関帝廟があった。三国志ゆかりの劉備、張飛、諸葛孔明など高さ2mもあろうかという大きな像が安置されていた。中国文化はインドネシアの田舎にも根付いている。

大道保育園

2006-01-08 12:22:57 | 徳島
生涯最古の記憶は大道教会の保育園のもので、近所の幼馴染と保育園に通うため市バスに乗る時、母が運転手に降りる場所を頼んでいるものである。私は手にバス代の5円玉か10円玉を握り締めている。保育園で園長らしき男の先生の足首に2~3人の園児が摑まって床を引きずられている記憶も残っている。大道の保育園のあとは2年保育の新町幼稚園に入ったので、3歳の記憶だと思う。家のあった新町橋筋から大道までは、東大工町を経由しバス停にして4つか5つの区間を毎日、3歳児が友達と二人とはいえ、自分でバスに乗って通園するのだから今では考えられないことだ。昭和33年は、親が3歳児を放り出せるほど安全でのどかな社会であったということだろうか。
大道教会は中野好夫が通った通町教会の後身になるのだが、中野と違い私たち家族はキリスト教とは何の関係もない。キリスト教だけでなく無宗教で、父が次男坊だったので家には仏壇もなかった。そのせいか、焼香の経験がなく育ち、初めて焼香をしたのは小学校6年生の終戦記念日に小学校代表として参加した行事の時で、見よう見まねでお香を手にして焚いた。
大道教会は今もその場所にある。大道教会近くの”金比羅さん”こと忌部神社には後年多くの思い出があるのだが、それはまたの機会としよう。

徳島博物館

2006-01-02 12:12:10 | 徳島
徳島関連のサイトをサーフィンしていると、徳島県立博物館で旧博物館の特別展示をしているではないか。眉山下ロープーウェー乗り場が併設されていた旧博物館ではよく遊んだ。写真は徳島県立博物館のWebSiteから転載した旧博物館である。モラエスのレリーフは写真手前の木立の中にあった。
憶えている展示品は少ないが、卵が遠心力で立ち上がる装置があった。力いっぱいハンドルを回すと円盤が回りその上の卵が遠心力で立ち上がるもので、当時はコロンブスの卵の話を知らなかったし、手に触れていいものも、いけないものも見境無く片っ端から試したので、原理も教えもあったものではなかった。2mにも達するかという日和佐の大海亀が2体あったが、剥製の目が物悲しく、さすがに亀に跨ることはなかったと思う。
博物館の記憶では他に、昆虫や植物の名前を教えてくれる催しが夏休み終盤にあり、眉山や道端で集めて画帳に貼り付けた植物採集の宿題を持って参加した。専門の先生がいて、ひとつひとつ教えてくれるのだが、私の採集した草のひとつの名称が分からず、もしや珍しい新種を発見したのではと心が騒いだのだが、隣の先生に確かめてそれが”はっか”だということがわかり、ちょっとがっかりした。
以来、博物館に足を運ぶことはなく、関心もなくなっていたため、文化の森に移転したことも知らなかった。旧博物館は昭和34年に開設したということだから、ほぼ開館の頃から親しんでいたことになる。今、旧博物館の陳列品の特別展が開かれているが、見られないのが残念だ。

正月

2006-01-01 21:47:30 | 徳島
昨晩は国際衛星放送NHKの紅白歌合戦を見たあと、日本より1時間遅れで年が明けた。毎年正月は、大晦日の夜更かしの所為で昼ごろに起き出しテレビをだらだら見て過ごすことが多く、1年の計が元日にあるとしたら、まともな1年は到底期待できないことになる。
そんな訳で小さい頃の元日の思い出はあまりない。初詣に行った記憶も無い。元日ではないが、正月や冬休みには凧揚げやコマ回しを良くやった。コマを手に載せての鬼ごっこ遊びがあったが、不器用で手に載せられなかったため仲間に入れず悔しい思いをした。凧はすべて籤と紙でできた奴凧で、新聞紙を細長く切って糊付けした足をつけた。新町橋筋の中央分離帯はワシントン椰子が邪魔で充分な広さがなく凧が良く上がった記憶が無い。
ところで話はクリスマスに戻るが、小学校1,2年生のときの同級生に社長令嬢がいて、12月25日の誕生会に招かれたことがある。商売人の子弟が多い新町小学校の中にあって立ち居振る舞いは上品で成績も良く、彼女はクラスの男共のアイドルだった。伊賀町か弓町にあった自宅の庭は広く、かくれんぼができるほどだった。その家の居間にあった虎の敷き皮を被って遊んだことも覚えている。下町の悪がきにとって、初めての上流階級との出会いで、むやみにはしゃいだ自分がいた。誕生会の帰りには招待客全員に直径10センチ程のケーキを持たせてくれた。このとき持っていった誕生プレゼントは母の手作りエプロンで、給食当番のとき、それを着た彼女が遠くからエプロンの端を持ち上げて”ほら着ているよ”と合図を送ってくれたことに心をときめかせた。