備忘録として

タイトルのまま

白洲次郎的

2007-05-29 23:26:28 | 他本
白洲正子の”西行”を読んでからずっと気になっているのが、正子が次郎のことをどう思っていたかということである。”明恵上人”を読んでも、正子の関心と好みは数奇なもの美的なものにしか向いていないことが明白なのである。だから、実業のひとである次郎をどう見ていたのかが気になるのである。
それが知りたくて、昨日、Book-Offで見つけた勢古浩爾の”白洲次郎的”を買った。目次で”第1章 白洲正子という女”を確認し、すぐにそのページから読み始めた。曰く、正子は”文化人が実業の男よりもはるかに上だとみなしたフシがある”、”生身の人間よりも小林秀雄の本や西行のほうを上においていた正子のほうがしょうがないのだ。”、”正子は「次郎は人を見る目がなかった。結果的に私のほうがずっと見る目があったな」と自惚れているが、果たして次郎を見る目はどうだったか”。勢古の言うことが正しいなら私の勘は当たっていた。正子のひと(次郎)を見る目は偏ったものだったと言える。

後は蛇足だったけど、一気読みだった。この本は白洲次郎のことを知るための本と思わず、あいだみつお風に一日一言の教訓として読めばいいのである。

ネットで見かけた他の本によると、次郎は心ならずもGHQに押し付けられた憲法草案を缶詰になって訳したことから、”憲法を改正するということ自体は私は賛成である。現在の新憲法は占領中米国側から「下しおかれた」もので、憲法なんてものは、国民のもり上った意志でつくるべき本質のものだと思う。占領もすんで独立を回復した今日、ほんとの国民の総意による新憲法が出来るのが当然ではないかと思う。「どうせアメリカさんの貰いものだ」なんていう様な言葉をよく聞くが、聞くたびにほんとに我々がつくった我々の憲法がほしいものだと思う。(プリンシプルのない日本)”と言ったようだが、反面、九条を是とし、”新憲法のプリンシプルは立派なものである。(略)戦争放棄の条項などその圧巻である。押し付けられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか”と言ったと勢古は記している。なんか矛盾しているが、次郎の生き方や言動を考えると、後者の方こそ納得できるのだが間違っているだろうか。







遍路

2007-05-27 22:50:24 | 徳島

二女の初月給で”寄り道お遍路”林道代著という本を贈られた。女性5人が2泊3日年2回のペースで四国八十八ヵ所を1番札所の霊山寺をかわぎりに、先々の観光地も含めた紀行文で、満願報告の高野山参りまでに7年半を要している。空海や仏教・信仰のこと、名所・旧跡・歴史のこと、読んだ本のこと、寺の姿形などを散りばめながら旅が進んでゆくのだが、そのうち坂東俘虜収容所、阿波の傾城鳴門、源氏物語、土佐日記、白峰寺の崇徳院と西行はこのブログでも取り上げている。梅原猛の仏教の授業を読んでから仏教や空海の真言密教の教義についていろいろ考えていたこともあって面白かった。
高丘親王の話はこの本で初めて知った。最近読んだ白洲正子の”明恵上人”は天竺に行くことを願いながら行かなかったのに、高丘親王は明恵上人より300年も前に唐から天竺を目指しながら、途上の羅越国(マレーシア・ジョホールバル)で死んだというではないか。衆生の救済に向かった法然、親鸞、日蓮や座禅で悟りを目指した道元や栄西を輩出した時代にあって、明恵上人は教義が漠然としいる上、天竺に行くと公言しながら行かなかったり、夢に生きると言われるような遁世的な生き方に何となく共感が持てなかったので、高丘親王の生き方は鮮烈に感じた。どうも白洲正子の数奇好みにはついていけないのだが3冊目の”隠れ里”にも手をだしている。私の認識不足かもしれないが白洲次郎は現実主義者で世俗にどっぷり浸かっていた人だったように思うのだが、正子は彼のことをどう思っていたのだろうか。
さて、お遍路の最後に筆者の空海論が述べられるのだが、筆者は空海が不老不死を望んだとかミイラになって仏になることを願ったということから、どうも空海が嫌いのようだ。それでも八十八か所を回ったのだからよくわからない。私の理解では空海の説く即身成仏とは、あるがままの体に仏が宿るということで、筆者は死んですぐに仏になる即身仏と勘違いしているのではないだろうか。空海の死にそれほどの意味はなく、真言密教の教義の理解がより重要だろう。司馬遼太郎と梅原猛はこの解釈の違いで絶交したと聞いたし、私が読んだお坊さんは梅原猛の解釈も間違っていると言っている。それほど真言密教は難解だということだ。
写真は空海が改修したという讃岐の満濃池である。今年5月12日に徳島の両親とシンガポールから一時帰国した長女と行った。満濃池周辺はきれいな公園になっている。帰りは高松の善し屋でお決まりの讃岐うどんを食べた。


フロイスの見た戦国日本

2007-05-27 18:25:57 | 中世
同じ時代を生き実際に会見もしたフロイスの信長評は、当初は因習に囚われず合理的、理性的で明晰な判断をするという称賛であったものが、晩年は自身を神格化するようになり尊大で傲慢になったと厳しく批判したものに変化している。この間、信長は伴天連に対し終始寛大だったので、フロイスは比較的公正な目で信長を見ていたことがわかる。これに対し、秀吉に対しては伴天連追放令が出される以前から狡猾で抜け目がないという評価である。フロイスの記述からは明石散人の”二人の天魔王”で信長が秀吉に劣るとする評価には違和感をおぼえる。
その他、フロイスの人物評で面白かったのは、北の政所が秀吉によるキリスト教信者に対する不当な行為を名誉が損なわれると諌め、秀吉がすぐそれに従ったということ、細川ガラシャと宗論を交わした修道士が、”過去18年間、これほど明晰かつ果敢な判断ができる女性と話したことはなかった。”と述べていることなどである。
本書の筆者は川崎桃太で、江戸時代300年に及ぶキリスト教の迫害がその後、欧米への無理解を生み戦争の悲劇の遠因となったと述べているが、キリスト教の博愛精神があればと言っているのだろうか。キリスト教を主流とする国々が戦争に積極的に関わっている現状を見ると、筆者の説に首肯できない。

映画”眉山”

2007-05-16 23:32:03 | 徳島
12,13,14日の三日間、徳島に帰省した時、父母に誘われ北島のシネコンで観た。面白くなくてもロケ地を想像しながらみれば飽きないだろうといった程度の心構えで行ったのが良かったのか、筋が読めても望外に楽しめた。吉野川から見る眉山、眉山から見る市街地と吉野川と紀淡海峡、阿波踊り、新町川、眉山に沈む夕陽などずっと見てきた風景、懐かしい風景、忘れていた風景が満載だ。浄瑠璃”傾城阿波の鳴門”も母を慕う娘、娘を思う母のテーマに沿ってちゃんと挿入されていた。阿波の十郎兵衛屋敷は35年前に行ったきりだが、きれいに改装されていて以前の鄙びた感じがなかったのは映画とは関係ないがちょっと残念だ。今度徳島に行った時には訪ねてみたい。映画の最後で咲子と大介が肩を並べて眉山を見る場面は、眉山と新町川の様子から県庁の屋上だと思うのだが正しいだろうか?母に確認を求めても”ほうかいな?”という返事だった。父は阿波踊りの場面でエキストラ出演したそうだが、待ち時間が長く重労働だったので4日のところ1日だけにしたそうな。

話はべたで冗漫なところや唐突な部分があり”あれ?”と思ったところもあったが、クライマックスの阿波踊りの桟敷を挟んで二人が頷き合う場面は抑制が利いていて阿波踊りと対照的に描かれていたのは素晴らしかったので評価する。さだまさしの原作は以前母にもらったのだが、面白くないという言葉が添えられていたので読まなかった。映画を見てちょっと読んでみようかと思う。
松嶋菜々子は悪くなかった。子役もよかった。宮本信子は演技が際立ちすぎるところもあったが、河野龍子の性格上こんなものか。大沢たかおは誠実さが出ていてはまり役だと思った。まっちゃん(山田辰夫)とけいこさん(円城寺あや)の阿波弁は”ええんとちゃうん”(合格)。篠崎孝次郎役の夏八木勲は渋い。

博多

2007-05-08 20:14:44 | 
連休終盤の5,6日にシンガポールへ行く妻を送るついでに博多へ行った。
柳川へ行って川下りをして、うなぎのせいろ蒸しでも食べようと思っていたのだが、大雨というニュースだったので、天神の地下街でも歩こうということにした。5日の昼ごろ博多駅に着くと雨は大したことはなかったので、中洲川端でうなぎせいろ蒸しを食べた後、櫛田神社まで歩いて行った。実はあてもなく中洲に向かってアーケードを歩いていたら偶然神社に出くわしたのである。
神社に飾ってあった飾り山笠を見て昔好きだった”博多っ子純情”を思い出した。連載されていた漫画アクションは毎週水曜日(たぶん?)の発売日に購入し、通勤電車の中で読んだ。その頃は千葉船橋の北習志野の家から九段の会社まで片道1時間少しをかけて通ったので片道の時間を潰すのにちょうどの分量だった。単行本もすべて集めていたし、松本ちえこ主演の映画も観た。極め付けは新婚旅行のコースに博多を含め博多駅前の都ホテルに泊まり大濠公園などゆかりの地を巡ったことだ。この漫画は博多とその周辺の観光案内であり、また各回が”しぇからしか”といった博多弁を表題にしていたので、ちょっとした方言辞典でもあった。単行本は30冊以上あったはずだが、いつどこでどうやって処分したのか記憶がない。
櫛田神社にお参りした後、これも中洲の橋の上から偶然見かけたCanal Cityへ行った。大きなショッピングセンターで、シンガポールの地下鉄駅にあるブギス、ドービーゴート、ブキバトック、ウッドランド、ティオンバルなどのシネコンのあるショッピングセンターと同じだ。博多まで来て”スパイダーマン3”でもないのだが買うものもなく雨も降っていたのでシネコンへ入ったが、指定席でなかったため1時間ぐらい暑くて狭い通路に並ばされたのはいただけなかった。
....
映画の後は、お決まりの屋台でラーメン、おでん、串焼きとこれも並んで待ったあげく食べた。この店の博多ラーメンはあっさりしていてトンコツのようではなかった。
翌朝は博多駅から地下鉄で5分の福岡空港へ妻を送って行ったが、中国人、韓国人、マレー人、白人が当たり前のようにロビーを闊歩していてシンガポールが懐かしかった。

James Hilton

2007-05-05 00:26:38 | 映画

今日はジェームズ・ヒルトン原作、ロナルド・コールマン,グリア・ガースン主演、マービン・ルロイ監督の”心の旅路”(1942年)を観た。よかった。戦場で記憶を失くしたスミス(コールマン)はポーラ(ガースン)と3年間の結婚生活を送るが、ある日交通事故に会い本来の自分を思い出す代わりにポーラとの記憶を失くし彼女の前から失踪してしまう。数年後、実業家として活躍するチャールズ(本来のスミス)のところで素性を明かさないまま秘書として働くポーラの心情が不憫だ。結末は予想したとおりだったが、それでもなお感動的だ。
ジェームス・ヒルトンの”失われた地平線”は高校時代にオリビア・ハッセーの映画を観て原作を読み、シャングリ・ラはこの時に知った。”或る夜の出来事”のDVDに予告篇があるフランク・キャプラ監督版”失われた地平線”を探しているのだがレンタル屋で見つからない。”チップス先生さようなら”は中学を卒業した春にピーター・オトゥール、ペトラ・クラーク主演の映画を観て、その後原作を読んだ。”鎧なき騎士”は中学か高校の時に創元文庫で原作を読んだ。これはマレーネ・デートリッヒで映画化されているらしいがまだ見ていない。
”心の旅路”の原題は”Random Harvest”だけれど、ランダムな結末、予測不能な結末、ゆきずりの収穫???どれをとっても変だから、”心の旅路”で良しとしよう。★★★★★

************IMDbよりポスターと写真、それに星と以下を追記 2 Dec 2014************

グレア・ガースンは、同じジェームズ・ヒルトン原作の映画「Good by Mr. Chips」1939にも出ているが、そちらは観てなくて、「キュリー夫人」1943をはるか昔子供のころに観た。学校の観劇会のようなもので観たような気もする。覚えているのは、ラジウムの分離に失敗したと思っていたところ暗闇で乳鉢の底で光るものを見つけた場面と、放射能の影響で手に傷害が出る場面である。ピーター・オトゥール、ペトラ・クラーク主演の「Good by Mr. Chips」1969は中学卒業時に観た。


It Happened One Night

2007-05-03 22:18:02 | 映画

”或る夜の出来事 It Happened One Night"は、クラーク・ゲーブル、クローデット・コルベール主演、フランク・キャプラ監督によるアカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞を取った1934年の名作である。好きな映画を10上げろと言われれば間違いなく入ってくる作品だ。筋立てがいいのは当然だが、場面場面に散りばめられた挿話と演出が素晴らしい。ジェリコの壁とトランペット、ヒッチハイク、肌着なしのワイシャツ、服の脱ぎ方、コーヒーとドーナッツ、バスの席取りの一悶着、名前が嫌いに対する”Good night Mrs.Warne”という切り替えし、バスでチョコレートを買う場面、シェイプリーとの遣り取りなど、数え上げればきりがない。ジョン・ウェイン主演、ジョン・フォード監督の”駅馬車”やオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペック主演、ウィリアム・ワイラー監督の”ローマの休日”同様、何度見たことだろう。
DVDにはフランク・キャプラの息子が語る映画制作時の裏話と映画のラジオ版が入っている。クローデット・コルベールは映画制作中も不機嫌で最低最悪の映画だと思いアカデミー賞が貰えるとは思いもよらなかったので、受賞の知らせを聞いて休暇先から急遽授賞式に駆け付けたそうだ。機嫌が悪かったわりには映画の中のコルベールは”cute”で”comical”で”proud”で”noble”だ。残念ながらコルベールの他の作品を観たことがないし、評判になった作品にはでていないようだ。ゲーブルの演技は地のままだったそうで、その後ゲーブルは大スターになっていくが、私が観たのは”風と共に去りぬ”と”モガンボ”だけで印象は薄い。

************ IMDbよりポスターとスナップと以下を追記 2 Dec 2014 ************

「It Happened One Night、邦題:或る夜の出来事」1934、監督:フランク・キャプラ、出演:クラーク・ゲーブル、クローデット・コルベール、聖書でモーゼの後継者であるヨシュアがユダヤの民を率いてジェリコの町を攻め落とそうとするが城壁が堅固でなかなか落ちなかった。神の啓示により聖櫃をかついで城壁の周りを7周したあと笛(トランペット)を吹くと壁が崩れ落ちた。映画ではこの故事がおしゃれに使われている。上のスナップショットの吊るした毛布がジェリコの壁で、映画の最後クラーク・ゲーブルが笛を吹くのである。ジェリコの城壁を回るときに担いだ聖櫃が、「レイダース 失われたアーク」に出てくるあのアークである。★★★★★


愛国の作法

2007-05-03 12:58:42 | 他本
姜尚中の”愛国の作法”に苦戦していて、もう三度目を読んでいる。もっと前にブログにUPするつもりだったが、読む先々から忘れていくので考えがまとまらず、結局メモを取ることにした。憲法の日ということでもあり、まだ未熟だけれど私なりのまとめと理解を記しておく。
(1)国家は権力であり、主権は国民にあるはずだが、権力が肥大するほど暴力で国民を抑えるようになる。
(2)国民は民族(血縁、人種、美的感性を共有する)ではなく市民(自発性と主体性を有する作為的な共同体)であり、国家は法(憲法)により国民を保護する。いわゆる国家と国民は契約によって対峙する。
(3)愛することには理論や理性的な作法に基づく技術が必要で、感性や情緒だけでは盲目的な愛に陥る。
(4)理想や理論に軸足を置いたリベラルな愛国心が、”国家の品格”的、”美しい国”的な情緒による愛国心に蚕食される危険性を、愛国教育、改憲、靖国参拝に感じてしまう。
(5)だから、不満足の愛国心(自己の意思や良心に反してもやるしかないという状況)に陥る前に、国家が暴走する前に、歯止めをかけなければならない。
司馬遼太郎の”この国のかたち”は、末松文美士の”日本仏教史”といっしょにAmazonで買った。石橋湛山の理想と丸山眞男の分析は要チェックだ。

連休なので映画三昧。
30日に”バベル”を観たが、映画のテーマがよくわからなかった。ヒントはバベルの塔ということだろうが、破滅的な結末にはならず登場人物はそれぞれがそれなりに理解し合っているように思った。国家レベルや立場が入るとできなくなっても、個人単位では希望があると言いたかったのか?私のような愚鈍な聴衆にも分かるように、もっと明解にしろと言いたい。作家や監督がどのように解釈してもらってもいいというのを時々耳にするけど、それは怠慢だろう。
この映画に比べて2日に見たレンタルの”プラダを着た悪魔”は単純明快で楽しめた。昔の”ワーキング・ガール”を思い出した。
29日に見た”キリマンジャロの雪”も好きなグレゴリー・ペックとエバ・ガードナーが出ていて面白かった。”渚にて”もこの二人だ。いずれも原作を読んだのは、中学・高校のころだった。両作品ともに、死を目前にした人間の在り方を考えさせられる。”キリマンジャロの雪”のハリーは小説では死ぬが映画では助かる。”渚にて”の最後は悲しい。